彼女の母
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パンッと、軽く手を打ち合わせる音がする。立ち直った水奈子は、ニコニコと上機嫌に両手を合わせていた。その明るい仕草に、陽介の涙も自然と引っこむ。
「さぁさぁ、お話を続けましょう。瑞月ちゃんと友達になったのは文化祭がきっかけでしょうか?」
「……そうっすね。友達つっても、俺が世話になってることのが多いんすけど」
正確には違うのだが──自転車の件は瑞月に口止めされていたため──陽介は同意する。
振り返れば、瑞月から色々なものを貰っているように、陽介は思う。文化祭の、大変だけれど楽しかった思い出。八十稲羽に来てよかったという想い。学校での居場所。彼女が敷くレジャーシートの隣。
今になって、瑞月を傷つけた自身の発言への後悔がじわじわと陽介の胸をむしばむ。あんなに与えてもらっていたのに、陽介は瑞月に何かを返せているのだろうかと。
「だから、瑞月さんは俺にはもったいないくらいの、いい友達なんです」
陽介は笑う。自嘲気味の心を取り繕った、特段明るい声音で。瑞月は、いい友達だ。陽介にはもったいないくらいの。陽介が隣にいなくたって、彼女は屋上でも教室でも凛と背筋を正してあり続けるのだろう。陽介は、彼女の動じない姿勢が憧れで、羨ましかった。
「……瑞月ちゃんと、何かありましたか?」
陽介の、無理やり持ち上げた表情筋から力が抜ける。水奈子は眉尻を下げ、心配そうに陽介を見つめていた。間違いない。彼女は陽介のカラ元気に気が付いている。「どうして」と言葉を返せない陽介を安心させるように、水奈子は微笑んだ。
「花村くん。なんとなく元気がなさそうに見えたので。それに──」
水奈子は一度言葉を区切る。そうして困ったように笑って、言葉をつづけた。
「──瑞月ちゃんの様子がここ2日くらい、おかしかったから。あの子、うわの空みたいで。夕食のお吸い物に間違ってソースを入れてしまったものを飲んで真っ青になったり、リビングで本をさかさまにして読んでいたりしたんですよ」
「す、吸い物にソース……!」
想像しただけで食欲が失せそうな取り合わせだ。味の幻覚が広がりそうになって陽介は思わず、アメリカンコーヒーを仰いだ。逆さまで本を読んでいたことも含めてまさか、しっかりした瑞月が起こすミスとは思えない。
「信じられないでしょう。でも、ありえないことではないんですよ。悩んでるとき、自分に対してウワの空になっちゃうんです。瑞月ちゃんって」
水奈子は困ったように笑う。彼女の笑顔は、先ほど陽介が形作ったものと似ていた。不安や焦りを覆い隠した仮面のような笑顔だ。
「瑞月ちゃんの様子がおかしくなったのが、2日前学校から帰ってきた後だったので……今の花村くんと合わせて、もしや学校で何かあったのではないかと思いまして」
なかなかの洞察力だ。水奈子を前に、瑞月とのケンカについて隠し立てるのはもはや難しいだろう。水奈子は引き続き、陽介を心配そうに見つめている。どうやら彼女は、陽介の言葉を待っているらしい。緊張で湧き出た唾を、陽介は静かに飲み下す。
「すんません。俺、瑞月さんに失礼なことを言っちまったんです」
陽介も覚悟を決めた。優しい水奈子に、これ以上隠し立てをしているのは無理だ。何よりも、陽介自身の罪悪感が許してはくれない。
水奈子は不意を突かれた様子で口元を覆う。それでも、次の瞬間には穏やかさを取り戻し「続けて」と促した。
陽介は吐き出す。瑞月との間にあった、重要ないさかいについて。
陽介の軽率な振る舞いに、瑞月から忠告を受けたこと。瑞月は「ジュネスの息子」という立場にいる陽介を気にかけてくれていたということ。意味を取り違えた陽介は逆上し、声を荒げてしまったこと。「何でも持ってて、何も苦労しなくていい」という言葉が、瑞月を傷つけてしまったこと。その結果、瑞月に避けられるということ。陽介は謝りたいと思っていること。
告解にも似て静まった陽介の告白を、水奈子は時折、詰問する声音で問いかけた。それでも、最後まで落ち着いた様子で陽介の告白に耳を傾けていた。
「──っていうことがあって、俺はまだ瑞月さんと仲直りできてないんです。本当に、申し訳、ありません」
語り終えて、陽介は深々と頭を下げる。謝っても許されることではないとは分かっている。水奈子にとって大切な娘である瑞月を傷つけたのだから。それでも、陽介は謝らずにはいられなかった。
「────顔をあげてください。花村くん」
そう告げた水奈子の声は、厳かだった。当然だ。娘の友人を傷つけた罪を隠して、のうのうと話をしていた裏切り者にどうして優しくできるというのか。罵倒も嘲りも覚悟して、陽介は顔を上げようとする。しかし、意思に反して陽介の身体は動かない。そのとき──
