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自室を出ると、ふわりと甘く、あたたかい香りが鼻先を掠めた。
具体的には、リンゴの匂いとスパイス、そしてバターのふくよかな香り。さっきまで大学のレポートの仕上げで部屋にこもっていた俺は、おっと目を見開く。
同時に暖房ですこし乾燥ぎみだった口の中に、じゅわりと唾液が沸き上がるのを感じた。芯から冷えるような冬の寒さに支配された家中を、甘くあたたかく彩るこの匂いは……あれしかない。
気づけば俺は、空腹の熊がはちみつの匂いに誘われるみたいにトコトコと廊下を歩きだしていた。
リンゴって、生の食感だとシャクシャクしてみずみずしいのに、どうして甘煮にするとあんな濃厚な蜜の匂いを漂わせるんだろうな。とろりとした甘さと、ほのかな酸味を含んだ濃厚な蜜の匂い。
漂ってくるいい匂いを道しるべにキッチンまでたどり着くと……そこには俺の嫁がいた。
すっかり見知った清潔な割烹着のすそが揺れる。俺に背を向けながら、同居人であり恋人でもある──つまり俺の実質的な嫁──瀬名瑞月は、なにやら自慢げな様子で腰に両手をあてていた。顔を見なくても分かる。とてもとてもご機嫌な、それこそ歌でも歌い出しそうな高らかさで、彼女は不敵に笑った。
「ふっふっふっ……なかなかどうしてうまく焼けたではないか」
普段はクールな彼女には珍しい、会心の笑みである。しかも近づいている俺の存在すら感づかないほど、浮かれてもいるらしい。同居している恋人としてちょっと寂しい気もするが、それも仕方ないかと静かに苦笑した。
なぜなら彼女の目の前には、見事なまでに香ばしく色づいたアップルパイが鎮座していたのだから。菓子作りに詳しくない俺でさえ、息をのんでしまうほどのツヤツヤの黄金色に焼きあがったアップルパイが白い湯気を立てている。
だが、喜びもつかの間。出来立てのアップルパイをそのままに、瑞月は気難しそうに唇を尖らせた。
「しかし……すこし焼きあがる時間が早かったな。ううむ、悩ましいことだ。せっかくうまく焼きあがったのだから、出来立てを陽介といっしょに食べたいが……レポートの邪魔になっていけないし……かといって陽介に届けてダイニングで一人で食べるのは……むむむ」
寂しいとか前言撤回。小首を傾げて俺のことを想ってくれていた彼女に、沸きたつ心を抑えながら、俺はジリジリと歩を進める。そして、俺に焼き立てのアップルパイを届ける方法をぶつぶつと模索している彼女の後方へと忍び寄った。
「そーだな。んじゃ2人で食べっか」
「ひゃうっ!? 陽介っ!?」
ぽんっと軽く肩を叩くと、不意を突かれた瑞月が素 っ頓狂 な声を上げる。ビクッと振り返った彼女は、いつのまにか至近距離に現れた俺に慌てたらしい。
小さくなった紺碧の瞳がフルフル震えて、ほっぺたが色づいたリンゴみたいに真っ赤だ。
想定外のアクシデントにはポンコツになる。そんなところもかわいい。してやったりと、ニマニマと愛しい恋人に目を細めていると、茫然としていた瑞月はやーっと口を開いた。
「お、おまえさま、いつの間に……」
「瑞月が腕組みしてたとこからかな。こう、むん! って胸張りながら不敵に笑って────」
「よりにもよって、どうしてその場面から!?」
「いや~~、アップルパイの甘い匂いに誘われまして。つか、やっぱ出来立ての匂いってサイコーだな」
すんすんと、俺は鼻を鳴らして焼き立てのアップルパイの匂いを堪能する。
アップルパイは、瑞月の得意料理の一つだ。
冬になると、彼女は毎年アップルパイを焼く。これがまた絶品で、俺にとっては毎年の楽しみでもあるのだ。冬が深まれば深まるほどに、待ち遠しく、うまさも増す瑞月のアップルパイ。
