名探偵VS事件代行人

「しかし、美寿寿さんもぼろ儲けですね。このような大きな屋敷に、たった一人で住んでらっしゃるなんて」
 覆水はぐるぐるに巻かれた包帯などものともせず、器用にティーカップを傾ける。
「だが、諸々の費用がかかって仕方ない。そろそろここも引っ越そうかと思っていたところだ」
 私が答えると、覆水はひょいと肩をすくめた。
「覆水再起さいき、お前、一体何をやったんだ」
「ああ、この怪我ですか? これはですね。ちょっとした兄妹喧嘩が元なんですよ」
「何、兄妹喧嘩? ……ちょっと待て、先ほど彼女が言っていた『敵』とか言うのはまさか」
「妹のことですよ」
「な、…………」
 何ということだろう、と私は一人で頭を抱えた。名探偵の『敵』というからには、『怪人うんたら面相』とか、『怪盗なんたら』とか、『うんたらかんたら教授』とか、そういう類の何らかの意味で超人的な何者かのことを意味しているものとばかり思っていた。
「いやぁ、ちょっとした諍いでしてね。妹は気が短いもので」
「お二人とも、ご自分の仕事のことになると一歩も譲らないものでして」
 覆水の助手であろう女性は、眉を寄せて言う。
「まあ、何はともあれ、美寿寿さんが優しい人で良かったです。私、さっきは結構危ない状態だったものですから。流石の名探偵覆水再起も、ここで終わりかと」
 大げさな、と私は首を振った。確かにところどころ出血してはいたが、致命傷は負っていなかった。放っておいてもあと五日は生き延びられただろう。あの程度の出血で重症だの匿ってくれだのと、騒ぎ立てる阿呆はこの二人以外にはいない。
「いやあ、それにしても立派なお屋敷ですねえ」
 覆水は、私たちがいる広間を見渡して、呟いた。この広間は一階、正面玄関からまっすぐのところにある。割と広い場所ではあるが、こうして来客がない限りはあまり使わない。
「それほどでもないがね。叔父の道楽は無駄にスケールが大きかったから、住居も自然こんなことになったようだ」
「しっかし、……ん、あれ。美寿寿さん、この便箋は何です?」
 覆水が拾い上げたのは、昨日届いた差出人不明の手紙であった。
「ああ、それは昨日届いたものだ。何故かあて先が遠叔父になっている」
「ふうん。へえ。気になりますね……、実に気になります」
 覆水は急に声のトーンを低めた。手に持った便箋をじいっと見つめている。
「そうですか……、どうしてこれがここに……。ああ、そうか。この手紙の差出人、分かりましたよ美寿寿さん」
「なに。誰だ」
 覆水は私の問いには答えず、苦労して懐から、携帯電話を取り出した。
「見てください、この模様。これ以外に、差出人を特定する材料はありませんね?」
 覆水は、私も気になっていた、便箋に押されたあの模様を指差し、それに携帯電話を近づけた。
「これはですね、こうやって使うんですよ」
 覆水がそう言うのと同時に、携帯電話がちろりんと鳴った。
「QRコードの、応用形です」
「…………なるほど」
 私は思わず感心して、覆水を見つめた。――こいつ、使えなさそうな顔して、なかなかやる。
「御覧なさい」
 覆水は、携帯電話の画面を私に見せた。何処かのサイトらしい。よくよく見ると、『覆水不起事件請負所』と、真っ青な文字で書かれている。その下には、事務的な説明書きがずらずらと並んでいる。
「覆水……」
不起ふき。私の妹です」
 しれっと、覆水はそんなことを言う。
「妹は、言うなれば私の生涯のライバルでしてね。商売敵と言っても良いんですが」
 覆水は、嬉しそうに言った。
「それじゃあ、遠叔父は、その覆水不起とやらに、何かを依頼していたというわけか」
「そうみたいですね。……よっぽど覆水家をひいきにしてくれているようで」
「どういう意味だ?」
 私が聞き返すと、覆水はいや別に、と首を振った。
「妹はですね。私とは正反対の職を選んだんですよ」
 名探偵とは正反対の職業……となると、それは。
「『犯人』……という奴か?」
「おや、ご明察」
 覆水はぱちぱちと手を叩く。うそ臭い拍手だ。
「このサイトを見ても分かるのですが、妹は、事件を代行して起こす、事件代行人を生業にしているんです」
「……また、随分と無理やりなネーミングだな」
 兄妹揃って、変人ぞろいというわけか。
「どんな事件を起こすかによって、その代価は変動します。彼女なりの規律というものがあるらしいですね。……で、先永遠氏の依頼はもうすぐ完了する、と。一体何を代価に指定するつもりでしょう」
「ああ、そうだ。それなんだが、その依頼とやらは、破棄できないのか? 遠叔父はとっくに死んでいるし、どんな依頼だったのかも私は知らない。なかったことにはできないのか」
 私は、ここぞとばかりに、聞きたかったことを矢継ぎ早に聞いた。覆水の来訪は私にとって凶事でしかなかったが、話がこういう方向に進んだとなれば別だ。
 覆水はそうですね、と少し考えていたが、やがて顔を上げた。――そして、急に後ずさりを始めた。
「…………? どうした、名探偵」
 私は、こちらを向いたままゆっくり広間の向こう側へと後退する覆水に、そう聞いた。覆水は、私を指差し、首を振る。口元が、今にも泣き出さんばかりに歪んでいる。
「う……」
 またうえうえと泣き出すのだろうか、と一瞬身構えた私だったが、そのとき屋敷の外から、千年の声が聞こえた。
「みーすずっちゃん、ちとせ、ただ今ケンザンっ、致しましたぁっ!」
「おや、千年か。……はいはい、今行く」
 私は、正面玄関の方へ歩く――不意に、それを引き留めるものがあった。私の服を掴んで離さないのは、勿論広間の向こう側に立つ覆水ではなく、助手の女性であった。彼女は、無言で首を振る。
「…………」
 開けてはいけません、と言っているようだが。しかし。
 私の知ったことじゃない。
「みぃすずちゃ~ん」
「はいはい」
 私は女性の手を剥がし、そのまま歩き、扉を開けた。そこには、いつも通りおとなしそうな佇まいの黒髪女子高生・千年と、もう一人がいた。
3/5ページ
スキ