くちづけ

 週に一度、その部屋を訪れる時、一途の胸の中には二つの相反する感情が渦を巻いていた。一つは、空に会える喜び。もう一つは、空に会うのはこれが最後になるのではという不安。
 空が入院して、もう数年が過ぎた。しかし、その不安感は一度も拭えた試しがない。
 一途は今日もその感情を押さえつけながら、自分の分の弁当と、この間作ったいももちマンの縫いぐるみを携えて、病室に入った。
 空は一途に会えて、純粋な笑顔を浮かべる。それはもう、毎週のことだ。一途はそれを見たいがためだけに、退屈な日々を我慢して過ごしている。
「お兄ちゃん、今日も会えて嬉しい」
「おれもだよ。おれも本当に嬉しい。元気にしてたか」
 元気にしている、という言葉は、普通に使う時とは少し、意味するところが違う。空の場合は、胸の苦しみを感じる間隔が長かったかどうか、発作は起きなかったかどうか、という意味になる。そして、その答えは、家族である一途には分かりきったことだった。何か異常があればすぐに、家族に連絡が行くことになっているのだから。だから、一途のその質問には、たいした意味などない。それを一途自身もよく分かっていて、それでも会えた時の挨拶として、度々使ってしまうのだった。
 空はうん、と頷いた。
「今週はあんまり、苦しくならなかった!」
「そうか……それは本当に良かった」
 一途は目を細める。空のベッドの隣に椅子を置き、周りのカーテンを閉める。こうすると、簡易的ではあるが、まだ空が入院する前、一緒に暮らしていた子供部屋を雰囲気だけでも再現できる気がする。
 一途は、空の、服の裾や襟から伸びる手足と首を眺めた。どうもまた、丈が合わなくなってきているようだ。空は成長期で、少しずつとは言え着実に、その身長を伸ばしている。また新しい服を買ってきてやらねば。
 そんなことを思いながら空の声を聞いているうち、一途はいつのまにか、空の肌の白さと美しさに吸い寄せられるような気持ちになっていることに気がついた。その瑞々しい首筋に、唇を寄せたい。どんな感触がするだろう。そう考えて、ハッとした。
 自分は何を。
「お兄ちゃん?」
 空が、不思議そうに兄を見ている。一途は慌てて、その直前までの会話の文脈を手繰り寄せた。
「ごめんごめん、それで、いももちマンがどうしたって?」
「うん、それでね……」
 空はまた、話を再開する。無心に喋るその横顔の、瞳の綺麗なこと。それを縁取る睫毛の長いこと。ふっくらして、触れば弾むようであろう頰に、小さくて愛らしい唇。一途は話を聞きながら、相槌も打ちながら、実弟の顔の輪郭を目で辿っていく。
 最近、どうにも自分の腹の奥の方が落ち着かないことに、一途は気がついていた。空のことを思うと、胸と、その部分がざわつくのだ。そしてそれは、空本人を目の前にするとより顕著になる。
 空を見ていると、馬鹿なことかもしれないが、幸福感でいっぱいになってしまう。そして、それが、空の細くて小さな身体に近づくと同時に、一種、凶暴な衝動にどんどん近づいていくのも感じていた。
 その正体が何であるか、薄々勘付いてはいたが、しかし、そうだと認めるわけにはいかなかった。そんなことを認めれば、自分はもう空の傍にいる資格がない。そう、思いつめるまでに、その衝動は強かった。
 その衝動は、空が食事を終えて動画を見ている最中に、うつらうつらし始めた時に最高潮に達した。空の、眠気を我慢しようとする表情と、一瞬の眠りに落ちる際の表情に、一途は我慢の限界を悟った。
「ほら、眠いんだろ。我慢しないで、ちょっと寝なよ」
「う……ん。ちょっとしたら起こして……」
 もしかすると、服用している薬の副作用もあったのかもしれない。空は糸が切れたようにベッドに沈み込んで、寝息を立て始めた。それとほぼ同時に、一途はその、うっすら開いた桃色の唇に、自分の唇をそっと押し付けた。
「んん……」
 もう眠ってしまっている空は、少し苦しげに眉を寄せ、唸った。しかしすぐに目を開ける心配はなさそうだ。一途は啄ばむように、しかし音を立てないように注意しながら、その感触を味わった。空の唇は、想像していたより余程柔らかく、甘い。
「ん、……」
 一途は、それまで我慢していた分、一度始めると止める気になれなかった。空の呼気が塞がれた隙間から漏れる、その声音に頭が真っ白になり、思わず、空の口の中に舌を進める。
「…………っ」
 温かい空の口中を、他の誰も侵入したことのない場所を、初めて自分が入ったのだと思うと、一途の息は荒くなる。空は眠ったまま身をよじるが、一途の舌が執拗に上顎をなぞるうち、段々と大人しくなっていった。
「んっ……ふっ……」
 気持ちが良いのだ。
 流石に少しずつ覚醒し始めている空ではあるが、未だその意識は微睡みの中を揺蕩っている。その中で、与えられる初めての刺激に、半ば無意識に縋り付いているようなのが、一途には分かった。一途の方も、苦しくなる呼吸の中で、軟らかい動物のようにくねる空の小さな舌に、自分の舌を吸い付ける感覚があまりに心地よくて、やめられない。
 暫く夢中でそうしていると、空がとろんと、目を開いていることに気がついた。一瞬、やめなくてはという意識がよぎったが、身体はまだ快感を貪り足りないと訴えて放さない。
 一途は背徳感と罪悪感に襲われながらも、空の口の中をまさぐる。まともな呼吸が全然できていないので、頭がクラクラする。それは空も同じなのだろう。まだ夢の中にいるようなぼんやりとした視線をどこか中空に向け、口付けの合間に浅く息をしている。
 空が一途の舌に、自分の舌を絡めてきたのがどのタイミングだったか、はっきりしたことは一途には分からない。しかし、それは確かに起きた。されるがままだった空は、兄の舌に自らの舌を絡め、まだ覚えたてで正体の判然としない感覚に目を潤ませていた。それに気がついた時、一途は腰の奥がかっと熱くなったのを感じた。が、最後に残った理性がその感覚をどうにか押し留めて、とりあえず目の前にある状況に没頭するように仕向けることに成功した。
「ん……ふっ……お兄、ちゃん……」
「空……」
 二人は隣のベッドに聞こえないように意識した小声でお互いを呼び合い、いつしか夢中で互いの唇を貪り合っていた。一途は空の小さな頭に手を回し、そのサラサラした髪の感触を楽しんだ。空も細い腕を兄の背に回し、殆どしがみつくようにして、それに応えた。兄の手が自分の髪を掻きまぜる時に、首筋に当たる自分の毛先が、微かなくすぐったさを残していくのが、なぜだか心地良い。そのたび、空は小さな嬌声を上げた。眠気はとうに消え、今はただ、兄が唐突に始めたこの新しい遊びに没頭していたかった。
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