今年もそろそろ……と待っていたけれど、まさかレポートが仕上がったタイミングでお目にかかれるとは、最高のご褒美だ。
ちょっと浮かれて、俺は瑞月を抱きしめる。「ひゃっ!?」 びっくりした声が上がるけど、突き放さないところを見るに嫌がってはいない。これ好都合と、俺はうりうりと腕の中の彼女に顔を寄せた。
「部屋ンなか缶詰んなってレポート終わらせた甲斐がありましたわ。お前が『ふっふっふ……』なーんて、古い悪役みたいに笑ってるオモシロシーンも見れましたし」
「わー、わーー!! 聞こえないーー! そんな恥ずかしい笑い方は記憶にないーー!」
恥ずかしいって言ってる時点で、認めたようなものである。照れてジタバタする彼女がいじらしくってかわいくって、もっと構いたくなるけれど、それはやめておく。あんまり揶揄うと顰蹙を買うので、こういうのはほどほどの匙加減に留めておくのがコツなのだと、長く瑞月と一緒にいるうちに学んだのだ。(いつまでも『ガッカリ王子』なんて言わせない)あわわわ……と歓喜と困惑に目を瞑る彼女をパッと解放し、おどけてウィンクを飛ばす。
「はは、わるいわるい。ところでさ、アップルパイめっちゃキレイに焼けてんな。この前、実家の水奈子さんから届いたっていう紅玉?」
「そ……そうなのだ!」
話題を変えたところ、パッと瞳を輝かせて勢いよく瑞月は話題に食いつく。正直、俺は料理に関しては初心者だ。チャーハンと野菜炒めとインスタントラーメン、市販のルーを使ったものくらいしか作れない。なので、素材の話とか、調理法とか込み入った話になってくるとよく分からない。けれど、好きな人が好きなことについて嬉々として喋っている姿を見るのはやっぱり楽しい。
「色艶もとても良くて、身が引き締まってずっしり重い良い紅玉でな! タルトタタンと迷ったのだが、やはり冬といえば温かいアップルパイがいいと思ったのだ。サクサクとしたパイの食感と、食感の残ったフィリングの組み合わせがなにより魅力的だからな!」
「なら、その自慢の一品のために、食器とお湯用意しとくかー。あ、飲みもんどうするよ。紅茶か? コーヒーか? 俺はどっちでもいいけど」
胸元でキュッと手を握り、アップルパイについて無邪気な笑顔で熱弁する瑞月はやっぱりかわいい。
弾むような彼女の口ぶりを聞きながら、俺は電気ケトルに手をかけていた。コーヒーだろうが、紅茶だろうが、どっちにしろお湯は必要だ。蛇口の下に電気ケトルを滑らせて水を注ぐと、瑞月はにっこりと、さも嬉しそうに笑った。
「それなら紅茶だな。淹れるのは私がやるから、陽介には食器とお湯の用意をお願いしたい」
「ん、りょーかい」
カチッっと軽い音を立てて、電気ケトルが台座にはまる。底に仕込まれた金属プレートが発熱して、内部の水がポコポコとにぎやかな泡を立てて沸騰した。お湯ができるまでのその間に、俺は食器棚から2人分の皿とフォーク、瑞月のお気に入りなガラスのティーポットと、小棚に収納されていた紅茶缶を取り出す。
「瑞月ー。紅茶、ここにある缶のヤツで大丈夫?」
「うん、それだ。ありがとう陽介」
パイを切り分ける瑞月が、ふんわりとほほ笑んだ。2人でおやつの準備をするキッチンには、スパイスの効いたアップルフィリングの香りと、バターのふくよかな香りが漂って、あたたかかった。
◇◇◇
ダイニングテーブルには、若草色をした落ち着いた風情のランチョンマットが二人分。
その上にある、ティーカップに入った紅茶と清潔な皿に乗っかったアップルパイは、それぞれアツアツの湯気を立てている。
