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秋空に、白雲が立つ。
水筒から注いだ紅茶は、淹れたての温度を保っていた。カップに注げば、湯気がやわらかく渦を巻く。
11月の空は、屋上から見ても高く、青い。かぎりなく広い天井を、生まれたばかりの湯気がたなびくようにして昇っていく。
その様子をのんびりと眺めながら、レジャーシートに座す少女──瀬名瑞月は紅茶を口に含んだ。栗の風味を加えたという、甘く気品のある香りが鼻先を漂う。
昼休みの屋上は、いつものようにのどかだった。同級生たちでざわめく教室は遠く、瑞月にとってお気に入りの場所である。ただ、最近は静かなだけの場所ではなくなった。
そろそろだな、と腕時計を確認すれば、ガチャッと遠くでドアが開く気配がした。トットット──スニーカーの軽やかな音が近づいて、塔屋から細身の身体が躍り出る。襟足の長いキャラメルブラウンの髪が青空になびいた。琥珀色の瞳で瑞月を写したとたん、嬉しそうに顔を輝かせた彼──花村陽介は一目散に走り出した。
「瀬名!」
「こんにちは、花村。今日も元気そうで何よりだ」
ちょい、と胸元あたりまで手を掲げて瑞月は歓迎の意を示す。彼から学習した仕草に、瑞月の手前で止まった彼も「おーよ」と気安く手を振り返した。律儀な人だ、なんて瑞月の感想はいざ知らず、人懐こい笑みを浮かべて陽介は問いかけた。
「なんか甘い匂いするけど、もしかしてまだ『もぐもぐタイム』中だった?」
「もぐ……? モグラの縄張り争いを表現しているのか?」
「いやちげーよ!? 『お食事中』ってことであって、モグラは関係ねーからな!? つか、あんまり見ない光景だよな!? モグラの大乱闘って!」
「…………そうか?」
口元に指を添え、瑞月は記憶を探った。実際に、近所の林で取っ組み合うモグラを見かけたことがある。きっと、縄張り意識の強さによるテリトリーの争奪戦だったのだろう。土かきの発達した前足でベシベシと互いを叩き合う姿はなかなか壮絶だった。
二匹とも勇敢だったな、どう説明しようか。と思考を巡らせていると、ふいに「ふはっ」と吹き出す声に引き戻された。
「どうした?」
「いや、瀬名ってやっぱおもしろいヤツだよなぁって」
肩を震わせ、屈託なく笑う陽介を瑞月はじっと眺めていた。面白い人というのなら、花村だって大概そうだ。こんなに表情が豊かで、楽しそうに笑う人を、瑞月は他に知らなかった。
手元の紅茶を一口だけ口に含む。時間を置いたせいだろうか。栗の甘い匂いを含んだそれは、まろやかな口当たりをしていた。
◇◇◇
「隣、座るな」
屋上を訪れる習慣ができても、陽介がその言葉を忘れたことはなかった。必ず一声かけて、瑞月が用意したレジャーシートの空席にすとんと座る。そうして、いつものように他愛もない雑談を瑞月に持ちかけるのだ。
しかし、今日は違った。陽介がすんと鼻を鳴らす。
「やっぱ、甘い匂いするな。なんか……モンブランみたいな?」
興味の滲む問いかけに、「ああ」と瑞月は手元に視線を落とす。赤みがかった水面を揺らせば、たしかにモンブランのような香りがふわりと舞った。
「お茶の香りだな」
「お茶? さっきからちょいちょい飲んでるヤツ?」
「ああ、フレーバーティーだ。紅茶に匂いをつけたもので、これは栗だな」
「へー、面白れーの。でも、ここじゃ珍しくねぇか? 紅茶専門店とか、沖奈に行かないとなさそうだし」
「母が貰ってきたんだ。『たくさんもらったから、食後にどうぞ』って、水筒に」
「ふーん。お母さん、優しいんじゃん」
するりと自然な相槌に、胸の奥が揺れる。何気なく告げた陽介は、やわらかな眼差しで紅茶を見つめていた。陽介は本当に思ったことを言っただけだ。
「……ああ」
だからこそ、瑞月はうまく応えられなかった。まっすぐな琥珀の視線がくすぐったくて、お茶を濁すようにカップを揺らす。気の利いた返しが思いつかない。
それを陽介は咎めなかった。「にしても」と、浮き立った様子で空を仰ぐ。
「ここでお茶飲みたくなるのも分かるわー。今日なんて、特に天気いいもんな」
俺もこっちで弁当食えばよかった。と彼は背筋をぐんと伸ばす。まるで昼特有の気だるさをリセットする仕草に、はたと瑞月は気がついた。
「そういえば、君。お昼ごはんはいつもどうしているんだ?」
「あ、なにー? もしかして、俺の美肌の秘訣が気になったりー?」
「いや。興味はあるが、今聞きたいのはそっちではない」
「ワ、ワァ……バッサリ斬られた」
率直な話題転換に、陽介がしょんぼりと肩を落とす。心なしか、長い襟足が怒られた犬のようにペタンとして憐れを誘う。しかし、慰めてもますます落ち込むだけだと知っている。一息おいて、瑞月は本題に入った。
「ふと気になってな。いつもこうして屋上に来ているが、食事には十分な時間を取れているのか?」
陽介は、瑞月が昼食を食べ終わる時間を見越して屋上にやってきてくれる。気の回る彼らしいともいえるが、瑞月には少々無視できない問題だった。
陽介は男の子だ。しかも育ちざかりともなれば、瑞月より食べる量は多いだろう。そうなると食事に時間もかかるわけで。もし無理に昼食を詰め込んできているのなら、瑞月は友人として忍びない。
唐突な問いかけに、しぱしぱと陽介が瞬きする。言葉が足りなかったかな。と、じわりと不安を抱える瑞月に向かって、彼はピースを披露した。
「そこはダイジョーブ! 俺、いつもパンだから」
「…………パン?」
背筋が固まるほどの衝撃だった。藪をつついたら蛇に当たった気分である。言葉に詰まる瑞月の心中を察したのか、陽介は得意げに胸を張った。
「おう、すぐ食えるから便利なんだよ。それに、持ってくるのも楽だし」
「利便性……?」
「そそ、弁当と違ってかさばんないから持ってくるハードル低いしな。季節によって新商品が出るから飽きないのもいい! あと売り場の回転率高いから値引き品多くて安く手に入るし…………」
そこから先、瑞月の記憶はない。
◇◇◇
気がつけば、キッチンに立っていた。
清潔に保たれた、広めのL字型キッチンだ。新しく設えたと言われても違和感がない場所だが、よくよく見れば年季の入った調理道具たち──油の馴染んだ鉄のフライパンに、飴色につやめく木べら、ボタンの文字が擦れた、大型のフードプロセッサー──── が出番を待ちわびるかのごとく、整然と並んでいる。
瑞月にとっては馴染みの深い、瀬名家のキッチンだった。
瑞月はパチパチと瞬きをした。ワープでもしたか? しかし、身につけたオリーブ色のエプロンが、それを否定した。自発的に、瑞月が袖を通さなければこうはならない。
では、何のためにキッチンに立ったのか? 答えは目の前に存在していた。
ボリューミなキャロットケーキが、ドドンと鎮座している。
しかも3本。
? と、瑞月は香ばしく焼けたケーキに手をかざす。粗熱はすでにとれていた。ならば味見である。
