覆水盆に帰らず
覆水再起が目を覚ました時、先永美寿寿の姿は見当たらなかった。ただ助手の女性だけが、いつものように真面目に事務仕事をこなしている。再起は鼻の詰め物を取り出しゴミ箱に捨て、暗くなった窓の外を見てから感嘆の声を漏らした。
「ああ、よく寝たと思ったら、もうこんな時間だったのか。美寿寿さんはとっくに帰られてしまっただろうね」
「はい。ああそうそう、先永さんは先生に伝言を残しておいでです」
「伝言?」
「はい。『本当に悪いことをした。謝る』と」
「悪いこと?」
名探偵は首を捻る。
「美寿寿さん、何かしたんだったっけ」
その言葉に、助手の女性はくすっと笑みをこぼした。
「うん、なんだい? 何を笑ってるんだい?」
「いえ……、何でもありません」
女性はすぐに笑いを引っ込め、生真面目な表情に戻った。
「ところで先生、この依頼の件ですが、どうします?」
そう言って彼女が差し出したのは、一枚の薄いファイルだった。再起はそれを受取り、珍しく真剣な顔を作った。しかし、目の周りや口の端に出来た真っ赤な掌の跡が、その表情を間抜けなものにしている。
「そうだねえ。ちょっくら出向いて来ようかな」
「お一人では危険です。不起 様も、この事件に関わっていると聞いています」
「不起が? ふうん、それは確かに危険だ」
言って、再起は顎に手を当て、一つ肯いた。
「それじゃあ、君にもついてきてもらおうかな。今回の依頼が上手くいったら、残業手当も出せるだろう」
「残業手当は別に期待していませんよ」
「そうかい」
再起は楽しそうに笑い、事務所のドアに手を掛けた。そして、振り向かずに出て行った。助手はそれを見届けてからドアに鍵を掛け、電気を消し、窓の外を見下ろした。程なくして、再起の姿がビルから出てくる。助手は窓を開け、細い外枠に、細いハイヒールのつま先を載せた。後ろ手に勢い良く窓を閉め、そのまま彼女は四階分の高さから下へと『落ちた』。すた、という軽い音を立てて、着地する。そしてさっさと立ち上がり、再起の隣を歩き始めた。
「先生、いい加減事務所のドアに錠を取り付けてはいただけませんか? 毎回毎回内側から鍵を掛けて窓から出入りするのは、どうかと思います」
「まあ良いじゃない。今までそれで支障が出たことはないし。窓だって、さっきみたいに勢いをつけて閉めれば、内側から鍵がかかるようになってるし」
「あれはただ単に、鍵が劣化してぐらついているだけです。それに、あれを外から開けるのは大変なんですよ……」
助手はため息混じりにそう訴えるが、再起は毛ほども気にした様子なく、すたすたと歩き続けた。助手も仕方なくその後に続く。街灯の少ない、暗い夜道を、二人は並んで歩き続けている。やがて二人は、交差点で立ち止まった。光源の乏しい夜道に、赤い信号のランプだけが煌々と輝いている。
「しかし、君とこうやって並んで歩くのも、もう五年になるんだね」
再起は、信号が変わるのを待ちながら、しみじみと言った。助手はちらりと再起を見上げ、無言で肯く。信号が青に変わり、二人はまた歩き出す。
「その間に、不起も一人前に仕事をするようになり、始起兄さんは結婚した。私もこの仕事を、六年間も続けてきた……。月日の経つのは早いものだね」
「そうですね」
時刻は既に深夜と言ってもよい頃だが、空はうっすらと明るさを帯びている。どこからか、夏の声が聞こえてくる。再起は歩きながらそれに耳を傾けているようだった。
「私は、この仕事を始めてからというもの、ずっと実家には帰っていない。……理由は、君も知ってのとおりだ。こんなことではいけないってことは分かってるよ。でも、怖いんだ。あそこに帰るのは」
「…………」
助手は、何も言えない、と言うように再起を見つめた。再起は困ったように微笑んで、頭を掻く。
「父さん、怒っているだろうな。不起は相変わらずきちんと帰省しているようだし、始起兄さんは始起兄さんで、上手いこと折り合いをつけているらしいし。私だけだよ、こんな風に放蕩しているのは」
「先生は何も、遊んでいるわけではありません。ご自分の能力を最大限に活かすことの出来るご職業に就いたというだけのことです」
「まあ、そうだけどね」
言いながら、再起は足を止めた。
「……着いた」
彼らの目の前に建っているのは、大きな門だった。丁度再起の頭の高さに、『若草』と書いた表札が提げられている。
