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招かれた恋人の部屋は、馴染みある彼女の香りで満ちていた。おだやかに甘い瀬名瑞月の香りは、いつだって俺を落ち着かせてくれる。しかし、今日は別だ。深呼吸を繰り返そうとも、俺の中にあるイラだちは収まりがつかない。
「ったぁく……里中と完二とクマの野郎、俺の誕生日だってのに、昼休みに遠慮せず瑞月の弁当あらかた食いやがって」
「まぁまぁ。お弁当はまた作れるから、そんなに引きずらないで」
瑞月が苦笑しながら慰めてくれるけれど、どうも腹の虫が収まらない。たかがメシのことと思ったそこのみなさま(どこの誰だよ)。ただメシのことと呆れることなかれ。こと相棒から「陽介は優しすぎる」と時折心配される俺だが、瑞月が作るメシに関しては寛容さが不足している節がある。
仕方ないのである。なんたって俺は、料理上手な瑞月が作る料理に胃袋を掴まれているのだから。俺は愚痴を続けた。
「だってさぁ、瑞月が作った料理だったんだぜ? なのにあいつら『花村、この世は弱肉強食なんだよ?』とか『先輩、こういう場では主役は何があってもどっしり構えてるもんスよ』『そークマよ。年上のヨユーってヤツを見せるクマ』とかいって、肉の段7……いや8割平らげやがって……」
「はい、絶妙に声マネの上手い恨み節はそこまで。せっかくコーヒーを淹れてきたのだから、冷めないうちに飲んでおくれ。それに肉料理くらい、またいくらでも作るから」
瑞月が俺の目の前のローテーブルにコーヒーを差し出してくれる。友人たちの暴挙に怒れる俺はコロリと態度を変え、「サンキュ」と弾んだ声で礼を告げてから瑞月のコーヒーを口に含んだ。
丁寧に淹れられたと分かる香ばしさが鼻腔をくすぐり、スッキリしたクセのない苦味と豆の旨みが口いっぱいに広がった。ゴクリとそれを飲み干すと、俺を渋い気持ちにしていた昼休みの記憶も洗い流される。行きつけの店で豆を選んでから挽いたというそれは、やっぱウマイ。
コーヒーの旨さにホクホクと笑顔になる俺を、瑞月は嬉しそうに、ふふふと見つめている。
「それにそのおかげで、ケーキを美味しく食べられると思おうじゃないか。……実は今回の、かなり自信作なんだ」
『自信作』という単語を、俺の耳は聞き逃さなかった。キラリと期待に目を輝かせた俺に、瑞月はふっふっふと脇から真っ白いケーキボックスを取り出す。
「では陽介、おまえさま、改めてお誕生日おめでとう」
そうして瑞月はブーケに挿す生花のように華やいで笑った。昼間にも聴いた言葉だけれど、正面から笑顔で祝われると、照れくさくて俺はへへっと鼻の下をこすってしまう。
きたる6月22日 ──すなわち俺の誕生日。どうしても俺の誕生日を2人で祝いたいという瑞月の希望により、俺たちは瑞月の自宅で2人だけの誕生パーティーを開催している。
ちなみに古い付き合いである特捜隊の面々からはもう祝ってもらった。今日は学校があったから、昼休みの屋上にて誕生パーティーを開催してくれたのである。瑞月が拵えてくれた弁当を食い尽くされるというハプニングはあったが、みんなが心から祝ってくれる気持ちが伝わってくる、とても嬉しいものだった。
みんなの想い、そして何よりも、世界一いとしい恋人からの想いを受けて、俺の心はポカポカと温かいもので満たされていく。
「おう。ありがとな」
「うむ。ではでは祝いの言葉はここまでにして、早速ケーキのお披露目といこうではないか!」
俺の礼を合図に、瑞月はケーキボックスに手をかけた。パカリと開いた内側から引き出されたケーキに、俺の目は釘付けになる。
「ふふふ。おまえさまはフルーツが好きだとのことだったのでな。旬のオレンジで作ってみたのだ。オレンジレアチーズタルト!」
瑞月の手作りケーキ──それはフルーツタルトだった。太陽の恵みを燦々と浴びたと分かる瑞々しい橙色のオレンジが、ドレスの裾を広げたみたいにタルトの中心に華麗に並べられて、彩りのために散らされたブルーベリーとなんか赤い木の実(アカスグリってヤツ?)が宝石のごとくツヤツヤ輝く。
タルトの縁は真っ白なクリームのレースで華やかに飾られていて眩しい。こんもりと盛られたオレンジの丘の斜面には、チョコレートボードが立てかけられていて、『Happy birthday Yousuke Hanamura 』と流麗なアルファベットが綴られていた。新鮮なオレンジの爽やかな香りと香ばしく焼かれたクッキーの台座が生み出す甘い芳香に、俺の口内に唾が沸き上がる。
「おおおぉっ、すっげー……」
「ふっふーん、そうだろうそうだろう。見た目も、味も、『すごい』と言ってもらえるよう試行錯誤したのでな」
「……もしかして、またたくさん練習した? バレンタインのときみたく」
「…………」
ふいっと瑞月が視線を横に逸らす。でも真っ赤になった耳が隠れてねーよお前……。なんでそこんとこポンコツなんだよ……。あまりの愛おしさに俺は瑞月に飛びついて、丸っこい頭を撫でてやりたくなった。だがそれをぐっと堪え、俺は何とかスマホを取り出す。
だってこんな宝石みたいなケーキ、撮っておかなかったらもったいないじゃん……!