「つらかったですね。瑞月ちゃんのことも、そして……越してきてからの八十稲羽での生活も」
──撫でるように優しい声が、陽介を包む。あまりにも優しい言葉が信じられなくて、陽介は自然と顔を上げる。
声に違わない優しさで、水奈子は微笑んでいた。春の木漏れ日にも似て、優しく柔らかく慈愛に溢れた微笑だ。心から相手を慮り、労わる優しさに満ちている。
「どうして──」
分かるんですか。という言葉は音にならない。水奈子が『つらかった』と共感したのは瑞月との口論だけではない。彼女は、陽介がこれまで『ジュネスの息子』というレッテルを貼られ、八十稲羽で受けてきた息が詰まるような日々にまで思いを馳せていた。
水奈子はしっかりと陽介を見つめている。瞳こそ優しいが、その優しさは根拠のない想像や薄っぺらい同情ではなかった。陽介から逸らされない柔らかな若草色は、しかし年を重ねた医者が患者を診察する覚悟と誠実さがある。
「見ているからです。毎日。花村くんと似た境遇を持つ同い年の女の子を」
誰か分かりますか? と水奈子は問う。水奈子の言葉に陽介は引っ掛かりを覚えた。
水奈子は陽介と境遇が似た子を“見ている”という。彼女の言い方は過去形ではない。“見ている”、つまり現在進行系だ。そして、水奈子が毎日接触できる、陽介と同年代の女の子など──陽介は一人しか知らない。
「そう。瑞月ちゃんですよ──あの子はね、八十稲羽 の外から来たんです」
押し黙る陽介に代わって、水奈子は答えた。湧き上がる疑問に、陽介の喉はつっかえて動かない。瑞月がこの町の外から来たとはどういうことか。どうして瑞月は陽介の立場を踏まえた忠告を発したのか。あの日の屋上で、どうして瑞月が傷ついたのか。頭の中がまとまらない。
ただ、一つ、それら陽介が抱いた疑問すべてに答える情報を、水奈子が知っているという認識だけはくっきりしていた。
「あの、瀬名は──瑞月さんは、何者なんですか?」
ようやく、陽介は問いを発した。脈絡のない、漠然とした疑問にも、水奈子は伸びた背筋で受け止める。そして、彼女は鷹揚に頷いた。
「お話しましょう。瑞月ちゃんのお友達である花村くんには、知っておいてほしいんです」
水奈子は手元にある紅茶で口を湿らせる。まるで、緊張で固まった喉をほぐすかのように。そうして、彼女は控えめに語り始めた。彼女が知る瀬名瑞月という少女について。
「さぁさぁ、お話を続けましょう。瑞月ちゃんと友達になったのは文化祭がきっかけでしょうか?」
「……そうっすね。友達つっても、俺が世話になってることのが多いんすけど」
正確には違うのだが──自転車の件は瑞月に口止めされていたため──陽介は同意する。
振り返れば、瑞月から色々なものを貰っているように、陽介は思う。文化祭の、大変だけれど楽しかった思い出。八十稲羽に来てよかったという想い。学校での居場所。彼女が敷くレジャーシートの隣。
今になって、瑞月を傷つけた自身の発言への後悔がじわじわと陽介の胸をむしばむ。あんなに与えてもらっていたのに、陽介は瑞月に何かを返せているのだろうかと。
「だから、瑞月さんは俺にはもったいないくらいの、いい友達なんです」
陽介は笑う。自嘲気味の心を取り繕った、特段明るい声音で。瑞月は、いい友達だ。陽介にはもったいないくらいの。陽介が隣にいなくたって、彼女は屋上でも教室でも凛と背筋を正してあり続けるのだろう。陽介は、彼女の動じない姿勢が憧れで、羨ましかった。
「……瑞月ちゃんと、何かありましたか?」
陽介の、無理やり持ち上げた表情筋から力が抜ける。水奈子は眉尻を下げ、心配そうに陽介を見つめていた。間違いない。彼女は陽介のカラ元気に気が付いている。「どうして」と言葉を返せない陽介を安心させるように、水奈子は微笑んだ。
「花村くん。なんとなく元気がなさそうに見えたので。それに──」
水奈子は一度言葉を区切る。そうして困ったように笑って、言葉をつづけた。
「──瑞月ちゃんの様子がここ2日くらい、おかしかったから。あの子、うわの空みたいで。夕食のお吸い物に間違ってソースを入れてしまったものを飲んで真っ青になったり、リビングで本をさかさまにして読んでいたりしたんですよ」
「す、吸い物にソース……!」
想像しただけで食欲が失せそうな取り合わせだ。味の幻覚が広がりそうになって陽介は思わず、アメリカンコーヒーを仰いだ。逆さまで本を読んでいたことも含めてまさか、しっかりした瑞月が起こすミスとは思えない。
「信じられないでしょう。でも、ありえないことではないんですよ。悩んでるとき、自分に対してウワの空になっちゃうんです。瑞月ちゃんって」