『作った料理は必ず味見をするように』
料理研究家である義母から言いつかったその厳命を、瑞月は一度だって欠かしたことがない。
端の部分をさっくりと切り分け、キャロットケーキの欠片を口に入れる。舌の上でケーキがほろりと崩れたとたん、にんじんと三温糖の素朴な甘みが広がった。バターと米油を独自の配合でブレンドしたからか、バターの豊かな香りはそのままに、生地は軽やかだ。アクセントに入れたくるみの食感も楽しくて、飽きがこない。
うむうむ。と瑞月は誇らしげに頷いた。我ながら、会心の出来だ。甘く香ばしいケーキなので、野菜を食べ慣れない人にも食べやすい。クルミやにんじんのおかげで食物繊維はたっぷり摂れるし、バターや米油を使っているから腹持ちもいい。パンばかり食べているという彼も、きっと食べて————そこまで考えて瑞月は額を抑えた。
「何をしているんだ、私は……!」
酔いから醒めたように、瑞月はすべてを思い出した。あの屋上でのやりとりの後、瑞月はキャロットケーキ作りにひた走った。授業が終わったらジュネスで材料を買い揃え、夜の自習を早めに済ませて料理に取り掛かったのだ。
カチカチと時を刻む壁時計は、もう夜遅くを示している。とりあえず、目の前のよく分からない執念の産物をどうにかしないと、そう悩める頭に──「あら、いい匂い」──よく親しんだ声が響いた。
「────お義母 さん」
義母の水奈子 である。意表を突かれた瑞月の呼びかけに、彼女はニッコリと微笑んだ。後ろ手にまとめた栗色の髪がやわらかく揺れる。事務仕事でもしていたのだろうか、オフホワイトのカーディガンに、ジーンズとラフな姿でスタスタと進む。瑞月のそばに自然に並ぶと、興味深そうに手元のケーキを覗きこんだ。新緑の瞳がきらりと輝く。
「まぁ、とってもいい焼き色。キャロットケーキ?」
真ん中も綺麗に割れてますね。と、両手を打ち合わせてふわりと微笑む。思わぬ義母の誉め言葉に、ほっと瑞月の緊張が解けた。料理を生業とする彼女からの太鼓判は心強い。
「はい、ちょっと甘いものが作りたいな。と思いまして」
「瑞月ちゃん、甘いもの好きですもんね」
なんとか用意した動機は、我ながら子供じみたものだった。だが、呆れることも邪険に扱うこともなく、水奈子はころころと笑っている。楽しそうに目を細める姿に、ほわりと瑞月の胸があたたかくなった。瑞月を見守ってくれる母の笑顔は、いつだって眩しい。
「でも、珍しいわ」
「え?」
「明日、学校でしょう? そういう日は、お菓子あんまり作らないから」
「……あ」
不意に投げられた質問を、瑞月は上手く受け止められなかった。普段と違うのは、瑞月自身も自覚している。義母から見ても、瑞月の突飛な行動は気になるだろう。
しかし、その理由を瑞月は形にできない。「えと……」と形にならない声が漏れ出て、やっと出た言葉が2人の間にぽつりと落ちた。
「……どうしてでしょうね」
◇◇◇
「結局持ってきてしまった……」
澄み渡った空気の中に、行き場のない呟きがはかなく溶けた。
相変わらず、秋の空は高い。清澄な青空と燃えるような紅葉を一望できる屋上は、瑞月以外には誰もいない。定位置に敷いたレジャーシートの上で、八十稲羽の秋景色を眺める。しかし、瑞月の心は休まらなかった。
そんな彼女の膝上には、クラフト紙の紙袋が置かれている。
持ち手の部分に紺のリボンが結ばれた、可愛らしい紙袋だ。その中には、切り分けられたキャロットケーキが飾り箱に入れられて、お行儀よく並んでいる。ひとつひとつ透明なビニールにくるまれ、クリーム色の飾り紐まで掛けられた包装は、どう見ても玄人による犯行である。
────あのあと、なぜか瞳を輝かせた水奈子がラッピング用の素材を用意してくれたのだ。
『こんなにきれいに焼けてるんだもの! ちゃんとラッピングしたら、もっと素敵になりますよ!』
『最近、お天気いいですから! お外で景色を楽しみながら食べたら、きっととっても美味しいですよ!』
その勢いに乗せられ、今にいたる。止めるという選択肢はなかった。というより、できなかった。だってもう、すごくワクワクした様子で颯爽とエプロンを身につけてきたのだ。あのキラキラと輝きに満ちた目に水を差すことは、さしもの瑞月でも躊躇われた。
(……しかし、こんなに凝っていていいのだろうか。ただ渡すだけなのに)
膝の上に乗った紙袋を、改めて眺める。一声かけて渡す。その先を想像してみるけれど、うまくいかない。
瑞月よりも大きい、働きものの両手が紙袋の底を包むように支える。学ランに包まれた長い腕が、キャロットケーキを引き寄せる。でも、その先──キャロットケーキを受け取った後の彼の表情が、どうしたって想像できない。
「…………」
ひゅるりと冷たい風に、瑞月の胸がさざ波立つ。膝上の紙袋に結ばれた、紺のリボンが所在投げに揺れた。
「……ちょっと、元気がほしいな」
ひとり呟くと、瑞月は脇に控えていたランチバックからあるものを取り出した。ビニールに包まれた──自分用なので簡易に包装した──ひとかけらのキャロットケーキだ。ビニールから取り出し、俯きがちにもそもそと口に運ぶ。にんじんとバターの素朴な風味が、なんだか懐かしかった。
「あ、いいなー」
瀬名さんが美味そうなもん食ってる。 耳朶を打つ、よく通る声。馴染みのあるそれが、瑞月にとっては予想外だった。ハッとして顔を上げれば、屋上に続く塔屋のそばに学ラン姿の男の子が立っている。親しげに笑う彼の肩で、オレンジ色のヘッドフォンがまぶしく光った。
「花村」
膝上にあった紙袋を引き寄せて、瑞月は応えた。陽介はというと、手を振りながらゆっくりと歩いてくる。その様子におや? と彼を注視した。いつもの笑顔に、どこか元気がない気がする。
「んじゃ、隣お邪魔しまーす」
「ああ、どうぞ」
決まり文句にも、そわっと心が落ち着かない。レジャーシートに身を置いた彼は腕を組んでいて、その心の内は知れない。歯がゆさを抱えていると、陽介がまっすぐにこちらを見た。
「瀬名、どした?」
「え?」
「え? って……さっきからずっと俺のこと見てんぞ。ウブな俺には~、ちょっと刺激が強いかなぁ~」
「……すまない、では両手で隠そう」
「いや、やり方極端じゃね?」
ぽすっと、両目を掌で覆えば目の前が真っ暗になった。違う違うそうじゃない、ちょっとからかっただけだからマジで刺激が強いわけじゃないから目を見て話そう、な? と困惑されたので、瑞月は素直に両手を取り外した。
「え……マジで俺の顔になんかついてる? ノートがプリントされてたり、付箋が髪にひっついてたりする?」
「なんだその妙ちきりんな様相は……って、そうではなくて」
相対した彼の、琥珀の瞳が不安そうに揺れている。陽介を不安にさせるのは、瑞月の望みではない。ゆえに、正直に瑞月は告げた。
「その……元気がなさそうに見えたんだ」
「へ? 元気って、俺の?」
「ああ。ここに来るときは、いつも手を振ってくれるだろう? それが今回は控えめだった」
