この先ずっと
「最初は良かったんだ。兄さんが、ぼくのことを考えてくれたってことが嬉しかった。でも、ぼくは病気が治って、兄さんには新しい友達が出来て、お互いに世界が広がって……その時初めて、兄さんが遠くに行ってしまうような気がして、怖くなったんだ。ぼくは兄さんの一番じゃなくなってしまうかもしれないって、そう思った」
「空……」
そんなことを考えていたのか。
一途は、空の暖かい身体が小さく震えていることに、ようやく気が付いた。
「兄さん、友達も増えて、前より朗らかになって……女の子にもモテてたみたいだったから、このまま、ぼくのことなんか忘れてしまうんじゃないかって。しかも、実家を出て遠方で働くことになっちゃうし」
拗ねたような口ぶりで言う空に、一途は先ほどまでの落ち込みを忘れて、思わず笑ってしまった。
「ちょっと兄さん、そこ笑うとこじゃないから」
「いや、ごめん」
「まったく……。この一年間、ぼくがどれだけやきもきしたか分かる? 大学までに彼女をつくらなかったのは分かってたけど、就職先で誰かと付き合うことになってるんじゃないかって、急に実家に彼女を連れてくるようなことがあるんじゃないかって、そう思って……」
その時の不安が蘇ったのか、空の言葉は力を失って空中に消えた。が、すぐに元の調子に戻って、後を続けた。
「だから、こっちの大学を受験することに決めたんだ」
「え? ……え?」
今までの話と大学の話がうまく繋がらず、一途は戸惑った。どうしておれが彼女を作るかどうかということと、大学受験が繋がるんだ……。
空は顔を上げて、至近距離から混乱している兄の顔を見つめた。真剣な眼差しだ。
「兄さん、今付き合ってる人はいるの?」
「い、いないけど」
「それじゃあ、好きな人は?」
「……ええっと……」
答えに窮した一途は、視線を天井の方にさ迷わせた。当然、そんなところにベストアンサーは書いていない。空は再度ため息をつき、兄の顔を両手で挟んで自分の方に向けた。
「ここまで言って気が付かないなんて無いと思うんだけど……ぼくは兄さんのことが好きなんだよ」
「ん? うん……」
「うんって……分かってないなあ。ぼくは、兄さんに彼女がいたらどんなことをしてでも引き離そうと思ってここに来たんだよ。つまり、弟として兄さんを好きだっていうんじゃなくてね……」
「……うん?」
そうでなければ、何なのか。
自分の感情は異常で、他の人間はそんなことを感じないのに違いない、と思っている一途には、空の言わんとしている意味が、少しも分からなかった。
「いや、兄さんのそういうところも、ぼくは好きだけどね……でも、ぼくの言う「好き」は」
言葉を切って、空は再度、一途の唇を奪った。気を抜いていたせいで、一途は抵抗も出来ない。
「んっ……!」
漏らす息すら逃がすまいというように、空は何度も口づけた。一途は一瞬遅れて抵抗したが、浅い呼吸を繰り返すうちに頭がぼうっとして、うまく離れることが出来ない。顔が熱く、まともに思考すら出来ない。柔らかく暖かい刺激に流されてしまいそうだ。
そもそも、どうして空はこんなことをしているのだろう、と、差し入れられた舌を感じながら、ぼんやりと考える。あの時のことを許せない訳ではないのだと、空は言った。むしろ、あの時は本当に嬉しかったのだと。そして、今、自分のことを好きなのだと、そう言った。
「ん……ふっ……んっ……」
いつの間にか空の口づけに応えてしまっている自分に気が付きながら、一途は同時に、先ほどの空の言葉の意味にも、ようやく気が付き始めていた。空の言う「好き」の意味が、ようやく分かって来た。
そうか、そういうことなのか。
「……はぁ……分かってくれた?」
短く激しい口づけを終え、空は身体を起こしながら尋ねる。その顔をまともに見ることが出来ず、一途は視線を逸らして頷く。
「……うん」
「兄さん、ちゃんとこっち見て」
「うう……」
恥ずかしさと妙な気まずさに、一途はぎこちなく空の顔を見た。ほんのり紅をさしたような赤みを帯びた頬と耳が、まず目に入った。大きな瞳は微かに潤み、小さな唇の端から、どちらのものかもう分からない唾液が伝っている。呼吸が覚束ない。あまりに扇情的な表情に、どう振舞うのが正解なのか分からなくなってしまう。
「兄さん、もう一度聞くよ。……好きな人はいる?」