瑞月によって大きめに切りとられたアップルパイ。俺はそれに迷いなくフォークを突き立てた。緻密に編みこまれたパイ生地がサクッと軽やかな音を立てて分断される。そうして贅沢な大きさで切りとった一かけらを、早急に口の中へと放りこんだ。瞬間、思わず頬に手を当てて、快哉を叫ぶ。
「うっまーい!!」
うまい。ただひたすらにウマい。舌の上に広がる、こっくりとしたアップルフィリングの甘さと酸っぱさ、そしてアーモンドクリームの香ばしい甘さに、もう噛まなくても分かった。これ絶対ウマいやつだと。
大げさな俺の反応に、向かい側のテーブルに座った瑞月が、ふっと噴き出した笑いを堪えるが、気にしない。俺はじんと染み入る感動に心を震わせながら、ゆっくりと口内のアップルパイを噛みしめた。
幾重にも折り重なり、小気味よい硬さに焼成された緻密なパイ生地が、サクサクと快い食感とともに脆く崩れた。香ばしい外壁が守っていた内側から、とろりと煮詰められたアップルフィリングの蜜が溢れる。
シナモンとクローブの香りに彩られた上品な甘さの蜜は、すっと尾を引くような優しさを残して消えていく。口惜しさに俺はもう一口パイを奥歯で噛んだ。
すると、なんということだろう。シャキシャキと絶妙な硬さに仕上げられた紅玉の甘煮から、スポンジの役割を果たし、蜜を蓄えていたアーモンドフィリングから、じゅわりと芳しいリンゴの蜜が溢れ出した。
生のリンゴ以上に、リンゴの魅力を煮詰めて引き出したアップルパイ。
俺はそれをゆっくりと噛みしめて、堪能しつくす。バターの香ばしさと、シナモンとクローブに彩られた濃厚なリンゴの芳しさを残しながら喉を滑り落ちるパイに名残惜しさを感じながらも、俺はしっかりとそれを飲み込んで、ため息まじりに告げた。
「もうさ、俺、冬って季節はお前のアップルパイのためにあると思うんだ」
「いや、そんな大げさな……。季節は地球の自転軸の傾きと太陽の関係によって生み出されるものだろう?」
「いや真面目か」
オーバーリアクションな俺の発言にクスリと笑った瑞月の、生真面目な答えがツボる。
まぁフツーこんなこと言われりゃあビックリもするわな、大げさだって。季節は自然と巡っていくものだし、何のためとか、そういう目的があって移ろうワケではない。それでも、と俺は思う。
「でもさ、おれにとってはホントなの」
軽く言うつもりだった声は、思いのほか真剣みを帯びた。ごまかそうとしたけれど、ばっちりと聞き取られてしまっていたらしい。
「陽介……?」
首を傾げ、さらりとやわらかい黒髪を揺らしながら、瑞月はパチクリと瞳を瞬かせた。曇りのない紺碧の瞳が、鏡のように俺の輪郭をくっきりと捕える。彼女の瞳に映った自分の姿に、俺は観念せざるをえなかった。だって彼女の瞳は、どんなに些細な隠し事でさえ、映し出してしまうから。
俺はひとつ、ため息をつく。それから、これから告げる言葉の照れくささに、ふいと顔を逸らした。
「なんつーか……好きなんだよ、この時間が。今日みたいな……さみー日にさ、おまえと一緒にアップルパイを食うの」
視線の先にあった窓の外を眺める。外では雪が降っていた。しんしんと、綿毛にも似てやわらかいそれが、静かに世界を銀白色に染めていく。
けれど、どんなに銀白色が積もろうと、染められないものがある。赤・青・黄色と規則正しく点滅する信号機、行く道を行きかう自動車のライト、近くのマンションからポツポツと漏れ出す照明の温白色の光。染められない、人の営みの数々。
冬は、寒くて、真っ白だ。でも、だからこそ、他の季節では明るすぎて塗りつぶされてしまうような、傍にある細やかな幸せが、鮮やかに匂い立つ。
「だから俺、冬が好きだよ。どんなに寒くても……いや、寒いからこそ、こんなあったかい場所にあるんだって、思えるから」