水奈子は困ったように笑う。彼女の笑顔は、先ほど陽介が形作ったものと似ていた。不安や焦りを覆い隠した仮面のような笑顔だ。
「瑞月ちゃんの様子がおかしくなったのが、2日前学校から帰ってきた後だったので……今の花村くんと合わせて、もしや学校で何かあったのではないかと思いまして」
なかなかの洞察力だ。水奈子を前に、瑞月とのケンカについて隠し立てるのはもはや難しいだろう。水奈子は引き続き、陽介を心配そうに見つめている。どうやら彼女は、陽介の言葉を待っているらしい。緊張で湧き出た唾を、陽介は静かに飲み下す。
「すんません。俺、瑞月さんに失礼なことを言っちまったんです」
陽介も覚悟を決めた。優しい水奈子に、これ以上隠し立てをしているのは無理だ。何よりも、陽介自身の罪悪感が許してはくれない。
水奈子は不意を突かれた様子で口元を覆う。それでも、次の瞬間には穏やかさを取り戻し「続けて」と促した。
陽介は吐き出す。瑞月との間にあった、重要ないさかいについて。
陽介の軽率な振る舞いに、瑞月から忠告を受けたこと。瑞月は「ジュネスの息子」という立場にいる陽介を気にかけてくれていたということ。意味を取り違えた陽介は逆上し、声を荒げてしまったこと。「何でも持ってて、何も苦労しなくていい」という言葉が、瑞月を傷つけてしまったこと。その結果、瑞月に避けられるということ。陽介は謝りたいと思っていること。
告解にも似て静まった陽介の告白を、水奈子は時折、詰問する声音で問いかけた。それでも、最後まで落ち着いた様子で陽介の告白に耳を傾けていた。
「──っていうことがあって、俺はまだ瑞月さんと仲直りできてないんです。本当に、申し訳、ありません」
語り終えて、陽介は深々と頭を下げる。謝っても許されることではないとは分かっている。水奈子にとって大切な娘である瑞月を傷つけたのだから。それでも、陽介は謝らずにはいられなかった。
「────顔をあげてください。花村くん」
そう告げた水奈子の声は、厳かだった。当然だ。娘の友人を傷つけた罪を隠して、のうのうと話をしていた裏切り者にどうして優しくできるというのか。罵倒も嘲りも覚悟して、陽介は顔を上げようとする。しかし、意思に反して陽介の身体は動かない。そのとき──
「つらかったですね。瑞月ちゃんのことも、そして……越してきてからの八十稲羽での生活も」
──撫でるように優しい声が、陽介を包む。あまりにも優しい言葉が信じられなくて、陽介は自然と顔を上げる。
声に違わない優しさで、水奈子は微笑んでいた。春の木漏れ日にも似て、優しく柔らかく慈愛に溢れた微笑だ。心から相手を慮り、労わる優しさに満ちている。
「どうして──」
分かるんですか。という言葉は音にならない。水奈子が『つらかった』と共感したのは瑞月との口論だけではない。彼女は、陽介がこれまで『ジュネスの息子』というレッテルを貼られ、八十稲羽で受けてきた息が詰まるような日々にまで思いを馳せていた。
水奈子はしっかりと陽介を見つめている。瞳こそ優しいが、その優しさは根拠のない想像や薄っぺらい同情ではなかった。陽介から逸らされない柔らかな若草色は、しかし年を重ねた医者が患者を診察する覚悟と誠実さがある。
「見ているからです。毎日。花村くんと似た境遇を持つ同い年の女の子を」
誰か分かりますか? と水奈子は問う。水奈子の言葉に陽介は引っ掛かりを覚えた。
水奈子は陽介と境遇が似た子を“見ている”という。彼女の言い方は過去形ではない。“見ている”、つまり現在進行系だ。そして、水奈子が毎日接触できる、陽介と同年代の女の子など──陽介は一人しか知らない。
「そう。瑞月ちゃんですよ──あの子はね、
押し黙る陽介に代わって、水奈子は答えた。湧き上がる疑問に、陽介の喉はつっかえて動かない。瑞月がこの町の外から来たとはどういうことか。どうして瑞月は陽介の立場を踏まえた忠告を発したのか。あの日の屋上で、どうして瑞月が傷ついたのか。頭の中がまとまらない。
ただ、一つ、それら陽介が抱いた疑問すべてに答える情報を、水奈子が知っているという認識だけはくっきりしていた。
「あの、瀬名は──瑞月さんは、何者なんですか?」
ようやく、陽介は問いを発した。脈絡のない、漠然とした疑問にも、水奈子は伸びた背筋で受け止める。そして、彼女は鷹揚に頷いた。
「お話しましょう。瑞月ちゃんのお友達である花村くんには、知っておいてほしいんです」
水奈子は手元にある紅茶で口を湿らせる。まるで、緊張で固まった喉をほぐすかのように。そうして、彼女は控えめに語り始めた。彼女が知る瀬名瑞月という少女について。