「ここが、依頼主のお宅だね」
「はい、そうです」
助手は肯き、チャイムを鳴らした。インターホン越しでの警備員との短い受け答えの後、門が重々しく開かれる。門を抜けると、そこからも小路が続いており、踏み石が間隔を開けて配置されていた。しかし、二人は踏み石を踏まず、大股で庭内を横切って行った。庭には大きな池があり、その池に枝を差しかけるようにして、今はもう葉しか残っていないが立派な、桜の木が植わっている。桜だけではない、庭全体の調和を壊さないような絶妙のバランスで、松や梅、その他の様々な草木が植えられているようだった。
「しかし、立派なお家だねえ。美寿寿さんが住んでいたお屋敷と言い、この世には結構なお金持ちがいらっしゃるものだ」
「…………」
再起は一人で感心したように喋り、助手は黙っている。再起がひとしきり月光に照らし出された庭を褒め尽くした頃、二人はようやく若草家の玄関までたどり着いた。若草邸は昔の武家屋敷を思わせるような質素な造りの日本家屋だった。ただ、その規模は並ではない。大手広告会社の総理事を務める若草家の本家らしい、立派に広い邸宅だった。
玄関前にたどり着いた二人を出迎えたのは、ビジネスライクなスーツを着用した、小柄な男だった。使用人の一人であろう。
「覆水再起殿、お待ち申し上げておりました。さあ、こちらへどうぞ」
「どうもお邪魔します」
再起が挨拶をし、二人は男に連れられて邸内へと足を踏み入れた。
「この部屋の中で、総理事がお待ちしております」
長い廊下を歩いて最終的に二人が通されたのは、洋間だった。ここまでの案内をしてくれた使用人は、静かにドアを閉めて出て行く。残された二人は、この邸宅の主と対面を果たした。
「覆水再起さん。どうも始めまして……、若草 遊人 と申します。今宵はお呼び立てしまして、申し訳ありません」
挨拶をしながら深々と頭を垂れたのは、まだ若そうな男性だった。きちんと仕立てた高級そうなスーツに身を包み、柔らかな物腰で再起に握手を求めた。再起もしっかりその手を握ってから、礼をした。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
「…………」
助手は黙って頭を下げ、再起に続いて椅子に座った。若草遊人は目鼻立ちの整った、女性的なその顔立ちを歪め、話を切り出し始めた。
「ああ、よく寝たと思ったら、もうこんな時間だったのか。美寿寿さんはとっくに帰られてしまっただろうね」
「はい。ああそうそう、先永さんは先生に伝言を残しておいでです」
「伝言?」
「はい。『本当に悪いことをした。謝る』と」
「悪いこと?」
名探偵は首を捻る。
「美寿寿さん、何かしたんだったっけ」
その言葉に、助手の女性はくすっと笑みをこぼした。
「うん、なんだい? 何を笑ってるんだい?」
「いえ……、何でもありません」
女性はすぐに笑いを引っ込め、生真面目な表情に戻った。
「ところで先生、この依頼の件ですが、どうします?」
そう言って彼女が差し出したのは、一枚の薄いファイルだった。再起はそれを受取り、珍しく真剣な顔を作った。しかし、目の周りや口の端に出来た真っ赤な掌の跡が、その表情を間抜けなものにしている。
「そうだねえ。ちょっくら出向いて来ようかな」
「お一人では危険です。
「不起が? ふうん、それは確かに危険だ」
言って、再起は顎に手を当て、一つ肯いた。
「それじゃあ、君にもついてきてもらおうかな。今回の依頼が上手くいったら、残業手当も出せるだろう」
「残業手当は別に期待していませんよ」
「そうかい」
再起は楽しそうに笑い、事務所のドアに手を掛けた。そして、振り向かずに出て行った。助手はそれを見届けてからドアに鍵を掛け、電気を消し、窓の外を見下ろした。程なくして、再起の姿がビルから出てくる。助手は窓を開け、細い外枠に、細いハイヒールのつま先を載せた。後ろ手に勢い良く窓を閉め、そのまま彼女は四階分の高さから下へと『落ちた』。すた、という軽い音を立てて、着地する。そしてさっさと立ち上がり、再起の隣を歩き始めた。
「先生、いい加減事務所のドアに錠を取り付けてはいただけませんか? 毎回毎回内側から鍵を掛けて窓から出入りするのは、どうかと思います」
「まあ良いじゃない。今までそれで支障が出たことはないし。窓だって、さっきみたいに勢いをつけて閉めれば、内側から鍵がかかるようになってるし」