「なぁ写真撮っていいか写真!? コレお前が作ってくれたってことでずっと残しておきたいから」
「うん、いいよ。じゃあ、私が撮ろうか? どうせならケーキとおまえさま、一緒に写ったほうがいいだろう?」
「マジで!?」
ワーワーと大興奮ではしゃぐ俺に、瑞月はくすくすと口許を押さえながら「うん」と頷く。俺のカノジョやさしい……! 好き! 感動しながら俺はスマホを受け渡そうとする。が、しかし俺はあることに気がついてしまった。
ダメだ、瑞月に撮ってもらうとしたら、ツーショット写真が取れなくなってしまう。それはイヤだ。せっかく迎えた、彼女と過ごす初めての誕生日。せっかく手間ひまかけてケーキまで用意してくれた彼女をハブって、一人で写真に映るなんてできない。
「瑞月、やっぱ……こっち来てくれる?」
「……? 別に良いが……どうするんだ?」
「その、あのな……ごめん肩組んで」
「…………………………ひえぇっ!?」
すすっと素直に膝を近づけてくる瑞月の肩に腕をまわす。それからグッと身体を引き寄せると、瑞月が可愛らしい悲鳴を上げた。……ついでに白まんじゅうみたいな柔肌ほっぺが、瞬間で紅まんじゅうに変わる。やれめでたい。そして付き合ってしばらく経つというのにいきなり抱きつくと、いきなり真っ赤になるウブさかわいい。やれ愛でたい。俺のカノジョは毎日かわいい。
先ほどのはしゃいだ様子から一転して真っ赤になって「あ、あぅ……」と大人しくなる瑞月をいいことに──パシャリ──俺は掲げたスマホのシャッターを切った。スマホの画面を確認すると……うん。ちょっとケーキが小さくなっちまったけど、チョコボードの文字も読めるし、何より瑞月がかわいいから、いいだろ。俺の方も中々いい笑顔を浮かべている。
結構いい写真撮れてるなーなんてニマニマしてたら、恥ずかしがった瑞月に胸元をぽかぽかされた。やっぱりいきなり抱きつかれた上に、真っ赤になった顔面をレンズに納められたのがよほど不服だったらしい。
でも撮れた写真を見せてやると、幸せそうな写真の出来を気に入ったのか、ちょっとむくれながら許してくれた。そのお詫びは後日するとして、この写真はしばらく待ち受けにして受験勉強とかで疲れたときに眺めて糧にしよう。
「ん~~~~~~~!! うっま!」
瑞月が作ったフルーツタルトは思った通り絶品だった。俺は一口頬張って、とけ落ちそうになる頬を押さえる。
タルト生地はサックサクだし、フィリングになってるチーズケーキがウマい! レアチーズのまったりとしたコクが、ほんのり香るレモンの風味で存在感を増して、熟したフルーツたちの甘酸っぱさと合わさってメチャクチャ美味しい。チーズとフルーツの欲張り味わいセットだ。これはヨユーでホール平らげられる。
里中たちありがとうな。さんざ昼の弁当かっさらわれたこと根に持ってたけど、今ならお前らにお礼言えるわ。なぜなら空腹によって瑞月のフルーツタルトがいっそう旨く思えるから。
フォークで切り分け、うまうまとタルトを口に運んでは喜ぶ俺に、瑞月はほっと柔和な笑みを浮かべた。
「……良かった。味は確かめていたが、やはりおまえさまが『美味しい』と言ってくれると、ホッとするな」
「うん、めっちゃウマ! メシだろうとお菓子だろうと、瑞月の料理マジックは健在だな!」
「本当にしあわせそうだな。そこまで喜んで貰えると、作り手冥利につきる」
きーっ! と悔しがる脳内里中とクマは置いといて、俺は瑞月との雑談交じりにフォークを繰る手を進めた。フルーツうめぇ、チーズの部分がウマイとか楽しみながら食べ進めていると、カツとフォークが空の皿を叩いた。
「ふふ、おかわりをご所望かな?」
「おう!」
タイミングよく瑞月が切り分けたケーキを掲げてくれたので、もちろん快諾。ひきつづき、もはや菓子店開けるレベルのタルトに舌鼓を打っている俺を、瑞月はニコニコと、それはそれは幸せそうに見守っていた。
そういえば、と瑞月の皿を見やると……やっぱり。瑞月の目の前には、ちっとも手をつけていないタルトがひとつ。コイツ俺の食ってるとこ見てばっかで、自分は全然食ってねぇな?
