覆水盆に帰らず
「それにしても、可愛い娘さんでしたね」
洋間に戻ってきてすぐに、再起はそう言った。静かに椅子に腰を下ろして、息つく暇もなしに、唐突に喋り始めた。
「あの金色がかった髪の毛や、薄いブルーの瞳……、私の妹の小さいころにそっくりでしたよ。あ、勿論妹の髪の毛は黒ですがね」
「……はあ」
若草遊人は、相手の真意を測りかねたように相槌を打つ。再起は楽しそうな口調で、尚も続けた。
「私の妹はですね、西洋人形みたいな顔をしているんですよ。名前は不起といいましてね、それはもう可愛い可愛い、愛らしい妹なんです」
「そうですか」
「そうなんです。小さい頃なんて、大きくなったらサイキお兄様のお嫁さんになるーだなんて嬉しいことを言ってくれたりもしましてねえ」
どす、っとどこかで何かが刺さるような音がした。助手は一瞬で、それとは分からないように体勢を整えたが、再起と若草遊人は何にも気付いていないように話を続けている。
「そうそう、そういえば私が大きくなって独り立ちしようというときに、妹は泣いて私を止めたんです。サイキお兄様、お家を出て行かないでーって」
「はあ、そうなんですか」
若草遊人は途中で話を遮ることもなく、仕方なさそうに付き合っている。その間にも、誰かが何かを突き刺しているような小さな音が聞こえている。
どすっ、どすっ。
「しかし可愛いもんですよ。あれから何年か経って、私のことを嫌いになったように見せかけちゃあいますがね。本心ではまだ私のことを好いているのですよ。それが私にはよく分かる――」
再起がそこまで口にしたとき、洋間の扉が勢い良く開き、一人の少女が登場した。ゴシック調の上品な黒いドレスに過剰なまでのフリルが付いた出で立ちのその少女は、持っていたレースの日傘を再起に突きつけた。
「サイキ兄……。よくも、あることないことべらべらと……っ!」
「あははははは。兄の特権ってやつだよ。そんなに怒らないで、不起」
「怒るも怒らないもありません。今日という今日は、目に物見せてやります」
有無を言わさぬ厳しい口調で、不起は兄に近付く。助手の女性は既に臨戦態勢を取って、椅子の上に立っている。ただ一人、状況を飲み込めていないのは若草遊人だった。
「ええっと……。あの、お取り込み中申し訳ありませんが、その、そちらの方は覆水さんのお知り合いでしょうか?」
「ああ、そうですね紹介が遅れました。こちらは覆水不起。先ほど話した、私の妹ですよ」
「妹さん……ですか」
ぽかんと口を開けた若草遊人には関係なしに、不起はいらいらとした様子で日傘を天井に突き刺していた。
「あ、ちょっと不起、止めなさい。ここは美寿寿さんの屋敷ではない、そんなに穴だらけにしてしまっては――」
「では、サイキ兄がこの天井の代わりをしてくださると言うのですね?」
「いや、そんなことは言ってない」
再起は首を振りながら両手を挙げて、降参のポーズを取った。
「私は何も、君とけんかしたかったわけじゃない。だから、その武器――もとい日傘をしまいなさい」
「誰がサイキ兄の言うことなんか聞きますか」
不起の日傘が、容赦なく再起に振られる。それを助手の女性が進み出て受け止め、きつい目つきで不起を睨んだ。
「おやめください、不起様。先生は今日、大怪我をなさったのです。ですから、もう攻撃はおやめください」
「大怪我が何です、……どいつもこいつも邪魔ばっかり!」
心底憤慨したように、不起はふくれっ面をして、振り上げていた日傘を下ろした。再起はほっと息をつき、助手はまだ警戒するような表情で自分の椅子に戻る。
「…………ええっと」
若草遊人はおずおずと口を開き、場を見渡した。
「どうして覆水さんの妹さんが、ここにいらっしゃるんです?」
「ああ、それはですね」
再起が答えようとしたが、不起がそれを遮った。
