客人〈マレビト〉来たりき
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
洗面所にて身支度を整えた悠は、鏡を使って身だしなみを確認する。寝癖もついていないし、顔色も及第点。人前に出るにあたって申し分のない姿である。着なれない制服が、少し大きいような気もするが。
(それにしても……)
悠は鏡の前で身体を捻ってみる。悠がこれから通う転校先──『八十神 高等学校』の制服を一瞥して、中々にオシャレだと息をついた。
ベースは黒字の学ランだが、やぼったくないのだ。白のステッチが男性的な骨格を浮き立たせ、千鳥格子が組み込まれた襟部分が古めかしさを払拭してモダンでスタイリッシュな印象を与える。率直に言って、カッコいい。悠は思いのほか、八十神高校の制服を気に入った。
身だしなみの確認を終えて洗面所を出ると、キッチンでは既に朝食の準備ができていた。ソーセージのソテーに目玉焼きが乗ったプレート、こんがりと焼き目のついたトーストはどれも湯気を立てていて、用意の手際が良かったという証だ。
「おはよ」
そして作り手の菜々子が、白く清潔な皿の上に目玉焼きを盛り付けながら、悠を出迎えてくれる。
皿が二人分の食事から察するに、家主である堂島遼太郎は依然留守にしているようだ。刑事としての仕事の過酷さを、そしてひとりぼっちで迎える朝の寂しさについて、悠は思いいたる。だから、悠はあえて彼の話題を慎んだ。
「……おはよう、菜々子ちゃんが朝ごはん作ってくれたの?」
「うん。朝はパンを焼いて……あと、メダマやき」
「ほかになにか、手伝うこととか、ある?」
「ううん、大丈夫だよ。いただきますにしよう?」
ダイニングチェアに座る彼女にならって、悠も腰かけた。2人分の朝食を付き合わせて、いただきます、と唱える。悠にとって、誰かと朝食を一緒に食べるのは久しぶりで、少し緊張した。
が、食事を口に運ぶと、それも吹き飛ぶ。目玉焼きをトーストに乗せて口に運ぶと、黄身がとろける絶妙のやき加減だ。
「……あったかくて、おいしい」
「ほんと? よかった」
素直に感想を告げると、ぎこちなかった菜々子の表情が明るいものになる。彼女は嬉しそうにコップの牛乳に口をつけた。すると、菜々子が あっと、何かを思い出したようにテーブルにむけていた顔を上げた。
「あの、おにいさん。今日から学校でしょ? 菜々子もね、今日、学校なの」
だからね、と彼女は息を吸う。テーブルの上で手をもじもじさせたのち、ぐっと握りしめる。
「とちゅうまで、おんなじ道だから……いっしょにいこ?」
一息に提案すると、菜々子は牛乳に口をつける。照れているのか、健康そうな肌がほんのりと赤く色づいた。きっと彼女も緊張していた。けれど必死に出会ったばかりの悠に話しかけてくれたのだ。ほわりと、彼女の心遣いに、悠の胸があたたかくなった。
「いいの?」
「うん。大丈夫だよ。菜々子、道知ってるから」
あんないしてあげる。と菜々子ははにかむ。彼女の純粋な善意が、悠には何だか照れくさくかった。
「じゃあ、お願い……しようかな」
「うん!」
遠慮がちな返答にも関わらず、菜々子は元気に頷いた。たっぷりとイチゴジャムを塗ったトーストを、彼女は頬張る。それ以降会話はなかったが、心地のよい雰囲気のなか、朝食は済んだ。
菜々子が用意してくれたからと、悠は食器の片付けを請け負った。その間に、菜々子に支度を促す。やるよ? と動こうとする彼女をやんわりと悠は制した。両親が不在がちの家で育ったゆえ、悠にも家事の覚えはあるのだ。
パタパタと自室に戻っていく菜々子の足音を聞くに、登校の準備をそっちのけて朝食を用意してくれたのだろう。明日は朝食の準備も一緒にしようと、悠は密かに決意した。
皿洗いを終えてちょうど、小学一年生らしいピカピカのランドセルを背負った菜々子が顔を出す。終日雨との予報だったので傘を差して、「いってきます」と2人で堂島家を後にした。
◇◇◇
「あと、この道、まっすぐだから」
案内してくれた菜々子が指差す方向には、たしかに悠と同じ制服を身につけた高校生たちが同じ方向へと向かっていた。