「あのさ、瑞月は食わねーの? せっかく作ったのに」
「ん? 私も食べるよ。でも私は試作で結構食べたし……」
そういって、彼女は桜色に染まった頬を抑えながら、蕩けるような笑顔で微笑む。
「なによりもいまは、陽介の幸せそうな笑顔でお腹がいっぱいだから、もう少しこの幸せに浸っていたいんだ」
「…………ふーん」
うーん、恋人の幸せそうな笑顔プライスレス。瑞月の笑顔にあてられて、ちょっと俺はクラっときた。でも踏みとどまる。ここで倒れて瑞月の喜びに泥を塗る訳にはいかんのだ。よく耐えたぞ俺。
(でも……)
ひたむきな好意が嬉しいのは確かだ。だけどちょっと物足りない俺がいる。だって、こんなに美味しいものなら一緒に食べて、その楽しさを分かち合いたいじゃん? なんて考えていると、俺の脳裏に妙案が浮かんだ。
早速、俺はタルトを切り分けた。サックリと一番美味しそうな部分をフォークで取ると、瑞月に向けてニヤッと企むように笑う。ん? と小首を傾げる瑞月の目前にケーキを差し出した。
「な、瑞月。あーん」
「……え」
「満腹でも、甘いものは別腹って言うだろ? だから……あーん」
「え、あ……い、いや……でもそれは……んっ」
躊躇いなど封じてくれるとばかりに、俺は瑞月の唇にふにっとタルトを押し当てた。逃げ道を塞がれた瑞月はあわれぷるぷると小動物のように身体を震わせる。
涙ぐんだ紺碧の瞳には、悪そうに口の端を弾ませた楽しそうな俺が写っている。そう、瑞月だったら俺にこういうことをされても嫌がらない。たとえ羞恥に心臓が張り裂けそうでもその実、喜んでいることを俺は知っている。だからこその『あーん』だった。
「ふっ……ん……」
思惑どおり、瑞月がきれいな唇を開いた。おれは鳥の雛に餌を与えるみたいに、そぉっとタルトの欠片を届けて、ゆっくりと引き抜く。瑞月に手づから物を食べさせる、なんともいえない幸福感を味わった。
こくんと華奢な喉が上下するのを見届けて、涙目でプルプル口許を押さえる瑞月にむかって俺はにっこりと笑った
「…………どう? うまい?」
「……あみゃくて、とりょけりゅ」
「うわー、ホントに溶けた」
滑舌が見事に溶けていた。舌ったらずになった瑞月にカラカラと俺は笑う。しゅーっと蒸気を吹き出しうつむく瑞月の背を俺はよしよしと撫でてやる。そうするとだんだん瑞月は落ち着いて、もじもじと人差し指同士をつつき合わせる。
「陽介、ずるい。本当は私が、おまえさまにしてあげようと思っていたのに」
「早い者勝ちなんでな。……てか、なんでそんなにプルプルしてんだよ。付き合う前はお前へーきで俺に『あーん』してきたのに」
「だ、だって……! ともだちとして『あーん』するのと、おまえさまに恋人としての慈しみを込められて『あーん』されるのでは……嬉しさが段違いというか……ごにょごにょ」
「ふーん。俺に『あーん』されるのそんな嬉しいんだ? なら……もっとやっちゃおっかな~~」
「はっ!?!?!?」
目を白黒させている瑞月に、俺はタルトをもうひとかけ、その小ぶりで整った唇に運んだ。俺の悪戯に悶える瑞月の可愛らしい姿を、俺は幸福感とともにしっかりと目に焼きつけておいた。
こほんっと、俺にさんざ恥ずかしい思いをさせられた瑞月が咳払いをする。なんとか地に墜ちた威厳を取り戻したいと見える仕草が微笑ましい。俺がだらしなくニマニマしていると、瑞月は懐からスチャッっとあるもの取り出した。
「あ……」
紺色のリボンがかけられて、小さなひまわりの造花が飾られた白い箱。それに俺は見覚えがあった。だって、俺が去年の今日、瑞月に贈られたものと同じだったから。懐かしい驚きに目を見張る俺にむけて、瑞月は淡く染めた頬で微笑んだ。
「ふふ。驚いて頬が固まっているな? ……陽介、私からの誕生日プレゼントだ。去年の装飾が好評だったので、今年も同じようにしてみた」
「……ああ、あんがとな。なんか……去年のこと思い出して、すっげ幸せだわ」
「そういってくれて嬉しいが、まだお礼は早いな。どうか、開けてみてはくれないか?」
そういうと、瑞月は俺の手のひらにそっと誕プレを乗せてくれる。しかし、きれいな装飾とは反対に、どこか不安げだ。でも、「開けてほしい」という声のない願いがソワソワと漏れでていて。
俺はうんと頷いて、ゆらゆら揺らぐ紺碧の瞳を前に、丁寧に掛けられたリボンを解いた。
なかに入っていたのは、鞣したての光沢が上品な、革細工の小物入れだ。ブラウンの洗練されたデザインながら、飾りとしてあしらわれたストライプの飾り布がカジュアルな雰囲気を醸し出している。
「……財布?」
「……うん。見たところ、おまえさまが使っているお財布は、結構な年数使っているみたいだったから。もしよかったらその後継にと思って。……お気に召しただろうか?」
「え、メッチャ気に入ったんだけど。つかコレ、結構良いヤツじゃんか!」
舞い上がった俺の、嬉々とした声は大になってしまった。大人っぽいけど適度に遊び心があり、キザったらしくない感じが俺の好みドストライクで、贈り物だとかそういうの関係なく、毎日デザイン見たさに使ってしまいそうだ。
ウキウキと贈り物全体を眺める俺に、瑞月の華奢な肩を強ばらせていた緊張が消え去る。
「うん。普段から使うものだから、物持ちの良いものを贈りたいと思ってな。確認したところ、カードや小銭もわりと収納できるし、ICカードも入れられるし、スキミングも防止してくれるらしい」