アップルパイは、その象徴だった。肌に沁みるような、凍れる空気を溶かす黄金 色したバターの芳香。シナモンとクローブの風味が効いた、心躍るようなアップルフィリングの甘酸っぱさ。暖房の効いた部屋の中で、ほこほこと湯気を立てる紅茶。
そして……出来立てのアップルパイを一緒に食べる俺の傍で、幸せそうに微笑む瑞月。俺にとってなによりも愛おしい、ささやかな日常の一幕たち。
一息に告げると、緊張のせいか、口から水分が引いていた。俺が語り終えると、静かな沈黙が落ちる。
「……」
瑞月は、なにか考えているのだろうか。彼女は何も言わず、俺はこそばゆさで瑞月の顔を伺うことができない。沈黙をかき混ぜるみたいに、俺は紅茶の注がれたカップを取って、口をつける。
ミルクとシナモンをすこし加えた、どこか懐かしくて、ほっとする味と温度が舌の上に広がる。やっぱりうまいな。と頬がほころぶ。
喉を潤すみたいに残りを一気に煽ると「おかわり、いる?」 と、宙に浮いたティーポットが出現した。「……おう」 俺がカップを近づけると、音を立てて注がれた熱い紅茶が、並々と空のカップの内側を満たした。お茶会はまだまだこれからだ、と言わんばかりに。
「陽介」
「ん?」
「私も、すき」
ふわりと、声が響いた。すき──たった2文字の音の響きが肌を伝って、胸を焦がす。そして彼女はまっしろい毛糸のセーターに、もふりと顔をうずめた。その頬を、色づいた林檎のように真っ赤に染めて微笑む。
「幸せそうなおまえさまを、そして……そんなおまえさまの傍にいられる時間を愛おしいと、心底思う。こうして、寒い日のあたたかい場所でなら……なおさら、な」
ド直球が炸裂した。瑞月のドストレートな告白に、みるみるうちに熱が上がる。今なら俺は、一瞬で湯を沸かす電気ケトルの代わりになれるかもしれない。
同時に、思う。ああ、やっぱりお前には敵わない。口しようとすれば躊躇 いが勝りそうなのに、それをあっさり飛び越えて、俺に愛情を届けてくれるお前に。
部屋の温度が上がった気がする。暖房の温度は変わっていないはずなのに。空のカップにあたたかい飲み物が注がれるように、心の奥深くまで熱が染みてくるのを感じて、俺は笑った。
「しあわせだなぁ」
「ああ、そうだなぁ」
のんびりと、俺たちはそう言いあった。深呼吸すると、スパイスの効いたアップルパイの香りが鼻腔を満たす。焼きあがってから時間を置いてないせいか、まだそれはあたたかい。唐突に、俺は思いついた。
「なぁ、冷蔵庫にバニラのアイスあったよな?」
「なっ……! 陽介、それは危険だ! 禁忌だ! 止まらなくなる!」
声高な瑞月の訴えを無情にも無視して、俺は冷蔵庫へとむかった。
だってこんなにも、俺はお前のおかげで、うまい思いをさせてもらっているのだ。俺だって瑞月に同じくらい、うまい思いをしてもらいたい。
そのあと、俺たち2人はバニラアイスを乗せたアップルパイを完食した。熱で溶けたバニラアイスがさっくりとしたパイ生地に絡む禁断の味を、「くっ、カロリーが……!」 と悔しがりながらも、最後には満面の笑みでおいしい、おいしいと平らげた瑞月に、俺はしてやったりと腕を組んだのだった。
そのときの、屈託のない瑞月の笑顔を見ながら、俺は不思議な予感を覚えた。
来年の冬も、再来年の冬も、その次の年も、きっとずっと、瑞月は俺の傍にいるんだろうなと。
そして、どんなに寒い年だろうと、彼女は俺が帰る場所にいて、アップルパイを焼くんだろうと。
焼き立てのアップルパイの匂いをかぎつけた俺は、いそいそとお湯と食器を準備して。瑞月がそのお湯で飲み物を淹れて。バターの香りとスパイスの効いたりんごの蜜の香りが漂うダイニングで、同じホールから切りとったアップルパイを食べるのだろう。
