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放課後の誰もいない教室で、目の前に座る瑞月が難しい顔をして俺を見つめていた。
英語のリスニング問題をこなしている俺は、何事かと首をひねる。聴覚の塞がれた俺に配慮してか、彼女は両耳を両手で覆い、それを上へと上げる動作を見せた。おそらくはヘッドフォンを取れというメッセージだろう。素直に俺は愛用のヘッドフォンをはずす。すると、瑞月が待っていたとばかりに眉をしかめた。
「陽介、ヘッドフォンの音が大きい」
「へ? ああ、ごめん。音漏れてた?」
スマホの画面をチェックして、俺は信じられない気持ちになる。たしかに音漏れしても仕方ないほどのボリュームだ。これでは瑞月が苦い顔するのも当然で、勉強の邪魔をしてしまった。申し訳なくてため息をつく俺に、瑞月は気がかりとばかりに視線を注いできた。
「陽介、最近小さな音が聞こえなかったことはないか?」
「ん? あぁ、そういえば……」
思い起こせば、たしかにそういうことはあった。遠くの先生の呼び声が聞こえなかったり、食卓のテレビでヘンな聞き間違いをしてしまったり。正直にそれを話すと、瑞月は顎に手を当てた。どうやら熟考しているようなので、俺は黙りこむ。
しばらくすると、考え事を終えたらしい。彼女が顔をあげた。
「陽介、明日の日曜日なのだが……」
「あ、うん。お前んちで勉強会だったよな」
俺は答える。恋仲になって俺たちは頻繁に互いの家を行き来していた。もっともいかがわしい目的ではなく、大学入試を控えた俺らは受験勉強をするのがもっぱらなんだけど。
瑞月のいう日曜日も、模試の見直しをしようってコトで彼女の自宅に伺う予定──
「勉強会ではなく、おうちデートにしようか」
──だったのだ。ニコリと笑った彼女が覆すまでは。
◇◇◇
結果として、俺はベッドの上で瑞月に膝枕されている。きたる日曜日、家族が留守にする瑞月の自宅にて。急展開すぎて訳が分からないって? 大丈夫。俺も膝枕をしてくれている瑞月の太ももの、むにゅっとした柔らかさしか分からん。
母親に甘える子供みたいでなんだか恥ずかしい。羞恥で複雑な俺と違って、瑞月はニコニコしながら、2つの太ももに対して垂直に乗っている俺の頭を撫でている。
「ふふふ。よいなぁ。やはりよい文化よなぁ、膝枕とは。おまえさまの重みを感じられるし、こうして愛でて甘やかすにはうってつけの姿勢よなぁ。よきかなよきかなふふふふふ」
「おーい、瑞月ー、帰ってこーい」
デレデレと俺の頭をなでくりまわす瑞月に耐えかねて、彼女を呼び戻そうと試みる。いや、撫でられんの自体は気持ちいいんだけどさ……。 犬とかワシャワシャするようなのじゃなくて、猫の毛並みを整える感じで撫でてくれるから。
でも、でもな! いくら恋人だとしても羞恥心ってもんがあんだよ! ぺしぺしと腕のあたりを叩くと、彼女ははしゃいだ様子から一転、「ハッ」と我に返る。
「すまない陽介。なにぶん密着状態だったからな。こう……多幸感がたまらなくてな……」
「俺は……恥ずくてたまんねぇ……カノジョの部屋で、膝枕されて……撫でまわされるとか……」
「耐えてくれ。そして慣れてくれ。ちなみに逃げるという選択肢はない……なぜなら将来、私はおまえさまを何回もこうして甘やかす予定なのでな」
「予定ってナニ!? オレ何回もお前にこんなコトされるわけっ!?」
「交際しているのだから当たり前だろう? だから、今のうちに慣れてくれたまえ、未来の旦那さま?」
「ヴァ……!?」
「ほいほいこれこれ。変な声でごまかして逃げるでない」
「ぐっ……」
逃れようとした俺の頭を、瑞月はぽふっと上から手で押さえる。俺の頭を固定したまま、彼女はぐいっと腰を曲げた。俺は息を呑む。
だって前傾姿勢のせいで、俺と彼女の顔の距離はゼロに近い。さらりと降りた黒髪から、ふわりと石鹸のいい香りと、甘い匂いが漂ってドキリとする。鼻先がぶつかるスレスレの距離で、彼女はいたずらっ子のように微笑んだ。