「うわ、すっげー実用的」
「それは当然、おまえさまの役に立ってほしいから。おまえさまが普段使ってるお財布とは、ちょっとデザインの方向性が違うから、気に入ってくれるかが心配だったんだけど……」
「あー、あれなぁ……。まぁ、中学の頃から使ってっからなぁ」
「そうなのか。結構長いな」
たしかにいま使ってる財布は、付き合いが長い。デザインだって、中学生にしては大人びたって感じのフェイクレザーで、高校生が使っているには少しだけ幼い感じがする。しかも、ところどころヨレてるし。
自分でも買い替えた方がいいかな。なんて時々思ったけど、愛着があるからなんとなく使い続けていたのだ。興味深そうにする瑞月に、俺はポツポツと思い出話を明かす。
「中学ん頃、まぁいっちょ前にファッション誌なんて読み出すようになってさ。『カッコいい男は小物から!』なんて謳い文句に乗せられて、そんで、なんかいいのないかな? なんて思って探したらさ、そのデザインがドンピシャで、小遣い貯めて買ったの」
「……そうか。陽介にとっては思い出の品なんだな」
べつになんの変哲もない、どこにでもいる中学生の思い出話。それなのに、まるで楽しい冒険譚の読み聞かせでも聴くみたいに、瑞月はうんうんと楽しそうに表情を輝かせる。清々しい青空に白い花吹雪を散らしたようにキラキラ輝く瑞月の瞳に、面映ゆさを覚えながら俺は話を続けた。
「まぁな。ゲームとか、だらだら買ってたスナックとか、そういうの我慢して、たまに家の手伝いとかしてさ、そんで貯まった金抱えて、店にいってワクワクしながら買って」
胸の中にそのときの、感動とか達成感、高揚感が色鮮やかによみがえって、ふっと俺は微笑む。
「嬉しかったなぁ……。ピカピカの財布抱えたまま、ベッドで跳び跳ねてさ。そんで『静かにしろ!』ってお袋に怒られるまでがセット」
「……なんというか、陽介らしいな」
話を聞き終えた瑞月が、ふんわり笑う。そのやわらかい表情には、何か見守るみたいな優しさがあって、俺はこそばゆさに頭を掻いた。
「へへ、だろー? 最後にはしゃぎすぎて怒られるのが変わってねーっつか」
「それもそうかもしれないが……私は、陽介が昔からまっすぐで頑張り屋だったんだな。って思ったかな」
「へ……」
耳朶を打つ、草原に響く縦笛みたいに澄んだ瑞月の声。予想外の誉め言葉に呆気に取られていると、俺はふわりと甘い香りに包まれた。
「あ……」
遅れて感じた馴染みのある体温に、俺は瑞月に抱き締められているのだと知った。宝物のように俺の身体を胸の中におさめながら、瑞月はゆっくりと慈しむように俺の髪を撫でる。
「お金の使い方を見直したり、お母様のお手伝いをしたり……そうやって少しづつ頑張ってお金を貯めた努力が実を結んだ……思い入れのあるお財布なんだな。……ありがとう陽介。そのお話を聴けてよかった」
瑞月が不意に身体を離す。けれども今度は、すべらかな両手で頬を包んで、俺をまっすぐに見つめてくるからトクリと胸があまく高鳴る。瞳を交えながら、春の木漏れ日に似たぬくもりを伴った笑みで瑞月は告げる。
「だって私は自分のためにも、誰かのためにもバイトを頑張る陽介の姿が好きだから、その原点となるお話が聴けて……何事にも一生懸命取り組む陽介が大好きだから、そんな陽介を形づくる大切な記憶のお話が聴けて、とても嬉しかったんだ」
すっと瑞月が息を継いだ。
「ありがとう陽介。生まれてきてくれて、苦労も幸福も重ねながら、ここまで生きてくれて。私と……出会ってくれて。私は……瀬名瑞月は、そんな花村陽介が大好きで、心から愛しています」
いままでも、これからも、ずっと。
「────ッ!!」
そう結ばれた祝福の言葉に、俺の内側からぶわっと快哉の波が押し寄せた。両の手を広げ、俺は瑞月を思いきり抱き締める。離れたくない、離したくない。ドクドクと高鳴った鼓動が、打ち震える身体が示す感情がひとかけらも残さず、彼女に伝わるように。
「俺も……その、愛してる。……あいしてる、瑞月。財布も、お前のことも……一生、だいじにするから」
『愛してる』なんて壮大な響きが照れ臭くて、恥ずかしくて。なんとかいい終えたはいいけど、頬がカッと熱くなった。けれど……まるで『良くできました』と言わんばかりに、瑞月は俺の背中をゆるゆると撫でる。
「ふふっ。まぁ、私についてそうしてくれるのは知っているが、お財布は……少し厳しいな。物は使っていれば、いつかお役目を終えるし、おまえさまの好みも変わるだろうから」
ふふふと、困ったように瑞月が笑った。初夏だし、冷房が効いているこの部屋でも互いに密着するなんて熱苦しいだろうに、瑞月は文句のひとつだって言わない。それどころか人懐こく頬を擦り寄せて、こういった。
「だから、また機会が来て陽介がご入り用だったら、私が似合うものを用意するから」
そのときが楽しみだな?
いたずらっ子のように、腕のなかの彼女は無邪気に笑う。その声がずっと俺の身体に心地よく響くから、俺はもっと聴いていたくて瑞月を抱き締めた。────ハッピバースデートゥーユー。瑞月の、世界で一番いとおしい鼓動をリズムに、ささやかな祝福の優しいひびきが耳元でずっとこだましていた。
──── Happy birthday Yousuke Hanamura. Many blessings to you and those with whom you meet.
