彼女の母
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11月21日 日曜日
晴れた日中。愛用のマウンテンバイクを引き、陽介は重い足取りで山道を登る。陽介は、八十稲羽を囲む丘陵の一角にいた。八十稲羽一帯が見渡せる高台のある場所である。しかし、陽介の目的は別にあり。高台とは違う場所へと通じる山道を辿っている。
林を割り開いたような、しかし小石や段差を取り除かれてよく整備されたあぜ道を抜けると、開けた空間にたどり着いた。狩り揃えられた草木に午後の日差しが降り注ぐ光景がのどかだ。その中心には、2階建てのログハウスがどっしりと構えていた。林に隠された広場にある木組みの家は、物語に登場するような、ひっそりと居心地のよい木こりの家を思わせた。
陽介は懐からショップカードを取り出し、ログハウスに通じる小道に立てかけられた木製の看板を見比べる。——『喫茶La Pause 』——陽介が持っているショップカードと同じ名前が記されていた。店舗を示す看板の下には2本の矢印がくっついており、『駐車場』という矢印に従って、陽介はマウンテンバイクを駐車する。
おそるおそる、陽介はログハウスの扉を開く。カランカランと真鍮の澄んだ音が響き渡った。店の奥から「はーい」と気のいい声とともに、ウエイターらしき女性がカウンター越しから出てきた。しゃっきりした彼女は陽介を一目見ると、心得ていたと言わんばかりに笑う。
「水奈子 さんが言ってた子ね。彼女なら、2階にいるよ」
「あ、どうも」
一番奥の席ね。と女性は玄関先にあった扉を開いた。2階に通じる階段が現れる。ウエイターの女性に促されるままに、陽介は2階に上がった。
階段を登りきると、そこはいくつかのボックス席が設えられた飲食スペースだった。各席はウッドパーテーションや造花を駆使して区切られており、席に着く人間の顔は見えない。ウエイター女性の言葉に従い、陽介は最奥の席を目指す。
間違えてはいけないと、パーテーションの隙間から座席をのぞき込む。すると、そこにはきちんと瀬名水奈子がいた。窓際に備え付けられたⅬ字ソファに腰かけ、穏やかに瞼を閉じていた。その唇は微かに弧を描いていて、話しかけても不機嫌になりはしないだろう。
(つっても、どうやって声とかかけりゃいいんだ)
友達——特に名称しがたい感情を抱いている友人の親となると、人なれしている陽介もなんと声をかけるか迷ってしまう。しかも、陽介はもう示談は済んでいるとはいえ、彼女の娘である瑞月を水濡れにした人間だ。
とりあえず陽介が足を踏み出すと、水奈子が瞼を上げた。落ち着いた若草色の双眸が、陽介を捉える。水奈子は陽介を認識すると、パッと華やかに笑った。目前のテーブルに手をついて、彼女は勢いよく立ち上がる。
「来てくれたんですね。お会いできて嬉しいです」
「ど、ども。昨日お会いした花村陽介って言います。瀬名——み、瑞月さんとは学校で仲良くさせてもらってて——」
苗字が同じ水奈子に配慮して、瑞月を下の名前で呼んだが、なんだかこそばゆくて慣れない。水奈子はニコニコと、斜め横にあるソファ席を手のひらで示した。
「はい。瑞月ちゃんと佳菜ちゃんからお話は聞いています。さあ、座って座って」
友好的な水奈子に、陽介は戸惑う。
水奈子の態度は、混じりけのない親しみで構成されていた。『ジュネスの息子』として色眼鏡で見てくる人々に慣れてしまった陽介に対して、そして何より娘である瑞月を水濡れにした陽介に対しては、水奈子の友好的な好奇心は不釣り合いに思えた。
まるで、陽介が瑞月を水濡れにしたことを知らないようにすら思える。
(そういえば……あの件は誰にも言わないでくれって瀬名、必死だったな。もしかして……言ってないのか?)