「!」
「それに、今日は走らないで来たから。………だから、元気がないのかなって」
ただ、それは瑞月の主観に過ぎない。見当違いだったかな、と彼の表情を仰ぎ見て──目が丸くなる。陽介が、耳まで真っ赤になっていたからだ。「えっ、あっ」とどもったかと思えば、バッと後方に背を逸らした。
「おれそんなに態度に出てた!? はっず!」
「そこまで恥ずかしがることなのか」
「いや恥ずいだろ! 『今は元気ないです』とか態度に出てたとか完全に”かまってちゃん”みたいじゃんか!」
「いや、体調が悪ければ無理もないだろう」
瑞月のフォローがイマイチだったのか、あああーと陽介は頭を抱えてうずくまってしまった。折り畳み椅子みたいにぺちゃんこである。さすがにこれは看過できないと、紙袋を静かに脇に置く。いまだ俯く陽介に、瑞月はそっと顔を寄せた。
「まさか、本当に体調が悪いのではないだろうな?」
「は? いや、安心して。それは違くて」
「……私では話にくいことなのか。なら、無理には聞かない。ただ、必要であれば、保健室に同行を──」
「わーっ、そこまでしなくていい! 話す、話すから!」
そいやっと、陽介が上体を跳ね起こした余波で、瑞月は彼から離れた。どうやら話してくれるようだと、居住まいを正した瑞月は彼の隣に座り直す。対する陽介は、深い呼吸を数回重ねた。しかし、笑顔のぎこちなさは取れない。
「……えと、笑わないでくれよ」
「分かった。もし笑ったら、私は表情筋をつねる」
「いや、そこまでせんでいいって」
腹を決めたのか、彼は膝上の拳を固める。瑞月もまた、唇を引き締める。陽介が重々しく口を開いた。
「──────昼メシを、忘れました」
「…………ん?」
はて? と瑞月は首を傾げた。瞬間、わっと切実な声が上がった。
「だから、昼メシを忘れたんだよ! 昼メシが入ったビニールと間違えて、漫画が入ったやつ持ってきちゃったの!」
「…………手品か?」
「『本気で分かんない』って顔するのやめて!!」
分からないから、想像しようとしているのだ。だが、事態は瑞月のキャパシティを飛び越えていた。シルクハットを被った陽介がビニールと漫画本を掲げている絵しか合成できない。冷や汗をかく瑞月にむかって、畳みかけるように陽介が抗議した。
「いやだって部屋にお菓子とか置くだろ! ポテチとか!」
「……すまない、置かない」
「は!? あ、もしかして瀬名ってお菓子食べない人?」
「いや、好きだ」
「じゃあ、どういう状況で食うんだよ?」
「それは……そうだな。勉強の合間や読書のお供に自室で……」
「それみろ、ちゃんと部屋で菓子食ってんじゃん!」
「そうだな。しかし……お菓子は必ずお皿に盛りつけるものだろう?」
「……は?」
「お菓子はお皿に盛りつけるものだろう? お茶やコーヒーと同じで。それで、食べ終わったら台所に片づける。だから、部屋にお菓子は置かない。というか置けない」
「息抜きまでキッチリ!!」
やけだとばかりに、陽介は上体を放り投げた。レジャーシートの上でゴロッと大の字になって、それからくしゅくしゅと小さく丸まった。
「は、花村……」
「へいへい、どーせ俺が軽率だったんですよ……。漫画本と同じくらいの感覚でメシを部屋の床に置いてたから、バチが当たったんですよ……」
と、レジャーシートの上でぶつくさしている。男の子らしい、しっかりした背中は丸まっているせいで見る影もなくて、ずーんと哀愁が漂っていた。
瑞月はお天気雨に降られた大型犬を思い出した。立派な毛並みが雨に濡れて、寒そうに震えて、ひもじそうで……つまりは胸が痛む。
(そういえば、非常用のカロリーバーをロッカーに常備していたはずだ)
レジャーシートにヘタりこむ友人への援助を、瑞月は思案する。味は選べないのが気がかりだが、有事なので致し方ないだろう。とりあえず確認だけはと、瑞月は上体をよじった。そのとき、カサと紙の擦れる音がした。
あ、と瑞月は気がついた。キャロットケーキの紙袋が、瑞月の身体にくっついている。寄り添うように立てかかった紙袋の隙間から、クリーム色の飾り紐が覗いた。愛らしいちょうちょ結びは、瑞月が水奈子から教わったものだった。
***
────遡って、昨日の夜。
濃藍の空を追って深まる静けさに、るんるんと楽しそうな鼻歌がこだます。
木製のキッチンカウンターは、クラフト教室の様相を呈していた。カラフルな飾り紐の数々や、愛らしい花柄がプリントされたマスキングテープ、それから焼き菓子を入れられる大きさのラッピング袋。
その中心で、水奈子はチョキチョキとハサミを操っていた。弾むような笑顔に反して、その動きは流れるような技巧が光る。ついさっきなど、瞬く間にキャロットケーキを詰める箱を厚紙から組み立ててしまったくらいだ。今もデパートでしかお目にかかれないような速さで、キャロットケーキの飾り紐を採寸、ちょうちょ結びを仕立てている。
瑞月はというと、キャロットケーキを包んだ袋の口を折り返し、マスキングテープで留めていた。皺が寄らないようテープを止め、閉じた折り口を指先で整える。そうやってキャロットケーキをひとつ包み終えると、瑞月は申し訳なさそうに水奈子に笑いかけた。
「すみません、お仕事中だったでしょう?」
「いいんです! いまちょっとデスクワークばっかりだったから!」
やっぱりこういう作業は楽しいですね! と声を弾ませる水奈子は、本当に生き生きとしていた。クリーム色の飾り紐が、彼女の手で丸っこいちょうちょ結びになる。パタパタと、今にも翅を広げて飛び立ちそうだ。キッチンカウンターで蝶が戯れる景色に、瑞月はくすりと笑った。
「はい、たしかに楽しいですね」
改めて、自分が包装したキャロットケーキを手に取った。透明な袋にすとんと納まったキャロットケーキは、薄桃色のマスキングテープによって閉じられている。
その装いが、なんだか微笑ましいのだ。リボンを身に着けて、余所行きを楽しみにしているようで。透明なビニールに包まれた焼き菓子を指先でそっと撫でる。袋ごしでも、しっとりと脆い感触はそのままだった。
「きっと誰かと食べたら美味しいですよ。ほら、最近よく話してくれる『お友達』とか!」
『お友達』────その言葉に、どうしてか彼が浮かんだ。表情が変わるたびに揺れる、襟足の長いキャラメルブラウンの髪に、まっすぐな琥珀の瞳、意外と大きくてしなやかな両の手。青空が似合うその人が、いつだって瑞月にはまぶしかった。
「……大丈夫、でしょうか」
「…………どうかしたの?」
「……あ」
とっさに口を遮るも、時すでに遅し。やわらかい新緑の瞳が、瑞月を静かに見つめている。作業の手を止めて、穏やかに待つ水奈子を前に、頭の奇妙なさざめきがやわらいでいく。しばしの沈黙ののち、瑞月は控えめに言葉を紡いだ。
「迷惑じゃ、ないかな……って」
「……大丈夫ですよ。続けて」
背中をさするような優しい声は、瑞月の背中をとんと押してくれた気がした。導かれるように心にわだかまっていたものを告げた。