「ったぁく……里中と完二とクマの野郎、俺の誕生日だってのに、昼休みに遠慮せず瑞月の弁当あらかた食いやがって」
「まぁまぁ。お弁当はまた作れるから、そんなに引きずらないで」
瑞月が苦笑しながら慰めてくれるけれど、どうも腹の虫が収まらない。たかがメシのことと思ったそこのみなさま(どこの誰だよ)。ただメシのことと呆れることなかれ。こと相棒から「陽介は優しすぎる」と時折心配される俺だが、瑞月が作るメシに関しては寛容さが不足している節がある。
仕方ないのである。なんたって俺は、料理上手な瑞月が作る料理に胃袋を掴まれているのだから。俺は愚痴を続けた。
「だってさぁ、瑞月が作った料理だったんだぜ? なのにあいつら『花村、この世は弱肉強食なんだよ?』とか『先輩、こういう場では主役は何があってもどっしり構えてるもんスよ』『そークマよ。年上のヨユーってヤツを見せるクマ』とかいって、肉の段7……いや8割平らげやがって……」
「はい、絶妙に声マネの上手い恨み節はそこまで。せっかくコーヒーを淹れてきたのだから、冷めないうちに飲んでおくれ。それに肉料理くらい、またいくらでも作るから」
瑞月が俺の目の前のローテーブルにコーヒーを差し出してくれる。友人たちの暴挙に怒れる俺はコロリと態度を変え、「サンキュ」と弾んだ声で礼を告げてから瑞月のコーヒーを口に含んだ。
丁寧に淹れられたと分かる香ばしさが鼻腔をくすぐり、スッキリしたクセのない苦味と豆の旨みが口いっぱいに広がった。ゴクリとそれを飲み干すと、俺を渋い気持ちにしていた昼休みの記憶も洗い流される。行きつけの店で豆を選んでから挽いたというそれは、やっぱウマイ。
コーヒーの旨さにホクホクと笑顔になる俺を、瑞月は嬉しそうに、ふふふと見つめている。
「それにそのおかげで、ケーキを美味しく食べられると思おうじゃないか。……実は今回の、かなり自信作なんだ」
『自信作』という単語を、俺の耳は聞き逃さなかった。キラリと期待に目を輝かせた俺に、瑞月はふっふっふと脇から真っ白いケーキボックスを取り出す。
「では陽介、おまえさま、改めてお誕生日おめでとう」
そうして瑞月はブーケに挿す生花のように華やいで笑った。昼間にも聴いた言葉だけれど、正面から笑顔で祝われると、照れくさくて俺はへへっと鼻の下をこすってしまう。
きたる6月22日 ──すなわち俺の誕生日。どうしても俺の誕生日を2人で祝いたいという瑞月の希望により、俺たちは瑞月の自宅で2人だけの誕生パーティーを開催している。
ちなみに古い付き合いである特捜隊の面々からはもう祝ってもらった。今日は学校があったから、昼休みの屋上にて誕生パーティーを開催してくれたのである。瑞月が拵えてくれた弁当を食い尽くされるというハプニングはあったが、みんなが心から祝ってくれる気持ちが伝わってくる、とても嬉しいものだった。
みんなの想い、そして何よりも、世界一いとしい恋人からの想いを受けて、俺の心はポカポカと温かいもので満たされていく。
「おう。ありがとな」
「うむ。ではでは祝いの言葉はここまでにして、早速ケーキのお披露目といこうではないか!」
俺の礼を合図に、瑞月はケーキボックスに手をかけた。パカリと開いた内側から引き出されたケーキに、俺の目は釘付けになる。
「ふふふ。おまえさまはフルーツが好きだとのことだったのでな。旬のオレンジで作ってみたのだ。オレンジレアチーズタルト!」
瑞月の手作りケーキ──それはフルーツタルトだった。太陽の恵みを燦々と浴びたと分かる瑞々しい橙色のオレンジが、ドレスの裾を広げたみたいにタルトの中心に華麗に並べられて、彩りのために散らされたブルーベリーとなんか赤い木の実(アカスグリってヤツ?)が宝石のごとくツヤツヤ輝く。
タルトの縁は真っ白なクリームのレースで華やかに飾られていて眩しい。こんもりと盛られたオレンジの丘の斜面には、チョコレートボードが立てかけられていて、『Happy birthday Yousuke Hanamura 』と流麗なアルファベットが綴られていた。新鮮なオレンジの爽やかな香りと香ばしく焼かれたクッキーの台座が生み出す甘い芳香に、俺の口内に唾が沸き上がる。
「おおおぉっ、すっげー……」
「ふっふーん、そうだろうそうだろう。見た目も、味も、『すごい』と言ってもらえるよう試行錯誤したのでな」
「……もしかして、またたくさん練習した? バレンタインのときみたく」
「…………」
ふいっと瑞月が視線を横に逸らす。でも真っ赤になった耳が隠れてねーよお前……。なんでそこんとこポンコツなんだよ……。あまりの愛おしさに俺は瑞月に飛びついて、丸っこい頭を撫でてやりたくなった。だがそれをぐっと堪え、俺は何とかスマホを取り出す。
だってこんな宝石みたいなケーキ、撮っておかなかったらもったいないじゃん……!