「それは、私から説明して差し上げます。まず、自己紹介をさせて頂きましょう……私、こういう者です」
言って、不起は若草遊人に一枚の名刺を差し出した。
「ええっと。『事件代行人』……。…………?」
名刺を読んでもいまいちぴんときていない若草遊人に、不起は畳み掛ける。
「私は、貴方のご令嬢から依頼を承りましたの」
「……え、ご令嬢というと……娘、ですか」
「はい」
不起は肯き、再起の膝の上に腰を下ろした。再起がうわあと声を上げたが、それには一切構う素振りを見せない。
「若草遊乃さんから、幽霊騒ぎを起こしてくれるようにと」
「何、……あの子が、そんなことを言ったのですか」
「ええ」
若草遊人は戸惑いの表情を浮かべた。
「何故あの子がそのようなことを?」
「そんなことは存じません。ご令嬢に直接お聞きになれば宜しいのではないかと」
突き放すような不起の物言いに、若草遊人は益々混乱していく。再起はといえば、興味深げに一連のやり取りを見守っているだけだ。
「先生、宜しいのですか」
助手が、再起の耳元で囁く。
「ん、何がだい」
「このやり取りを止めなくても――」
「良いんだよ。別に、私が出る幕じゃない」
「…………」
助手は不満げに眉をひそめたが、それ以上何も言おうとはしなかった。
若草遊人が、理解に苦しむと言ったように髪を掻き回し、声を荒げた。
「どうして……、いや、それなら何故貴女は私の娘の依頼など引き受けたのです。あんな年端もいかない子供からの依頼を……!」
「代価はきちんと支払うと、約束してくださったからです。代価さえ頂けるなら、私はどんな依頼でもお引き受けいたします」
しれっとした不起の対応に、若草遊人はとうとう立ち上がり、混乱した頭で叫んだ。
「もう良いです! そんな契約は知らないっ……今すぐお帰りになってください!」
「…………」
不起はじっと若草遊人を見上げていたが、やがてひとつため息をついて、再起の膝から腰を上げた。そのまま扉へ歩いて行こうとした、――が。
洋間に戻ってきてすぐに、再起はそう言った。静かに椅子に腰を下ろして、息つく暇もなしに、唐突に喋り始めた。
「あの金色がかった髪の毛や、薄いブルーの瞳……、私の妹の小さいころにそっくりでしたよ。あ、勿論妹の髪の毛は黒ですがね」
「……はあ」
若草遊人は、相手の真意を測りかねたように相槌を打つ。再起は楽しそうな口調で、尚も続けた。
「私の妹はですね、西洋人形みたいな顔をしているんですよ。名前は不起といいましてね、それはもう可愛い可愛い、愛らしい妹なんです」
「そうですか」
「そうなんです。小さい頃なんて、大きくなったらサイキお兄様のお嫁さんになるーだなんて嬉しいことを言ってくれたりもしましてねえ」
どす、っとどこかで何かが刺さるような音がした。助手は一瞬で、それとは分からないように体勢を整えたが、再起と若草遊人は何にも気付いていないように話を続けている。
「そうそう、そういえば私が大きくなって独り立ちしようというときに、妹は泣いて私を止めたんです。サイキお兄様、お家を出て行かないでーって」
「はあ、そうなんですか」
若草遊人は途中で話を遮ることもなく、仕方なさそうに付き合っている。その間にも、誰かが何かを突き刺しているような小さな音が聞こえている。
どすっ、どすっ。
「しかし可愛いもんですよ。あれから何年か経って、私のことを嫌いになったように見せかけちゃあいますがね。本心ではまだ私のことを好いているのですよ。それが私にはよく分かる――」
再起がそこまで口にしたとき、洋間の扉が勢い良く開き、一人の少女が登場した。ゴシック調の上品な黒いドレスに過剰なまでのフリルが付いた出で立ちのその少女は、持っていたレースの日傘を再起に突きつけた。
「サイキ兄……。よくも、あることないことべらべらと……っ!」
「あははははは。兄の特権ってやつだよ。そんなに怒らないで、不起」
