チョコの効能

 定時はとうに過ぎ、時計の針が「十」に達しようとしている。それなのに、まだまだ資料の束は尽きそうに無い。パソコンの両隣に積み重なった紙束がぐらつくのを慌てて抑えながら、おれは何度目になるか知れないため息をついた。
 そもそも、繁忙期でも何でもないこの春先に、膨大な量の仕事が舞い込んできたのは、先輩社員の不手際によるものだ。本来なら不要なはずの仕事が、入社二年目で殆ど雑用係のようになっているおれと同期社員に、全て雪崩れ込んできた。
「はあー……さっさと帰りてえよ……」
 隣の席で、おれよりも盛大なため息をついた川村は、それでも手を休めずに入力作業を進めている。
「そうだな……」
「でも辛いのは、帰っても別に誰もおれの帰りを待ってないってことなんだよなあ……。はあ……可愛い彼女と一緒に暮らしたい……」
 これまた、川村の常套句だった。しかし、それに対してはおれはノーコメントを貫いている。おれには、おれの帰りを待ってくれている弟がいるからだ。
夜淵やぶちはそう思わないか? いくら大変でも、帰りを待ってくれている彼女のためなら頑張れるって……」
「まあ、気持ちは分かるよ」
 実際、そらが待ってくれていると思うからこそ、今もおれはこうして仕事を放り出さずにいる訳なのだから、川村の言いたいことはよく分かる。ただ、その対象が違うだけだ。
「そっか、夜淵は癒し系イケメンの弟君が待ってるんだったな。まあ、彼女とは違うだろうけど、でも待ってくれてる家族がいるって、それだけで羨ましいよ」
「うん……」
 おれにとっては、弟が彼女……恋人同然なのだと言ったら、川村はどういう反応をするだろう。
 ふと、そんなことを思ったが、流石に実行には移さなかった。きっと、これから先も、誰にも話すことは出来ないだろう。いや、そもそも話す必要も無い。おれは多分、空と血が繋がっておらず、更に空が異性だったとしても、誰かにその存在を話したりはしないだろう。する必要性を感じないし、……誰にも知られないで逢瀬を重ねること自体に、どこか甘美なイメージが付きまとう気がするからだ。
「夜淵は彼女、つくらないの。ほらこないだの……バレンタインの時だって、かなりチョコ貰ってたじゃん」
「……川村、手止まってるぞ。ここに泊まる気か」
「話逸らすなよ」
「仕事中断するなよ」
 川村は不服そうに、ふんと鼻を鳴らしながら再びパソコンに向かった。が、その口は止まらない。
「本当、イケメンって何事においても得だよなあ。おれ、人生で数えるほどしかバレンタインのチョコなんて貰ったこと無いんだぜ……」
「欲しいなら今度やるぞ」
「チョコが欲しい訳じゃないんだよ! それに付随する愛情とか恋情とか憧れとか甘酸っぱい気持ちとかピュアなハートとか」
「はいはい」
 確かに、三カ月前のバレンタインには、顔も知らなかった女性社員からも多くのチョコを受け取った。いや、受け取らざるを得なかった、と言うべきかもしれない。学生の頃なら面倒だからと受け取りすら断っていたかもしれないが、社会人にもなって、そんなことは出来なかった。でも、川村の言う、チョコに付随するなんやかんやは、おれには重すぎる。よく知りもしない相手から、そんなものが付属品として付いてくる食べ物を貰うなんて、気持ち悪ささえ感じる。
 だから、あの日、空も同じようにチョコを沢山貰って帰って来ていたのには、腹立たしさすら覚えたほどだった。空に、では無い。ただ、空のことを慕う異性の存在に、おれは単純に苛立ってしまったのだ。
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