たあいない話をしながら、すっかり舌に馴染んだパイのひとかけを、俺はガキみたいに夢中で頬張って、そんな姿に瑞月はクスリと笑って。
そうして、俺は「しあわせだなぁ」と呟くのだ。
根拠はない。
けど、なんとなく、そんな予感がしたんだ。
具体的には、リンゴの匂いとスパイス、そしてバターのふくよかな香り。さっきまで大学のレポートの仕上げで部屋にこもっていた俺は、おっと目を見開く。
同時に暖房ですこし乾燥ぎみだった口の中に、じゅわりと唾液が沸き上がるのを感じた。芯から冷えるような冬の寒さに支配された家中を、甘くあたたかく彩るこの匂いは……あれしかない。
気づけば俺は、空腹の熊がはちみつの匂いに誘われるみたいにトコトコと廊下を歩きだしていた。
リンゴって、生の食感だとシャクシャクしてみずみずしいのに、どうして甘煮にするとあんな濃厚な蜜の匂いを漂わせるんだろうな。とろりとした甘さと、ほのかな酸味を含んだ濃厚な蜜の匂い。
漂ってくるいい匂いを道しるべにキッチンまでたどり着くと……そこには俺の嫁がいた。
すっかり見知った清潔な割烹着のすそが揺れる。俺に背を向けながら、同居人であり恋人でもある──つまり俺の実質的な嫁──瀬名瑞月は、なにやら自慢げな様子で腰に両手をあてていた。顔を見なくても分かる。とてもとてもご機嫌な、それこそ歌でも歌い出しそうな高らかさで、彼女は不敵に笑った。
「ふっふっふっ……なかなかどうしてうまく焼けたではないか」
普段はクールな彼女には珍しい、会心の笑みである。しかも近づいている俺の存在すら感づかないほど、浮かれてもいるらしい。同居している恋人としてちょっと寂しい気もするが、それも仕方ないかと静かに苦笑した。
なぜなら彼女の目の前には、見事なまでに香ばしく色づいたアップルパイが鎮座していたのだから。菓子作りに詳しくない俺でさえ、息をのんでしまうほどのツヤツヤの黄金色に焼きあがったアップルパイが白い湯気を立てている。
だが、喜びもつかの間。出来立てのアップルパイをそのままに、瑞月は気難しそうに唇を尖らせた。
「しかし……すこし焼きあがる時間が早かったな。ううむ、悩ましいことだ。せっかくうまく焼きあがったのだから、出来立てを陽介といっしょに食べたいが……レポートの邪魔になっていけないし……かといって陽介に届けてダイニングで一人で食べるのは……むむむ」
寂しいとか前言撤回。小首を傾げて俺のことを想ってくれていた彼女に、沸きたつ心を抑えながら、俺はジリジリと歩を進める。そして、俺に焼き立てのアップルパイを届ける方法をぶつぶつと模索している彼女の後方へと忍び寄った。
「そーだな。んじゃ2人で食べっか」
「ひゃうっ!? 陽介っ!?」
ぽんっと軽く肩を叩くと、不意を突かれた瑞月が
小さくなった紺碧の瞳がフルフル震えて、ほっぺたが色づいたリンゴみたいに真っ赤だ。
想定外のアクシデントにはポンコツになる。そんなところもかわいい。してやったりと、ニマニマと愛しい恋人に目を細めていると、茫然としていた瑞月はやーっと口を開いた。
「お、おまえさま、いつの間に……」
「瑞月が腕組みしてたとこからかな。こう、むん! って胸張りながら不敵に笑って────」
「よりにもよって、どうしてその場面から!?」
「いや~~、アップルパイの甘い匂いに誘われまして。つか、やっぱ出来立ての匂いってサイコーだな」
すんすんと、俺は鼻を鳴らして焼き立てのアップルパイの匂いを堪能する。
アップルパイは、瑞月の得意料理の一つだ。
冬になると、彼女は毎年アップルパイを焼く。これがまた絶品で、俺にとっては毎年の楽しみでもあるのだ。冬が深まれば深まるほどに、待ち遠しく、うまさも増す瑞月のアップルパイ。