だとしたら、なぜ、瑞月は水濡れなった件を水奈子に伝えていないのだろうか。
「花村くん、こちらがメニューになります」
陽介の思考は、穏やな呼び声に遮られる。水奈子はいつの間にか手にしていたメニューを、陽介へと開いて差し出してくれた。
「今の時間はドリンクがおすすめです。小さいお菓子が、日替わりでついてくるんですよ。花村くんは何が好きですか?」
「えっと、その、実はあんまりこういう喫茶店とか行ったことなくて。……けど、コーヒーは飲めますよ」
「まぁ! それじゃあ楽しんでもらいたいですね」
水奈子が屈託なく笑った。陽介のしどろもどろな返答にも、気分を害した様子はない。
「なら、アメリカンコーヒーはどうでしょうか。このお店のブレンドはもともと香ばしい上に飲みやすいんですけど、アメリカンだとさらに飲みやすいんですよ。コーヒに慣れていない人にはおすすめです」
水奈子は学生にも優しい価格帯のドリンクメニューを勧めてくれた。わざわざメニューを指さしたうえで、各商品の特徴を示してくれる。水奈子の口調はゆったりとしていて聞き取りやすく、柔らかさを含んだ声と相まって、陽介の緊張をほぐしてくれる。
ちょうど、陽介が注文を決めたとき、しゃっきりしたウエイターがお冷とペーパータオルを持ってきた。陽介はアメリカンコーヒーを頼む。ウェイターは「少々お待ちください」と告げて、颯爽と席を去っていく。
「さて、改めて自己紹介しますね」
水奈子はふわりと笑って、陽介に身体を向ける。無表情がデフォルトな瑞月と違って、水奈子はよく笑う人らしい。
「私は瀬名水奈子 と申します。瑞月ちゃんと佳菜ちゃんの母です。急な招待に応じてくださって、花村くんには感謝しています」
「いや、そんなかしこまらなくて大丈夫ですよ。お世話になってるせ……瑞月さんのお母さんなんですから、俺に敬語なんて使わなくって」
「ああ、この喋り方は元々なので気にしなくって大丈夫です」
なんと、水奈子は敬語が通常の喋り方に含まれるらしい。男性的な口調で喋る瑞月とは正反対だ。生来のものだと明かしていた瑞月の口調が、母である水奈子を前にすると源流がどこか分からなくなる。
「それから、下の名前で結構です。『瑞月さんのお母さん』だと長いですし、苗字だと瑞月ちゃんや佳菜ちゃんと混ざってしまいますし」
「えと……じゃあ、『水奈子さん』で」
「はい。承りました」
うんうんと、水奈子は頷く。初対面の人間に名前を呼ばれても、気を悪くする様子はない。フレンドリーな人なんだなと、陽介の中で緊張が解ける。そして彼女の何気ない所作も、陽介の緊張をほぐす一因だった。穏やかだけれど、田舎の人間のような野暮ったさが感じられない滑らかさがある。
「花村くんも緊張しないで——というのは、難しいですよね。なにせ、昨日、初めて会った人間と突然お茶をする運びになったんですから。ご足労ありがとうございます」
まぁ、そうしたのは私なのですが……と水奈子は苦笑する。陽介の時間を取ってしまったことを、申し訳なく思っている様子だ。
晴れた日中。愛用のマウンテンバイクを引き、陽介は重い足取りで山道を登る。陽介は、八十稲羽を囲む丘陵の一角にいた。八十稲羽一帯が見渡せる高台のある場所である。しかし、陽介の目的は別にあり。高台とは違う場所へと通じる山道を辿っている。
林を割り開いたような、しかし小石や段差を取り除かれてよく整備されたあぜ道を抜けると、開けた空間にたどり着いた。狩り揃えられた草木に午後の日差しが降り注ぐ光景がのどかだ。その中心には、2階建てのログハウスがどっしりと構えていた。林に隠された広場にある木組みの家は、物語に登場するような、ひっそりと居心地のよい木こりの家を思わせた。
陽介は懐からショップカードを取り出し、ログハウスに通じる小道に立てかけられた木製の看板を見比べる。——『喫茶
おそるおそる、陽介はログハウスの扉を開く。カランカランと真鍮の澄んだ音が響き渡った。店の奥から「はーい」と気のいい声とともに、ウエイターらしき女性がカウンター越しから出てきた。しゃっきりした彼女は陽介を一目見ると、心得ていたと言わんばかりに笑う。
「
「あ、どうも」
一番奥の席ね。と女性は玄関先にあった扉を開いた。2階に通じる階段が現れる。ウエイターの女性に促されるままに、陽介は2階に上がった。
階段を登りきると、そこはいくつかのボックス席が設えられた飲食スペースだった。各席はウッドパーテーションや造花を駆使して区切られており、席に着く人間の顔は見えない。ウエイター女性の言葉に従い、陽介は最奥の席を目指す。