「あれはただ単に、鍵が劣化してぐらついているだけです。それに、あれを外から開けるのは大変なんですよ……」
助手はため息混じりにそう訴えるが、再起は毛ほども気にした様子なく、すたすたと歩き続けた。助手も仕方なくその後に続く。街灯の少ない、暗い夜道を、二人は並んで歩き続けている。やがて二人は、交差点で立ち止まった。光源の乏しい夜道に、赤い信号のランプだけが煌々と輝いている。
「しかし、君とこうやって並んで歩くのも、もう五年になるんだね」
再起は、信号が変わるのを待ちながら、しみじみと言った。助手はちらりと再起を見上げ、無言で肯く。信号が青に変わり、二人はまた歩き出す。
「その間に、不起も一人前に仕事をするようになり、始起兄さんは結婚した。私もこの仕事を、六年間も続けてきた……。月日の経つのは早いものだね」
「そうですね」
時刻は既に深夜と言ってもよい頃だが、空はうっすらと明るさを帯びている。どこからか、夏の声が聞こえてくる。再起は歩きながらそれに耳を傾けているようだった。
「私は、この仕事を始めてからというもの、ずっと実家には帰っていない。……理由は、君も知ってのとおりだ。こんなことではいけないってことは分かってるよ。でも、怖いんだ。あそこに帰るのは」
「…………」
助手は、何も言えない、と言うように再起を見つめた。再起は困ったように微笑んで、頭を掻く。
「父さん、怒っているだろうな。不起は相変わらずきちんと帰省しているようだし、始起兄さんは始起兄さんで、上手いこと折り合いをつけているらしいし。私だけだよ、こんな風に放蕩しているのは」
「先生は何も、遊んでいるわけではありません。ご自分の能力を最大限に活かすことの出来るご職業に就いたというだけのことです」
「まあ、そうだけどね」
言いながら、再起は足を止めた。
「……着いた」
彼らの目の前に建っているのは、大きな門だった。丁度再起の頭の高さに、『若草』と書いた表札が提げられている。
「ここが、依頼主のお宅だね」
「はい、そうです」
助手は肯き、チャイムを鳴らした。インターホン越しでの警備員との短い受け答えの後、門が重々しく開かれる。門を抜けると、そこからも小路が続いており、踏み石が間隔を開けて配置されていた。しかし、二人は踏み石を踏まず、大股で庭内を横切って行った。庭には大きな池があり、その池に枝を差しかけるようにして、今はもう葉しか残っていないが立派な、桜の木が植わっている。桜だけではない、庭全体の調和を壊さないような絶妙のバランスで、松や梅、その他の様々な草木が植えられているようだった。
「しかし、立派なお家だねえ。美寿寿さんが住んでいたお屋敷と言い、この世には結構なお金持ちがいらっしゃるものだ」
「…………」
再起は一人で感心したように喋り、助手は黙っている。再起がひとしきり月光に照らし出された庭を褒め尽くした頃、二人はようやく若草家の玄関までたどり着いた。若草邸は昔の武家屋敷を思わせるような質素な造りの日本家屋だった。ただ、その規模は並ではない。大手広告会社の総理事を務める若草家の本家らしい、立派に広い邸宅だった。
玄関前にたどり着いた二人を出迎えたのは、ビジネスライクなスーツを着用した、小柄な男だった。使用人の一人であろう。
「覆水再起殿、お待ち申し上げておりました。さあ、こちらへどうぞ」
「どうもお邪魔します」
再起が挨拶をし、二人は男に連れられて邸内へと足を踏み入れた。
「この部屋の中で、総理事がお待ちしております」
長い廊下を歩いて最終的に二人が通されたのは、洋間だった。ここまでの案内をしてくれた使用人は、静かにドアを閉めて出て行く。残された二人は、この邸宅の主と対面を果たした。
「覆水再起さん。どうも始めまして……、
挨拶をしながら深々と頭を垂れたのは、まだ若そうな男性だった。きちんと仕立てた高級そうなスーツに身を包み、柔らかな物腰で再起に握手を求めた。再起もしっかりその手を握ってから、礼をした。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
「…………」
助手は黙って頭を下げ、再起に続いて椅子に座った。若草遊人は目鼻立ちの整った、女性的なその顔立ちを歪め、話を切り出し始めた。