抑圧した心
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弱々しい姿がウソのように、悠は体幹をしならせ、ブオンと勢いよく上体を起こす。
あまりの唐突さと風圧に陽介の涙が引っ込む。傷だらけの悠に悲しんでいたクマもキョトンと目を点にした。だが微動だにしない1人と一匹には我関せずと、唇にこびりついた血を乱暴に拭った悠は立ち上がり、物陰から飛び出ようと体勢を立て直す。
「ちょちょちょちょ、待てよ!! お前、怪我! 怪我すごいんだぞ!!」
「センセーーーー!! そのままでは確実に死んでしまうクマーーー!!」
「そのまえに倒せば問題ないだろ」
「世紀末! 思考が世紀末になってますよ!? 鳴上サンッ!」
悠の思考が完全に荒んでいた。とりあえず、傷の手当を理由に留まらせる。ざっと全身を見渡し、上腕に負った一際大きい切り傷を持っていたタオルと傷薬で処置する。応急手当とも呼べないほど不器用な施術の間も、悠は怪物の気配を気にかけていた。わずかな物音も見逃さず、ちらちらと視線を送っている。
「……なんで、そこまですんだよ」
満身創痍だというのに、悠の瞳は輝きを失ってはいなかった。圧倒的な怪物を相手に、今も立ち向かおうとしている。堰を切ったように、陽介の唇から言葉がこぼれていく。
「あれ、俺の中から生まれた怪物なんだよ。俺をここに置いていけば、鳴上とクマは逃げられるのに。なんでそうしないんだよ。なんで、こんな逃げてばっかの情けない俺を見捨てないんだよ。自分でも……嫌だって思うのに」
言いながら、情けなくて陽介は歯を食い締め、俯く。最低すぎると、心の中で自分に失望した。悠はクマと陽介を見捨てずに生き残るために戦っているというのに、陽介の言葉は悠がとった決死の行動を踏みにじるものだ。
軽蔑されるのが、怖くて、陽介は悠の顔が見られない。視界が地面を向き、自分の制服の黒が目についた。思考がだんだんと悪い方へ転がっていく、そのとき。
悠が、陽介の両肩を掴み、強引に目線を合わせた。悠のシルバーグレイの瞳には、陽介が恐れていた軽蔑といった暗い感情は見受けられない。ただ、澄んだ光を宿した瞳が陽介の瞳を捉えている。
「俺は、後悔したくない」
大きな声量ではなかった。けれども、一音一音が、陽介の脳に沁み込むように響いてくる。
「ここで花村を置いていったら、失ったら、絶対に俺は後悔する。だから、戦う。クマも陽介も俺も死なせないと、そう決めた。後悔したくないから、そう決めたんだ」
────後悔。
その言葉に陽介は愕然とした。悠の決断は無謀じみていて、そして馬鹿げてもいた。陽介を見捨てる選択肢を取れば楽だというのに、鞭で打たれるような苦痛を背負ってまで全員を守ろうとする。
だた、自分が後悔したくないという、それだけの理由で。
ふと陽介は気がついた。悠の澄んだ瞳は、瑞月とよく似ていた。色や形ではない。瞳に宿る────泥まみれの顔の中でも褪せない研ぎ澄まされた────剣のような輝きがよく似ていたのだ。自分が傷つこうとも、誰かのためなら躊躇わずに困難へと立ち向かう剣の輝き────。
「花村はいいのか?」
「え?」
「たしかに好きだったんだろう? 小西先輩のこと」
「それは…………」
悠が真っすぐな瞳で問う。よく研がれ、歪みのない刀身が鏡のように相手をくっきりと写し出すように、灰色の瞳には陽介自身が映る。その鋭い眼差しに気圧されて、陽介は本心を吐き出した。
「…………好き、だったよ」
好きだった。嘘偽りなく、陽介は小西先輩が好きだった。瑞月への執着の逃げ道にしていたとしても、恋心は決して偽物ではなかった。今もこぼれた言の葉に、胸が締めつけられるほどに。
真面目なところが好きだった。バイトで、どんなに大変で面白みのない作業でもきっちりと文句が出せないくらい仕上げてしまうところも。
明るくて面倒見のいいところが好きだった。口は悪くとも、陽介が落ち込んでいるとさりげなくフォローを入れてくれたところも。
