くちづけ

 振り返ると、そこには空が立っていた。
「空……」
「お兄ちゃん、そんな状態で帰ったら変だよ」
 言われて自分の身体を見下ろすと、涙の跡がシャツとズボンに点々と着き、まだ乾き切ってもいない。何度も自分の気持ちを抑えようと握り締めたせいで、シャツの裾も皺だらけだ。そして、顔も涙で濡れたままだ。
「…………」
 立ち止まった兄の手を、空は優しく引いて、待合の椅子に座らせた。ぼんやりとしたまま、一途は空が隣に座ったのを感じた。
「お兄ちゃん、はいこれ」
 空が差し出したものは、以前、一途が買ってきたハンカチタオルだった。丁寧に大切に扱っているのだろう、綺麗なそれを受け取って、一途はとりあえず顔を拭いた。
「うん、いつものカッコいいお兄ちゃんに戻った」
 ニコリと笑って、空はタオルをしまう。一途は何と答えていいか分からず、戸惑いながら弟を見つめた。……笑っているが、どうしてだろう。おれは酷いことをしたのに。
「お兄ちゃん。ぼく、お兄ちゃんが出て行ってから急いで調べたんだ。……あれ、キスっていうんだね」
「…………!」
 声を潜め、若干、頰を赤らめながら、空は言った。調べた、ということは……パソコンで検索でもかけたのだろうか。確かに、キスについての意味くらいなら、いくらゾーニングしたパソコンだったとしても調べれば出てくることだろう。
 ならば、知ってしまったのか。本来、あれは兄弟の間ですべきことではないのだと。
 一途は血の気が引くのを感じた。足元から、床が、全てが崩れ去っていく。
 しかし、続く空の言葉は、あくまでも朗らかだった。
「お兄ちゃん、ぼくは気にしないよ」
「…………え?」
 罵倒の言葉を覚悟していた一途は、呆けたような声を出した。耳が、それとも頭が、おかしくなったのか。
「確かに、あれは普通、兄弟ではしないって書いてたけど……」
 空は言いながら、一途の耳元に顔を寄せた。
「互いに互いのことを大切に思っている……愛し合っている人同士では、するんだって」
「で、でも、それは家族や兄弟以外の……」
 突然囁かれてじんじんする耳を押さえながら、一途は慌てる。空が、何か間違った情報を鵜呑みにしてしまっているのではないかと焦る。
「そんなことは書いてなかったよ」
 空は微笑む。蠱惑的なその笑みに、一途は眩暈を感じた。
 空は兄の耳元に顔を寄せたまま、兄の震える手に、自分の手を重ねた。その温かさに場違いな安堵を覚えてしまい、一途はそんな自分に戸惑った。
「お兄ちゃん。ぼく、お兄ちゃんのことが大好きなんだよ。だから、普通はしないことをしてくれて、嬉しい」
 絡められた空の指が、自分の指の股を優しく撫でるのを、一途は働かない頭で感じた。空が何を言っているのか、簡単に飲み込むことができない。つまり……空はこう言っているのか。
 キスの意味を理解した上でなお、それをしてもらえて嬉しい、と。
「でも……でも」
「ぼくは、もう理解したよ。理解して、それでも嬉しいんだよ」
 それで充分じゃない? と、空は優しく、一途の耳を吐息で撫でるように言う。ぞくりと、勝手に反応してしまう身体に悲しみすら感じながら、一途はその感覚に酔った。その言葉に酔った。それは余りにも、自分に対して寛大すぎる処置だ。やはり、空は何も分かっていないのだ。でも、しっかり調べて理解したと言う。それならば空は、一体何を理解していないのか……?
 もう、自分でも何を考えているのか分からない。一途は靄のかかったような頭と、それに相反するように敏感な指と耳と、後天的な倫理観・道徳観とを持て余して、身動きが取れない。
「お兄ちゃんは本当に真面目で、そういうところもぼくは大好きだよ。……でも、ぼくは理性的でないお兄ちゃんも好きだな」
 一途は顔が熱くなるのを感じた。理性的でない自分を、理性的でない振る舞いをした自分を、空は……。
 空はもう一度ニッコリと笑い、パッと一途の手を離した。そのまま椅子から降りて、俯く兄に言った。
「とにかく、ぼくは全然気にしてないよ。お兄ちゃんがもうしないって言うなら、それでも良いよ。でも、もしまたしたくなったら……いつでも言ってね」
「空……」
 今更ながら弟の顔をまともに見られないくらい恥ずかしくなり、一途は相変わらず俯き加減で頷いた。空はそれでも満足そうに頷き、「それじゃあ、またね」と階段へ去って行った。
 後に残された一途は暫くぼおっとしていたが、やがてゆっくり、唇を指でなぞった。
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