三
「早月先生、どうなすったんです?」
「いえ、何でもないです……ちょっと疲れただけで」
香苗が首を動かすと、こき、と音が立つ。話しかけてきた教師は苦笑いをして、お疲れ様です、と頭を下げた。まだ若い、男性の教師だ。名前は何といったかな、と香苗は考える。彼は今年の四月に入ってきたばかりで、古株の多いこの職場では浮いていた。香苗もまだ若かったが、彼と比べればキャリアがある。
「ええっと、……先生はもう担任をなさってたんでしたっけ」
名前の思い出せない彼に、香苗は話を振る。振られた側は、素直に肯いて、「三組です」、と答えた。そしてそのすぐ後に、「四年の」、と付け足す。
「四年三組、ですか。どうです調子は……。新任なのにクラスを持たされるなんて、大変でしょう」
香苗は、自分の新任時代を思い出し、そう言った。確かあの頃はまだ、年配の先生方から学ぶばかりで、ちっとも生徒たちのことを考えている余裕がなかったはずだ。
しかし四年三組の担任は、にこやかに答える。
「ええ、大変ですが、でも生徒たちの笑顔を見られるのは何よりの幸せですよ」
「そう……、それならいいけど」
香苗は肯きながら、自分の席に座る。四年三組の担任は、それじゃあ俺はこれで、と立ち去ってしまった。
「四年三組――ああ、大場数彦先生ね」
手にしたプリントで確認し、香苗は少しの間目を閉じた。目蓋の裏に残った光と影が作り出す複雑な模様を吟味し、彼女は再び目を開ける。
「……金魚、か」
一人呟いて、香苗は首を鳴らした。
「香苗先生ー」
放課後、香苗の担当する一年二組の生徒たちの大半は、まだ教室に残ってなにやら騒いでいる。その中で一人だけ、車椅子の生徒が、香苗に向かって手を振った。
「どうしたの、つづら君」
香苗が傍によっていくと、津々良は机の上の画用紙を指差した。真っ白い画用紙を上から青く塗りつぶしてあり、その上には白い雲らしきものと、赤やオレンジの何かが描かれている。
――ああ、と香苗は息を呑む。また、その話なのか。
「先生、ほら僕、絵描いたんだよ」
「へえ、上手に描けたわねえ……。これは、いつもの金魚なのかな?」
「うん!」
津々良は嬉しそうに、クレヨンを手にしながら笑った。香苗も笑うが、その笑顔がひきつっていない自信はなかった。
「あ、津々良君のお母さんですか? 今晩は、津々良君のクラスの担任の早月香苗です」
香苗は、自宅に帰る前にも、再度津々良の家に電話をかけていた。職員室には、もう教頭先生と学年の主任しか残っては居ない。
「ええ、そうなんです。また、金魚が空を飛んでいる絵で――……。ええ、勿論否定なんてしていません。していませんが、でもこう何度も同じ空想ばかりしていては、……いいえ、迷惑なんてとんでもありません。私はただ、津々良君のことが心配で……」
電話越しの津々良の母の声は若々しく、また澄み切っていた。彼女は、香苗と違って津々良の空想について何の心配もしていないようだ。それが香苗にとっては信じがたく、また苦々しくもあった。
「はい、ええお願いします。いえいえ、こちらこそ。では、何度もお電話してすみませんでした、――はい。では……」
受話器を置いた香苗に、学年主任が不審そうな目を向けてくる。香苗はさっさと礼をして、職員室を後にした。
学校を出ると、五月の風が香苗の髪を撫でていく。彼女はぼんやりとしたまま、家路を歩き出した。
ああ、そういえば、こんな暖かい日のことだったっけ。
よく晴れた空を仰いで、香苗は足を止める。思い出すのはあの日のこと。目に浮かぶのは、津々良の絵。青い空をバックに、金魚と雲が戯れる。
ああ、金魚……。
香苗は再び歩き出す。自分がどうしてこんなに津々良の絵が気になるのか、ようやく分かった気がしていた。
あれは二十年ほど前、夏祭りからの帰り道だった。金魚すくいで香苗が貰った金魚の袋を持って、母親が彼女の前を歩いていた。
そうだわ、それで。それでお母さんは、私の目の前で、……居なくなってしまったんだわ。
青い空が良く見える、見晴らしの良い道路だった――。車の急ブレーキの音とともに、母親の体と金魚の入った袋は宙に放り出された。
金魚は、青い空に向かって飛んだ。ゆるく開いていた袋から、初めて世界へ飛び出した。青い空を、自分の力ではないにせよ。
金魚が、飛んだのだ。
「本当に、……金魚が空を飛ぶことって、あり得るものね」
香苗は呟いて、――力なく微笑んだ。
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