「なぁ写真撮っていいか写真!? コレお前が作ってくれたってことでずっと残しておきたいから」
「うん、いいよ。じゃあ、私が撮ろうか? どうせならケーキとおまえさま、一緒に写ったほうがいいだろう?」
「マジで!?」
ワーワーと大興奮ではしゃぐ俺に、瑞月はくすくすと口許を押さえながら「うん」と頷く。俺のカノジョやさしい……! 好き! 感動しながら俺はスマホを受け渡そうとする。が、しかし俺はあることに気がついてしまった。
ダメだ、瑞月に撮ってもらうとしたら、ツーショット写真が取れなくなってしまう。それはイヤだ。せっかく迎えた、彼女と過ごす初めての誕生日。せっかく手間ひまかけてケーキまで用意してくれた彼女をハブって、一人で写真に映るなんてできない。
「瑞月、やっぱ……こっち来てくれる?」
「……? 別に良いが……どうするんだ?」
「その、あのな……ごめん肩組んで」
「…………………………ひえぇっ!?」
すすっと素直に膝を近づけてくる瑞月の肩に腕をまわす。それからグッと身体を引き寄せると、瑞月が可愛らしい悲鳴を上げた。……ついでに白まんじゅうみたいな柔肌ほっぺが、瞬間で紅まんじゅうに変わる。やれめでたい。そして付き合ってしばらく経つというのにいきなり抱きつくと、いきなり真っ赤になるウブさかわいい。やれ愛でたい。俺のカノジョは毎日かわいい。
先ほどのはしゃいだ様子から一転して真っ赤になって「あ、あぅ……」と大人しくなる瑞月をいいことに──パシャリ──俺は掲げたスマホのシャッターを切った。スマホの画面を確認すると……うん。ちょっとケーキが小さくなっちまったけど、チョコボードの文字も読めるし、何より瑞月がかわいいから、いいだろ。俺の方も中々いい笑顔を浮かべている。
結構いい写真撮れてるなーなんてニマニマしてたら、恥ずかしがった瑞月に胸元をぽかぽかされた。やっぱりいきなり抱きつかれた上に、真っ赤になった顔面をレンズに納められたのがよほど不服だったらしい。
でも撮れた写真を見せてやると、幸せそうな写真の出来を気に入ったのか、ちょっとむくれながら許してくれた。そのお詫びは後日するとして、この写真はしばらく待ち受けにして受験勉強とかで疲れたときに眺めて糧にしよう。
「ん~~~~~~~!! うっま!」
瑞月が作ったフルーツタルトは思った通り絶品だった。俺は一口頬張って、とけ落ちそうになる頬を押さえる。
タルト生地はサックサクだし、フィリングになってるチーズケーキがウマい! レアチーズのまったりとしたコクが、ほんのり香るレモンの風味で存在感を増して、熟したフルーツたちの甘酸っぱさと合わさってメチャクチャ美味しい。チーズとフルーツの欲張り味わいセットだ。これはヨユーでホール平らげられる。
里中たちありがとうな。さんざ昼の弁当かっさらわれたこと根に持ってたけど、今ならお前らにお礼言えるわ。なぜなら空腹によって瑞月のフルーツタルトがいっそう旨く思えるから。
フォークで切り分け、うまうまとタルトを口に運んでは喜ぶ俺に、瑞月はほっと柔和な笑みを浮かべた。
「……良かった。味は確かめていたが、やはりおまえさまが『美味しい』と言ってくれると、ホッとするな」
「うん、めっちゃウマ! メシだろうとお菓子だろうと、瑞月の料理マジックは健在だな!」
「本当にしあわせそうだな。そこまで喜んで貰えると、作り手冥利につきる」
きーっ! と悔しがる脳内里中とクマは置いといて、俺は瑞月との雑談交じりにフォークを繰る手を進めた。フルーツうめぇ、チーズの部分がウマイとか楽しみながら食べ進めていると、カツとフォークが空の皿を叩いた。
「ふふ、おかわりをご所望かな?」
「おう!」
タイミングよく瑞月が切り分けたケーキを掲げてくれたので、もちろん快諾。ひきつづき、もはや菓子店開けるレベルのタルトに舌鼓を打っている俺を、瑞月はニコニコと、それはそれは幸せそうに見守っていた。
そういえば、と瑞月の皿を見やると……やっぱり。瑞月の目の前には、ちっとも手をつけていないタルトがひとつ。コイツ俺の食ってるとこ見てばっかで、自分は全然食ってねぇな?
