一
「ほら見て、お兄ちゃん。金魚が空を飛んでいるよ」
弟の 津々良 が、麦藁帽子を押さえて、空を見上げる。
「どれどれ?」
津々良が指差した先に目をやるが、当然のことながら、そこには金魚なんて居ない。
「ねっ? 三匹、仲良さそうに、飛んでるよ」
津々良は、俺を見上げ、期待をこめた眼差しで笑う。俺も肯いて、笑いを返す。
「どうする? つづら」
『どうする』、というのは、次はどの方向へ車椅子を動かそうかという意味だ。津々良はまだ小さく、彼の乗る車椅子を上手く操作することができない。先天的な神経の病気で、津々良は生まれてから今まで、自分の足で地に立ったことがない。普段は母さんが車椅子を押しているのだが、今は俺の高校が夏休みということもあって、俺が公園の中を押しているのだ。
「じゃあ、あの金魚さんを追いかけよう!」
津々良は、子供らしい無邪気さで宙に目を向ける。
「よし来た」
俺は言って、宙ではなく、津々良の視線を追いかける。津々良の目は、彼の世界を泳ぐ金魚を捉えているのに違いないから、俺はそれに沿って、車椅子を押していく。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、何だ?」
公園の、薔薇の植え込みの角を曲がる時、津々良が不意に落ち着いた声を出した。そういう声になるときは、いつも津々良は俺に悩み事を話す。でも、子供の悩み事なんていつもそうたいしたことではないから、俺は今も気軽な気持ちで聞き返し、車椅子を止めた。津々良の正面に回って、目線を合わせるためにしゃがみこむ。
津々良は、案の定灰色の瞳を曇らせて、もじもじと麦藁帽子の淵を指でいじっていた。
「何だよつづら、兄ちゃんになんでも話してみろよ」
俺は麦藁帽子の上から津々良の頭をぽんぽんと叩く。津々良は、せみの鳴き声が一瞬鳴きやむまでの間ためらっていたが、やがて口を開いた。
「ねえ、空に金魚は飛ばない、って、本当?」
「――――」
俺は、言葉を失った。口は笑いの形で固まってしまって、次に出すべき否定の言葉を咽喉もとで止めている。
「そんなことを言ったのは、どこのどいつだよ?」
俺は、声が震えないように気をつけて、そう言った。でも、声の代わりに唇が小さく震えてしまう。津々良の世界では、金魚は空を飛ぶ。否定したことなんて、ただの一度もない。だから、津々良は津々良のままでいられるのに。津々良が夜中に食器たちのパーティーを目撃したと言った時も、時計が逆さに回るのを知っているか、と尋ねた時も、俺や母さんは、一度だってそれを笑い飛ばしたことはない。
「金魚が空を飛ばない、なんてわけ、ないじゃないか。現に、さっきだって飛んでたろ」
「うん……」
津々良は灰色の瞳を、自分の膝に向け、肩を落としている。
「さっきだって飛んでた、俺だって見た。兄ちゃんは嘘をつかないよ」
「うん……」
いつもなら、俺の保証ですぐに元気になるのに。
津々良は、まだ視線を上げない。
どうしたのだろう。
「あのね、学校で、先生が言ったの」
「何て?」
「『金魚が空を飛ぶなんて馬鹿げたことを言うな』、って」
「…………」
大場先生だ。
津々良のクラスの担任で、まだ若いのに物怖じしない、という評判の主。母さんがPTAの集まりから戻ってきた時、そう口にしていたのを覚えている。しかし、母さん本人は、どうにもがさつな人のようだった、と漏らしていた。その、大場先生が、津々良の世界に土足で踏み入ったのか。
俺は、大場先生の、まだ見ぬ姿を心の中で思い浮かべてみる。きっといかつくて、がっしりしていて、生徒のことをただのうるさいガキだとでも思っているような教師なのに違いない。
「そうか、そんなことを言ったの」
「うん」
「そんなことを言うような先生は、放っとけばいいんだ。つづらは何も馬鹿げたことなんて言ってないよ。一年生の時の、香苗先生はそんなこと言わなかっただろう」
「うん。……うん、香苗先生は、そんなこと言わなかった。僕の絵も、変だなんて言わなかった」
津々良の表情が、ようやく明るさを取り戻した。俺はほっとして、微笑んでみせる。
「そうだろ。つづらは香苗先生のこと、好きだったもんな。大場先生は、つづらのことを知ろうとしていないだけだ。だから、そんなに落ち込むなよ」
「うん」
津々良は肯いて、ようやくにっこりと笑った。
儚い、夏の間だけ咲き誇る小さな花のような、笑顔だった。
