既存世界からの脱却
感情というものは、どこから来ると君は思うね?
さて、と私は彼――紫陽花の花弁に腰掛け私を見上げている茶色い蛹……とりもなおさず見たまま哲学者である――に、呟くように答える。
さて、ここで貴方の言う感情というものは、どういったものを指すのでしょう。若者が陥りやすいあの激昂状態、苛立ちや怒り、あるいはヒステリーといったような――……
いや、それらも含めてだね、と彼は言う。それらも含めて、我々が生きるうえで、出逢う数々の事象に対し、抱く何やかんやのことだよ……私が言いたいのはね。
はあ、と私はまたも呟くように答える。はあ、そうでしたか。いや、それならば――……
私はこう考える、と蛹が言う。私はこう考えるのだよ……我々は事象に遭遇すると、それに対して『感情』と呼ばれるものを抱く――しかしこれは、錯覚なのではないか。
雨が降ってくる気配。蛹は口を閉じない。
錯覚。そう、何もかも事象が我々に見せる、錯覚でしかない。我々が事象に対して抱いていると思っているそれらは所詮、事象が我々に注入したナニモノカでしかない。つまり、つまるところ。
蛹は唾を飛ばす。雨雲が到来する。
つまるところ、我々は事象がなければ感情というモノをもてないのではあるまいか。
例えば、と彼は続ける。例えば、何の色もない、何の変哲もない、ただ四角いだけの部屋……無論、そんなモノがこの世にないということは私も知っているがね……そういう部屋に、生まれたての赤ん坊……彼か彼女かもはっきりしない、そういう赤ん坊だ……を、入れておく。成長するに必要なだけの全てのモノは、彼または彼女が眠っている間に部屋にそっと置いておいたり、施してやったりするのだ。そして、何の匂いも残さずに、もって帰ってくる。一切、その赤ん坊以外の何も、赤ん坊の手には触れさせず、感じさせず、知覚させないのだよ。そうやって成長した赤ん坊というのは、どんな人間になると思うね。
そうですね、と私は呟く。そうですね、私にはとんと――
そうだろう、と蛹は笑った。どこかで雨粒が落ちる音がした。
そうだろうとも、我々にはそんな人間のコトは全く、理解できないのだ。自分が何者なのかも理解できない、言葉どころか自らの立てる音以外聞いたこともない、そんな人間のコトは、だね。
蛹はその、茶色く、焦げた葉っぱのような薄っぺらな、それでいて妙に存在感のある身体を不気味に光らせて、笑った。ぜいぜいと、喘息の者が苦しげに喘ぐ時のような、そんな音を立てて笑った。
そういう人間が、『感情』のない人間、というものさ。
確かに、と私は呟く。確かに、それは貴方の言うとおりですね。というコトは――……
要するに、だ、と蛹は長く深く息を吐く。要するに人間……いや『感情』というモノは、それ自体が他からの働きかけがなければ決して現れん、ということさ。それも、その働きかけを何らかの形で自覚しなければ、ね。
紫陽花の色が、ものの見事に変化している。蛹は、一向に意に介さない様子だ。
だから、もし君が『感情』というモノの信奉者であり、尚且つそれを探しに旅に出たいというなら……。
すると、突如として、ありとあらゆる前触れが示してくれていた通りではあったがやはりそれは突如として、空から数多の水滴が、私たちに降り注いだ。
蛹の声が途絶えた。
雨はすぐに止み、私は蛹の言葉の続きを聞くために紫陽花の上に目をやった。しかし、そこに彼はいなかった。そこにあったのは、彼が言う『事象』――かつて彼であったモノ……雨に打たれ最早只の茶色い液体と化した哀れな残骸――……だった。
私はそこで、身をもって彼の言説の誤りを、証明したのだった。
さて、と私は彼――紫陽花の花弁に腰掛け私を見上げている茶色い蛹……とりもなおさず見たまま哲学者である――に、呟くように答える。
さて、ここで貴方の言う感情というものは、どういったものを指すのでしょう。若者が陥りやすいあの激昂状態、苛立ちや怒り、あるいはヒステリーといったような――……
いや、それらも含めてだね、と彼は言う。それらも含めて、我々が生きるうえで、出逢う数々の事象に対し、抱く何やかんやのことだよ……私が言いたいのはね。
はあ、と私はまたも呟くように答える。はあ、そうでしたか。いや、それならば――……
私はこう考える、と蛹が言う。私はこう考えるのだよ……我々は事象に遭遇すると、それに対して『感情』と呼ばれるものを抱く――しかしこれは、錯覚なのではないか。
雨が降ってくる気配。蛹は口を閉じない。
錯覚。そう、何もかも事象が我々に見せる、錯覚でしかない。我々が事象に対して抱いていると思っているそれらは所詮、事象が我々に注入したナニモノカでしかない。つまり、つまるところ。
蛹は唾を飛ばす。雨雲が到来する。
つまるところ、我々は事象がなければ感情というモノをもてないのではあるまいか。
例えば、と彼は続ける。例えば、何の色もない、何の変哲もない、ただ四角いだけの部屋……無論、そんなモノがこの世にないということは私も知っているがね……そういう部屋に、生まれたての赤ん坊……彼か彼女かもはっきりしない、そういう赤ん坊だ……を、入れておく。成長するに必要なだけの全てのモノは、彼または彼女が眠っている間に部屋にそっと置いておいたり、施してやったりするのだ。そして、何の匂いも残さずに、もって帰ってくる。一切、その赤ん坊以外の何も、赤ん坊の手には触れさせず、感じさせず、知覚させないのだよ。そうやって成長した赤ん坊というのは、どんな人間になると思うね。
そうですね、と私は呟く。そうですね、私にはとんと――
そうだろう、と蛹は笑った。どこかで雨粒が落ちる音がした。
そうだろうとも、我々にはそんな人間のコトは全く、理解できないのだ。自分が何者なのかも理解できない、言葉どころか自らの立てる音以外聞いたこともない、そんな人間のコトは、だね。
蛹はその、茶色く、焦げた葉っぱのような薄っぺらな、それでいて妙に存在感のある身体を不気味に光らせて、笑った。ぜいぜいと、喘息の者が苦しげに喘ぐ時のような、そんな音を立てて笑った。
そういう人間が、『感情』のない人間、というものさ。
確かに、と私は呟く。確かに、それは貴方の言うとおりですね。というコトは――……
要するに、だ、と蛹は長く深く息を吐く。要するに人間……いや『感情』というモノは、それ自体が他からの働きかけがなければ決して現れん、ということさ。それも、その働きかけを何らかの形で自覚しなければ、ね。
紫陽花の色が、ものの見事に変化している。蛹は、一向に意に介さない様子だ。
だから、もし君が『感情』というモノの信奉者であり、尚且つそれを探しに旅に出たいというなら……。
すると、突如として、ありとあらゆる前触れが示してくれていた通りではあったがやはりそれは突如として、空から数多の水滴が、私たちに降り注いだ。
蛹の声が途絶えた。
雨はすぐに止み、私は蛹の言葉の続きを聞くために紫陽花の上に目をやった。しかし、そこに彼はいなかった。そこにあったのは、彼が言う『事象』――かつて彼であったモノ……雨に打たれ最早只の茶色い液体と化した哀れな残骸――……だった。
私はそこで、身をもって彼の言説の誤りを、証明したのだった。
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