「あのさ、瑞月は食わねーの? せっかく作ったのに」
「ん? 私も食べるよ。でも私は試作で結構食べたし……」
そういって、彼女は桜色に染まった頬を抑えながら、蕩けるような笑顔で微笑む。
「なによりもいまは、陽介の幸せそうな笑顔でお腹がいっぱいだから、もう少しこの幸せに浸っていたいんだ」
「…………ふーん」
うーん、恋人の幸せそうな笑顔プライスレス。瑞月の笑顔にあてられて、ちょっと俺はクラっときた。でも踏みとどまる。ここで倒れて瑞月の喜びに泥を塗る訳にはいかんのだ。よく耐えたぞ俺。
(でも……)
ひたむきな好意が嬉しいのは確かだ。だけどちょっと物足りない俺がいる。だって、こんなに美味しいものなら一緒に食べて、その楽しさを分かち合いたいじゃん? なんて考えていると、俺の脳裏に妙案が浮かんだ。
早速、俺はタルトを切り分けた。サックリと一番美味しそうな部分をフォークで取ると、瑞月に向けてニヤッと企むように笑う。ん? と小首を傾げる瑞月の目前にケーキを差し出した。
「な、瑞月。あーん」
「……え」
「満腹でも、甘いものは別腹って言うだろ? だから……あーん」
「え、あ……い、いや……でもそれは……んっ」
躊躇いなど封じてくれるとばかりに、俺は瑞月の唇にふにっとタルトを押し当てた。逃げ道を塞がれた瑞月はあわれぷるぷると小動物のように身体を震わせる。
涙ぐんだ紺碧の瞳には、悪そうに口の端を弾ませた楽しそうな俺が写っている。そう、瑞月だったら俺にこういうことをされても嫌がらない。たとえ羞恥に心臓が張り裂けそうでもその実、喜んでいることを俺は知っている。だからこその『あーん』だった。
「ふっ……ん……」
思惑どおり、瑞月がきれいな唇を開いた。おれは鳥の雛に餌を与えるみたいに、そぉっとタルトの欠片を届けて、ゆっくりと引き抜く。瑞月に手づから物を食べさせる、なんともいえない幸福感を味わった。
こくんと華奢な喉が上下するのを見届けて、涙目でプルプル口許を押さえる瑞月にむかって俺はにっこりと笑った
「…………どう? うまい?」
「……あみゃくて、とりょけりゅ」
「うわー、ホントに溶けた」
滑舌が見事に溶けていた。舌ったらずになった瑞月にカラカラと俺は笑う。しゅーっと蒸気を吹き出しうつむく瑞月の背を俺はよしよしと撫でてやる。そうするとだんだん瑞月は落ち着いて、もじもじと人差し指同士をつつき合わせる。
「陽介、ずるい。本当は私が、おまえさまにしてあげようと思っていたのに」
「早い者勝ちなんでな。……てか、なんでそんなにプルプルしてんだよ。付き合う前はお前へーきで俺に『あーん』してきたのに」
「だ、だって……! ともだちとして『あーん』するのと、おまえさまに恋人としての慈しみを込められて『あーん』されるのでは……嬉しさが段違いというか……ごにょごにょ」
「ふーん。俺に『あーん』されるのそんな嬉しいんだ? なら……もっとやっちゃおっかな~~」
「はっ!?!?!?」
目を白黒させている瑞月に、俺はタルトをもうひとかけ、その小ぶりで整った唇に運んだ。俺の悪戯に悶える瑞月の可愛らしい姿を、俺は幸福感とともにしっかりと目に焼きつけておいた。
こほんっと、俺にさんざ恥ずかしい思いをさせられた瑞月が咳払いをする。なんとか地に墜ちた威厳を取り戻したいと見える仕草が微笑ましい。俺がだらしなくニマニマしていると、瑞月は懐からスチャッっとあるもの取り出した。
「あ……」
紺色のリボンがかけられて、小さなひまわりの造花が飾られた白い箱。それに俺は見覚えがあった。だって、俺が去年の今日、瑞月に贈られたものと同じだったから。懐かしい驚きに目を見張る俺にむけて、瑞月は淡く染めた頬で微笑んだ。
「ふふ。驚いて頬が固まっているな? ……陽介、私からの誕生日プレゼントだ。去年の装飾が好評だったので、今年も同じようにしてみた」
「……ああ、あんがとな。なんか……去年のこと思い出して、すっげ幸せだわ」
「そういってくれて嬉しいが、まだお礼は早いな。どうか、開けてみてはくれないか?」
そういうと、瑞月は俺の手のひらにそっと誕プレを乗せてくれる。しかし、きれいな装飾とは反対に、どこか不安げだ。でも、「開けてほしい」という声のない願いがソワソワと漏れでていて。
俺はうんと頷いて、ゆらゆら揺らぐ紺碧の瞳を前に、丁寧に掛けられたリボンを解いた。
なかに入っていたのは、鞣したての光沢が上品な、革細工の小物入れだ。ブラウンの洗練されたデザインながら、飾りとしてあしらわれたストライプの飾り布がカジュアルな雰囲気を醸し出している。
「……財布?」
「……うん。見たところ、おまえさまが使っているお財布は、結構な年数使っているみたいだったから。もしよかったらその後継にと思って。……お気に召しただろうか?」
「え、メッチャ気に入ったんだけど。つかコレ、結構良いヤツじゃんか!」
舞い上がった俺の、嬉々とした声は大になってしまった。大人っぽいけど適度に遊び心があり、キザったらしくない感じが俺の好みドストライクで、贈り物だとかそういうの関係なく、毎日デザイン見たさに使ってしまいそうだ。
ウキウキと贈り物全体を眺める俺に、瑞月の華奢な肩を強ばらせていた緊張が消え去る。
「うん。普段から使うものだから、物持ちの良いものを贈りたいと思ってな。確認したところ、カードや小銭もわりと収納できるし、ICカードも入れられるし、スキミングも防止してくれるらしい」