今年もそろそろ……と待っていたけれど、まさかレポートが仕上がったタイミングでお目にかかれるとは、最高のご褒美だ。
ちょっと浮かれて、俺は瑞月を抱きしめる。「ひゃっ!?」 びっくりした声が上がるけど、突き放さないところを見るに嫌がってはいない。これ好都合と、俺はうりうりと腕の中の彼女に顔を寄せた。
「部屋ンなか缶詰んなってレポート終わらせた甲斐がありましたわ。お前が『ふっふっふ……』なーんて、古い悪役みたいに笑ってるオモシロシーンも見れましたし」
「わー、わーー!! 聞こえないーー! そんな恥ずかしい笑い方は記憶にないーー!」
恥ずかしいって言ってる時点で、認めたようなものである。照れてジタバタする彼女がいじらしくってかわいくって、もっと構いたくなるけれど、それはやめておく。あんまり揶揄うと顰蹙を買うので、こういうのはほどほどの匙加減に留めておくのがコツなのだと、長く瑞月と一緒にいるうちに学んだのだ。(いつまでも『ガッカリ王子』なんて言わせない)あわわわ……と歓喜と困惑に目を瞑る彼女をパッと解放し、おどけてウィンクを飛ばす。
「はは、わるいわるい。ところでさ、アップルパイめっちゃキレイに焼けてんな。この前、実家の水奈子さんから届いたっていう紅玉?」
「そ……そうなのだ!」
話題を変えたところ、パッと瞳を輝かせて勢いよく瑞月は話題に食いつく。正直、俺は料理に関しては初心者だ。チャーハンと野菜炒めとインスタントラーメン、市販のルーを使ったものくらいしか作れない。なので、素材の話とか、調理法とか込み入った話になってくるとよく分からない。けれど、好きな人が好きなことについて嬉々として喋っている姿を見るのはやっぱり楽しい。
「色艶もとても良くて、身が引き締まってずっしり重い良い紅玉でな! タルトタタンと迷ったのだが、やはり冬といえば温かいアップルパイがいいと思ったのだ。サクサクとしたパイの食感と、食感の残ったフィリングの組み合わせがなにより魅力的だからな!」
「なら、その自慢の一品のために、食器とお湯用意しとくかー。あ、飲みもんどうするよ。紅茶か? コーヒーか? 俺はどっちでもいいけど」
胸元でキュッと手を握り、アップルパイについて無邪気な笑顔で熱弁する瑞月はやっぱりかわいい。
弾むような彼女の口ぶりを聞きながら、俺は電気ケトルに手をかけていた。コーヒーだろうが、紅茶だろうが、どっちにしろお湯は必要だ。蛇口の下に電気ケトルを滑らせて水を注ぐと、瑞月はにっこりと、さも嬉しそうに笑った。
「それなら紅茶だな。淹れるのは私がやるから、陽介には食器とお湯の用意をお願いしたい」
「ん、りょーかい」
カチッっと軽い音を立てて、電気ケトルが台座にはまる。底に仕込まれた金属プレートが発熱して、内部の水がポコポコとにぎやかな泡を立てて沸騰した。お湯ができるまでのその間に、俺は食器棚から2人分の皿とフォーク、瑞月のお気に入りなガラスのティーポットと、小棚に収納されていた紅茶缶を取り出す。
「瑞月ー。紅茶、ここにある缶のヤツで大丈夫?」
「うん、それだ。ありがとう陽介」
パイを切り分ける瑞月が、ふんわりとほほ笑んだ。2人でおやつの準備をするキッチンには、スパイスの効いたアップルフィリングの香りと、バターのふくよかな香りが漂って、あたたかかった。
◇◇◇
ダイニングテーブルには、若草色をした落ち着いた風情のランチョンマットが二人分。
その上にある、ティーカップに入った紅茶と清潔な皿に乗っかったアップルパイは、それぞれアツアツの湯気を立てている。
瑞月によって大きめに切りとられたアップルパイ。俺はそれに迷いなくフォークを突き立てた。緻密に編みこまれたパイ生地がサクッと軽やかな音を立てて分断される。そうして贅沢な大きさで切りとった一かけらを、早急に口の中へと放りこんだ。瞬間、思わず頬に手を当てて、快哉を叫ぶ。
