1章
夢小説設定
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「ただいま~!」
帰宅の挨拶を告げながら、私は合鍵で開けた我が家へ足を踏み入れた。誰もいないため、照明がすべて落とされた室内は暗い。だが、長く住み慣れている家だ。手洗いを終えた私は暗がりの中でも迷わず、ある場所──仏間へ向かった。
埃のひとつもない、桐でできた仏壇の御前に立ってお線香に火をつける。ふわりと白檀の厳粛な匂いが漂うなか、私は座布団のうえに正座して、大切に飾られた写真に手を合わせた。
写真のなかの彼は、いつだってやさしく笑っていた。切りとった時間の中でおおらかに、小さかった私を抱えて。
「──ただいま、お父さん」
もうすっかり大きくなってしまった私はそう告げた。貴方が聞くことの叶わなかった声で。
そうして貴方から「おかえり」という返事をもらうことも、もうない。
分かっているとしても、私は「ただいま」と告げる。そうして祈るように手を合わせながら、今日あった楽しいハプニングについて心の中で喋り始めた。
「ふぅ……」
入浴を済ませて髪を乾かした後、私は台所でコップについだ炭酸水を一杯飲んだ。一日をがんばった自分へのささやかなご褒美。湯船でほてった身体を、つめたく冷やした炭酸水が染みわたっていく感覚が好きなのだ。
ゴクリと飲むと清涼感のある泡がパチパチと喉の奥で弾けて、幸福感が花開いた。やっぱりお風呂上りの炭酸水はたまらない。ちなみにお風呂の後に飲む炭酸水は、胃を刺激して血行促進するホルモンを出してくれるから、美容にもいいらしいよ?
けど、この幸せに長く浸ってはいられない。しみじみとささやかな贅沢に浸ったあと、私は気持ちを切り替える。コップを洗って、台所の電気を消して、向かうは自室。椅子に腰かけ、広々とした学習机の上に筆記用具と教材、タイマーを取り出す。今日休んだ分の宿題は明日先生にもらいにいく予定だから、今日は自分の勉強に集中。
ちなみに授業の予習はもう終わっている。
取り出したのは数学の教科書──黄色チャート。学校で取り扱ってる青チャートなら、もう完璧にこなした。その上位版である黄色チャートは、まだ一周しかしてないけど。今日進める予定だったページを開き、タイマーをセット。
「よしっ、三角関数は今日で完璧にしてやる!」
景気づけに頬をはり、私は猛然と数字と記号が山のごとく押しよせる幾何学戦線に飛び込んだ。
「ふぅ……」
時刻は10:30。計画した勉強のノルマを達成した私はベッドへと向かう。そしてベッドへと横たわり、ヘッドボードに置いておいた英単語帳をパラパラと眺め始めた。一般の学生が使うワンちゃんの絵が描いてあるヤツじゃなくて、医療系の単語が充実している単語帳。
私の志望校──薬学部は入試問題でもその手のテーマを取り扱った問題を出題するから、専門の参考書が必要だ。それだけじゃない。医療系というのは、とにかくお金がかかるのだ。
高校の学習範囲を本質まで理解する学力のほか、小論文や面接といった専門分野の対策が必要になってくる。そのための参考書を手に入れたり、専門のレクチャーを受けたりするためにはそれらの金額を賄える財力という後ろ盾が必要になってくる。
それだけじゃない。入学してからだって、目がくらむようなお金がかかる。
だけど、私の家──母子家庭の遠野家には、そんな財力はない。
(けど、だからといって……諦めることなんて、できない)
だから私は、進学のお金を工面するためにメイド喫茶でバイトしている。