「私、こっち。じゃあね」
「ありがとう。気をつけてね」
そう言うと、菜々子は小さく手を振ってくれる。悠も感謝の意を込めて手を振りかえし、通学路へと足を踏み出す。
しばらく歩いていると、八十神高校の制服を纏った通行人も増えてくる。悠は彼らに流されるように歩いた。
幸いにも雨足は弱い。だからか、かすかな雨音に混じって友人同士で歩いているのであろう彼らの会話も、自然と悠の耳に届いた。新学期退屈だねー。とか、まだ休み続いて欲しかったなー。とか雨の日だからなのか、ネガティブで気が滅入る会話が多い。
したがって、悠は何も聞かないよう、徒歩に専念しようとする。そんな彼の横側を慌ただしい足音が通過した。ビニール傘に続いて、オレンジ色のショルダーバックが悠の目の前で跳ねる。
明るい髪色の男子生徒だ。ワックスで外に跳ねさせたオシャレな髪型をしている。琥珀みたいにまばゆい毛先を揺らして、彼は一目散に曇天を駆け抜ける。だがそれも長くは続かない。
「おわっ!?」
盛大に、彼の足元が滑ったのだ。
バナナトラップにかかったように、片足が背後へ跳ね上がった。勢いあまって傘も宙を舞う。彼の左手はなぜかとっさにバックを庇い、残った右手は傘と共に後ろに振りかぶってしまっている。建て直しは絶望的だ。前のめりに倒れかかった姿勢では、顔から激突するしかない。悲惨な未来を予期して悠は目をつぶる。
その瞬間、物凄い風圧が悠の隣を横切る。
ぎょっと目を開くと、白い残像を捉えた。何事かと直立する悠の耳元に、男子生徒のものと思われる悲鳴が届く。
「うわ───あっ!?」
しかし、それは驚きの結果であって、痛みを訴えるものではない。
それもそのはず。男子生徒はコケてなどいなかったのだから。前屈みで転んだというのに、いつのまにか直立不動になっていたのである。しかも、進行方向とは逆向きでだ。数秒前まで顔から地面にツッコム形で足を滑らせたにも関わらず、である。
信じられない光景に、悠は目をシパシパする。周りの人間も、一様に目をシパシパした。コケた彼自身も何が起こったのかと、端正な顔にはまった、垂れ目がちの澄んだ瞳をシパシパさせている。
唯一、白い女生徒だけが冷静だった。
いつの間にか、彼女は男子生徒の真正面にいた。曇天のなかで、アクアブルーとパールホワイトのマウンテンパーカー、濡れ羽色の髪に添えられた白蓮の髪飾りが眩しい。呆然とする男子生徒に自身の傘を握らせると、彼女はくるりと後ろを向いた。繊細な氷細工に色を注したような、研ぎ澄まされた美貌の少女だ。彼女は険しく周囲を睨みつけた。
「何を見ている」
短い警句と鋭利な視線で、彼女は周りを一蹴する。吊り上がった大きな瞳は、氷を連想させる冴え冴えとした碧 だ。野次馬はそそくさと逃げ、悠はとっさに電柱の裏に隠れる。本能的に隠れようとした結果である。さいわい、それは効を奏した。
周りが無人になったと女生徒は認識したらしい。息をついて彼女はスタスタと歩き出す。きっちりと結った黒髪が濡れるも気にせず、彼女は男子生徒が手放したビニール傘を回収した。
「大事ないか、花村 」
そうして何事もなかったかのように、コケた男子生徒──花村に傘を差し出した。悠は驚く。女生徒の声があまりにも優しかったから。先ほど野次馬を一喝したときとは全く異なる、純粋な心配がこもった問いかけ。対して、『花村』と呼ばれた男子生徒は困惑ぎみに首を傾げる。
「さ、サンキューだよな? こういうとき」
「あぁ、合っている。しかしすまんな。とっさとはいえ右腕を引っ張ってしまった。脱臼していないか?」
なんと花村の救出は力業 であった。恐らく女生徒は、崩れる花村の姿勢を右腕を引っ張り上げて無理に建て直させたのだろう。それこそ、魚を吊り上げるかのごとく。突拍子もない救出劇に、悠はぎょっとする。女子の身体能力で可能な次元ではない。
「いや、俺は大丈夫だけどさ……」
傘を交換しながら、花村は申し訳なさそうに唇を歪める。それから学ランのポケットに手を突っ込んで、吸水性の高そうなハンカチを取り出した。間をおかず、彼女の濡れた髪に当てて、女生徒の髪を乱さないようハンカチごしに優しく撫でる。