「うわ、すっげー実用的」
「それは当然、おまえさまの役に立ってほしいから。おまえさまが普段使ってるお財布とは、ちょっとデザインの方向性が違うから、気に入ってくれるかが心配だったんだけど……」
「あー、あれなぁ……。まぁ、中学の頃から使ってっからなぁ」
「そうなのか。結構長いな」
たしかにいま使ってる財布は、付き合いが長い。デザインだって、中学生にしては大人びたって感じのフェイクレザーで、高校生が使っているには少しだけ幼い感じがする。しかも、ところどころヨレてるし。
自分でも買い替えた方がいいかな。なんて時々思ったけど、愛着があるからなんとなく使い続けていたのだ。興味深そうにする瑞月に、俺はポツポツと思い出話を明かす。
「中学ん頃、まぁいっちょ前にファッション誌なんて読み出すようになってさ。『カッコいい男は小物から!』なんて謳い文句に乗せられて、そんで、なんかいいのないかな? なんて思って探したらさ、そのデザインがドンピシャで、小遣い貯めて買ったの」
「……そうか。陽介にとっては思い出の品なんだな」
べつになんの変哲もない、どこにでもいる中学生の思い出話。それなのに、まるで楽しい冒険譚の読み聞かせでも聴くみたいに、瑞月はうんうんと楽しそうに表情を輝かせる。清々しい青空に白い花吹雪を散らしたようにキラキラ輝く瑞月の瞳に、面映ゆさを覚えながら俺は話を続けた。
「まぁな。ゲームとか、だらだら買ってたスナックとか、そういうの我慢して、たまに家の手伝いとかしてさ、そんで貯まった金抱えて、店にいってワクワクしながら買って」
胸の中にそのときの、感動とか達成感、高揚感が色鮮やかによみがえって、ふっと俺は微笑む。
「嬉しかったなぁ……。ピカピカの財布抱えたまま、ベッドで跳び跳ねてさ。そんで『静かにしろ!』ってお袋に怒られるまでがセット」
「……なんというか、陽介らしいな」
話を聞き終えた瑞月が、ふんわり笑う。そのやわらかい表情には、何か見守るみたいな優しさがあって、俺はこそばゆさに頭を掻いた。
「へへ、だろー? 最後にはしゃぎすぎて怒られるのが変わってねーっつか」
「それもそうかもしれないが……私は、陽介が昔からまっすぐで頑張り屋だったんだな。って思ったかな」
「へ……」
耳朶を打つ、草原に響く縦笛みたいに澄んだ瑞月の声。予想外の誉め言葉に呆気に取られていると、俺はふわりと甘い香りに包まれた。
「あ……」
遅れて感じた馴染みのある体温に、俺は瑞月に抱き締められているのだと知った。宝物のように俺の身体を胸の中におさめながら、瑞月はゆっくりと慈しむように俺の髪を撫でる。
「お金の使い方を見直したり、お母様のお手伝いをしたり……そうやって少しづつ頑張ってお金を貯めた努力が実を結んだ……思い入れのあるお財布なんだな。……ありがとう陽介。そのお話を聴けてよかった」
瑞月が不意に身体を離す。けれども今度は、すべらかな両手で頬を包んで、俺をまっすぐに見つめてくるからトクリと胸があまく高鳴る。瞳を交えながら、春の木漏れ日に似たぬくもりを伴った笑みで瑞月は告げる。
「だって私は自分のためにも、誰かのためにもバイトを頑張る陽介の姿が好きだから、その原点となるお話が聴けて……何事にも一生懸命取り組む陽介が大好きだから、そんな陽介を形づくる大切な記憶のお話が聴けて、とても嬉しかったんだ」
すっと瑞月が息を継いだ。
「ありがとう陽介。生まれてきてくれて、苦労も幸福も重ねながら、ここまで生きてくれて。私と……出会ってくれて。私は……瀬名瑞月は、そんな花村陽介が大好きで、心から愛しています」
いままでも、これからも、ずっと。
「────ッ!!」
そう結ばれた祝福の言葉に、俺の内側からぶわっと快哉の波が押し寄せた。両の手を広げ、俺は瑞月を思いきり抱き締める。離れたくない、離したくない。ドクドクと高鳴った鼓動が、打ち震える身体が示す感情がひとかけらも残さず、彼女に伝わるように。
「俺も……その、愛してる。……あいしてる、瑞月。財布も、お前のことも……一生、だいじにするから」
『愛してる』なんて壮大な響きが照れ臭くて、恥ずかしくて。なんとかいい終えたはいいけど、頬がカッと熱くなった。けれど……まるで『良くできました』と言わんばかりに、瑞月は俺の背中をゆるゆると撫でる。
「ふふっ。まぁ、私についてそうしてくれるのは知っているが、お財布は……少し厳しいな。物は使っていれば、いつかお役目を終えるし、おまえさまの好みも変わるだろうから」
ふふふと、困ったように瑞月が笑った。初夏だし、冷房が効いているこの部屋でも互いに密着するなんて熱苦しいだろうに、瑞月は文句のひとつだって言わない。それどころか人懐こく頬を擦り寄せて、こういった。
「だから、また機会が来て陽介がご入り用だったら、私が似合うものを用意するから」
そのときが楽しみだな?
いたずらっ子のように、腕のなかの彼女は無邪気に笑う。その声がずっと俺の身体に心地よく響くから、俺はもっと聴いていたくて瑞月を抱き締めた。────ハッピバースデートゥーユー。瑞月の、世界で一番いとおしい鼓動をリズムに、ささやかな祝福の優しいひびきが耳元でずっとこだましていた。
──── Happy birthday Yousuke Hanamura. Many blessings to you and those with whom you meet.