「陽介を甘やかすのは、恋人たる私の特権なのだからな」
「────ッ」
曇りのない、清水のように澄んだ瞳がきれいで、俺は言葉を無くしてしまう。ついでに耳まで熱が巡った。「おお、ようやく観念したな」と、彼女はまた楽しそうに俺の頭を撫でた。そして自分の脇に置いてあった細い棒──耳掻き棒を手にする。
「それでは陽介。力を抜いて? 耳掃除を始めるから」
◇◇◇
説明が遅れたけれど、ようやく気分が落ち着いてきたので、あの放課後の一幕から『おうちデート』──すなわち、瑞月が俺の耳掃除にいたるまでの経緯を話そうと思う。
俺は瑞月の『おうちデート』に反対した。俺は受験生だし、今は遊んでいる場合ではないのだと。一応、模試の結果も順調には伸びてきているけれど、それでも予断を許さない状況だった。
俺が目指している志望校は、俺の成績よりワンランク上に位置する。だから、デートをしている場合ではないのだと。
だがそうやって息巻く俺を、瑞月はピシャリと叱りつけた。
『健康状態に気を配れていない状態で、必死になっても効率が悪いだけだ。ここは一度、英気を養うべきだろう』
『英気って、たかだか耳が聞こえづらいだけじゃん。そんな深刻になるコトじゃ……』
『甘い。そういう小さな不調を見逃していると、いつか取り返しのつかない事態を引き起こすのだ。たかだか耳が聞こえづらい? 難聴から近づいてくる人間の物音に気がつけずに転倒し、怪我に繋がった事例もあるというのにか?』
──結局、熱心に休養を勧める瑞月に押し負けて、俺は瑞月との『自宅デート』に頷いた。
そして翌日、瑞月の部屋を訪れた俺を待っていたのは──案内を終えた瑞月がベッドに正座する光景だった。突拍子もない行動をとった彼女に、俺は度肝を抜かれて固まった。対して瑞月は聖母じみた後光とともに、当然のように自身の太ももをポンポンと示した。
『ほら、陽介』
──私の膝の上においで?
──そして瑞月の膝の上にいたる。そこまでにあった俺の薄っぺらいプライドと、瑞月の論理だった説得による攻防は七面倒くさいので割愛する。大抵こういう場面は、俺が瑞月の尻に敷かれる定めなのだ。
「……ま、実際は俺が瑞月の膝を頭の下に敷いてんだけどな……」
「どうした陽介? 耳のマッサージが痛いのか……?」
「いや、痛くないっス。ちょっと寝ちまいそうなんで念仏唱えてるんスよ」
不安そうに問いかける瑞月に早口で返す。彼女いわく、「一番最初は耳掻きよりマッサージ」とのことだ。その宣言通り、瑞月はクニクニと俺の両耳をいじっている。これが結構気持ちよかった。
耳の縁をつまみ、ピンピンと軽くひっぱられると、血流がよくなったのか耳回りがポカポカとあったまる。つぎに柔らかくなった耳を瑞月は親指と人差し指で挟み込んだ。指先を擦り合わせるみたいに耳全体をやわやわと揉まれると、案外固くなっていた肉が徐々にほぐれていく感覚がある。
……これは正直、ヤバイ。クセになるくらい気持ちがよくて、眠ってしまいそうになる。ほわほわと頭の中を満たしていく気だるげな睡魔を必死で誤魔化していると、瑞月がさわさわと髪を梳いてくれる。
「ふふ、眠ってもいいが? 今日はデートなのだから、恥ずかしがらずに甘えておくれ」
上から降ってくる瑞月の声は、『面倒見のいいお姉さん』って感じですごく優しい。まるで子守唄みたいな響きとともに、ゆるく頭を撫でられると本当にすんなりと寝入ってしまいそうになる。でも俺は──恥ずかしいのもあるけれど──それとは別の理由で眠りたくなかった。
「い、いや、むしろ、だから……寝たくねーっつか……」
「? 寝たくないのか?」
「だって、せっかくのデートなら、一人で寝るのはなんか……違うだろ。瑞月が起きてるってんなら、俺だって、起きてたいし」
まぁ瑞月の膝を借りてるだけの俺が言うのは、なんとも口だけな気がするが。情けなさに恥じ入っていると、瑞月も撫でる手を止めてしまった。呆れてしまったのだろうか。ん? でもチョット待て。なんか瑞月の手の温度が上がっている気がする。どうしたいきなり!?
