1章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
◇◇◇
「やった……ホントにあったよ。アースのキャミワンピ……!」
先輩が言った通りだった。私が行きつけにしている古着屋に、なんと先輩の情報通り本当に、私が好みにしているブランドのワンピースが入荷していたのだ。
しかも定価で買うよりも、ずっとお安いお値段で。普段だったら、雑誌でその可愛い姿を眺めるくらいしかご縁がないのに。お会計を後にして、戦利品が入ったエコバックを大切に胸の中へとしまい込むと幸せで胸がホクホクする。
「──お嬢さん!」
だって、こんなかわいいワンピース、私にとっての普通──今月の学校に関する経費……修学旅行の積立金や、卒業アルバムの費用、林間学校の徴収金を賄うバイトのために学校を休まなければならない──なら、とても手に入れることは叶わないから。
「あの、ちょっとそこのお嬢さん!」
だからこそ、このワンピースは一等嬉しい。だって私が夢のために諦めてしまった「オシャレを楽しみたい」という夢が叶ったんだから。野暮ったい、誰かのお古だったパーカーをご機嫌に翻しながら、私は颯爽と沖奈駅に向かっていた。
「ちょっと待ってってば。そこの可愛い子!」
「へぇ!?」
だからだろう。浮かれすぎていたから、私は声をかけられるまでその人の存在に気がつかなかった。
気がつけば、私の行く末に身体を割り込ませるようにして、男の人が立っている。びっくりして立ち止まった私は、彼の顔を見てますますびっくりしてしまう。
だって、間違えるわけがない。彼は私が知っている人だったから。それだけじゃない。そもそも彼は、一度会ったら忘れられないくらい、格好いい人だから。
明るいキャラメルブラウンの髪の毛をワックスで外はねさせた洒脱な髪型。ちゃんとした淹れ方で注がれて、澄んだ紅茶みたいな色のきれいな瞳。シャープだけど、ちゃんと男性的なたくましさを残した顔の輪郭と、私の頭なんて彼の下唇あたりまでしか届かないくらいの高身長。彼自身の明るい性格が垣間見える、ひだまりみたいに明るい笑顔。
「は──」
花村陽介くん、と口にしかけた名前を私はかろうじて飲み込んだ。
私に声をかけてきたのは、私も通っている八十神高校2ー2組所属──つまり私とはクラスメイトの関係にある花村陽介くんだった。
素敵な名前が示すとおりに明るく、にぎやかな性格の、ムードメーカとしてみんなの中心になってしまう男の子。だから、彼の周りにはいつだって人が絶えることはない。
整った容姿も相まって、学校では目立たない私とは別世界の、華やかな青春のなかで笑っている、男の子。
けれど私の目の前にいる彼は、なんだか困っているようだった。目を泳がせて、いつもは明るいはずの笑顔がどこかぎこちない。何かあったのだろうか? 頭の隅にそんな疑問が引っかかるが、それ以上に私の心を占めていたのは焦りだ。
「す、すみません。急いでいるので……」
身元はバレていないとはいえ、特に交流のないクラスメイトに突然話しかけられて、後ずさる。だってバレたら気まずいどころの話じゃない。バイト帰りでメイクもしてるし、服装だって学校の制服とは違うから、親しくない彼に気がつかれる心配はまずないけれど。それでもバイト帰りに知り合いに遭遇したという後ろめたさが、私に彼との会話を会話を拒ませる。
だからなんとか話しかけてきた花村くんを躱して、駅まで行かなければいけない。けれど、どういうわけなのか彼は必死で私を足止めしようとしてくる。
「わー、待って待って! お願い! 俺にはもう後がないの! 絶対きみと話さなきゃいけないの。だからどうか見捨てないで!」
「い、意味が分かりません!」
「ですよね! けどお願い! 人助けだと思って! 俺と、ハナシを、してくだせぇ!」
最高に情けない声とともに、花村くんはワタワタと両手を合わせた。なんだ、なんなんだ。どうしてそんなに焦っているんだ。目の前の彼からは、まるで打ち捨てられた子犬のような悲哀を感じて、うっと足を止めてしまう。これじゃあまるで、私が悪者みたいじゃないか。
「は、はぁ……。それじゃあ、ほんとうにお話を聞くだけですよ……。一体私になんのご用ですか?」
今にも泣きだしそうな彼を前に、気圧された私は問いかける、すると暗く沈んでいた花村くんの表情が、みるみるうちにパァアアッと輝く。
「さ、サンキューな! じゃあ早速、電話番号教えてくださ——」
「帰ります」
「待って! 最後まで話を聞いて!」
同情した私が愚かでした。そんな容易に教えるほど私の個人情報は安くない。喚く花村くんを置き去りに、私はズンズンと我が道を進む。だがなんという執念か。それなりに歩速が速い私にも、彼は負けじと食いついてきた。