「うっまーい!!」
うまい。ただひたすらにウマい。舌の上に広がる、こっくりとしたアップルフィリングの甘さと酸っぱさ、そしてアーモンドクリームの香ばしい甘さに、もう噛まなくても分かった。これ絶対ウマいやつだと。
大げさな俺の反応に、向かい側のテーブルに座った瑞月が、ふっと噴き出した笑いを堪えるが、気にしない。俺はじんと染み入る感動に心を震わせながら、ゆっくりと口内のアップルパイを噛みしめた。
幾重にも折り重なり、小気味よい硬さに焼成された緻密なパイ生地が、サクサクと快い食感とともに脆く崩れた。香ばしい外壁が守っていた内側から、とろりと煮詰められたアップルフィリングの蜜が溢れる。
シナモンとクローブの香りに彩られた上品な甘さの蜜は、すっと尾を引くような優しさを残して消えていく。口惜しさに俺はもう一口パイを奥歯で噛んだ。
すると、なんということだろう。シャキシャキと絶妙な硬さに仕上げられた紅玉の甘煮から、スポンジの役割を果たし、蜜を蓄えていたアーモンドフィリングから、じゅわりと芳しいリンゴの蜜が溢れ出した。
生のリンゴ以上に、リンゴの魅力を煮詰めて引き出したアップルパイ。
俺はそれをゆっくりと噛みしめて、堪能しつくす。バターの香ばしさと、シナモンとクローブに彩られた濃厚なリンゴの芳しさを残しながら喉を滑り落ちるパイに名残惜しさを感じながらも、俺はしっかりとそれを飲み込んで、ため息まじりに告げた。
「もうさ、俺、冬って季節はお前のアップルパイのためにあると思うんだ」
「いや、そんな大げさな……。季節は地球の自転軸の傾きと太陽の関係によって生み出されるものだろう?」
「いや真面目か」
オーバーリアクションな俺の発言にクスリと笑った瑞月の、生真面目な答えがツボる。
まぁフツーこんなこと言われりゃあビックリもするわな、大げさだって。季節は自然と巡っていくものだし、何のためとか、そういう目的があって移ろうワケではない。それでも、と俺は思う。
「でもさ、おれにとってはホントなの」
軽く言うつもりだった声は、思いのほか真剣みを帯びた。ごまかそうとしたけれど、ばっちりと聞き取られてしまっていたらしい。
「陽介……?」
首を傾げ、さらりとやわらかい黒髪を揺らしながら、瑞月はパチクリと瞳を瞬かせた。曇りのない紺碧の瞳が、鏡のように俺の輪郭をくっきりと捕える。彼女の瞳に映った自分の姿に、俺は観念せざるをえなかった。だって彼女の瞳は、どんなに些細な隠し事でさえ、映し出してしまうから。
俺はひとつ、ため息をつく。それから、これから告げる言葉の照れくささに、ふいと顔を逸らした。
「なんつーか……好きなんだよ、この時間が。今日みたいな……さみー日にさ、おまえと一緒にアップルパイを食うの」
視線の先にあった窓の外を眺める。外では雪が降っていた。しんしんと、綿毛にも似てやわらかいそれが、静かに世界を銀白色に染めていく。
けれど、どんなに銀白色が積もろうと、染められないものがある。赤・青・黄色と規則正しく点滅する信号機、行く道を行きかう自動車のライト、近くのマンションからポツポツと漏れ出す照明の温白色の光。染められない、人の営みの数々。
冬は、寒くて、真っ白だ。でも、だからこそ、他の季節では明るすぎて塗りつぶされてしまうような、傍にある細やかな幸せが、鮮やかに匂い立つ。
「だから俺、冬が好きだよ。どんなに寒くても……いや、寒いからこそ、こんなあったかい場所にあるんだって、思えるから」
アップルパイは、その象徴だった。肌に沁みるような、凍れる空気を溶かす