「その……急に渡したら、困らせてしまうのではないかと……」
友達になってからといい、たびたび瑞月の言動で陽介を混乱させてしまっている。今回の行動なんて突飛も突飛だ。瑞月自身も動機が分からない。しかも、瑞月は家族以外に料理を振る舞った経験はない。
それなのに、どうして彼のためにケーキを焼いてしまったのか。
「……瑞月ちゃん、本当にその『お友達』が大切なのね」
「…………はい」
大切──その言葉がすとんと胸に落ちる。
「その子は、瑞月ちゃんが『困らせちゃったな』って思ったあと、どうしましたか?」
「……隣に、いてくれました」
もじもじと、指をあやとりのように組み合わせる。揶揄われたり、びっくりされたりもしたけれど、昼休み、彼が瑞月の隣に来ない日はなかった。
「なら、きっとその子はケーキを受け取ってくれるわ」
瑞月の返事に、水奈子はにっこりと笑った。「それにね」と、水奈子の手が瑞月の両手を撫でる。ハッとする瑞月の手に、水奈子のぬくもりがじんわりと沁みる。
「瑞月ちゃん、たくさんその子のこと考えたんでしょう? その中で一番強い気持ちが『渡したい』だったら、大事にした方がいいわ」
「……そう、なんでしょうか?」
「もちろん。悩んで、考えて……それでも残った気持ちは、あなたの道しるべになるのよ」
そうして貰った言葉は、鈴の音のようにりんと響いた。
「瑞月ちゃんは、もっと自分の『したい』って気持ち、大事にしていいのよ」
***
「────あ、の」
振り絞った声は掠れていた。風にさらわれてしまいそうなそれを、しかし彼は聞き取ったらしい。レジャーシートの上で丸まっていた背中がピクンと動いたかと思えば、キョロッと澄んだ琥珀の瞳が瑞月を写す。
緊張に身を硬くした自分がいて、負けるものかと、瑞月は丹田に力を入れた。まだ事態を呑み込めない陽介に向かって、正座の姿勢でまっすぐに紙袋を差し出す。澄んだ空気を深く吸い込み、きっぱりと告げた。
「花村。よかったら、これをどうぞ」
「え……これって?」
「ケーキなんだ。家で作りすぎてしまったから……その、貰ってくれると助かる」
陽介が目をパチクリした。正座の瑞月は微動だにしない。ざわめきは遠く、一陣の風が紙袋のリボンを揺らす。
しばらくして、紙袋と不動の瑞月を陽介がせわしなく見比べた。なにかまずかったかな。とピンと伸ばした腕が緩んでいく。
パァアアアアと、陽介の表情が輝いた。あれ? と瑞月が首を傾げる暇もなく、ぶわりと突風が前髪を巻き上げた。
「えっ! マジ!? これ俺にくれんの!?」
救世主!? とはしゃぐ彼は、レジャーシートに寝転んでいなかった。子供のように目を輝かせて、紙袋を膝立ちで覗き込んでいる。さきほどの突風は、どうやら瞬発的な体位変換によって発生したらしい。
「あ、ああ。君は空腹だから、ちょうどいいかと思って」
どうぞ、と紙袋を勧めれば、震える両手で陽介が受け取る。そして、半泣きで胸元に引き寄せる。
「タイミングが神引きすぎる……あーオレ、お供えものもらったお地蔵様の気持ち、今ならわかるわ」
「花村の宗教観は、実に日本人的だな」
救世主が出てきたかと思ったら神様が降臨し、さらにお地蔵様でてんやわんやだ。わちゃわちゃと神様が騒ぐ絵を想像して、瑞月はつい笑ってしまいそうになる。しかし、チラチラと瑞月をうかがう陽介の視線に気がついた。
「花村、どうしたんだ」
「あの、貰ったばっかでこんなこと言うのはどうかと思うんだけどさ……今食べてみてもいい? 俺、今すげー腹減ってて、てかもうすげーいい匂いで口の中ツバダラダラで」
「そういう律義さ、花村らしいと思う」
ふーっと、陽介が肩まで使って荒い息を吐き出す。大好物を目の前にした犬のような有様だが、ちゃんと返答を待っている姿勢は健気だ。空腹でも礼儀を守ろうとする真面目な友人に、瑞月はふっと笑って告げた。
「────食べていいよ。君にあげるために、持ってきたんだから」
「おっしゃあ! 瀬名、サンキュな!」
青空に、揚々と拳が打ちあがる。会心の笑みを浮かべると、陽介はさっそく紙袋に手を差し入れた。カサリと物がこすれ合う音ののち、ちょうちょ結びが飾られたキャロットケーキが現れた。
(────あれ?)
一瞬、陽介が動きを止めたような気がする。けれどすぐ鼻歌を歌い出したから、気のせいだったかもしれない。
するりと飾り紐をほどき、マスキングテープをきれいに外すと、待ちきれないとばかりに『はむっ』とキャロットケーキにかぶりついた。
ふぐぉっ! とくぐもったうめき声をあげて、陽介が目をかっ開いた。ビクッ! と瑞月の背筋が跳ねる。もしや————ケーキが喉に詰まった? 弾かれたように、瑞月は膝を立てる。レジャーシートなどお構いなしだ。
「だ、だいじょうぶか花村! 必要であれば、背部叩打法を──」
「う……」
「う?」
「うめぇええええええ!」
渾身の叫びだった。腹の底から飛び出した声が青い空を突き抜けて、瑞月の杞憂も吹っ飛ばす。フリーズする瑞月をよそに、陽介は嬉々としてキャロットケーキにパクつく。
「なにこれうっま! 都会のカフェとかで売ってるヤツよりうまいぞ! え、まさか高級な材料使ってる!?」
「……別に使ってはいない。材料はすべてスーパーでそろえたものだ、なんなら君のバイト先だし」
というか、落ち着いて食べろ。そう注意する前には、すでにケーキを平らげていた。名残惜しそうに指先を舐めとりながら、意外そうに目を見張る。
「ええ……まさかのオールフロムジュネスですか? うちのスーパーって、もしかしてそこそこ有望株?」
「そのリピーターがここに」
「……そっか。お買い上げありがとうございまーす!」
溌溂と、陽介は敬礼を披露してみせた。そこにキャロットケーキを上げる前の心もとなさはない。瑞月はほっと息を吐いた。じんわりと温かい熱が胸を巡って心地がいい。
「……えーと、ってかさ」
「……? どうした」
瑞月の問いかけに、彼は照れくさそうに笑った。ポリポリと、頬を掻いて何かを言い淀んでいる。瑞月は静かに彼を見つめた。
風が吹いて、攫われる髪を押さえて、それでも瑞月は陽介をまっすぐに見ていた。観念したかのように、陽介が頬を掻く手を止めた。そうして、すうっと息を継いだ。
「誰かに作ってもらった料理って、なんかあったかいよな」
────だからさ、ありがとな、瀬名。
急に、世界が鮮やかになった。澄んだ秋の空を背に、彼が微笑む。その色彩が、とてもきれいだったのだ。
ほんのりと赤く火照る目尻も、吹き渡る風に揺られ、陽光をきらきらと弾くキャラメルブラウンの髪も。
瑞月には、まだ分からないことばかりだ。
どうして彼に料理を作りたいと思ったのか。
どうして、彼がケーキを受け取ってくれるか不安だったのか。
不可解な胸の内は、紐解けない。
けれど────彼が笑ってくれるなら、自分らしくない狂騒も、まぁいいかと思えたのだ。
「こちらこそ、ありがとう」