「ごめんな。濡らしちまって。後でタオル貸すから、とりあえず今はそれで間に合わせて」
「別に、花村が気に病むことではない。大して濡れてもいないし」
「いやダメだろ。ほっといたら、お前が風邪引いちまうぞ?」
かくして、男子が女子を撫でているような少女漫画的な構図が完成した。男子生徒より低い女生徒の背と、2人の近い距離が微笑ましさを倍増させて、ちょっと悠もドキドキする。
「……花村も雨で濡れただろうに」
「へーき。ヤワじゃないのがウリなんでな。助けてくれてサンキュな、瀬名」
瀬名と呼ばれた女生徒の肩が降りる。後ろ姿でも分かる、安心した様子だ。ひととおり、花村が瀬名の髪全体を撫でたあたりで「もう平気だ」と一歩退く。直後、彼女は足早で歩き出した。すると──「おいおい、置いてくなって!」──ごく自然に、花村が彼女の横に並ぶ。
「一緒に行こうぜ。こうして会うの、久しぶりだし」
「なにやら用事があって急いでいるように見えたが? 大丈夫なのか」
「いーんだ。そんな急ぐ用事でもないし。それに焦っても、いいことないってサッキ分かったからさ。それよか、なんか話そーぜ」
「……君がいいなら」
瀬名が穏やかに応じた。やった。と花村が無邪気に笑う。そうして、花村と瀬名は和やかな雰囲気で連れたって歩き出した。
「そういえば花村」
「ん、どしたよ 瀬名」
「おはよう。まだいっていなかったからな」
「……へへっ、そうだな。おはよーさん」
曇天の中、瀬名と花村は、日だまりのような笑みを交わしあう。
雨の中だというのに、2人の声は弾んで、楽しそうだ。話題もクラス替えについてだったり、春休みの出来事だったり、ポジティブな話題が多い。もしかすると恋人なのかもしれない。それぐらいに2人の態度は打ち解けたものだった。
2人が笑う。瀬名という女生徒の白い髪飾りと、花村という男子生徒の明るい髪色が曇天の下で眩しく揺れた。
「仲がいいんだな……」
悠の胸周りがほわほわする。転校ばかりで親しい友人がいなかった悠にとって、気兼ねなく話せる相手というのは、諦めたものであると同時に、憧れでもある。
目の前の2人はまさにそういう関係で、友情とは疎遠な悠にとっては目を細めたくなる光景だった。同時に、なぜかほっとした。今朝の悪夢の件もあって、ありふれた日常に飢えていたのかもしれない。
しばらく仲の良い2人を眺めていると、彼らの距離はあっという間に空いてしまった。遅刻すると慌てた悠は、一歩を踏み出す。
(それにしても……)
悠は鏡の前で身体を捻ってみる。悠がこれから通う転校先──『
ベースは黒字の学ランだが、やぼったくないのだ。白のステッチが男性的な骨格を浮き立たせ、千鳥格子が組み込まれた襟部分が古めかしさを払拭してモダンでスタイリッシュな印象を与える。率直に言って、カッコいい。悠は思いのほか、八十神高校の制服を気に入った。
身だしなみの確認を終えて洗面所を出ると、キッチンでは既に朝食の準備ができていた。ソーセージのソテーに目玉焼きが乗ったプレート、こんがりと焼き目のついたトーストはどれも湯気を立てていて、用意の手際が良かったという証だ。
「おはよ」
そして作り手の菜々子が、白く清潔な皿の上に目玉焼きを盛り付けながら、悠を出迎えてくれる。
皿が二人分の食事から察するに、家主である堂島遼太郎は依然留守にしているようだ。刑事としての仕事の過酷さを、そしてひとりぼっちで迎える朝の寂しさについて、悠は思いいたる。だから、悠はあえて彼の話題を慎んだ。
「……おはよう、菜々子ちゃんが朝ごはん作ってくれたの?」
「うん。朝はパンを焼いて……あと、メダマやき」
「ほかになにか、手伝うこととか、ある?」
「ううん、大丈夫だよ。いただきますにしよう?」
ダイニングチェアに座る彼女にならって、悠も腰かけた。2人分の朝食を付き合わせて、いただきます、と唱える。悠にとって、誰かと朝食を一緒に食べるのは久しぶりで、少し緊張した。
が、食事を口に運ぶと、それも吹き飛ぶ。目玉焼きをトーストに乗せて口に運ぶと、黄身がとろける絶妙のやき加減だ。
「……あったかくて、おいしい」