そして……出来立てのアップルパイを一緒に食べる俺の傍で、幸せそうに微笑む瑞月。俺にとってなによりも愛おしい、ささやかな日常の一幕たち。
一息に告げると、緊張のせいか、口から水分が引いていた。俺が語り終えると、静かな沈黙が落ちる。
「……」
瑞月は、なにか考えているのだろうか。彼女は何も言わず、俺はこそばゆさで瑞月の顔を伺うことができない。沈黙をかき混ぜるみたいに、俺は紅茶の注がれたカップを取って、口をつける。
ミルクとシナモンをすこし加えた、どこか懐かしくて、ほっとする味と温度が舌の上に広がる。やっぱりうまいな。と頬がほころぶ。
喉を潤すみたいに残りを一気に煽ると「おかわり、いる?」 と、宙に浮いたティーポットが出現した。「……おう」 俺がカップを近づけると、音を立てて注がれた熱い紅茶が、並々と空のカップの内側を満たした。お茶会はまだまだこれからだ、と言わんばかりに。
「陽介」
「ん?」
「私も、すき」
ふわりと、声が響いた。すき──たった2文字の音の響きが肌を伝って、胸を焦がす。そして彼女はまっしろい毛糸のセーターに、もふりと顔をうずめた。その頬を、色づいた林檎のように真っ赤に染めて微笑む。
「幸せそうなおまえさまを、そして……そんなおまえさまの傍にいられる時間を愛おしいと、心底思う。こうして、寒い日のあたたかい場所でなら……なおさら、な」
ド直球が炸裂した。瑞月のドストレートな告白に、みるみるうちに熱が上がる。今なら俺は、一瞬で湯を沸かす電気ケトルの代わりになれるかもしれない。
同時に、思う。ああ、やっぱりお前には敵わない。口しようとすれば
部屋の温度が上がった気がする。暖房の温度は変わっていないはずなのに。空のカップにあたたかい飲み物が注がれるように、心の奥深くまで熱が染みてくるのを感じて、俺は笑った。
「しあわせだなぁ」
「ああ、そうだなぁ」
のんびりと、俺たちはそう言いあった。深呼吸すると、スパイスの効いたアップルパイの香りが鼻腔を満たす。焼きあがってから時間を置いてないせいか、まだそれはあたたかい。唐突に、俺は思いついた。
「なぁ、冷蔵庫にバニラのアイスあったよな?」
「なっ……! 陽介、それは危険だ! 禁忌だ! 止まらなくなる!」
声高な瑞月の訴えを無情にも無視して、俺は冷蔵庫へとむかった。
だってこんなにも、俺はお前のおかげで、うまい思いをさせてもらっているのだ。俺だって瑞月に同じくらい、うまい思いをしてもらいたい。
そのあと、俺たち2人はバニラアイスを乗せたアップルパイを完食した。熱で溶けたバニラアイスがさっくりとしたパイ生地に絡む禁断の味を、「くっ、カロリーが……!」 と悔しがりながらも、最後には満面の笑みでおいしい、おいしいと平らげた瑞月に、俺はしてやったりと腕を組んだのだった。
そのときの、屈託のない瑞月の笑顔を見ながら、俺は不思議な予感を覚えた。
来年の冬も、再来年の冬も、その次の年も、きっとずっと、瑞月は俺の傍にいるんだろうなと。
そして、どんなに寒い年だろうと、彼女は俺が帰る場所にいて、アップルパイを焼くんだろうと。
焼き立てのアップルパイの匂いをかぎつけた俺は、いそいそとお湯と食器を準備して。瑞月がそのお湯で飲み物を淹れて。バターの香りとスパイスの効いたりんごの蜜の香りが漂うダイニングで、同じホールから切りとったアップルパイを食べるのだろう。
たあいない話をしながら、すっかり舌に馴染んだパイのひとかけを、俺はガキみたいに夢中で頬張って、そんな姿に瑞月はクスリと笑って。
そうして、俺は「しあわせだなぁ」と呟くのだ。
根拠はない。
けど、なんとなく、そんな予感がしたんだ。
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