間違えてはいけないと、パーテーションの隙間から座席をのぞき込む。すると、そこにはきちんと瀬名水奈子がいた。窓際に備え付けられたⅬ字ソファに腰かけ、穏やかに瞼を閉じていた。その唇は微かに弧を描いていて、話しかけても不機嫌になりはしないだろう。
(つっても、どうやって声とかかけりゃいいんだ)
友達——特に名称しがたい感情を抱いている友人の親となると、人なれしている陽介もなんと声をかけるか迷ってしまう。しかも、陽介はもう示談は済んでいるとはいえ、彼女の娘である瑞月を水濡れにした人間だ。
とりあえず陽介が足を踏み出すと、水奈子が瞼を上げた。落ち着いた若草色の双眸が、陽介を捉える。水奈子は陽介を認識すると、パッと華やかに笑った。目前のテーブルに手をついて、彼女は勢いよく立ち上がる。
「来てくれたんですね。お会いできて嬉しいです」
「ど、ども。昨日お会いした花村陽介って言います。瀬名——み、瑞月さんとは学校で仲良くさせてもらってて——」
苗字が同じ水奈子に配慮して、瑞月を下の名前で呼んだが、なんだかこそばゆくて慣れない。水奈子はニコニコと、斜め横にあるソファ席を手のひらで示した。
「はい。瑞月ちゃんと佳菜ちゃんからお話は聞いています。さあ、座って座って」
友好的な水奈子に、陽介は戸惑う。
水奈子の態度は、混じりけのない親しみで構成されていた。『ジュネスの息子』として色眼鏡で見てくる人々に慣れてしまった陽介に対して、そして何より娘である瑞月を水濡れにした陽介に対しては、水奈子の友好的な好奇心は不釣り合いに思えた。
まるで、陽介が瑞月を水濡れにしたことを知らないようにすら思える。
(そういえば……あの件は誰にも言わないでくれって瀬名、必死だったな。もしかして……言ってないのか?)
だとしたら、なぜ、瑞月は水濡れなった件を水奈子に伝えていないのだろうか。
「花村くん、こちらがメニューになります」
陽介の思考は、穏やな呼び声に遮られる。水奈子はいつの間にか手にしていたメニューを、陽介へと開いて差し出してくれた。
「今の時間はドリンクがおすすめです。小さいお菓子が、日替わりでついてくるんですよ。花村くんは何が好きですか?」
「えっと、その、実はあんまりこういう喫茶店とか行ったことなくて。……けど、コーヒーは飲めますよ」
「まぁ! それじゃあ楽しんでもらいたいですね」
水奈子が屈託なく笑った。陽介のしどろもどろな返答にも、気分を害した様子はない。
「なら、アメリカンコーヒーはどうでしょうか。このお店のブレンドはもともと香ばしい上に飲みやすいんですけど、アメリカンだとさらに飲みやすいんですよ。コーヒに慣れていない人にはおすすめです」
水奈子は学生にも優しい価格帯のドリンクメニューを勧めてくれた。わざわざメニューを指さしたうえで、各商品の特徴を示してくれる。水奈子の口調はゆったりとしていて聞き取りやすく、柔らかさを含んだ声と相まって、陽介の緊張をほぐしてくれる。
ちょうど、陽介が注文を決めたとき、しゃっきりしたウエイターがお冷とペーパータオルを持ってきた。陽介はアメリカンコーヒーを頼む。ウェイターは「少々お待ちください」と告げて、颯爽と席を去っていく。
「さて、改めて自己紹介しますね」
水奈子はふわりと笑って、陽介に身体を向ける。無表情がデフォルトな瑞月と違って、水奈子はよく笑う人らしい。
「私は瀬名
「いや、そんなかしこまらなくて大丈夫ですよ。お世話になってるせ……瑞月さんのお母さんなんですから、俺に敬語なんて使わなくって」
「ああ、この喋り方は元々なので気にしなくって大丈夫です」
なんと、水奈子は敬語が通常の喋り方に含まれるらしい。男性的な口調で喋る瑞月とは正反対だ。生来のものだと明かしていた瑞月の口調が、母である水奈子を前にすると源流がどこか分からなくなる。
「それから、下の名前で結構です。『瑞月さんのお母さん』だと長いですし、苗字だと瑞月ちゃんや佳菜ちゃんと混ざってしまいますし」
「えと……じゃあ、『水奈子さん』で」
「はい。承りました」
うんうんと、水奈子は頷く。初対面の人間に名前を呼ばれても、気を悪くする様子はない。フレンドリーな人なんだなと、陽介の中で緊張が解ける。そして彼女の何気ない所作も、陽介の緊張をほぐす一因だった。穏やかだけれど、田舎の人間のような野暮ったさが感じられない滑らかさがある。
「花村くんも緊張しないで——というのは、難しいですよね。なにせ、昨日、初めて会った人間と突然お茶をする運びになったんですから。ご足労ありがとうございます」
まぁ、そうしたのは私なのですが……と水奈子は苦笑する。陽介の時間を取ってしまったことを、申し訳なく思っている様子だ。