「そのあの、えっと……今ならフレッシュな高校生とお喋りできるから…」
「すみません。そういうことなら仕事柄間にあっていますので」
「バイク! 俺、バイク持ってて。何ならきみを家まで送り届けて…」
「バイクって……あなた高校生ですよね? 高校生は2人乗り禁止の原付しか乗れないというのに、どうやって送るつもりです?」
「ツ、ツッコミの切れがすさまじー」
あまりにトンチンカンな受け答えをする彼に、返す刀で反論する。とりつく島もなく辛辣な私に対し、彼はダラダラと額から汗を流した。どうやら口説き文句に窮しているらしい。そして、駅に通じるエスカレーターまではあと少し。逃げ切れる。私は勝利を確信した。
しかし彼は驚くべき秘策を隠し持っていたのだ。飄々と突き進む私に対し、花村くんはウググ……と綺麗な形の唇を尖らせた。しかし、突然「ええい!」とアウターのポケットに手を突っ込み、彼は私の眼前にそれを突きつけたのだ。何するんですか、と抗議しようとするが……視線が彼が持っているものに釘付けになってしまう。
だって、それは行きつけのスーパーのクーポンだったから。
「じゃ、じゃあ最終兵器! 特別に『ジュネス 八十稲羽店』の肉類割引クーポンつけちゃうから! なんと精肉が水曜限定20パー引き」
「なんですって!?」
「へ……?」
にじゅ……20パーセント、ですと!? 大豆製品と卵に次いで、我が家の貴重なたんぱく源である肉類が……!? あまりの大盤振る舞いクーポンではないか! しかも今週号の『ジュネス 八十稲羽店』のチラシによると、今日は肉類のセールも開催されているというのに。貴重な食材がドドンとお得に買えてしまえる魔法のクーポンではないか!
突然態度を変えた私に花村くんが気圧されているが、関係ない! 今はそのクーポンが有用なものかを確認しなければ!
「それ、今日の割引品にも使えますか!? 具体的には『豚小間 ジャンボパック』100g 78円とか、それから、3割引きで売られているというひき肉各種にも!」
「え」
「あとあと、他のクーポンと併用可能でしょうか? 注意事項を見たいので、もしよろしければちょっとそのクーポン見せてください!」
「あ、あのさ……ちょっと待って……」
あっという間に魔法のクーポンに魅了された私は、それを持っている彼にグイグイ迫る。だが、驚いた彼は——反射的にだろう、クーポンを持っていた右手を天高くに掲げてしまった。うーん、花村くんとの身長差が恨めしい! なんとかクーポンを確認しようと顔をあげる私。すると、陽介くんは突然「え……」と呆気にとられたような声を出した。見れば、彼は私の顔をガン見している。
「どうしました? 私の顔になにかついてますでしょうか?」
「あ……えと……その……」
しどろもどろになる花村くん。もしかして、お化粧した顔を間近で見るのがあまり得意ではない方かしら。たまにいるんだよね。「若いんだからそんなケッタイなモン肌に塗りつけるんじゃない!」みたいな思考からお化粧嫌がる人。ただ私にとってお化粧は仕事におけるTPOの一種だから、その考えはどうかなー。と思うんだけど。仕事場で化粧しないのは大事な取引先との相談にすっぱだかで挑むようなものだ。
それに……私にとってお化粧は自分をかわいく見せる手段であると同時に、オフの身バレ防止のための自衛手段でもあるからやめられないんだけど。実際、お化粧してる状態だと知ってる人に遭遇したとしても私だって気がつかれないし。隣のクラスの海老原さんとかがそう。お店に来たとき接客したけど、私だって気がつかずに「……まぁ悪くないわね」って、私の接客を楽しんでくれた。
などと思索を続けていると、花村くんは意を決したみたいに唇をきゅっと結んだ。思わせぶりな反応に、ますます訳が分からなくなる。なんだろう。お化粧がそんなにもケバケバシしかっただろうか。だが、彼がゆっくりと口にした言葉は、私にとってまったく予想外のものだった。
「もしかしてきみ……遠野さん? ハチコーでクラス一緒の」
「へ……な、なんで………」
え、ウソ……。なんで私だって分かったの? 彼の指摘に、まるで頭の中が、鉄球を落とされたみたいに激しく揺さぶられる。なんで気がついたんだろう……。動揺している私を見つめる花村くんの瞳は困惑の色が深い。というか、私の顔なんで見れるの……? 帽子で隠してるはずなのに。
「──あ……!」
そのとき、はたと気がついて頭に乗っているキャスケット帽を押さえた。そうだ。彼の持ってたクーポンを確認しようと顔を上げたせいで、顔を覆い隠す役割を果たすキャスケットが機能しなかったんだ……!