「…………目の前に…………」
一途がどうにか絞り出した言葉を聞いた瞬間、空はぱっと満面の笑みを浮かべた。
「素直でよろしい!」
先ほどまでの表情も心臓に悪かったが、感情がストレートに出たその笑顔の破壊力は凄まじく、一途はとうとう我慢できずに手で顔を覆った。
「もう分かったから……」
「分かったから、なあに?」
「分かったから、ちょっと離れて……このままだと、おれ……」
十年近く秘めてきた感情が、今までせき止められてきた欲望が、許された途端に外に溢れてしまいそうな気がして、一途は自分が怖かった。ずっと、これは許されないことなのだと思ってきた。絶対に叶うことの無い思いなのだと。だから、胸のうちに秘めて、二度と外に出すまいと、そう思ってきたのだ。
それなのに。
一途は、空がソファから降りたのを感じて、ようやく身を起こした。恐らく、今の自分の顔は真っ赤になっているに違いない。全く落ち着く気配のない鼓動と体の疼きをなだめながら、一途は床に座り込んで自分を見上げている弟を見つめた。
「空……おれのこと、本当に嫌いじゃないのか? 本当に……その、好きでいてくれるのか」
「そう言ってるんだよ。さっきからずっと」
空は面白そうに笑う。
「ぼく、大学には必ず受かるから。そしたら兄さん……」
言いながら、空は兄の膝に頬を乗せ、上目遣いに兄を見つめ返した。
「ここに一緒に住んで良いでしょう?」
「え……」
やっと落ち着きかけていた一途は、再び顔を真っ赤にした。
一緒に住む。それだけなら実家にいたころと変わらないが、しかしここは実家ではない。自分と空との、二人きりだ。それに、このアパートは部屋数だって少ない。お互いの部屋を持つという訳にはいかないし、そうなると……。
「いや、ちょっと待って……考えさせて」
「やだ。待たない」
いたずらっぽく目を細め、空は再び一途の隣に座り直し、一途が悶々とするさまを思う存分眺めた。それから、小さく呟いた。
「だって……十年近く、待ってたんだから」
「空……」
いとしさが急に込み上げてきて、一途は言葉に詰まった。ずっと一緒に育ってきた最愛の弟と、これからもずっと一緒にいられるのだ。脳が蕩けるような幸福感に襲われる。無意識のうちに、一途は空を抱き寄せていた。空は一途にもたれ掛かり、ほっと息をついた。
「兄さん、ぼくは最初からずっと、兄さんのことが好きだったよ。兄さんにキスされるよりも前から、兄さんはぼくにとって、他とは違う人だった」
「……そうなのか」
「うん。だから、兄さんはもう何も気にしなくて良いんだ。確かにぼくたちは、世間一般の常識からしたらおかしいのかもしれない。でも、少なくともぼくと兄さんの間では、おかしなことも、いけないことも、起こっていやしない」
「空……」
空の言葉も行動も、全て自分を思ってのものだった。改めてそれを理解し、一途は空の細い身体を抱く腕に力を入れた。
「分かった。大学受験に合格したら、一緒に住もう」
「兄さん……!」
空は目を輝かせて、一途に抱き着く。思わず緩みそうになる口元を慌てて引き締めて、一途は「ただし」と付け加えた。
「空は学生なんだから、学業に集中すること。それに、その……未成年で、おれは保護者的立場になるわけだから、あれだ……過度な肉体的接触は無しでいこう」
「ふふっ……兄さん……過度な肉体的接触って……! スポーツじゃないんだから……お、おかし……」
空は目じりに涙を浮かべ、腹を抱えて笑った。
「わ、笑うなよ……! 他に言い方が思いつかなかったんだ」
「だ、だからって……あははは」
空はひとしきり笑い終え、呼吸を整えながら、兄を見上げた。
「それじゃあ二年後には、過度な肉体的接触もアリってことだよね?」
「う……いや、それは……」
「そうでしょう?」
自分の胸元に指を這わせながら尋ねる弟の視線に、一途は早くも降参したい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。しかし、自分の中に残ったなけなしの倫理観をどうにかかき集めて、ゆっくり立ち上がった。
「それについては、……保留」
「ええー」
残念そうな声が上がるが、一途は聞かないフリをした。空との時間は、まだまだこれからも続くのだ。考えなくてはいけないことは多いが、その時間もたっぷりある。それに、お互いのことを更に深く知っていく時間も。