穏やかに、瑞月は告げた。降り注ぐ日の光が暖かかった。
陽介の腕のなかで、紺のリボンが弾むように揺れた。次に渡すなら何がいいかな。なんて、瑞月は記憶に綴じたレシピ帳をめくった。
水筒から注いだ紅茶は、淹れたての温度を保っていた。カップに注げば、湯気がやわらかく渦を巻く。
11月の空は、屋上から見ても高く、青い。かぎりなく広い天井を、生まれたばかりの湯気がたなびくようにして昇っていく。
その様子をのんびりと眺めながら、レジャーシートに座す少女──瀬名瑞月は紅茶を口に含んだ。栗の風味を加えたという、甘く気品のある香りが鼻先を漂う。
昼休みの屋上は、いつものようにのどかだった。同級生たちでざわめく教室は遠く、瑞月にとってお気に入りの場所である。ただ、最近は静かなだけの場所ではなくなった。
そろそろだな、と腕時計を確認すれば、ガチャッと遠くでドアが開く気配がした。トットット──スニーカーの軽やかな音が近づいて、塔屋から細身の身体が躍り出る。襟足の長いキャラメルブラウンの髪が青空になびいた。琥珀色の瞳で瑞月を写したとたん、嬉しそうに顔を輝かせた彼──花村陽介は一目散に走り出した。
「瀬名!」
「こんにちは、花村。今日も元気そうで何よりだ」
ちょい、と胸元あたりまで手を掲げて瑞月は歓迎の意を示す。彼から学習した仕草に、瑞月の手前で止まった彼も「おーよ」と気安く手を振り返した。律儀な人だ、なんて瑞月の感想はいざ知らず、人懐こい笑みを浮かべて陽介は問いかけた。
「なんか甘い匂いするけど、もしかしてまだ『もぐもぐタイム』中だった?」
「もぐ……? モグラの縄張り争いを表現しているのか?」
「いやちげーよ!? 『お食事中』ってことであって、モグラは関係ねーからな!? つか、あんまり見ない光景だよな!? モグラの大乱闘って!」
「…………そうか?」
口元に指を添え、瑞月は記憶を探った。実際に、近所の林で取っ組み合うモグラを見かけたことがある。きっと、縄張り意識の強さによるテリトリーの争奪戦だったのだろう。土かきの発達した前足でベシベシと互いを叩き合う姿はなかなか壮絶だった。
二匹とも勇敢だったな、どう説明しようか。と思考を巡らせていると、ふいに「ふはっ」と吹き出す声に引き戻された。
「どうした?」
「いや、瀬名ってやっぱおもしろいヤツだよなぁって」
肩を震わせ、屈託なく笑う陽介を瑞月はじっと眺めていた。面白い人というのなら、花村だって大概そうだ。こんなに表情が豊かで、楽しそうに笑う人を、瑞月は他に知らなかった。
手元の紅茶を一口だけ口に含む。時間を置いたせいだろうか。栗の甘い匂いを含んだそれは、まろやかな口当たりをしていた。
◇◇◇
「隣、座るな」
屋上を訪れる習慣ができても、陽介がその言葉を忘れたことはなかった。必ず一声かけて、瑞月が用意したレジャーシートの空席にすとんと座る。そうして、いつものように他愛もない雑談を瑞月に持ちかけるのだ。
しかし、今日は違った。陽介がすんと鼻を鳴らす。
「やっぱ、甘い匂いするな。なんか……モンブランみたいな?」
興味の滲む問いかけに、「ああ」と瑞月は手元に視線を落とす。赤みがかった水面を揺らせば、たしかにモンブランのような香りがふわりと舞った。
「お茶の香りだな」
「お茶? さっきからちょいちょい飲んでるヤツ?」
「ああ、フレーバーティーだ。紅茶に匂いをつけたもので、これは栗だな」
「へー、面白れーの。でも、ここじゃ珍しくねぇか? 紅茶専門店とか、沖奈に行かないとなさそうだし」
「母が貰ってきたんだ。『たくさんもらったから、食後にどうぞ』って、水筒に」
「ふーん。お母さん、優しいんじゃん」
するりと自然な相槌に、胸の奥が揺れる。何気なく告げた陽介は、やわらかな眼差しで紅茶を見つめていた。陽介は本当に思ったことを言っただけだ。
「……ああ」
だからこそ、瑞月はうまく応えられなかった。まっすぐな琥珀の視線がくすぐったくて、お茶を濁すようにカップを揺らす。気の利いた返しが思いつかない。
それを陽介は咎めなかった。「にしても」と、浮き立った様子で空を仰ぐ。
「ここでお茶飲みたくなるのも分かるわー。今日なんて、特に天気いいもんな」
俺もこっちで弁当食えばよかった。と彼は背筋をぐんと伸ばす。まるで昼特有の気だるさをリセットする仕草に、はたと瑞月は気がついた。
「そういえば、君。お昼ごはんはいつもどうしているんだ?」
「あ、なにー? もしかして、俺の美肌の秘訣が気になったりー?」
「いや。興味はあるが、今聞きたいのはそっちではない」
「ワ、ワァ……バッサリ斬られた」
率直な話題転換に、陽介がしょんぼりと肩を落とす。心なしか、長い襟足が怒られた犬のようにペタンとして憐れを誘う。しかし、慰めてもますます落ち込むだけだと知っている。一息おいて、瑞月は本題に入った。
「ふと気になってな。いつもこうして屋上に来ているが、食事には十分な時間を取れているのか?」
陽介は、瑞月が昼食を食べ終わる時間を見越して屋上にやってきてくれる。気の回る彼らしいともいえるが、瑞月には少々無視できない問題だった。
陽介は男の子だ。しかも育ちざかりともなれば、瑞月より食べる量は多いだろう。そうなると食事に時間もかかるわけで。もし無理に昼食を詰め込んできているのなら、瑞月は友人として忍びない。
唐突な問いかけに、しぱしぱと陽介が瞬きする。言葉が足りなかったかな。と、じわりと不安を抱える瑞月に向かって、彼はピースを披露した。
「そこはダイジョーブ! 俺、いつもパンだから」
「…………パン?」
背筋が固まるほどの衝撃だった。藪をつついたら蛇に当たった気分である。言葉に詰まる瑞月の心中を察したのか、陽介は得意げに胸を張った。
「おう、すぐ食えるから便利なんだよ。それに、持ってくるのも楽だし」
「利便性……?」
「そそ、弁当と違ってかさばんないから持ってくるハードル低いしな。季節によって新商品が出るから飽きないのもいい! あと売り場の回転率高いから値引き品多くて安く手に入るし…………」
そこから先、瑞月の記憶はない。
◇◇◇
気がつけば、キッチンに立っていた。
清潔に保たれた、広めのL字型キッチンだ。新しく設えたと言われても違和感がない場所だが、よくよく見れば年季の入った調理道具たち──油の馴染んだ鉄のフライパンに、飴色につやめく木べら、ボタンの文字が擦れた、大型のフードプロセッサー──── が出番を待ちわびるかのごとく、整然と並んでいる。
瑞月にとっては馴染みの深い、瀬名家のキッチンだった。
瑞月はパチパチと瞬きをした。ワープでもしたか? しかし、身につけたオリーブ色のエプロンが、それを否定した。自発的に、瑞月が袖を通さなければこうはならない。
では、何のためにキッチンに立ったのか? 答えは目の前に存在していた。
ボリューミなキャロットケーキが、ドドンと鎮座している。
しかも3本。
? と、瑞月は香ばしく焼けたケーキに手をかざす。粗熱はすでにとれていた。ならば味見である。