慌てた俺は彼女を仰ぎ見て──あっけにとられた。雪みたいに白いはずの瑞月の肌は溶けそうなほどに赤く染まって──嬉しいのか──きゅるっと瞳を丸くしている。いたいけな彼女の表情があまりにも可愛らしくて、俺は思わず見とれてしまう。
「そ、そうか。陽介は起きていたいのだな。……なら、たくさん喋ろう。陽介が眠らないように」
「あ、うん。けどマジでさっきのマッサージとか寝落ちしそうになったから、あんま喋れないかもだけど」
「よいよい。耳掃除中にまどろんで受け答えができなくなるのは、よくあることだ」
うんうんと頷いて、彼女は鼻歌混じりに俺の頭を撫でてくれる。淀みなく流れるなめらかハミングに、俺はふわふわと幸せな気分になった。
「あ、でも……私の声が煩わしいようなら、我慢せずに言ってほしい」
「? それはねーよ。おまえキレイな声してるし」
「そ、そうか……。いや、そうではないな!」
瑞月は邪念を振り払うみたいに頭を左右に振った。心を落ち着けたのか、彼女は竹製の耳かき棒を手にする。
「それでは、陽介。耳の中を見ていくから、横になってくれ」
「お、おう」
瑞月に従って、彼女の上半身に背を向けて寝転がる。真剣モードに切り替わった瑞月は、上向きになった俺の耳を痛くない程度にひっぱった。広げた耳の中を瑞月はじっと観察する。
緊張で俺は息を潜めた。見られている。自分でも見たことのない場所を、恋人に。しかも、垢が溜まっているであろう汚い場所を。じわじわと込みあがる羞恥になどかまわず、瑞月は「ふーむ」と声をあげる。
「やはり溜まっているな。この量なら、耳が遠くなるのも納得だ」
「え、ウソ。そんな溜まってた?」
「鼓膜が見えにくくなっているのでな。しかしこれなら、私でもなんとかできそうだ」
そう宣言する瑞月は、どこか楽しそうだ。まるでやりがいのある仕事を前にしたみたいに。真剣な彼女が頼もしくて、俺の身体から緊張が抜ける。完全に俺が委ねた頭を、瑞月は安心させるように一撫でしてくれた。
「ん、じゃあ、よろしく」
「ん、任された。それでは、掃除していこうか。陽介、耳かきを入れるから、力を抜いて?」
──カリッ
「────あ」
宣言通り、耳にナニカが入ってくる。しなやかな硬さのあるそれは、探るように側面をなぞった。
──カリ……カリ、カリ
たまに綿棒をいれるくらいの経験しかないから知らなかったけれど、耳の皮膚というのは案外薄いらしい。ちょっとした刺激でも、敏感に拾ってしまう。けれども、そんな繊細な場所を痛くない程度の絶妙な力加減で、瑞月はカリカリと掻く。
「どうだろうか陽介。痛くはないか?」
「……うん。ダイジョブ」
「そうか。なら力加減はこれくらいにしよう。では、耳垢を取っていくな」
──パリッ……カリ、サリ、サリ……
「お、おおっ……」
耳掻きが動く。それに合わせて耳の壁から何かが剥がれていった。まるで、石にへばりついた苔をひっぺがしていくみたいな爽快感があって心地いい。しかも耳垢が取れていくたびに、カリカリ、サリサリ、耳掻きが垢をひっぺがす音が段々とクリアになる。自覚はなかったけれど、やはり相当溜まっていたらしい。
「陽介、どうだろうか。不快ではないか?」
「いや……てかお前、耳掻き上手いな。全然痛くねーわ」
「ふふ、お褒めに預り光栄だ。妹にやってあげているから、自信はあるんだ」
へぇと俺は感心する。人の耳を傷つけないよう配慮して耳掻きを繰るなんて、神経を使う作業だろうに──瑞月が上手だからだろうか。不快感や痛みは一切ない。