だから、今はひとまず。
一途は深く息を吸い、笑顔で振り返った。
「とりあえず、鍋にするか」
「空……」
そんなことを考えていたのか。
一途は、空の暖かい身体が小さく震えていることに、ようやく気が付いた。
「兄さん、友達も増えて、前より朗らかになって……女の子にもモテてたみたいだったから、このまま、ぼくのことなんか忘れてしまうんじゃないかって。しかも、実家を出て遠方で働くことになっちゃうし」
拗ねたような口ぶりで言う空に、一途は先ほどまでの落ち込みを忘れて、思わず笑ってしまった。
「ちょっと兄さん、そこ笑うとこじゃないから」
「いや、ごめん」
「まったく……。この一年間、ぼくがどれだけやきもきしたか分かる? 大学までに彼女をつくらなかったのは分かってたけど、就職先で誰かと付き合うことになってるんじゃないかって、急に実家に彼女を連れてくるようなことがあるんじゃないかって、そう思って……」
その時の不安が蘇ったのか、空の言葉は力を失って空中に消えた。が、すぐに元の調子に戻って、後を続けた。
「だから、こっちの大学を受験することに決めたんだ」
「え? ……え?」
今までの話と大学の話がうまく繋がらず、一途は戸惑った。どうしておれが彼女を作るかどうかということと、大学受験が繋がるんだ……。
空は顔を上げて、至近距離から混乱している兄の顔を見つめた。真剣な眼差しだ。
「兄さん、今付き合ってる人はいるの?」
「い、いないけど」
「それじゃあ、好きな人は?」
「……ええっと……」
答えに窮した一途は、視線を天井の方にさ迷わせた。当然、そんなところにベストアンサーは書いていない。空は再度ため息をつき、兄の顔を両手で挟んで自分の方に向けた。
「ここまで言って気が付かないなんて無いと思うんだけど……ぼくは兄さんのことが好きなんだよ」
「ん? うん……」
「うんって……分かってないなあ。ぼくは、兄さんに彼女がいたらどんなことをしてでも引き離そうと思ってここに来たんだよ。つまり、弟として兄さんを好きだっていうんじゃなくてね……」
「……うん?」
そうでなければ、何なのか。
自分の感情は異常で、他の人間はそんなことを感じないのに違いない、と思っている一途には、空の言わんとしている意味が、少しも分からなかった。
「いや、兄さんのそういうところも、ぼくは好きだけどね……でも、ぼくの言う「好き」は」
言葉を切って、空は再度、一途の唇を奪った。気を抜いていたせいで、一途は抵抗も出来ない。
「んっ……!」
漏らす息すら逃がすまいというように、空は何度も口づけた。一途は一瞬遅れて抵抗したが、浅い呼吸を繰り返すうちに頭がぼうっとして、うまく離れることが出来ない。顔が熱く、まともに思考すら出来ない。柔らかく暖かい刺激に流されてしまいそうだ。
そもそも、どうして空はこんなことをしているのだろう、と、差し入れられた舌を感じながら、ぼんやりと考える。あの時のことを許せない訳ではないのだと、空は言った。むしろ、あの時は本当に嬉しかったのだと。そして、今、自分のことを好きなのだと、そう言った。
「ん……ふっ……んっ……」
いつの間にか空の口づけに応えてしまっている自分に気が付きながら、一途は同時に、先ほどの空の言葉の意味にも、ようやく気が付き始めていた。空の言う「好き」の意味が、ようやく分かって来た。
そうか、そういうことなのか。
「……はぁ……分かってくれた?」
短く激しい口づけを終え、空は身体を起こしながら尋ねる。その顔をまともに見ることが出来ず、一途は視線を逸らして頷く。
「……うん」
「兄さん、ちゃんとこっち見て」
「うう……」
恥ずかしさと妙な気まずさに、一途はぎこちなく空の顔を見た。ほんのり紅をさしたような赤みを帯びた頬と耳が、まず目に入った。大きな瞳は微かに潤み、小さな唇の端から、どちらのものかもう分からない唾液が伝っている。呼吸が覚束ない。あまりに扇情的な表情に、どう振舞うのが正解なのか分からなくなってしまう。
「兄さん、もう一度聞くよ。……好きな人はいる?」
「…………目の前に…………」
一途がどうにか絞り出した言葉を聞いた瞬間、空はぱっと満面の笑みを浮かべた。
「素直でよろしい!」