『作った料理は必ず味見をするように』
料理研究家である義母から言いつかったその厳命を、瑞月は一度だって欠かしたことがない。
端の部分をさっくりと切り分け、キャロットケーキの欠片を口に入れる。舌の上でケーキがほろりと崩れたとたん、にんじんと三温糖の素朴な甘みが広がった。バターと米油を独自の配合でブレンドしたからか、バターの豊かな香りはそのままに、生地は軽やかだ。アクセントに入れたくるみの食感も楽しくて、飽きがこない。
うむうむ。と瑞月は誇らしげに頷いた。我ながら、会心の出来だ。甘く香ばしいケーキなので、野菜を食べ慣れない人にも食べやすい。クルミやにんじんのおかげで食物繊維はたっぷり摂れるし、バターや米油を使っているから腹持ちもいい。パンばかり食べているという彼も、きっと食べて————そこまで考えて瑞月は額を抑えた。
「何をしているんだ、私は……!」
酔いから醒めたように、瑞月はすべてを思い出した。あの屋上でのやりとりの後、瑞月はキャロットケーキ作りにひた走った。授業が終わったらジュネスで材料を買い揃え、夜の自習を早めに済ませて料理に取り掛かったのだ。
カチカチと時を刻む壁時計は、もう夜遅くを示している。とりあえず、目の前のよく分からない執念の産物をどうにかしないと、そう悩める頭に──「あら、いい匂い」──よく親しんだ声が響いた。
「────お
義母の
「まぁ、とってもいい焼き色。キャロットケーキ?」
真ん中も綺麗に割れてますね。と、両手を打ち合わせてふわりと微笑む。思わぬ義母の誉め言葉に、ほっと瑞月の緊張が解けた。料理を生業とする彼女からの太鼓判は心強い。
「はい、ちょっと甘いものが作りたいな。と思いまして」
「瑞月ちゃん、甘いもの好きですもんね」
なんとか用意した動機は、我ながら子供じみたものだった。だが、呆れることも邪険に扱うこともなく、水奈子はころころと笑っている。楽しそうに目を細める姿に、ほわりと瑞月の胸があたたかくなった。瑞月を見守ってくれる母の笑顔は、いつだって眩しい。
「でも、珍しいわ」
「え?」
「明日、学校でしょう? そういう日は、お菓子あんまり作らないから」
「……あ」
不意に投げられた質問を、瑞月は上手く受け止められなかった。普段と違うのは、瑞月自身も自覚している。義母から見ても、瑞月の突飛な行動は気になるだろう。
しかし、その理由を瑞月は形にできない。「えと……」と形にならない声が漏れ出て、やっと出た言葉が2人の間にぽつりと落ちた。
「……どうしてでしょうね」
◇◇◇
「結局持ってきてしまった……」
澄み渡った空気の中に、行き場のない呟きがはかなく溶けた。
相変わらず、秋の空は高い。清澄な青空と燃えるような紅葉を一望できる屋上は、瑞月以外には誰もいない。定位置に敷いたレジャーシートの上で、八十稲羽の秋景色を眺める。しかし、瑞月の心は休まらなかった。
そんな彼女の膝上には、クラフト紙の紙袋が置かれている。
持ち手の部分に紺のリボンが結ばれた、可愛らしい紙袋だ。その中には、切り分けられたキャロットケーキが飾り箱に入れられて、お行儀よく並んでいる。ひとつひとつ透明なビニールにくるまれ、クリーム色の飾り紐まで掛けられた包装は、どう見ても玄人による犯行である。
────あのあと、なぜか瞳を輝かせた水奈子がラッピング用の素材を用意してくれたのだ。
『こんなにきれいに焼けてるんだもの! ちゃんとラッピングしたら、もっと素敵になりますよ!』
『最近、お天気いいですから! お外で景色を楽しみながら食べたら、きっととっても美味しいですよ!』
その勢いに乗せられ、今にいたる。止めるという選択肢はなかった。というより、できなかった。だってもう、すごくワクワクした様子で颯爽とエプロンを身につけてきたのだ。あのキラキラと輝きに満ちた目に水を差すことは、さしもの瑞月でも躊躇われた。
(……しかし、こんなに凝っていていいのだろうか。ただ渡すだけなのに)
膝の上に乗った紙袋を、改めて眺める。一声かけて渡す。その先を想像してみるけれど、うまくいかない。
瑞月よりも大きい、働きものの両手が紙袋の底を包むように支える。学ランに包まれた長い腕が、キャロットケーキを引き寄せる。でも、その先──キャロットケーキを受け取った後の彼の表情が、どうしたって想像できない。
「…………」
ひゅるりと冷たい風に、瑞月の胸がさざ波立つ。膝上の紙袋に結ばれた、紺のリボンが所在投げに揺れた。
「……ちょっと、元気がほしいな」
ひとり呟くと、瑞月は脇に控えていたランチバックからあるものを取り出した。ビニールに包まれた──自分用なので簡易に包装した──ひとかけらのキャロットケーキだ。ビニールから取り出し、俯きがちにもそもそと口に運ぶ。にんじんとバターの素朴な風味が、なんだか懐かしかった。
「あ、いいなー」
瀬名さんが美味そうなもん食ってる。 耳朶を打つ、よく通る声。馴染みのあるそれが、瑞月にとっては予想外だった。ハッとして顔を上げれば、屋上に続く塔屋のそばに学ラン姿の男の子が立っている。親しげに笑う彼の肩で、オレンジ色のヘッドフォンがまぶしく光った。
「花村」
膝上にあった紙袋を引き寄せて、瑞月は応えた。陽介はというと、手を振りながらゆっくりと歩いてくる。その様子におや? と彼を注視した。いつもの笑顔に、どこか元気がない気がする。
「んじゃ、隣お邪魔しまーす」
「ああ、どうぞ」
決まり文句にも、そわっと心が落ち着かない。レジャーシートに身を置いた彼は腕を組んでいて、その心の内は知れない。歯がゆさを抱えていると、陽介がまっすぐにこちらを見た。
「瀬名、どした?」
「え?」
「え? って……さっきからずっと俺のこと見てんぞ。ウブな俺には~、ちょっと刺激が強いかなぁ~」
「……すまない、では両手で隠そう」
「いや、やり方極端じゃね?」
ぽすっと、両目を掌で覆えば目の前が真っ暗になった。違う違うそうじゃない、ちょっとからかっただけだからマジで刺激が強いわけじゃないから目を見て話そう、な? と困惑されたので、瑞月は素直に両手を取り外した。
「え……マジで俺の顔になんかついてる? ノートがプリントされてたり、付箋が髪にひっついてたりする?」
「なんだその妙ちきりんな様相は……って、そうではなくて」
相対した彼の、琥珀の瞳が不安そうに揺れている。陽介を不安にさせるのは、瑞月の望みではない。ゆえに、正直に瑞月は告げた。
「その……元気がなさそうに見えたんだ」
「へ? 元気って、俺の?」
「ああ。ここに来るときは、いつも手を振ってくれるだろう? それが今回は控えめだった」
「!」
「それに、今日は走らないで来たから。………だから、元気がないのかなって」
ただ、それは瑞月の主観に過ぎない。見当違いだったかな、と彼の表情を仰ぎ見て──目が丸くなる。陽介が、耳まで真っ赤になっていたからだ。「えっ、あっ」とどもったかと思えば、バッと後方に背を逸らした。