「ほんと? よかった」
素直に感想を告げると、ぎこちなかった菜々子の表情が明るいものになる。彼女は嬉しそうにコップの牛乳に口をつけた。すると、菜々子が あっと、何かを思い出したようにテーブルにむけていた顔を上げた。
「あの、おにいさん。今日から学校でしょ? 菜々子もね、今日、学校なの」
だからね、と彼女は息を吸う。テーブルの上で手をもじもじさせたのち、ぐっと握りしめる。
「とちゅうまで、おんなじ道だから……いっしょにいこ?」
一息に提案すると、菜々子は牛乳に口をつける。照れているのか、健康そうな肌がほんのりと赤く色づいた。きっと彼女も緊張していた。けれど必死に出会ったばかりの悠に話しかけてくれたのだ。ほわりと、彼女の心遣いに、悠の胸があたたかくなった。
「いいの?」
「うん。大丈夫だよ。菜々子、道知ってるから」
あんないしてあげる。と菜々子ははにかむ。彼女の純粋な善意が、悠には何だか照れくさくかった。
「じゃあ、お願い……しようかな」
「うん!」
遠慮がちな返答にも関わらず、菜々子は元気に頷いた。たっぷりとイチゴジャムを塗ったトーストを、彼女は頬張る。それ以降会話はなかったが、心地のよい雰囲気のなか、朝食は済んだ。
菜々子が用意してくれたからと、悠は食器の片付けを請け負った。その間に、菜々子に支度を促す。やるよ? と動こうとする彼女をやんわりと悠は制した。両親が不在がちの家で育ったゆえ、悠にも家事の覚えはあるのだ。
パタパタと自室に戻っていく菜々子の足音を聞くに、登校の準備をそっちのけて朝食を用意してくれたのだろう。明日は朝食の準備も一緒にしようと、悠は密かに決意した。
皿洗いを終えてちょうど、小学一年生らしいピカピカのランドセルを背負った菜々子が顔を出す。終日雨との予報だったので傘を差して、「いってきます」と2人で堂島家を後にした。
◇◇◇
「あと、この道、まっすぐだから」
案内してくれた菜々子が指差す方向には、たしかに悠と同じ制服を身につけた高校生たちが同じ方向へと向かっていた。
「私、こっち。じゃあね」
「ありがとう。気をつけてね」
そう言うと、菜々子は小さく手を振ってくれる。悠も感謝の意を込めて手を振りかえし、通学路へと足を踏み出す。
しばらく歩いていると、八十神高校の制服を纏った通行人も増えてくる。悠は彼らに流されるように歩いた。
幸いにも雨足は弱い。だからか、かすかな雨音に混じって友人同士で歩いているのであろう彼らの会話も、自然と悠の耳に届いた。新学期退屈だねー。とか、まだ休み続いて欲しかったなー。とか雨の日だからなのか、ネガティブで気が滅入る会話が多い。
したがって、悠は何も聞かないよう、徒歩に専念しようとする。そんな彼の横側を慌ただしい足音が通過した。ビニール傘に続いて、オレンジ色のショルダーバックが悠の目の前で跳ねる。
明るい髪色の男子生徒だ。ワックスで外に跳ねさせたオシャレな髪型をしている。琥珀みたいにまばゆい毛先を揺らして、彼は一目散に曇天を駆け抜ける。だがそれも長くは続かない。
「おわっ!?」
盛大に、彼の足元が滑ったのだ。
バナナトラップにかかったように、片足が背後へ跳ね上がった。勢いあまって傘も宙を舞う。彼の左手はなぜかとっさにバックを庇い、残った右手は傘と共に後ろに振りかぶってしまっている。建て直しは絶望的だ。前のめりに倒れかかった姿勢では、顔から激突するしかない。悲惨な未来を予期して悠は目をつぶる。
その瞬間、物凄い風圧が悠の隣を横切る。
ぎょっと目を開くと、白い残像を捉えた。何事かと直立する悠の耳元に、男子生徒のものと思われる悲鳴が届く。
「うわ───あっ!?」
しかし、それは驚きの結果であって、痛みを訴えるものではない。
それもそのはず。男子生徒はコケてなどいなかったのだから。前屈みで転んだというのに、いつのまにか直立不動になっていたのである。しかも、進行方向とは逆向きでだ。数秒前まで顔から地面にツッコム形で足を滑らせたにも関わらず、である。
信じられない光景に、悠は目をシパシパする。周りの人間も、一様に目をシパシパした。コケた彼自身も何が起こったのかと、端正な顔にはまった、垂れ目がちの澄んだ瞳をシパシパさせている。
