ニ
「何が、『金魚が空を飛んでいる』、だ……ばかばかしい」
大場数彦は舌打ちをし、トイレの個室からのっそりと出てきた。年齢は三十台前半、髪の毛はしっかり整えてあるのに、服装はよれたジャージに使い古されたサンダルといういでたち。彼はよろよろと手を洗い、ついでに顔も洗った。少しさっぱりした彼は、それでもなお不機嫌そうに鏡を見遣った。
「大体、どうして子供ってのは夢ばっかり見られるんだろう」
呟いてから、彼は首を振った。
そういう疑問のほうこそ、よっぽどばかばかしい気がしたのだ。夢を見るのは子供の特権だ、大人が羨ましがることではない――。
「あれ、大場先生。何一人でぶつぶつ言ってるんです」
同学年の教師が、入ってくるなりそんなことを言う。大場は途端に爽やかな(と彼自身は信じてやまない)笑顔を浮かべ、取り出したハンカチで手を拭いた。
「別に何も言ってませんよ。――聞き違いじゃありませんか」
「そうですかね」
大場は適当に切り上げて、さっさとその場を立ち去った。
『ほら先生、あそこにも――』
思い出しただけで、大場は眉をしかめる。無邪気な子供の空想に、どうして自分はああも邪険な反応を返してしまったのか。金魚が空を飛ぶ、そのくらいの空想なら自分だってしたこともあったかもしれない。なのに、どうしてあんな言葉を放ってしまったのだろう。
大場は、くたびれたスニーカーに履き替え、教師用玄関から表へ出た。もうすっかり空は赤く、夏らしい虫の声が聞こえ始めていた。彼はしばし呆然と宙に目を向けていたが、やがて風が頬を撫でていくと我に返った。そして、そそくさと足早に歩き出した。
グラウンドから聞こえてくる子供達の笑い声を聞くのでさえ、今の彼にとっては辛かった。耳を塞ぎたい気持ちを抑えながら、なるべく早く学校から遠ざかろうとする。そういう彼の耳に、どこかから飛び込んできた言葉があった。
「お父さんなんて、大嫌いだ」
生徒の誰かが、何かの話の弾みで口にしたのだろう。しかし、大場の頭の中にはその一言が反響した。もとの言葉が何だったか分からなくなるほどに、何度も何度も反響した。
『お父さんなんて、大嫌い!』
大場は一瞬身をすくませて目を大きく開いた。そして、脱兎のごとく駆け出した。
「ただいま」
力ない声とともに、彼は帰宅した。出迎えた細君は、ほっそりとした顔に憂いをたたえて、彼を出迎えた。
「おかえりなさい。……どうかしたの、元気がないみたい」
「……なんでもないさ」
持っていたバッグを彼女に預け、大場は洗面所まで歩き、手を水に浸しながら、ぼんやりと鏡を覗き込んだ。そこには、ひどく憔悴して、疲れきった男の顔があるばかりだ。そうしてから彼は、おぼつかない足取りで居間へ向かった。テーブルに向かって座っていた細君が顔を上げ、そして驚いたような顔をして大場を見た。
彼は、泣いていた。
「どうしたの、……」
立ち上がった細君に、なかばもたれかかるようにして、大場はすがりついた。
「なあ、 美理 は、俺のこと、嫌いだったのかな。俺のこと、本当に嫌いだったのかな。俺、父親としてちゃんとやれてたのかな……」
「あなた……」
細君は、窓際に置かれた少女の写真と、その手前の位牌を見つめた。少女は、こちらを向いて微笑んでいる。その手の中には、父親の似顔絵を描いたらしい画用紙が収まっている。
「美理が、金魚の絵を描いたことがあっただろ、ほら、あの空を飛んでるやつさ――。俺、あれを見てなんて言ったか覚えてるか?」
「金魚は空なんか飛ばない、って言ったんだったわね、確か」
細君は、彼をいたわるような口調で答える。大場は、身を震わせた。
「そうなんだ、そうなんだ……」
彼は、細君の肩に涙を落としながら続ける。
「お父さんなんて、大嫌いだって、そう美理は言ったんだ……」
細君は、優しく彼の背をさすった。子供でもあやすように、彼女は歌うような調子で言う。
「大丈夫よ、大丈夫。あなたは、とっても父親らしかったわよ。だから、大丈夫」
「あの時、言ってやればよかったんだ。認めてやればよかったんだ。金魚が空を飛んだって、何もおかしいことなんてないって、……言ってやればよかったんだ……」
