覆水盆に帰らず

「早速ですが……私の依頼内容を、ご覧になってくださいましたか」
「ええ。それはもうすっかりと」
 再起は堂々と肯いてみせる。若草遊人は尚も心配そうに眉をひそめながら、先を続けた。
「では、お願いして宜しいのですね」
「ええ。まあ、名探偵の私に、どんと任せておいてください。……それで、娘さんは?」
遊乃ゆのは……娘は今、自室で眠っておりま」
 す、と若草遊人が口にし終えるか終えない内に、屋敷中に、誰かの悲鳴が響き渡った。それは甲高く伸びたが、最後には戸の軋むような音を響かせて消えた。
「……今のは……?」
「娘です! 今日もまた……」
 言いながら若草遊人は立ち上がり、急いで部屋を出て行った。再起と助手も、慌ててその後を追う。若草遊人と二人は、廊下の突き当たりの階段を駆け上がった。そして、一つの部屋で、その悲鳴を上げたという幼い少女――若草遊乃を見つけた。暗がりの中、三人は急いで部屋の中へ入っていく。
「遊乃、遊乃! しっかりしなさい」
 若草遊人が、部屋の床に倒れていた少女を抱き起こし、揺さぶる。長い髪を乱したネグリジェ姿の少女は目を瞑っているようだったが、やがてそのまぶたを開けた。
「お父さん……?」
「遊乃、また怖い『夢』を見たんだね?」
「『夢』…………?」
 少女は一瞬きょとんとしたが、次いで火のついたように泣き出した。
「幽霊が出たの。夢なんかじゃないの、幽霊が……」
「ほう、幽霊ですか。それは私も見て見たいですね」
 少女は急に自分の言葉を遮られて、涙目で再起を見上げた。再起はにっこりと笑って、少女の頭に手を置いた。
「で、どんな幽霊だったんです? お兄さんにも教えてくれませんか」
「うっ…………うえええええええっ」
「えっ、あ、いやちょっと……泣かないでください、遊乃さん……」
 またも泣き出してしまった少女にうろたえ、困り顔で振り返った再起に、助手は苦笑いを返す。若草遊人は遊乃の背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせ、ベッドに寝かしつけた。
「大丈夫だよ遊乃。お父さんが来たからにはもう大丈夫だ。だから、安心してお休みなさい」
「……うう」
 遊乃はまだ落ちつか無げに声を漏らしていたが、やがて静かになった。若草遊人と再起、助手の三人は、静かに部屋を出る。
「遊乃さん、幽霊を見たとか仰ってましたね? それは――」
「そうです。差し上げた手紙にも書いていたと思いますが、この頃娘は毎晩何かを怖がって……。きっと悪夢にうなされているのだと思っているのですが、あんなにも怖がる様子は、見ていられません……」
「そうですか」
 階段を下りながら、再起は首を捻った。
「それで、奥様はどちらに?」
「奥様……あ、家内のことですか。家内は今、仕事中ですよ」
「仕事中……? 失礼ですが――」
「ああ、うちの事業は全て家内が取り仕切っているんです。だから、あの子の面倒を見ているのも大体私です」
「はあ。それで、奥様はまだ仕事中、というわけですか。ええっと、ご在宅ですか」
「…………? ええ、あの子の部屋の真向かい、一フロアのほとんど全てを、家内が使っています」
「そうですか。いやあ変なことをお聞きしましたね、すみません」
 再起は、不思議そうな若草遊人に、愛想良く笑って見せた。若草遊人はますます不思議そうに、首をかしげる。そして、何気なく向けられた彼の目は、階段の踊り場に設置されている採光用の窓に釘付けになった。
「若草さん? どうなさいましたか」
 足を止めて再起が尋ねると、若草遊人は黙って、震える指で窓を指した。
「何です……」
 再起と助手がそちらに目を向けると、窓越しに、人影のようなものが見えた。長い髪の毛、それに腕のようなものがゆらゆらと陽炎のように揺れている。
「こ、ここは普通のビルの三階に相当する高さですよ……。まさか」
 怯える若草遊人を尻目に、再起は平気な顔で窓に近付き開いた。一陣の風が吹きぬける。ただ、それだけだった。再起は肩をすくめて窓を閉め、首を横に振った。
「怖がる必要はありません。誰もいませんよ」
「……でも、今のは?」
「…………さあ?」
 再起は一瞬だけ楽しそうに目を細め、それから若草遊人を促した。
「ささ、早く下りましょう。ご依頼について、もう少し詳しくお聞かせください。……まあ、もう解決したも同然ですがね」
「え、今何とおっしゃいました?」
「いえいえ。何も」
 いたずらっ子のように笑う再起を、助手は優しく見つめていた。
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