唯一、白い女生徒だけが冷静だった。
いつの間にか、彼女は男子生徒の真正面にいた。曇天のなかで、アクアブルーとパールホワイトのマウンテンパーカー、濡れ羽色の髪に添えられた白蓮の髪飾りが眩しい。呆然とする男子生徒に自身の傘を握らせると、彼女はくるりと後ろを向いた。繊細な氷細工に色を注したような、研ぎ澄まされた美貌の少女だ。彼女は険しく周囲を睨みつけた。
「何を見ている」
短い警句と鋭利な視線で、彼女は周りを一蹴する。吊り上がった大きな瞳は、氷を連想させる冴え冴えとした
周りが無人になったと女生徒は認識したらしい。息をついて彼女はスタスタと歩き出す。きっちりと結った黒髪が濡れるも気にせず、彼女は男子生徒が手放したビニール傘を回収した。
「大事ないか、
そうして何事もなかったかのように、コケた男子生徒──花村に傘を差し出した。悠は驚く。女生徒の声があまりにも優しかったから。先ほど野次馬を一喝したときとは全く異なる、純粋な心配がこもった問いかけ。対して、『花村』と呼ばれた男子生徒は困惑ぎみに首を傾げる。
「さ、サンキューだよな? こういうとき」
「あぁ、合っている。しかしすまんな。とっさとはいえ右腕を引っ張ってしまった。脱臼していないか?」
なんと花村の救出は
「いや、俺は大丈夫だけどさ……」
傘を交換しながら、花村は申し訳なさそうに唇を歪める。それから学ランのポケットに手を突っ込んで、吸水性の高そうなハンカチを取り出した。間をおかず、彼女の濡れた髪に当てて、女生徒の髪を乱さないようハンカチごしに優しく撫でる。
「ごめんな。濡らしちまって。後でタオル貸すから、とりあえず今はそれで間に合わせて」
「別に、花村が気に病むことではない。大して濡れてもいないし」
「いやダメだろ。ほっといたら、お前が風邪引いちまうぞ?」
かくして、男子が女子を撫でているような少女漫画的な構図が完成した。男子生徒より低い女生徒の背と、2人の近い距離が微笑ましさを倍増させて、ちょっと悠もドキドキする。
「……花村も雨で濡れただろうに」
「へーき。ヤワじゃないのがウリなんでな。助けてくれてサンキュな、瀬名」
瀬名と呼ばれた女生徒の肩が降りる。後ろ姿でも分かる、安心した様子だ。ひととおり、花村が瀬名の髪全体を撫でたあたりで「もう平気だ」と一歩退く。直後、彼女は足早で歩き出した。すると──「おいおい、置いてくなって!」──ごく自然に、花村が彼女の横に並ぶ。
「一緒に行こうぜ。こうして会うの、久しぶりだし」
「なにやら用事があって急いでいるように見えたが? 大丈夫なのか」
「いーんだ。そんな急ぐ用事でもないし。それに焦っても、いいことないってサッキ分かったからさ。それよか、なんか話そーぜ」
「……君がいいなら」
瀬名が穏やかに応じた。やった。と花村が無邪気に笑う。そうして、花村と瀬名は和やかな雰囲気で連れたって歩き出した。
「そういえば花村」
「ん、どしたよ 瀬名」
「おはよう。まだいっていなかったからな」
「……へへっ、そうだな。おはよーさん」
曇天の中、瀬名と花村は、日だまりのような笑みを交わしあう。
雨の中だというのに、2人の声は弾んで、楽しそうだ。話題もクラス替えについてだったり、春休みの出来事だったり、ポジティブな話題が多い。もしかすると恋人なのかもしれない。それぐらいに2人の態度は打ち解けたものだった。
2人が笑う。瀬名という女生徒の白い髪飾りと、花村という男子生徒の明るい髪色が曇天の下で眩しく揺れた。
「仲がいいんだな……」
悠の胸周りがほわほわする。転校ばかりで親しい友人がいなかった悠にとって、気兼ねなく話せる相手というのは、諦めたものであると同時に、憧れでもある。
目の前の2人はまさにそういう関係で、友情とは疎遠な悠にとっては目を細めたくなる光景だった。同時に、なぜかほっとした。今朝の悪夢の件もあって、ありふれた日常に飢えていたのかもしれない。
しばらく仲の良い2人を眺めていると、彼らの距離はあっという間に空いてしまった。遅刻すると慌てた悠は、一歩を踏み出す。