覆水盆に帰らず
「覆水再起、昨日は悪かったな」
言いながら事務所へ入ってきた先永美寿寿は、再起の姿が見当たらないのできょろきょろと事務所内を見渡した。小さな事務所には、助手の女性が窓の鍵の蝶番に油を差しているだけで、他には誰の姿も無い。
「ええっと……、覆水再起はいないのか?」
「ああ、お早う御座います、先永さん」
助手は髪の毛を整えながら美寿寿に向き直り、油差しをしまった。
「先生は、朝からお出掛けです」
「そうか。珍しいこともあるものだな」
美寿寿はふむと肯き、ソファに腰を下ろした。その間にも忙しそうに働いている助手に、彼女は話しかける。
「それで、どこに出掛けているんだ。コンビニか、それとも本屋か」
再起の出掛けそうな場所をはじめから限定してかかっている美寿寿の物言いに苦笑しながら、助手は答える。
「ご実家です」
「ご実家……って、実家?」
「ええ」
こともなげに肯く助手の態度とは反対に、美寿寿は驚いていた。思わずソファから立ち上がりかけて、それから思い直したように座りなおした。三分ほど何かに思いを巡らしていたようだったが、また口を開いた。
「それはまた……。あんなに怖がっていたのに、昨日の今日でもう出掛けたとはな。驚いた」
「まあ、色々と思うところがあったのでしょう。あれで結構、先生は繊細な方なのですよ」
「…………」
美寿寿は、はん、と肯いて、時計に目を向けた。短針は既に十時を指している。
「そういえば、あいつの実家はどこにあるんだ? 今日出掛けたということは、しばらく帰ってこないのか?」
「気になりますか」
「気になるも何も、あいつが来ないのであれば私の仕事はないだろう。仕事がないのならば、ここに来る必要もない」
「それもそうですね」
助手は今気がついたというように口に手を当てた。美寿寿は若干呆れたようにその様を見ていた。
「先生のご実家は、そう遠い所にあるわけではありません。恐らくそろそろ帰ってらっしゃるのではないかと」
「え。……そろそろ、って」
美寿寿は今度こそソファから立ち上がって、助手に聞き返した。助手は壁際に置かれた植木鉢に水をやりながら答える。
「今朝四時にここを発たれたので、そうですね……、あと五分もすれば」
「あと五分って……」
驚き続けている美寿寿にお構いなしに、助手は次々と仕事を片付けていく。エアコンのフィルターを換え、書類ファイルの確認をし、コンピュータのソフトウェアの更新を行い、ついでにコーヒーを入れようとしている時に、事務所の扉が開き、覆水再起が現れた。相変わらずの出で立ちで、整った顔にはうっすらと笑みを浮かべている。
「おや、お早う御座います美寿寿さん。今日も早くからご出勤、ご苦労様です」
「…………」
美寿寿はぽかんと再起を見上げ、それから「本当に五分だった」と呟いた。
「え、五分って何です」
「あ、いやこちらの話だ。……ん、覆水再起。お前、何か臭うな」
「え、何ですか」
再起は慌てたように自分の身体に鼻を近づけ、くんくんと鼻を動かした。その様子を見るでも無く見ていた美寿寿は、思い出したように声を上げた。
「ああ、そうか。これは線香の匂いだ」
「線香――……」
再起は呟き、自分の匂いをかぐのを止めた。
「そうですか。……線香でしたか」
「ああ。ふん、そうか。お前は墓参りにでも行っていたんだな。なかなか殊勝だ」
美寿寿は満足げに肯き、助手は微笑む。再起は一瞬嬉しそうな、それでいて哀しそうな複雑な表情になったが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべ、快活に答えた。
「お褒めに預かり、光栄ですよ」
言いながら事務所へ入ってきた先永美寿寿は、再起の姿が見当たらないのできょろきょろと事務所内を見渡した。小さな事務所には、助手の女性が窓の鍵の蝶番に油を差しているだけで、他には誰の姿も無い。
「ええっと……、覆水再起はいないのか?」
「ああ、お早う御座います、先永さん」
助手は髪の毛を整えながら美寿寿に向き直り、油差しをしまった。
「先生は、朝からお出掛けです」
「そうか。珍しいこともあるものだな」
美寿寿はふむと肯き、ソファに腰を下ろした。その間にも忙しそうに働いている助手に、彼女は話しかける。
「それで、どこに出掛けているんだ。コンビニか、それとも本屋か」
再起の出掛けそうな場所をはじめから限定してかかっている美寿寿の物言いに苦笑しながら、助手は答える。
「ご実家です」
「ご実家……って、実家?」
「ええ」
こともなげに肯く助手の態度とは反対に、美寿寿は驚いていた。思わずソファから立ち上がりかけて、それから思い直したように座りなおした。三分ほど何かに思いを巡らしていたようだったが、また口を開いた。
「それはまた……。あんなに怖がっていたのに、昨日の今日でもう出掛けたとはな。驚いた」
「まあ、色々と思うところがあったのでしょう。あれで結構、先生は繊細な方なのですよ」
「…………」
美寿寿は、はん、と肯いて、時計に目を向けた。短針は既に十時を指している。
「そういえば、あいつの実家はどこにあるんだ? 今日出掛けたということは、しばらく帰ってこないのか?」
「気になりますか」
「気になるも何も、あいつが来ないのであれば私の仕事はないだろう。仕事がないのならば、ここに来る必要もない」
「それもそうですね」
助手は今気がついたというように口に手を当てた。美寿寿は若干呆れたようにその様を見ていた。
「先生のご実家は、そう遠い所にあるわけではありません。恐らくそろそろ帰ってらっしゃるのではないかと」
「え。……そろそろ、って」
美寿寿は今度こそソファから立ち上がって、助手に聞き返した。助手は壁際に置かれた植木鉢に水をやりながら答える。
「今朝四時にここを発たれたので、そうですね……、あと五分もすれば」
「あと五分って……」
驚き続けている美寿寿にお構いなしに、助手は次々と仕事を片付けていく。エアコンのフィルターを換え、書類ファイルの確認をし、コンピュータのソフトウェアの更新を行い、ついでにコーヒーを入れようとしている時に、事務所の扉が開き、覆水再起が現れた。相変わらずの出で立ちで、整った顔にはうっすらと笑みを浮かべている。
「おや、お早う御座います美寿寿さん。今日も早くからご出勤、ご苦労様です」
「…………」
美寿寿はぽかんと再起を見上げ、それから「本当に五分だった」と呟いた。
「え、五分って何です」
「あ、いやこちらの話だ。……ん、覆水再起。お前、何か臭うな」
「え、何ですか」
再起は慌てたように自分の身体に鼻を近づけ、くんくんと鼻を動かした。その様子を見るでも無く見ていた美寿寿は、思い出したように声を上げた。
「ああ、そうか。これは線香の匂いだ」
「線香――……」
再起は呟き、自分の匂いをかぐのを止めた。
「そうですか。……線香でしたか」
「ああ。ふん、そうか。お前は墓参りにでも行っていたんだな。なかなか殊勝だ」
美寿寿は満足げに肯き、助手は微笑む。再起は一瞬嬉しそうな、それでいて哀しそうな複雑な表情になったが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべ、快活に答えた。
「お褒めに預かり、光栄ですよ」