『────親は親、君は君でしょ』
────優しいところが好きだった。八十稲羽で『ジュネスの店長の息子』という立場に苦しんでいた陽介にそう言ってくれた思い出は、今だって陽介を支えている。
「好きだったよ…………!」
だけど────もういないのだ。陽介が想いを向けた小西早紀という女性は。
胸を強く握りしめながら、喉奥から陽介は声を絞り出した。怒り、悲しみ、喪失感、無力感、突如訪れた理不尽への戸惑いが怒涛のように胸に押し寄せ、陽介を苛む。
その中で最も大きな感情は────どうして小西先輩が死ななければならなかったのかという、痛烈な疑問。
「なら、立ち止まってる場合じゃないだろ?」
穏やかに、まるで陽介が内側に抱えた感情をすべて見抜いたかのように悠が問う。
「ここで立ち止まっていたら、小西先輩に何があったのか分からないままだ。花村はそれでいいのか? 後悔しないか?」
良くない。後悔しないはずがない。陽介はまだ、小西先輩がどうして電柱に吊り下げられ、無惨に死ななければいけなかったのか。その手がかりすら掴めてはいないのだ。
このまま立ち止まるなんてできないと、歯がみする陽介に悠が続けた。
「それに……瀬名が悲しむだろう。花村がいなくなったら」
「それは」
嫌だ。
はっとして、陽介は顔を上げる。きっと瑞月は、陽介が居なくなったら悲しむのだろう。傷つく陽介を目の当たりにすれば、まるで自分が傷ついたかのように彼女は顔を歪めるから。凛ときれいなかんばせを、くしゃりとあどけない悲痛で染め上げて。
そして陽介は、そんな風に瑞月が悲しむ姿なんて見たくなかった。
「なら、帰ろう。自分を置いていけばいいなんて、そんなこと、もう二度と言うな。────あいつは絶対に、俺が仕留めるから」
悠が立ち上がる。『絶対』と強く、自分に言い聞かせて。離すまいとゴルフクラブを握りしめた両手は、心なしか震えていた。彼の砂まみれの後ろ姿に陽介は悟る。
(ああ、こいつも────)
────怖いのだ、悠も。特別な力を持っていたとしても、自身を踏み潰さんとしてくる怪物と戦わなければならないことが。当然だ。誰だって、命の危機からは逃げ出したいに決まっている。
それでも悠は覚悟を決めていた。地面を踏みしめて、刃のように輝く瞳で前を見据えて。悠は陽介へ背を向けた。そして、振り向かず宣言する。
「行ってくる」
凛と伸びた背筋とともに、悠が戦場へと飛び出した。学ランの裾が堂々とはためく。
その姿に陽介は親友の姿を幻視した。華奢で、陽介よりもずっとか細い身体で、それでも大切にする人たちを守れるようにと背筋を伸ばして、鎧のようなマウンテンパーカーを着こなす、陽介にとってかけがえのない女の子の姿を。
雷の轟音が大地を揺らす。陽介の《影》と悠が戦闘を再開したのだ。土煙の爆音のなか、ドゴォン!! と地面を刃が砕く音がした。目の前に倒れ伏していた悠は、きっともういないのだろう。2人と一匹で帰る。唯一そのためだけに、傷つく身体も厭わずに、恐れを振り切ろうとする勇気とともに戦っている。
その姿をかっこいいと、陽介は思った。まるでヒーローに子供が憧れるような素直さで。
同時にただ安全地帯で肩を落とす己の無力さに思い出す。
(前も、こんなことあったな……)
かつて陽介を謗った主婦たちから瑞月に助けてもらったことを。あのときも、陽介は何も出来なかった。主婦たちが瑞月に泥を塗ったというのにただ口を噤むばかりで、瑞月一人に立ち向かわせてしまった。
まるで、その時の繰り返しだ。悠に庇われて、自分の無力と情けなさに奥歯を噛んでいるいまの自分は。
(んなの、また繰り返してたまるか)
もう困難の前で、一人情けなく蹲っていたくない。みっともなくとも、人任せにしないで立ち向かえる自分でありたい。陽介は地についた膝に力を込める。
────きみはずっとずっと、誰かのために闘っていた。誰かのために頑張れる人は、優しい人なんだろう?