細君は、泣きじゃくる夫を、ただ強く抱きしめた。
大場数彦は舌打ちをし、トイレの個室からのっそりと出てきた。年齢は三十台前半、髪の毛はしっかり整えてあるのに、服装はよれたジャージに使い古されたサンダルといういでたち。彼はよろよろと手を洗い、ついでに顔も洗った。少しさっぱりした彼は、それでもなお不機嫌そうに鏡を見遣った。
「大体、どうして子供ってのは夢ばっかり見られるんだろう」
呟いてから、彼は首を振った。
そういう疑問のほうこそ、よっぽどばかばかしい気がしたのだ。夢を見るのは子供の特権だ、大人が羨ましがることではない――。
「あれ、大場先生。何一人でぶつぶつ言ってるんです」
同学年の教師が、入ってくるなりそんなことを言う。大場は途端に爽やかな(と彼自身は信じてやまない)笑顔を浮かべ、取り出したハンカチで手を拭いた。
「別に何も言ってませんよ。――聞き違いじゃありませんか」
「そうですかね」
大場は適当に切り上げて、さっさとその場を立ち去った。
『ほら先生、あそこにも――』
思い出しただけで、大場は眉をしかめる。無邪気な子供の空想に、どうして自分はああも邪険な反応を返してしまったのか。金魚が空を飛ぶ、そのくらいの空想なら自分だってしたこともあったかもしれない。なのに、どうしてあんな言葉を放ってしまったのだろう。
大場は、くたびれたスニーカーに履き替え、教師用玄関から表へ出た。もうすっかり空は赤く、夏らしい虫の声が聞こえ始めていた。彼はしばし呆然と宙に目を向けていたが、やがて風が頬を撫でていくと我に返った。そして、そそくさと足早に歩き出した。
グラウンドから聞こえてくる子供達の笑い声を聞くのでさえ、今の彼にとっては辛かった。耳を塞ぎたい気持ちを抑えながら、なるべく早く学校から遠ざかろうとする。そういう彼の耳に、どこかから飛び込んできた言葉があった。
「お父さんなんて、大嫌いだ」
生徒の誰かが、何かの話の弾みで口にしたのだろう。しかし、大場の頭の中にはその一言が反響した。もとの言葉が何だったか分からなくなるほどに、何度も何度も反響した。
『お父さんなんて、大嫌い!』
大場は一瞬身をすくませて目を大きく開いた。そして、脱兎のごとく駆け出した。
「ただいま」
力ない声とともに、彼は帰宅した。出迎えた細君は、ほっそりとした顔に憂いをたたえて、彼を出迎えた。
「おかえりなさい。……どうかしたの、元気がないみたい」
「……なんでもないさ」
持っていたバッグを彼女に預け、大場は洗面所まで歩き、手を水に浸しながら、ぼんやりと鏡を覗き込んだ。そこには、ひどく憔悴して、疲れきった男の顔があるばかりだ。そうしてから彼は、おぼつかない足取りで居間へ向かった。テーブルに向かって座っていた細君が顔を上げ、そして驚いたような顔をして大場を見た。
彼は、泣いていた。
「どうしたの、……」
立ち上がった細君に、なかばもたれかかるようにして、大場はすがりついた。
「なあ、
「あなた……」
細君は、窓際に置かれた少女の写真と、その手前の位牌を見つめた。少女は、こちらを向いて微笑んでいる。その手の中には、父親の似顔絵を描いたらしい画用紙が収まっている。
「美理が、金魚の絵を描いたことがあっただろ、ほら、あの空を飛んでるやつさ――。俺、あれを見てなんて言ったか覚えてるか?」
「金魚は空なんか飛ばない、って言ったんだったわね、確か」
細君は、彼をいたわるような口調で答える。大場は、身を震わせた。
「そうなんだ、そうなんだ……」
彼は、細君の肩に涙を落としながら続ける。
「お父さんなんて、大嫌いだって、そう美理は言ったんだ……」
細君は、優しく彼の背をさすった。子供でもあやすように、彼女は歌うような調子で言う。
「大丈夫よ、大丈夫。あなたは、とっても父親らしかったわよ。だから、大丈夫」
「あの時、言ってやればよかったんだ。認めてやればよかったんだ。金魚が空を飛んだって、何もおかしいことなんてないって、……言ってやればよかったんだ……」
細君は、泣きじゃくる夫を、ただ強く抱きしめた。