私の欲しいもの──それは”薬剤師になる”という将来の夢だ。理由はごくごく単純、薬剤師は給与がいい。それにこれから、日本は高齢化によってどんどん薬を必要とする世の中になる。だから仕事にも、お金に困らなくていい。理由なんて、そんな卑近なもの。
でも貧しければ、どんどん心だって卑しいものになっていく。貧すれば鈍する、なんて昔の人はよく言ったものだ。だから、私はお金に困らなくていい仕事をしたい。
そのためだったら、私は夢のために自分の全部をかけられる。
時間も、財産も——幼い頃に夢みた、華やか青春も、何もかもを、投げうってでも。
(……でも)
単語帳を一周すると、ちょうど11時の5分前だった。私は単語帳を切り上げて、布団のなかに潜りこむ。頭をきちんと休めて、記憶を定着させるために睡眠は必要だ。だから素直にまぶたを閉じると、ある光景が脳裏をよぎった。
駅前のナンパ、へたり込んだ私に差し伸べられる手、明るみになった秘密。喫茶店で食べたイチゴパフェ。
どれもこれもが、私の望んだ、そして捨ててしまった、けれど諦めきれなかった輝かしい青春の一幕。
夢のためにすべてを捧げようと決めた味気ない私に、突然流れ星のように降ってきてくれた、楽しい時間。
『だからさ、どんな仕事でも苦しいこととか嫌だなってことがあるのは仕方ない。でも、そういうのひっくるめて『バイトが楽しい』って言える遠野さん、同じくバイトしてる俺からすりゃあ、すげぇなって思うんだ』
そしてなにより鮮明に思い浮かぶ、そんな時間を与えてくれた、一緒に過ごしてくれた、ちょっとドジだけど──とってもカッコいい、クラスメイトのこと。
お風呂に入ったのは、ずいぶんと前だ。なのに私の頬はかぁっと熱くなったまま、心臓がドキドキして、なかなか寝つけない。
「……ああもう、明日どんな顔すればいいんだろう?」
まるで灰かぶりのおとぎ話に出てくる王子様のように、あるいは『あしながおじさん』のジャービス・ペンドルトンのように、
私に手を差し伸べてくれた花村くんのことが、頭を離れてくれなくて。
でも、この胸の高鳴りも、夜闇に輝く星のようにいとおしい今日の記憶も忘れたくないから、私はもぞっとあたたかい布団の中に潜り込んだ。
「ただいま~!」
帰宅の挨拶を告げながら、私は合鍵で開けた我が家へ足を踏み入れた。誰もいないため、照明がすべて落とされた室内は暗い。だが、長く住み慣れている家だ。手洗いを終えた私は暗がりの中でも迷わず、ある場所──仏間へ向かった。
埃のひとつもない、桐でできた仏壇の御前に立ってお線香に火をつける。ふわりと白檀の厳粛な匂いが漂うなか、私は座布団のうえに正座して、大切に飾られた写真に手を合わせた。
写真のなかの彼は、いつだってやさしく笑っていた。切りとった時間の中でおおらかに、小さかった私を抱えて。
「──ただいま、お父さん」
もうすっかり大きくなってしまった私はそう告げた。貴方が聞くことの叶わなかった声で。
そうして貴方から「おかえり」という返事をもらうことも、もうない。
分かっているとしても、私は「ただいま」と告げる。そうして祈るように手を合わせながら、今日あった楽しいハプニングについて心の中で喋り始めた。
「ふぅ……」
入浴を済ませて髪を乾かした後、私は台所でコップについだ炭酸水を一杯飲んだ。一日をがんばった自分へのささやかなご褒美。湯船でほてった身体を、つめたく冷やした炭酸水が染みわたっていく感覚が好きなのだ。
ゴクリと飲むと清涼感のある泡がパチパチと喉の奥で弾けて、幸福感が花開いた。やっぱりお風呂上りの炭酸水はたまらない。ちなみにお風呂の後に飲む炭酸水は、胃を刺激して血行促進するホルモンを出してくれるから、美容にもいいらしいよ?