でも、そうだとしても、メイクすると私の雰囲気って、かなり学校のときとは違ってくるはずだから、どうして花村くんが私に気がついたのか、ますます分からなくなる。その不可解と、隠していたかった正体を見破られたショックで気が動転して、バクバクと嫌に速くなった心臓を押さえて、ジリジリと後ずさる。
「あ、え、えと、ひとちが──ッ!?」
けれど、それがいけなかった。ショックでおぼつかなくなった足元が駅前の点字ブロックに引っかかってしまったのだ。バランスをとれなくなった私は重力にしたがって、背中側から地面へと身体を投げ打つ。
その瞬間、世界が急激にゆっくりになった。宙を舞うキャスケット、反動で投げ出されるワンピースの入ったエコバックと——ショルダーバックから飛び出したいくつかの小物。その中に運悪く紛れる私の秘密を示すカードたち。失ってはいけないと、反射的に縋るように手を伸ばすけれど、反対方向に宙を舞うそれらには全然届かない。どころか無理に手を伸ばしたから、私は受け身をとるための姿勢が全然取れてない。このままだと、無理な体勢で腰を打ちつけて痛めてしまうかもしれない。
そんなの嫌だ! 身体を壊したら、勉強だって家事だって、バイトだってできなくなる。バイトができなくなったら、私は夢からもっと遠ざかる。時間も、財産も、かつて夢見た華々しい青春も捨て去って、幼い頃からそのためだけにすべてを捧げてきたのに。
わかっているのに、体感速度と致命的なズレをきたした私の身体は、いっそ憎らしいほどに動かない。
──だれか、助けて。無常に崩れゆく身体は、もはや自分ではどうにもならなくて。そう強く願うのに、凍りついた喉はなんの悲鳴も上げられない。物理法則に捕らわれた肉体の牢獄で、目まぐるしく変動していた感情がついに絶望した。──ああ、もうどうにもならない。
そう諦めるように、目をつぶった瞬間だった。
「遠野さん!」
虚空に投げ出された腕を、大きな手に掴まれた。明らかに骨ばって男の人のものだとわかるそれは、グイッと力強く私の身体を引っ張る。──「あ!」──そのまま、私は強引に身体を引き上げられた。次の瞬間、ふわりとあたたかくて、いい匂いのするものが私の身体を包みこむ。
「────!!」
それは花村くんだった。抱きかかえてくれた彼の身体は、細身な外見に似合わずしっかりしていて、陽だまりみたいにあたたかい。柑橘系の爽やかで、でも奥に魅力的な甘さがある良い匂いが、私の強張った身体の緊張を解きほぐした。これはいったいどういう状況なのか。思考を落ち着かせるやさしい匂いと、目の前にある白シャツが、結論をはじき出して──私の頬が火がつくほど熱くなる。
花村くんが倒れそうになった私を、とっさに引き上げてくれたのだ。そうして私は、彼の胸の内側に収まっている。大事に至らなかった安堵、そしてカッコいい異性に抱き留められている羞恥に「わ……わ……」と言語中枢が異常をきたした。安堵するような彼の吐息が私の耳に吹きかかるけれど、そんなことさえ気にしていられないほど脳がバグった。なにこれ、どうなってるの、わたし、なんで、はなむらくんに、だきしめられて。
すると、私の背中に回されていた腕がビクリと飛び跳ねた。──「う、うわぁ!」──花村くんは、知らずに高価な品物に触れてしまったかのように私から両手を離し、降参の意を示すかのように両腕を掲げる。
「ご、ごめん遠野さん。とっさとはいえ、その……触っちまって」
「…………」
ズルズルズルと、私の身体からショックで力が抜けていく。それはもう立っていられないほどで、私は足首から順調に女の子座りでペタンと路上に座り込んだ。明らかに通行妨害の障害物と化した私に、花村くんは戸惑ったように目を泳がせ──それでも、すらりと手を差し出してくれる。
「遠野さん……? その、大丈夫……?」
「……う、うぅ……」