弟の
「どれどれ?」
津々良が指差した先に目をやるが、当然のことながら、そこには金魚なんて居ない。
「ねっ? 三匹、仲良さそうに、飛んでるよ」
津々良は、俺を見上げ、期待をこめた眼差しで笑う。俺も肯いて、笑いを返す。
「どうする? つづら」
『どうする』、というのは、次はどの方向へ車椅子を動かそうかという意味だ。津々良はまだ小さく、彼の乗る車椅子を上手く操作することができない。先天的な神経の病気で、津々良は生まれてから今まで、自分の足で地に立ったことがない。普段は母さんが車椅子を押しているのだが、今は俺の高校が夏休みということもあって、俺が公園の中を押しているのだ。
「じゃあ、あの金魚さんを追いかけよう!」
津々良は、子供らしい無邪気さで宙に目を向ける。
「よし来た」
俺は言って、宙ではなく、津々良の視線を追いかける。津々良の目は、彼の世界を泳ぐ金魚を捉えているのに違いないから、俺はそれに沿って、車椅子を押していく。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん、何だ?」
公園の、薔薇の植え込みの角を曲がる時、津々良が不意に落ち着いた声を出した。そういう声になるときは、いつも津々良は俺に悩み事を話す。でも、子供の悩み事なんていつもそうたいしたことではないから、俺は今も気軽な気持ちで聞き返し、車椅子を止めた。津々良の正面に回って、目線を合わせるためにしゃがみこむ。
津々良は、案の定灰色の瞳を曇らせて、もじもじと麦藁帽子の淵を指でいじっていた。
「何だよつづら、兄ちゃんになんでも話してみろよ」
俺は麦藁帽子の上から津々良の頭をぽんぽんと叩く。津々良は、せみの鳴き声が一瞬鳴きやむまでの間ためらっていたが、やがて口を開いた。
「ねえ、空に金魚は飛ばない、って、本当?」
「――――」
俺は、言葉を失った。口は笑いの形で固まってしまって、次に出すべき否定の言葉を咽喉もとで止めている。
「そんなことを言ったのは、どこのどいつだよ?」
俺は、声が震えないように気をつけて、そう言った。でも、声の代わりに唇が小さく震えてしまう。津々良の世界では、金魚は空を飛ぶ。否定したことなんて、ただの一度もない。だから、津々良は津々良のままでいられるのに。津々良が夜中に食器たちのパーティーを目撃したと言った時も、時計が逆さに回るのを知っているか、と尋ねた時も、俺や母さんは、一度だってそれを笑い飛ばしたことはない。
「金魚が空を飛ばない、なんてわけ、ないじゃないか。現に、さっきだって飛んでたろ」
「うん……」
津々良は灰色の瞳を、自分の膝に向け、肩を落としている。
「さっきだって飛んでた、俺だって見た。兄ちゃんは嘘をつかないよ」
「うん……」
いつもなら、俺の保証ですぐに元気になるのに。
津々良は、まだ視線を上げない。
どうしたのだろう。
「あのね、学校で、先生が言ったの」
「何て?」
「『金魚が空を飛ぶなんて馬鹿げたことを言うな』、って」
「…………」
大場先生だ。
津々良のクラスの担任で、まだ若いのに物怖じしない、という評判の主。母さんがPTAの集まりから戻ってきた時、そう口にしていたのを覚えている。しかし、母さん本人は、どうにもがさつな人のようだった、と漏らしていた。その、大場先生が、津々良の世界に土足で踏み入ったのか。
俺は、大場先生の、まだ見ぬ姿を心の中で思い浮かべてみる。きっといかつくて、がっしりしていて、生徒のことをただのうるさいガキだとでも思っているような教師なのに違いない。
「そうか、そんなことを言ったの」
「うん」
「そんなことを言うような先生は、放っとけばいいんだ。つづらは何も馬鹿げたことなんて言ってないよ。一年生の時の、香苗先生はそんなこと言わなかっただろう」
「うん。……うん、香苗先生は、そんなこと言わなかった。僕の絵も、変だなんて言わなかった」
津々良の表情が、ようやく明るさを取り戻した。俺はほっとして、微笑んでみせる。
「そうだろ。つづらは香苗先生のこと、好きだったもんな。大場先生は、つづらのことを知ろうとしていないだけだ。だから、そんなに落ち込むなよ」
「うん」
津々良は肯いて、ようやくにっこりと笑った。
儚い、夏の間だけ咲き誇る小さな花のような、笑顔だった。
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