先ほどまでの表情も心臓に悪かったが、感情がストレートに出たその笑顔の破壊力は凄まじく、一途はとうとう我慢できずに手で顔を覆った。
「もう分かったから……」
「分かったから、なあに?」
「分かったから、ちょっと離れて……このままだと、おれ……」
十年近く秘めてきた感情が、今までせき止められてきた欲望が、許された途端に外に溢れてしまいそうな気がして、一途は自分が怖かった。ずっと、これは許されないことなのだと思ってきた。絶対に叶うことの無い思いなのだと。だから、胸のうちに秘めて、二度と外に出すまいと、そう思ってきたのだ。
それなのに。
一途は、空がソファから降りたのを感じて、ようやく身を起こした。恐らく、今の自分の顔は真っ赤になっているに違いない。全く落ち着く気配のない鼓動と体の疼きをなだめながら、一途は床に座り込んで自分を見上げている弟を見つめた。
「空……おれのこと、本当に嫌いじゃないのか? 本当に……その、好きでいてくれるのか」
「そう言ってるんだよ。さっきからずっと」
空は面白そうに笑う。
「ぼく、大学には必ず受かるから。そしたら兄さん……」
言いながら、空は兄の膝に頬を乗せ、上目遣いに兄を見つめ返した。
「ここに一緒に住んで良いでしょう?」
「え……」
やっと落ち着きかけていた一途は、再び顔を真っ赤にした。
一緒に住む。それだけなら実家にいたころと変わらないが、しかしここは実家ではない。自分と空との、二人きりだ。それに、このアパートは部屋数だって少ない。お互いの部屋を持つという訳にはいかないし、そうなると……。
「いや、ちょっと待って……考えさせて」
「やだ。待たない」
いたずらっぽく目を細め、空は再び一途の隣に座り直し、一途が悶々とするさまを思う存分眺めた。それから、小さく呟いた。
「だって……十年近く、待ってたんだから」
「空……」
いとしさが急に込み上げてきて、一途は言葉に詰まった。ずっと一緒に育ってきた最愛の弟と、これからもずっと一緒にいられるのだ。脳が蕩けるような幸福感に襲われる。無意識のうちに、一途は空を抱き寄せていた。空は一途にもたれ掛かり、ほっと息をついた。
「兄さん、ぼくは最初からずっと、兄さんのことが好きだったよ。兄さんにキスされるよりも前から、兄さんはぼくにとって、他とは違う人だった」
「……そうなのか」
「うん。だから、兄さんはもう何も気にしなくて良いんだ。確かにぼくたちは、世間一般の常識からしたらおかしいのかもしれない。でも、少なくともぼくと兄さんの間では、おかしなことも、いけないことも、起こっていやしない」
「空……」
空の言葉も行動も、全て自分を思ってのものだった。改めてそれを理解し、一途は空の細い身体を抱く腕に力を入れた。
「分かった。大学受験に合格したら、一緒に住もう」
「兄さん……!」
空は目を輝かせて、一途に抱き着く。思わず緩みそうになる口元を慌てて引き締めて、一途は「ただし」と付け加えた。
「空は学生なんだから、学業に集中すること。それに、その……未成年で、おれは保護者的立場になるわけだから、あれだ……過度な肉体的接触は無しでいこう」
「ふふっ……兄さん……過度な肉体的接触って……! スポーツじゃないんだから……お、おかし……」
空は目じりに涙を浮かべ、腹を抱えて笑った。
「わ、笑うなよ……! 他に言い方が思いつかなかったんだ」
「だ、だからって……あははは」
空はひとしきり笑い終え、呼吸を整えながら、兄を見上げた。
「それじゃあ二年後には、過度な肉体的接触もアリってことだよね?」
「う……いや、それは……」
「そうでしょう?」
自分の胸元に指を這わせながら尋ねる弟の視線に、一途は早くも降参したい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。しかし、自分の中に残ったなけなしの倫理観をどうにかかき集めて、ゆっくり立ち上がった。
「それについては、……保留」
「ええー」
残念そうな声が上がるが、一途は聞かないフリをした。空との時間は、まだまだこれからも続くのだ。考えなくてはいけないことは多いが、その時間もたっぷりある。それに、お互いのことを更に深く知っていく時間も。
だから、今はひとまず。
一途は深く息を吸い、笑顔で振り返った。
「とりあえず、鍋にするか」