花村くんは優しい。明らかに正常ではない、面倒くさい私にも手を差し出してくれる。でも今は、彼の見ないふりしない、してくれない優しさが、私にとっては辛かった。こんな無様を晒す私にはいっそ何にも言わないで、そそくさと走り去ってくれたらいいのに。
無様なところなんて、弱いところなんて、みすぼらしいところなんて、誰にも……見られたくないのに。
受け答えできない私を前に、花村くんは眉を下げた。どうやら私が手を取りはしないと判断したのだろう。すると彼は身を翻し、私が転んだせいでバックから飛び散ったものを集めてきてくれた。その中にあったのは私名義の定期券と——私の顔写真が載った、お客様へと渡すために私の源氏名とお店の名前が記載された名刺カード。
【『メイドカフェ twin☆kle』 専属メイド 『ステラ』】
──言い逃れできないほど残酷に、隠したい私の秘密を丸々と暴く一文が載った名刺だった。
「あの……これ、遠野さんの……だよな?」
そういった花村くんの声は、困惑気味に揺れていた。私に定期券と名刺を差し出してくる戸惑いがちな苦笑を浮かべた表情から、私は彼の心の内を読み取ってしまった。
「ば、ばれちゃったぁ……」
秘密がバレた。絶対に、特に学校の人には誰であっても知られたくなかった秘密が。悔しさと恥ずかしさをこらえきれなくて力なく零れた呟きに、花村くんがぎょっと目を丸くした。
「やった……ホントにあったよ。アースのキャミワンピ……!」
先輩が言った通りだった。私が行きつけにしている古着屋に、なんと先輩の情報通り本当に、私が好みにしているブランドのワンピースが入荷していたのだ。
しかも定価で買うよりも、ずっとお安いお値段で。普段だったら、雑誌でその可愛い姿を眺めるくらいしかご縁がないのに。お会計を後にして、戦利品が入ったエコバックを大切に胸の中へとしまい込むと幸せで胸がホクホクする。
「──お嬢さん!」
だって、こんなかわいいワンピース、私にとっての普通──今月の学校に関する経費……修学旅行の積立金や、卒業アルバムの費用、林間学校の徴収金を賄うバイトのために学校を休まなければならない──なら、とても手に入れることは叶わないから。
「あの、ちょっとそこのお嬢さん!」
だからこそ、このワンピースは一等嬉しい。だって私が夢のために諦めてしまった「オシャレを楽しみたい」という夢が叶ったんだから。野暮ったい、誰かのお古だったパーカーをご機嫌に翻しながら、私は颯爽と沖奈駅に向かっていた。
「ちょっと待ってってば。そこの可愛い子!」
「へぇ!?」
だからだろう。浮かれすぎていたから、私は声をかけられるまでその人の存在に気がつかなかった。
気がつけば、私の行く末に身体を割り込ませるようにして、男の人が立っている。びっくりして立ち止まった私は、彼の顔を見てますますびっくりしてしまう。
だって、間違えるわけがない。彼は私が知っている人だったから。それだけじゃない。そもそも彼は、一度会ったら忘れられないくらい、格好いい人だから。
明るいキャラメルブラウンの髪の毛をワックスで外はねさせた洒脱な髪型。ちゃんとした淹れ方で注がれて、澄んだ紅茶みたいな色のきれいな瞳。シャープだけど、ちゃんと男性的なたくましさを残した顔の輪郭と、私の頭なんて彼の下唇あたりまでしか届かないくらいの高身長。彼自身の明るい性格が垣間見える、ひだまりみたいに明るい笑顔。
「は──」
花村陽介くん、と口にしかけた名前を私はかろうじて飲み込んだ。
私に声をかけてきたのは、私も通っている八十神高校2ー2組所属──つまり私とはクラスメイトの関係にある花村陽介くんだった。
素敵な名前が示すとおりに明るく、にぎやかな性格の、ムードメーカとしてみんなの中心になってしまう男の子。だから、彼の周りにはいつだって人が絶えることはない。