けど、この幸せに長く浸ってはいられない。しみじみとささやかな贅沢に浸ったあと、私は気持ちを切り替える。コップを洗って、台所の電気を消して、向かうは自室。椅子に腰かけ、広々とした学習机の上に筆記用具と教材、タイマーを取り出す。今日休んだ分の宿題は明日先生にもらいにいく予定だから、今日は自分の勉強に集中。
ちなみに授業の予習はもう終わっている。
取り出したのは数学の教科書──黄色チャート。学校で取り扱ってる青チャートなら、もう完璧にこなした。その上位版である黄色チャートは、まだ一周しかしてないけど。今日進める予定だったページを開き、タイマーをセット。
「よしっ、三角関数は今日で完璧にしてやる!」
景気づけに頬をはり、私は猛然と数字と記号が山のごとく押しよせる幾何学戦線に飛び込んだ。
「ふぅ……」
時刻は10:30。計画した勉強のノルマを達成した私はベッドへと向かう。そしてベッドへと横たわり、ヘッドボードに置いておいた英単語帳をパラパラと眺め始めた。一般の学生が使うワンちゃんの絵が描いてあるヤツじゃなくて、医療系の単語が充実している単語帳。
私の志望校──薬学部は入試問題でもその手のテーマを取り扱った問題を出題するから、専門の参考書が必要だ。それだけじゃない。医療系というのは、とにかくお金がかかるのだ。
高校の学習範囲を本質まで理解する学力のほか、小論文や面接といった専門分野の対策が必要になってくる。そのための参考書を手に入れたり、専門のレクチャーを受けたりするためにはそれらの金額を賄える財力という後ろ盾が必要になってくる。
それだけじゃない。入学してからだって、目がくらむようなお金がかかる。
だけど、私の家──母子家庭の遠野家には、そんな財力はない。
(けど、だからといって……諦めることなんて、できない)
だから私は、進学のお金を工面するためにメイド喫茶でバイトしている。
私の欲しいもの──それは”薬剤師になる”という将来の夢だ。理由はごくごく単純、薬剤師は給与がいい。それにこれから、日本は高齢化によってどんどん薬を必要とする世の中になる。だから仕事にも、お金に困らなくていい。理由なんて、そんな卑近なもの。
でも貧しければ、どんどん心だって卑しいものになっていく。貧すれば鈍する、なんて昔の人はよく言ったものだ。だから、私はお金に困らなくていい仕事をしたい。
そのためだったら、私は夢のために自分の全部をかけられる。
時間も、財産も——幼い頃に夢みた、華やか青春も、何もかもを、投げうってでも。
(……でも)
単語帳を一周すると、ちょうど11時の5分前だった。私は単語帳を切り上げて、布団のなかに潜りこむ。頭をきちんと休めて、記憶を定着させるために睡眠は必要だ。だから素直にまぶたを閉じると、ある光景が脳裏をよぎった。
駅前のナンパ、へたり込んだ私に差し伸べられる手、明るみになった秘密。喫茶店で食べたイチゴパフェ。
どれもこれもが、私の望んだ、そして捨ててしまった、けれど諦めきれなかった輝かしい青春の一幕。
夢のためにすべてを捧げようと決めた味気ない私に、突然流れ星のように降ってきてくれた、楽しい時間。
『だからさ、どんな仕事でも苦しいこととか嫌だなってことがあるのは仕方ない。でも、そういうのひっくるめて『バイトが楽しい』って言える遠野さん、同じくバイトしてる俺からすりゃあ、すげぇなって思うんだ』
そしてなにより鮮明に思い浮かぶ、そんな時間を与えてくれた、一緒に過ごしてくれた、ちょっとドジだけど──とってもカッコいい、クラスメイトのこと。
お風呂に入ったのは、ずいぶんと前だ。なのに私の頬はかぁっと熱くなったまま、心臓がドキドキして、なかなか寝つけない。
「……ああもう、明日どんな顔すればいいんだろう?」
まるで灰かぶりのおとぎ話に出てくる王子様のように、あるいは『あしながおじさん』のジャービス・ペンドルトンのように、
私に手を差し伸べてくれた花村くんのことが、頭を離れてくれなくて。
でも、この胸の高鳴りも、夜闇に輝く星のようにいとおしい今日の記憶も忘れたくないから、私はもぞっとあたたかい布団の中に潜り込んだ。
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