「……ああ、そうだな。そうだよな……瀬名」
いつか陽介に言ってくれた、あなたは闘えるのだと示してくれた瑞月の言葉が脳裏をよぎる。その懐かしい響きに背中を押されて陽介は立ち上がった。
パンッと、頬を両手で挟み撃つ。染みるような痛みに頭が冴えた。
進むべき道を見据えた表情で、陽介は前を向く。
あまりの唐突さと風圧に陽介の涙が引っ込む。傷だらけの悠に悲しんでいたクマもキョトンと目を点にした。だが微動だにしない1人と一匹には我関せずと、唇にこびりついた血を乱暴に拭った悠は立ち上がり、物陰から飛び出ようと体勢を立て直す。
「ちょちょちょちょ、待てよ!! お前、怪我! 怪我すごいんだぞ!!」
「センセーーーー!! そのままでは確実に死んでしまうクマーーー!!」
「そのまえに倒せば問題ないだろ」
「世紀末! 思考が世紀末になってますよ!? 鳴上サンッ!」
悠の思考が完全に荒んでいた。とりあえず、傷の手当を理由に留まらせる。ざっと全身を見渡し、上腕に負った一際大きい切り傷を持っていたタオルと傷薬で処置する。応急手当とも呼べないほど不器用な施術の間も、悠は怪物の気配を気にかけていた。わずかな物音も見逃さず、ちらちらと視線を送っている。
「……なんで、そこまですんだよ」
満身創痍だというのに、悠の瞳は輝きを失ってはいなかった。圧倒的な怪物を相手に、今も立ち向かおうとしている。堰を切ったように、陽介の唇から言葉がこぼれていく。
「あれ、俺の中から生まれた怪物なんだよ。俺をここに置いていけば、鳴上とクマは逃げられるのに。なんでそうしないんだよ。なんで、こんな逃げてばっかの情けない俺を見捨てないんだよ。自分でも……嫌だって思うのに」
言いながら、情けなくて陽介は歯を食い締め、俯く。最低すぎると、心の中で自分に失望した。悠はクマと陽介を見捨てずに生き残るために戦っているというのに、陽介の言葉は悠がとった決死の行動を踏みにじるものだ。
軽蔑されるのが、怖くて、陽介は悠の顔が見られない。視界が地面を向き、自分の制服の黒が目についた。思考がだんだんと悪い方へ転がっていく、そのとき。
悠が、陽介の両肩を掴み、強引に目線を合わせた。悠のシルバーグレイの瞳には、陽介が恐れていた軽蔑といった暗い感情は見受けられない。ただ、澄んだ光を宿した瞳が陽介の瞳を捉えている。
「俺は、後悔したくない」
大きな声量ではなかった。けれども、一音一音が、陽介の脳に沁み込むように響いてくる。
「ここで花村を置いていったら、失ったら、絶対に俺は後悔する。だから、戦う。クマも陽介も俺も死なせないと、そう決めた。後悔したくないから、そう決めたんだ」
────後悔。
その言葉に陽介は愕然とした。悠の決断は無謀じみていて、そして馬鹿げてもいた。陽介を見捨てる選択肢を取れば楽だというのに、鞭で打たれるような苦痛を背負ってまで全員を守ろうとする。
だた、自分が後悔したくないという、それだけの理由で。
ふと陽介は気がついた。悠の澄んだ瞳は、瑞月とよく似ていた。色や形ではない。瞳に宿る────泥まみれの顔の中でも褪せない研ぎ澄まされた────剣のような輝きがよく似ていたのだ。自分が傷つこうとも、誰かのためなら躊躇わずに困難へと立ち向かう剣の輝き────。
「花村はいいのか?」
「え?」
「たしかに好きだったんだろう? 小西先輩のこと」
「それは…………」
悠が真っすぐな瞳で問う。よく研がれ、歪みのない刀身が鏡のように相手をくっきりと写し出すように、灰色の瞳には陽介自身が映る。その鋭い眼差しに気圧されて、陽介は本心を吐き出した。
「…………好き、だったよ」
好きだった。嘘偽りなく、陽介は小西先輩が好きだった。瑞月への執着の逃げ道にしていたとしても、恋心は決して偽物ではなかった。今もこぼれた言の葉に、胸が締めつけられるほどに。
真面目なところが好きだった。バイトで、どんなに大変で面白みのない作業でもきっちりと文句が出せないくらい仕上げてしまうところも。
明るくて面倒見のいいところが好きだった。口は悪くとも、陽介が落ち込んでいるとさりげなくフォローを入れてくれたところも。
『────親は親、君は君でしょ』