整った容姿も相まって、学校では目立たない私とは別世界の、華やかな青春のなかで笑っている、男の子。
けれど私の目の前にいる彼は、なんだか困っているようだった。目を泳がせて、いつもは明るいはずの笑顔がどこかぎこちない。何かあったのだろうか? 頭の隅にそんな疑問が引っかかるが、それ以上に私の心を占めていたのは焦りだ。
「す、すみません。急いでいるので……」
身元はバレていないとはいえ、特に交流のないクラスメイトに突然話しかけられて、後ずさる。だってバレたら気まずいどころの話じゃない。バイト帰りでメイクもしてるし、服装だって学校の制服とは違うから、親しくない彼に気がつかれる心配はまずないけれど。それでもバイト帰りに知り合いに遭遇したという後ろめたさが、私に彼との会話を会話を拒ませる。
だからなんとか話しかけてきた花村くんを躱して、駅まで行かなければいけない。けれど、どういうわけなのか彼は必死で私を足止めしようとしてくる。
「わー、待って待って! お願い! 俺にはもう後がないの! 絶対きみと話さなきゃいけないの。だからどうか見捨てないで!」
「い、意味が分かりません!」
「ですよね! けどお願い! 人助けだと思って! 俺と、ハナシを、してくだせぇ!」
最高に情けない声とともに、花村くんはワタワタと両手を合わせた。なんだ、なんなんだ。どうしてそんなに焦っているんだ。目の前の彼からは、まるで打ち捨てられた子犬のような悲哀を感じて、うっと足を止めてしまう。これじゃあまるで、私が悪者みたいじゃないか。
「は、はぁ……。それじゃあ、ほんとうにお話を聞くだけですよ……。一体私になんのご用ですか?」
今にも泣きだしそうな彼を前に、気圧された私は問いかける、すると暗く沈んでいた花村くんの表情が、みるみるうちにパァアアッと輝く。
「さ、サンキューな! じゃあ早速、電話番号教えてくださ——」
「帰ります」
「待って! 最後まで話を聞いて!」
同情した私が愚かでした。そんな容易に教えるほど私の個人情報は安くない。喚く花村くんを置き去りに、私はズンズンと我が道を進む。だがなんという執念か。それなりに歩速が速い私にも、彼は負けじと食いついてきた。
「そのあの、えっと……今ならフレッシュな高校生とお喋りできるから…」
「すみません。そういうことなら仕事柄間にあっていますので」
「バイク! 俺、バイク持ってて。何ならきみを家まで送り届けて…」
「バイクって……あなた高校生ですよね? 高校生は2人乗り禁止の原付しか乗れないというのに、どうやって送るつもりです?」
「ツ、ツッコミの切れがすさまじー」
あまりにトンチンカンな受け答えをする彼に、返す刀で反論する。とりつく島もなく辛辣な私に対し、彼はダラダラと額から汗を流した。どうやら口説き文句に窮しているらしい。そして、駅に通じるエスカレーターまではあと少し。逃げ切れる。私は勝利を確信した。
しかし彼は驚くべき秘策を隠し持っていたのだ。飄々と突き進む私に対し、花村くんはウググ……と綺麗な形の唇を尖らせた。しかし、突然「ええい!」とアウターのポケットに手を突っ込み、彼は私の眼前にそれを突きつけたのだ。何するんですか、と抗議しようとするが……視線が彼が持っているものに釘付けになってしまう。
だって、それは行きつけのスーパーのクーポンだったから。
「じゃ、じゃあ最終兵器! 特別に『ジュネス 八十稲羽店』の肉類割引クーポンつけちゃうから! なんと精肉が水曜限定20パー引き」
「なんですって!?」
「へ……?」
にじゅ……20パーセント、ですと!? 大豆製品と卵に次いで、我が家の貴重なたんぱく源である肉類が……!? あまりの大盤振る舞いクーポンではないか! しかも今週号の『ジュネス 八十稲羽店』のチラシによると、今日は肉類のセールも開催されているというのに。貴重な食材がドドンとお得に買えてしまえる魔法のクーポンではないか!
