この先ずっと

 ついこの間まで病院のベッドに横たわり、発作に苦しんでばかりいたように思える弟が、今では立派な高校生だ。病を克服し勉学に励み、もう数週間後に受験を控えている。自分と殆ど変わらない背丈になった空は、まだ子供っぽさを残してはいるが、可愛らしいというよりも、「綺麗」に成長したように、一途には思えた。元々の気質が優しいせいか、逞しいとか男らしいとか、そういう形容は空には似合わない。その代わり、空の動作には穏やかでどことなく上品な、優美さがある。
夜淵やぶち君。今夜一緒に飲みでもどう?」
 空のことを考えながらパソコンの画面に向き合っていたところを急に邪魔されて、一途はびくっと声の主を見上げた。先輩の女性社員だ。
「あー、すみません。今日は弟が家に来てて。早く帰るって言っちゃってるんです」
「あら残念。じゃ、また今度ね」
 女性社員は手をひらひらさせながら自分のデスクに戻って行く。気を取り直して再度画面に向き直った一途に、次は隣の席から声が掛かった。
「夜淵、また浅田さんの誘い断ったわけ? 信じらんねえ。その顔交換してくれ、おれが代わりに行く」
 一途は大袈裟に嘆く同い年の同僚にうんざりした顔を向け、肩をすくめた。
「残念だが川村、顔は交換できない」
「お前さあ、入社してからずっとお前の隣で女子社員から比較されてるおれの身にもなってくれよ。イケメン夜淵と残念川村ってさ」
「あのな川村、何度も言ってるけど、顔でしかものを判断しないような人間はろくなもんじゃない。そういう奴をふるいにかけることが出来て、むしろ好都合じゃないか」
「イケメンにはおれの気持ちは分からない」
 自分から振って来た癖につまらなそうに口を尖らせる同僚の横顔を、一途は見るともなしに眺めた。世の女性の、男性の顔に対する評価の仕方はよく分からない。川村の顔の、どこがそんなに悪いと言うのだろう。自分と同じように目と鼻と口がついており、髪の毛だってふさふさしている。それを、女性はおれの方が格好いいとか何とか言って、傍に寄ってこようとする。
「……何だよ夜淵、おれの顔、そんなに面白いかよ」
 不貞腐れたように横目で尋ねる川村に、一途は首を振った。
「いや。川村の顔もおれの顔も、たいして変わらないのになと思って」
「くっそお、すげえ余裕……!」
 川村が悔しそうに歯ぎしりするので、一途は首をかしげる。慰めたつもりだったのだが。しかし川村はすぐに飽きたらしく、本格的に休憩を取る姿勢になって手を止めた。
「そう言えば夜淵、弟さん来てるんだって」
「ああ、うん。こっちの大学を受験したいからって数週間泊まるんだ」
「へえ、五歳違いか。良いなあ弟。おれも欲しかったんだ」
「川村って一人っ子だったっけ?」
「いや、姉貴と妹が一人ずつ……。これがきついんだ。女兄弟が結束しちゃって、おれのことはのけ者扱いだよ」
 川村はしょんぼりと肩を落とした。感情の起伏が激しいな、と一途は苦笑いする。でも確かに、女兄弟というのは勝手が違うものなのかもしれない。空が妹だったら、一途とは今のような仲の良い兄弟ではなく、もっと別の関係性でいたかもしれない。
「弟さんは何て言う名前?」
「空」
「へーえ。良い名前だな。どうせ兄弟揃ってイケメンなんだろ。写真とか無いの」
「ああ、あるよ」
 実を言えば、スマートフォンの写真フォルダには、他の家族と撮ったものを除けば、弟の写真しか無かった。他に、残しておきたいイメージなど見当たらない。だが弟の写真ばかり収録されたファイルを見せてもドン引きされるに決まっている。一途は慎重に、家族で写っている写真を選んで見せた。空の高校入学記念に写真館で撮影した一枚で、微笑む空を家族で囲んでいる。
「やっぱりイケメンじゃん!」
 画面を見るなり、川村は悲鳴を上げた。
「兄がクール系なら弟は癒し系のイケメンじゃん! くっそー遺伝か? やっぱり遺伝なのか? よく見たら父さんも格好いいもんな!」
「さあ……」
 何をもってイケメンというのかも分からない一途には、そう聞かれても答えようがなかった。川村は暫く苦し気に唸っていたが、やがてまたがっくりと肩を落として、ついでにパソコンの電源も落とした。そして、ぱっと席を立った。
「よし、定時! 定時だぞ、夜淵君! 弟君のためにも、さっさと帰ろうではないか」
「え、ああ……」
「じゃ、おれはこれで!」
 今までの会話は完全に、定時までの暇つぶしだったのか。一途は呆気に取られてその後姿を見送ったが、やがて緩慢な動作で帰り支度を始めた。
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