「おれそんなに態度に出てた!? はっず!」
「そこまで恥ずかしがることなのか」
「いや恥ずいだろ! 『今は元気ないです』とか態度に出てたとか完全に”かまってちゃん”みたいじゃんか!」
「いや、体調が悪ければ無理もないだろう」
瑞月のフォローがイマイチだったのか、あああーと陽介は頭を抱えてうずくまってしまった。折り畳み椅子みたいにぺちゃんこである。さすがにこれは看過できないと、紙袋を静かに脇に置く。いまだ俯く陽介に、瑞月はそっと顔を寄せた。
「まさか、本当に体調が悪いのではないだろうな?」
「は? いや、安心して。それは違くて」
「……私では話にくいことなのか。なら、無理には聞かない。ただ、必要であれば、保健室に同行を──」
「わーっ、そこまでしなくていい! 話す、話すから!」
そいやっと、陽介が上体を跳ね起こした余波で、瑞月は彼から離れた。どうやら話してくれるようだと、居住まいを正した瑞月は彼の隣に座り直す。対する陽介は、深い呼吸を数回重ねた。しかし、笑顔のぎこちなさは取れない。
「……えと、笑わないでくれよ」
「分かった。もし笑ったら、私は表情筋をつねる」
「いや、そこまでせんでいいって」
腹を決めたのか、彼は膝上の拳を固める。瑞月もまた、唇を引き締める。陽介が重々しく口を開いた。
「──────昼メシを、忘れました」
「…………ん?」
はて? と瑞月は首を傾げた。瞬間、わっと切実な声が上がった。
「だから、昼メシを忘れたんだよ! 昼メシが入ったビニールと間違えて、漫画が入ったやつ持ってきちゃったの!」
「…………手品か?」
「『本気で分かんない』って顔するのやめて!!」
分からないから、想像しようとしているのだ。だが、事態は瑞月のキャパシティを飛び越えていた。シルクハットを被った陽介がビニールと漫画本を掲げている絵しか合成できない。冷や汗をかく瑞月にむかって、畳みかけるように陽介が抗議した。
「いやだって部屋にお菓子とか置くだろ! ポテチとか!」
「……すまない、置かない」
「は!? あ、もしかして瀬名ってお菓子食べない人?」
「いや、好きだ」
「じゃあ、どういう状況で食うんだよ?」
「それは……そうだな。勉強の合間や読書のお供に自室で……」
「それみろ、ちゃんと部屋で菓子食ってんじゃん!」
「そうだな。しかし……お菓子は必ずお皿に盛りつけるものだろう?」
「……は?」
「お菓子はお皿に盛りつけるものだろう? お茶やコーヒーと同じで。それで、食べ終わったら台所に片づける。だから、部屋にお菓子は置かない。というか置けない」
「息抜きまでキッチリ!!」
やけだとばかりに、陽介は上体を放り投げた。レジャーシートの上でゴロッと大の字になって、それからくしゅくしゅと小さく丸まった。
「は、花村……」
「へいへい、どーせ俺が軽率だったんですよ……。漫画本と同じくらいの感覚でメシを部屋の床に置いてたから、バチが当たったんですよ……」
と、レジャーシートの上でぶつくさしている。男の子らしい、しっかりした背中は丸まっているせいで見る影もなくて、ずーんと哀愁が漂っていた。
瑞月はお天気雨に降られた大型犬を思い出した。立派な毛並みが雨に濡れて、寒そうに震えて、ひもじそうで……つまりは胸が痛む。
(そういえば、非常用のカロリーバーをロッカーに常備していたはずだ)
レジャーシートにヘタりこむ友人への援助を、瑞月は思案する。味は選べないのが気がかりだが、有事なので致し方ないだろう。とりあえず確認だけはと、瑞月は上体をよじった。そのとき、カサと紙の擦れる音がした。
あ、と瑞月は気がついた。キャロットケーキの紙袋が、瑞月の身体にくっついている。寄り添うように立てかかった紙袋の隙間から、クリーム色の飾り紐が覗いた。愛らしいちょうちょ結びは、瑞月が水奈子から教わったものだった。
***
────遡って、昨日の夜。
濃藍の空を追って深まる静けさに、るんるんと楽しそうな鼻歌がこだます。
木製のキッチンカウンターは、クラフト教室の様相を呈していた。カラフルな飾り紐の数々や、愛らしい花柄がプリントされたマスキングテープ、それから焼き菓子を入れられる大きさのラッピング袋。
その中心で、水奈子はチョキチョキとハサミを操っていた。弾むような笑顔に反して、その動きは流れるような技巧が光る。ついさっきなど、瞬く間にキャロットケーキを詰める箱を厚紙から組み立ててしまったくらいだ。今もデパートでしかお目にかかれないような速さで、キャロットケーキの飾り紐を採寸、ちょうちょ結びを仕立てている。
瑞月はというと、キャロットケーキを包んだ袋の口を折り返し、マスキングテープで留めていた。皺が寄らないようテープを止め、閉じた折り口を指先で整える。そうやってキャロットケーキをひとつ包み終えると、瑞月は申し訳なさそうに水奈子に笑いかけた。
「すみません、お仕事中だったでしょう?」
「いいんです! いまちょっとデスクワークばっかりだったから!」
やっぱりこういう作業は楽しいですね! と声を弾ませる水奈子は、本当に生き生きとしていた。クリーム色の飾り紐が、彼女の手で丸っこいちょうちょ結びになる。パタパタと、今にも翅を広げて飛び立ちそうだ。キッチンカウンターで蝶が戯れる景色に、瑞月はくすりと笑った。
「はい、たしかに楽しいですね」
改めて、自分が包装したキャロットケーキを手に取った。透明な袋にすとんと納まったキャロットケーキは、薄桃色のマスキングテープによって閉じられている。
その装いが、なんだか微笑ましいのだ。リボンを身に着けて、余所行きを楽しみにしているようで。透明なビニールに包まれた焼き菓子を指先でそっと撫でる。袋ごしでも、しっとりと脆い感触はそのままだった。
「きっと誰かと食べたら美味しいですよ。ほら、最近よく話してくれる『お友達』とか!」
『お友達』────その言葉に、どうしてか彼が浮かんだ。表情が変わるたびに揺れる、襟足の長いキャラメルブラウンの髪に、まっすぐな琥珀の瞳、意外と大きくてしなやかな両の手。青空が似合うその人が、いつだって瑞月にはまぶしかった。
「……大丈夫、でしょうか」
「…………どうかしたの?」
「……あ」
とっさに口を遮るも、時すでに遅し。やわらかい新緑の瞳が、瑞月を静かに見つめている。作業の手を止めて、穏やかに待つ水奈子を前に、頭の奇妙なさざめきがやわらいでいく。しばしの沈黙ののち、瑞月は控えめに言葉を紡いだ。
「迷惑じゃ、ないかな……って」
「……大丈夫ですよ。続けて」
背中をさするような優しい声は、瑞月の背中をとんと押してくれた気がした。導かれるように心にわだかまっていたものを告げた。
「その……急に渡したら、困らせてしまうのではないかと……」
友達になってからといい、たびたび瑞月の言動で陽介を混乱させてしまっている。今回の行動なんて突飛も突飛だ。瑞月自身も動機が分からない。しかも、瑞月は家族以外に料理を振る舞った経験はない。