突然態度を変えた私に花村くんが気圧されているが、関係ない! 今はそのクーポンが有用なものかを確認しなければ!
「それ、今日の割引品にも使えますか!? 具体的には『豚小間 ジャンボパック』100g 78円とか、それから、3割引きで売られているというひき肉各種にも!」
「え」
「あとあと、他のクーポンと併用可能でしょうか? 注意事項を見たいので、もしよろしければちょっとそのクーポン見せてください!」
「あ、あのさ……ちょっと待って……」
あっという間に魔法のクーポンに魅了された私は、それを持っている彼にグイグイ迫る。だが、驚いた彼は——反射的にだろう、クーポンを持っていた右手を天高くに掲げてしまった。うーん、花村くんとの身長差が恨めしい! なんとかクーポンを確認しようと顔をあげる私。すると、陽介くんは突然「え……」と呆気にとられたような声を出した。見れば、彼は私の顔をガン見している。
「どうしました? 私の顔になにかついてますでしょうか?」
「あ……えと……その……」
しどろもどろになる花村くん。もしかして、お化粧した顔を間近で見るのがあまり得意ではない方かしら。たまにいるんだよね。「若いんだからそんなケッタイなモン肌に塗りつけるんじゃない!」みたいな思考からお化粧嫌がる人。ただ私にとってお化粧は仕事におけるTPOの一種だから、その考えはどうかなー。と思うんだけど。仕事場で化粧しないのは大事な取引先との相談にすっぱだかで挑むようなものだ。
それに……私にとってお化粧は自分をかわいく見せる手段であると同時に、オフの身バレ防止のための自衛手段でもあるからやめられないんだけど。実際、お化粧してる状態だと知ってる人に遭遇したとしても私だって気がつかれないし。隣のクラスの海老原さんとかがそう。お店に来たとき接客したけど、私だって気がつかずに「……まぁ悪くないわね」って、私の接客を楽しんでくれた。
などと思索を続けていると、花村くんは意を決したみたいに唇をきゅっと結んだ。思わせぶりな反応に、ますます訳が分からなくなる。なんだろう。お化粧がそんなにもケバケバシしかっただろうか。だが、彼がゆっくりと口にした言葉は、私にとってまったく予想外のものだった。
「もしかしてきみ……遠野さん? ハチコーでクラス一緒の」
「へ……な、なんで………」
え、ウソ……。なんで私だって分かったの? 彼の指摘に、まるで頭の中が、鉄球を落とされたみたいに激しく揺さぶられる。なんで気がついたんだろう……。動揺している私を見つめる花村くんの瞳は困惑の色が深い。というか、私の顔なんで見れるの……? 帽子で隠してるはずなのに。
「──あ……!」
そのとき、はたと気がついて頭に乗っているキャスケット帽を押さえた。そうだ。彼の持ってたクーポンを確認しようと顔を上げたせいで、顔を覆い隠す役割を果たすキャスケットが機能しなかったんだ……!