「怒るも怒らないもありません。今日という今日は、目に物見せてやります」
有無を言わさぬ厳しい口調で、不起は兄に近付く。助手の女性は既に臨戦態勢を取って、椅子の上に立っている。ただ一人、状況を飲み込めていないのは若草遊人だった。
「ええっと……。あの、お取り込み中申し訳ありませんが、その、そちらの方は覆水さんのお知り合いでしょうか?」
「ああ、そうですね紹介が遅れました。こちらは覆水不起。先ほど話した、私の妹ですよ」
「妹さん……ですか」
ぽかんと口を開けた若草遊人には関係なしに、不起はいらいらとした様子で日傘を天井に突き刺していた。
「あ、ちょっと不起、止めなさい。ここは美寿寿さんの屋敷ではない、そんなに穴だらけにしてしまっては――」
「では、サイキ兄がこの天井の代わりをしてくださると言うのですね?」
「いや、そんなことは言ってない」
再起は首を振りながら両手を挙げて、降参のポーズを取った。
「私は何も、君とけんかしたかったわけじゃない。だから、その武器――もとい日傘をしまいなさい」
「誰がサイキ兄の言うことなんか聞きますか」
不起の日傘が、容赦なく再起に振られる。それを助手の女性が進み出て受け止め、きつい目つきで不起を睨んだ。
「おやめください、不起様。先生は今日、大怪我をなさったのです。ですから、もう攻撃はおやめください」
「大怪我が何です、……どいつもこいつも邪魔ばっかり!」
心底憤慨したように、不起はふくれっ面をして、振り上げていた日傘を下ろした。再起はほっと息をつき、助手はまだ警戒するような表情で自分の椅子に戻る。
「…………ええっと」
若草遊人はおずおずと口を開き、場を見渡した。
「どうして覆水さんの妹さんが、ここにいらっしゃるんです?」
「ああ、それはですね」
再起が答えようとしたが、不起がそれを遮った。
「それは、私から説明して差し上げます。まず、自己紹介をさせて頂きましょう……私、こういう者です」
言って、不起は若草遊人に一枚の名刺を差し出した。
「ええっと。『事件代行人』……。…………?」
名刺を読んでもいまいちぴんときていない若草遊人に、不起は畳み掛ける。
「私は、貴方のご令嬢から依頼を承りましたの」
「……え、ご令嬢というと……娘、ですか」
「はい」
不起は肯き、再起の膝の上に腰を下ろした。再起がうわあと声を上げたが、それには一切構う素振りを見せない。
「若草遊乃さんから、幽霊騒ぎを起こしてくれるようにと」
「何、……あの子が、そんなことを言ったのですか」
「ええ」
若草遊人は戸惑いの表情を浮かべた。
「何故あの子がそのようなことを?」
「そんなことは存じません。ご令嬢に直接お聞きになれば宜しいのではないかと」
突き放すような不起の物言いに、若草遊人は益々混乱していく。再起はといえば、興味深げに一連のやり取りを見守っているだけだ。
「先生、宜しいのですか」
助手が、再起の耳元で囁く。
「ん、何がだい」
「このやり取りを止めなくても――」
「良いんだよ。別に、私が出る幕じゃない」
「…………」
助手は不満げに眉をひそめたが、それ以上何も言おうとはしなかった。
若草遊人が、理解に苦しむと言ったように髪を掻き回し、声を荒げた。
「どうして……、いや、それなら何故貴女は私の娘の依頼など引き受けたのです。あんな年端もいかない子供からの依頼を……!」
「代価はきちんと支払うと、約束してくださったからです。代価さえ頂けるなら、私はどんな依頼でもお引き受けいたします」
しれっとした不起の対応に、若草遊人はとうとう立ち上がり、混乱した頭で叫んだ。
「もう良いです! そんな契約は知らないっ……今すぐお帰りになってください!」
「…………」
不起はじっと若草遊人を見上げていたが、やがてひとつため息をついて、再起の膝から腰を上げた。そのまま扉へ歩いて行こうとした、――が。