それなのに、どうして彼のためにケーキを焼いてしまったのか。
「……瑞月ちゃん、本当にその『お友達』が大切なのね」
「…………はい」
大切──その言葉がすとんと胸に落ちる。
「その子は、瑞月ちゃんが『困らせちゃったな』って思ったあと、どうしましたか?」
「……隣に、いてくれました」
もじもじと、指をあやとりのように組み合わせる。揶揄われたり、びっくりされたりもしたけれど、昼休み、彼が瑞月の隣に来ない日はなかった。
「なら、きっとその子はケーキを受け取ってくれるわ」
瑞月の返事に、水奈子はにっこりと笑った。「それにね」と、水奈子の手が瑞月の両手を撫でる。ハッとする瑞月の手に、水奈子のぬくもりがじんわりと沁みる。
「瑞月ちゃん、たくさんその子のこと考えたんでしょう? その中で一番強い気持ちが『渡したい』だったら、大事にした方がいいわ」
「……そう、なんでしょうか?」
「もちろん。悩んで、考えて……それでも残った気持ちは、あなたの道しるべになるのよ」
そうして貰った言葉は、鈴の音のようにりんと響いた。
「瑞月ちゃんは、もっと自分の『したい』って気持ち、大事にしていいのよ」
***
「────あ、の」
振り絞った声は掠れていた。風にさらわれてしまいそうなそれを、しかし彼は聞き取ったらしい。レジャーシートの上で丸まっていた背中がピクンと動いたかと思えば、キョロッと澄んだ琥珀の瞳が瑞月を写す。
緊張に身を硬くした自分がいて、負けるものかと、瑞月は丹田に力を入れた。まだ事態を呑み込めない陽介に向かって、正座の姿勢でまっすぐに紙袋を差し出す。澄んだ空気を深く吸い込み、きっぱりと告げた。
「花村。よかったら、これをどうぞ」
「え……これって?」
「ケーキなんだ。家で作りすぎてしまったから……その、貰ってくれると助かる」
陽介が目をパチクリした。正座の瑞月は微動だにしない。ざわめきは遠く、一陣の風が紙袋のリボンを揺らす。
しばらくして、紙袋と不動の瑞月を陽介がせわしなく見比べた。なにかまずかったかな。とピンと伸ばした腕が緩んでいく。
パァアアアアと、陽介の表情が輝いた。あれ? と瑞月が首を傾げる暇もなく、ぶわりと突風が前髪を巻き上げた。
「えっ! マジ!? これ俺にくれんの!?」
救世主!? とはしゃぐ彼は、レジャーシートに寝転んでいなかった。子供のように目を輝かせて、紙袋を膝立ちで覗き込んでいる。さきほどの突風は、どうやら瞬発的な体位変換によって発生したらしい。
「あ、ああ。君は空腹だから、ちょうどいいかと思って」
どうぞ、と紙袋を勧めれば、震える両手で陽介が受け取る。そして、半泣きで胸元に引き寄せる。
「タイミングが神引きすぎる……あーオレ、お供えものもらったお地蔵様の気持ち、今ならわかるわ」
「花村の宗教観は、実に日本人的だな」
救世主が出てきたかと思ったら神様が降臨し、さらにお地蔵様でてんやわんやだ。わちゃわちゃと神様が騒ぐ絵を想像して、瑞月はつい笑ってしまいそうになる。しかし、チラチラと瑞月をうかがう陽介の視線に気がついた。
「花村、どうしたんだ」
「あの、貰ったばっかでこんなこと言うのはどうかと思うんだけどさ……今食べてみてもいい? 俺、今すげー腹減ってて、てかもうすげーいい匂いで口の中ツバダラダラで」
「そういう律義さ、花村らしいと思う」
ふーっと、陽介が肩まで使って荒い息を吐き出す。大好物を目の前にした犬のような有様だが、ちゃんと返答を待っている姿勢は健気だ。空腹でも礼儀を守ろうとする真面目な友人に、瑞月はふっと笑って告げた。
「────食べていいよ。君にあげるために、持ってきたんだから」
「おっしゃあ! 瀬名、サンキュな!」
青空に、揚々と拳が打ちあがる。会心の笑みを浮かべると、陽介はさっそく紙袋に手を差し入れた。カサリと物がこすれ合う音ののち、ちょうちょ結びが飾られたキャロットケーキが現れた。
(────あれ?)
一瞬、陽介が動きを止めたような気がする。けれどすぐ鼻歌を歌い出したから、気のせいだったかもしれない。
するりと飾り紐をほどき、マスキングテープをきれいに外すと、待ちきれないとばかりに『はむっ』とキャロットケーキにかぶりついた。
ふぐぉっ! とくぐもったうめき声をあげて、陽介が目をかっ開いた。ビクッ! と瑞月の背筋が跳ねる。もしや————ケーキが喉に詰まった? 弾かれたように、瑞月は膝を立てる。レジャーシートなどお構いなしだ。
「だ、だいじょうぶか花村! 必要であれば、背部叩打法を──」
「う……」
「う?」
「うめぇええええええ!」
渾身の叫びだった。腹の底から飛び出した声が青い空を突き抜けて、瑞月の杞憂も吹っ飛ばす。フリーズする瑞月をよそに、陽介は嬉々としてキャロットケーキにパクつく。
「なにこれうっま! 都会のカフェとかで売ってるヤツよりうまいぞ! え、まさか高級な材料使ってる!?」
「……別に使ってはいない。材料はすべてスーパーでそろえたものだ、なんなら君のバイト先だし」
というか、落ち着いて食べろ。そう注意する前には、すでにケーキを平らげていた。名残惜しそうに指先を舐めとりながら、意外そうに目を見張る。
「ええ……まさかのオールフロムジュネスですか? うちのスーパーって、もしかしてそこそこ有望株?」
「そのリピーターがここに」
「……そっか。お買い上げありがとうございまーす!」
溌溂と、陽介は敬礼を披露してみせた。そこにキャロットケーキを上げる前の心もとなさはない。瑞月はほっと息を吐いた。じんわりと温かい熱が胸を巡って心地がいい。
「……えーと、ってかさ」
「……? どうした」
瑞月の問いかけに、彼は照れくさそうに笑った。ポリポリと、頬を掻いて何かを言い淀んでいる。瑞月は静かに彼を見つめた。
風が吹いて、攫われる髪を押さえて、それでも瑞月は陽介をまっすぐに見ていた。観念したかのように、陽介が頬を掻く手を止めた。そうして、すうっと息を継いだ。
「誰かに作ってもらった料理って、なんかあったかいよな」
────だからさ、ありがとな、瀬名。
急に、世界が鮮やかになった。澄んだ秋の空を背に、彼が微笑む。その色彩が、とてもきれいだったのだ。
ほんのりと赤く火照る目尻も、吹き渡る風に揺られ、陽光をきらきらと弾くキャラメルブラウンの髪も。
瑞月には、まだ分からないことばかりだ。
どうして彼に料理を作りたいと思ったのか。
どうして、彼がケーキを受け取ってくれるか不安だったのか。
不可解な胸の内は、紐解けない。
けれど────彼が笑ってくれるなら、自分らしくない狂騒も、まぁいいかと思えたのだ。
「こちらこそ、ありがとう」
穏やかに、瑞月は告げた。降り注ぐ日の光が暖かかった。
陽介の腕のなかで、紺のリボンが弾むように揺れた。次に渡すなら何がいいかな。なんて、瑞月は記憶に綴じたレシピ帳をめくった。
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