でも、そうだとしても、メイクすると私の雰囲気って、かなり学校のときとは違ってくるはずだから、どうして花村くんが私に気がついたのか、ますます分からなくなる。その不可解と、隠していたかった正体を見破られたショックで気が動転して、バクバクと嫌に速くなった心臓を押さえて、ジリジリと後ずさる。
「あ、え、えと、ひとちが──ッ!?」
けれど、それがいけなかった。ショックでおぼつかなくなった足元が駅前の点字ブロックに引っかかってしまったのだ。バランスをとれなくなった私は重力にしたがって、背中側から地面へと身体を投げ打つ。
その瞬間、世界が急激にゆっくりになった。宙を舞うキャスケット、反動で投げ出されるワンピースの入ったエコバックと——ショルダーバックから飛び出したいくつかの小物。その中に運悪く紛れる私の秘密を示すカードたち。失ってはいけないと、反射的に縋るように手を伸ばすけれど、反対方向に宙を舞うそれらには全然届かない。どころか無理に手を伸ばしたから、私は受け身をとるための姿勢が全然取れてない。このままだと、無理な体勢で腰を打ちつけて痛めてしまうかもしれない。
そんなの嫌だ! 身体を壊したら、勉強だって家事だって、バイトだってできなくなる。バイトができなくなったら、私は夢からもっと遠ざかる。時間も、財産も、かつて夢見た華々しい青春も捨て去って、幼い頃からそのためだけにすべてを捧げてきたのに。
わかっているのに、体感速度と致命的なズレをきたした私の身体は、いっそ憎らしいほどに動かない。
──だれか、助けて。無常に崩れゆく身体は、もはや自分ではどうにもならなくて。そう強く願うのに、凍りついた喉はなんの悲鳴も上げられない。物理法則に捕らわれた肉体の牢獄で、目まぐるしく変動していた感情がついに絶望した。──ああ、もうどうにもならない。
そう諦めるように、目をつぶった瞬間だった。
「遠野さん!」
虚空に投げ出された腕を、大きな手に掴まれた。明らかに骨ばって男の人のものだとわかるそれは、グイッと力強く私の身体を引っ張る。──「あ!」──そのまま、私は強引に身体を引き上げられた。次の瞬間、ふわりとあたたかくて、いい匂いのするものが私の身体を包みこむ。
「────!!」
それは花村くんだった。抱きかかえてくれた彼の身体は、細身な外見に似合わずしっかりしていて、陽だまりみたいにあたたかい。柑橘系の爽やかで、でも奥に魅力的な甘さがある良い匂いが、私の強張った身体の緊張を解きほぐした。これはいったいどういう状況なのか。思考を落ち着かせるやさしい匂いと、目の前にある白シャツが、結論をはじき出して──私の頬が火がつくほど熱くなる。
花村くんが倒れそうになった私を、とっさに引き上げてくれたのだ。そうして私は、彼の胸の内側に収まっている。大事に至らなかった安堵、そしてカッコいい異性に抱き留められている羞恥に「わ……わ……」と言語中枢が異常をきたした。安堵するような彼の吐息が私の耳に吹きかかるけれど、そんなことさえ気にしていられないほど脳がバグった。なにこれ、どうなってるの、わたし、なんで、はなむらくんに、だきしめられて。
すると、私の背中に回されていた腕がビクリと飛び跳ねた。──「う、うわぁ!」──花村くんは、知らずに高価な品物に触れてしまったかのように私から両手を離し、降参の意を示すかのように両腕を掲げる。
「ご、ごめん遠野さん。とっさとはいえ、その……触っちまって」
「…………」
ズルズルズルと、私の身体からショックで力が抜けていく。それはもう立っていられないほどで、私は足首から順調に女の子座りでペタンと路上に座り込んだ。明らかに通行妨害の障害物と化した私に、花村くんは戸惑ったように目を泳がせ──それでも、すらりと手を差し出してくれる。
「遠野さん……? その、大丈夫……?」
「……う、うぅ……」
花村くんは優しい。明らかに正常ではない、面倒くさい私にも手を差し出してくれる。でも今は、彼の見ないふりしない、してくれない優しさが、私にとっては辛かった。こんな無様を晒す私にはいっそ何にも言わないで、そそくさと走り去ってくれたらいいのに。
無様なところなんて、弱いところなんて、みすぼらしいところなんて、誰にも……見られたくないのに。
受け答えできない私を前に、花村くんは眉を下げた。どうやら私が手を取りはしないと判断したのだろう。すると彼は身を翻し、私が転んだせいでバックから飛び散ったものを集めてきてくれた。その中にあったのは私名義の定期券と——私の顔写真が載った、お客様へと渡すために私の源氏名とお店の名前が記載された名刺カード。
【『メイドカフェ twin☆kle』 専属メイド 『ステラ』】
──言い逃れできないほど残酷に、隠したい私の秘密を丸々と暴く一文が載った名刺だった。
「あの……これ、遠野さんの……だよな?」
そういった花村くんの声は、困惑気味に揺れていた。私に定期券と名刺を差し出してくる戸惑いがちな苦笑を浮かべた表情から、私は彼の心の内を読み取ってしまった。
「ば、ばれちゃったぁ……」
秘密がバレた。絶対に、特に学校の人には誰であっても知られたくなかった秘密が。悔しさと恥ずかしさをこらえきれなくて力なく零れた呟きに、花村くんがぎょっと目を丸くした。