────優しいところが好きだった。八十稲羽で『ジュネスの店長の息子』という立場に苦しんでいた陽介にそう言ってくれた思い出は、今だって陽介を支えている。
「好きだったよ…………!」
だけど────もういないのだ。陽介が想いを向けた小西早紀という女性は。
胸を強く握りしめながら、喉奥から陽介は声を絞り出した。怒り、悲しみ、喪失感、無力感、突如訪れた理不尽への戸惑いが怒涛のように胸に押し寄せ、陽介を苛む。
その中で最も大きな感情は────どうして小西先輩が死ななければならなかったのかという、痛烈な疑問。
「なら、立ち止まってる場合じゃないだろ?」
穏やかに、まるで陽介が内側に抱えた感情をすべて見抜いたかのように悠が問う。
「ここで立ち止まっていたら、小西先輩に何があったのか分からないままだ。花村はそれでいいのか? 後悔しないか?」
良くない。後悔しないはずがない。陽介はまだ、小西先輩がどうして電柱に吊り下げられ、無惨に死ななければいけなかったのか。その手がかりすら掴めてはいないのだ。
このまま立ち止まるなんてできないと、歯がみする陽介に悠が続けた。
「それに……瀬名が悲しむだろう。花村がいなくなったら」
「それは」
嫌だ。
はっとして、陽介は顔を上げる。きっと瑞月は、陽介が居なくなったら悲しむのだろう。傷つく陽介を目の当たりにすれば、まるで自分が傷ついたかのように彼女は顔を歪めるから。凛ときれいなかんばせを、くしゃりとあどけない悲痛で染め上げて。
そして陽介は、そんな風に瑞月が悲しむ姿なんて見たくなかった。
「なら、帰ろう。自分を置いていけばいいなんて、そんなこと、もう二度と言うな。────あいつは絶対に、俺が仕留めるから」
悠が立ち上がる。『絶対』と強く、自分に言い聞かせて。離すまいとゴルフクラブを握りしめた両手は、心なしか震えていた。彼の砂まみれの後ろ姿に陽介は悟る。
(ああ、こいつも────)
────怖いのだ、悠も。特別な力を持っていたとしても、自身を踏み潰さんとしてくる怪物と戦わなければならないことが。当然だ。誰だって、命の危機からは逃げ出したいに決まっている。
それでも悠は覚悟を決めていた。地面を踏みしめて、刃のように輝く瞳で前を見据えて。悠は陽介へ背を向けた。そして、振り向かず宣言する。
「行ってくる」
凛と伸びた背筋とともに、悠が戦場へと飛び出した。学ランの裾が堂々とはためく。
その姿に陽介は親友の姿を幻視した。華奢で、陽介よりもずっとか細い身体で、それでも大切にする人たちを守れるようにと背筋を伸ばして、鎧のようなマウンテンパーカーを着こなす、陽介にとってかけがえのない女の子の姿を。
雷の轟音が大地を揺らす。陽介の《影》と悠が戦闘を再開したのだ。土煙の爆音のなか、ドゴォン!! と地面を刃が砕く音がした。目の前に倒れ伏していた悠は、きっともういないのだろう。2人と一匹で帰る。唯一そのためだけに、傷つく身体も厭わずに、恐れを振り切ろうとする勇気とともに戦っている。
その姿をかっこいいと、陽介は思った。まるでヒーローに子供が憧れるような素直さで。
同時にただ安全地帯で肩を落とす己の無力さに思い出す。
(前も、こんなことあったな……)
かつて陽介を謗った主婦たちから瑞月に助けてもらったことを。あのときも、陽介は何も出来なかった。主婦たちが瑞月に泥を塗ったというのにただ口を噤むばかりで、瑞月一人に立ち向かわせてしまった。
まるで、その時の繰り返しだ。悠に庇われて、自分の無力と情けなさに奥歯を噛んでいるいまの自分は。
(んなの、また繰り返してたまるか)
もう困難の前で、一人情けなく蹲っていたくない。みっともなくとも、人任せにしないで立ち向かえる自分でありたい。陽介は地についた膝に力を込める。
────きみはずっとずっと、誰かのために闘っていた。誰かのために頑張れる人は、優しい人なんだろう?
「……ああ、そうだな。そうだよな……瀬名」
いつか陽介に言ってくれた、あなたは闘えるのだと示してくれた瑞月の言葉が脳裏をよぎる。その懐かしい響きに背中を押されて陽介は立ち上がった。
パンッと、頬を両手で挟み撃つ。染みるような痛みに頭が冴えた。
進むべき道を見据えた表情で、陽介は前を向く。