この先ずっと

 アパートまでの道すがら、一途はスーパーに寄って夕飯の具材を買い込んだ。昔の空は薬の副作用もあって食べられるものが極端に偏っていたが、今はそんなこともなく、何でも楽しく食べることが出来る。空の笑顔を思い浮かべて、一途はひとけの無い道で思わず笑みを浮かべてしまった。
 思い返してみれば、空の手術が思わぬ形で決定する直前のあの時期、自分は空に対して一線を越えそうになってしまったが、何とか踏みとどまることが出来た。自分は兄として弟を愛すのだと決めて、それからは元の通り、いや元よりも仲の良い兄弟として、関係性を築いてくることが出来た。あの時の自分の感情を考えるとよくあそこで踏みとどまれたものだと思うが、そのお蔭で、今でも空とは笑顔で会話を交わすことが出来る。あれから、また同じような衝動に襲われたことが一度も無かったとは言わないが、それも全て、勉強やアルバイトに打ち込んで解消してきた。空も、もうあんな過去は忘れてしまっていることだろう。今となってはただ、兄として、弟との絆を深めていければそれで良い……。
 そんなことを考えながら、一途はアパートのドアを開いた。
「ただいまー」
「おかえりなさい、兄さん」
 小走りで迎えてくれた空は、兄の手から買い物袋を預かり、食材をいそいそと冷蔵庫にしまっていく。ネクタイを緩めながら、一途はその様子を微笑ましく見つめた。
「空は今日、ずっと勉強してたのか」
「うん。あ、そうだ。ちょっと分からないところがあったから、兄さん、後で教えてくれない」
「もちろん。……でも、国語以外でよろしく」
「ふふっ、兄さん、国語だけは苦手だったもんね。大丈夫だよ、分からなかったのは物理だから。……あ、この材料ってことは今日は鍋?」
「うん。すぐ用意するから……」
「いやいや、ぼくが用意するから、兄さんはゆっくりしててよ。お仕事大変だったでしょ」
 空はさっさと調理器具を用意し、一途のエプロンを身に着けた。
「ありがとう、空」
「いいえいいえ」
 実家の両親と似た手さばきで野菜を切っていく、そのリズムが心地よい。一途は部屋着に着替えて、部屋に一つだけの机の前で、ソファに座って目を閉じた。とんとん、という音に、鍋の中で湯が泡を立てる音が交り、やがてそれらが静かになった。と同時に、美味しそうな香りが鼻腔をくすぐる。少しうとうとしかけていた一途は、髪を撫でられたような気がして目を開いた。すぐ隣に、空がいた。
「あ、起こしちゃった……ごめん」
 ぱっと離れた空を、まだぼんやりしながらも目で追って、一途は首を傾げた。
「どうした?」
「いや、疲れてるのかなと思って。肩でも揉んであげようかなって」
 鍋の準備は既に終わらせてしまったらしい。一途はそれなら、と頷いた。
「ありがとう。じゃあ頼もうかな」
「はーい」
 空の暖かい手が、一途の肩に置かれる。その温もりが滑らかに移動し、コリを的確にほぐしていく。一日中デスクワークをしていたせいで停滞していた血の巡りが良くなり、一途は身体が温まってきたのを感じた。
「どう、兄さん」
「うん、気持ちいいよ。空は肩を揉むのが上手だなあ」
 自分が実家を出て一年経つが、その間、苦労の多い両親を、自分の代わりに、こうして癒してくれていたのだろう。そういえば随分、実家に帰っていないな、と思いながら、一途は目を閉じた。空の掌から、思いやりが伝わってくるような気がする。
「それじゃあ、これはどう?」
 急に耳元で囁かれて、一途はどきっとした。空の吐息が首筋にかかる。
「え、何……んっ」
 柔らかく湿った生温かいものが右の耳朶をくすぐったのに反応して、一途の言葉は途中でかき消えてしまった。混乱する頭に、敏感な皮膚が伝える寒気にも似た感覚が駆け巡る。これは……、舌だ。空の舌が、自分の右耳をなぞっている。そう意識した途端、それまでぽかぽかと暖かかった身体が、かっと熱くなった。同時に、身をよじってソファの肘掛に上半身を倒し、一途は空の手から逃れた。
 心臓の鼓動がうるさい。つい今まで空の舌が触れていた右耳が、まだ痺れているような気がしてならない。背筋が、先ほどの感覚を思い出してぞくぞくしている。一途は訳が分からず、弟を凝視した。
「空……何で……」
 見上げた表情は、ちょうど照明を背にしているせいで、よく見えない。しかし、少し笑ったような気配がした。
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