どころか耳の中を絶妙な力加減でなぞられるのが、すごく気持ちいい。途中から俺は諸々の恥ずかしさを忘れて、瑞月の耳掃除に夢中になっていた。
「では、耳の奥も耳掻きを入れるからな。──お覚悟」
「──ッ」
──ガリッ
「────うあッ!?」
小石を引っ掻くような異音に、ビクリと俺の身体が跳ねる。なんだ今の……! ゼッテー人体から鳴っちゃいけない音がしたぞ。
「え、ちょ、今のガリッてナニ!? なんか石ころでも詰まってた!?」
「耳垢だな……かなり大きい」
「マジかよ……んな大物溜まってたんか……」
聞く音からして難儀なソレに、俺はゾッとする。これ……ホントに取れんのか? 耳鼻科いった方がいいのでは……。などという不穏な思考はやわく髪を梳く手に掻き消された。
「大丈夫だ。陽介の鼓膜は私が守って、大物は退治してくれるからな」
「なんかカッコいいな……。 やってるコトだたの耳掃除なのに」
「耳掃除だろうと陽介の御身を守るのは私の役割なのでな」
こともなげに頼もしい宣言を繰り出す彼女は、「再開だ」との掛け声とともに、さっきの小石(仮)がある奥へと耳掻きを進めていく。
ガサッ、ゴゾッ、カリカリと、瑞月は耳掻きの先端を用いて小石(?)の周りをこそげ落としていく。ガリガリ、ゴゾゴゾという小石が狭い場所でごろつくような音と、硬いプラスチックのような塊が薄い皮膚に引っかかるむず痒さにソワソワする。はやくとってくれと期待が募る。すると──
──メジ、メリィ……! スポッ──
「おあ……!」
大きな塊が、ついに俺の耳の中から掻き出された。剥がれていたものが覆っていた皮膚が剥き出しになって、空気にさらされる心地がくすぐったと同時に心地いい。そして何より、耳に届く音がクリア! さっきまでぼやけていた瑞月の呼吸もちゃんと聴こえる。
耳掻きってこんな気持ちいいものだったのか……! と感動していると、ほーっと瑞月が一仕事やり終えたような満足げな息を吐く。
「どうだ陽介、大きいのがとれたが」
「うん、すげーイイ……。すっげ聴こえるし、なんか鼻づまりが治ったときみてーな気持ちよさ? に似てるかも」
ほとんど経験のなかった耳掻きの素晴らしさに感動していると、瑞月が宥めるように頭を撫でてくれる。
「そう言ってくれて何よりだ。でも、もう少しだけ上を向いていてくれ。残りの耳垢を取り除いていくから」
「……!」
つまり、それはまだ気持ちのいい耳掃除が続くということで。誘惑に負けた俺は「はい! 彼氏の名にかけて静かにします!」と調子いいことぬかして、瑞月の膝に寝っ転がって目をつぶる。
「ふふ、よろしい」
瑞月は上機嫌な声で耳掃除を再開した。でかい耳垢がとれた影響なのか、久しぶりに外気に晒された、むき出しの耳の中がムズムズする。それも分かってくれているのだろう。痒みをともなうくすぐったさを、瑞月の繰る竹の棒が掻いて静めてくれる。と同時に、瑞月は残った耳垢を一心に取り除いているようだった。
カリカリ、側面についた耳垢が耳掻きによって剥がされていく。
サリサリ、集めた耳垢を一つにまとめて大きな塊が耳の外へと運ばれていく。
……それにしても、耳掃除とはこんなに気持ちいいものなのか。耳の中に何かを入れられるのは……正直、始めは怖かったけど……今は違う。瑞月の耳掃除は、耳の中を絶妙な加減で撫でられて、強ばった身体から力が抜けてしまうくらいに気持ちよかった。
しかも、頭は柔らかくて良い匂いのする太ももに受け止められて……ってナニ考えてんだよ俺、これじゃ変態じゃねーか! 煩悩退散!
「よし、中にあるものはすべて取ったな」
やり遂げた、とでも言いたげな瑞月の満足そうな声が聞こえてくる。やっと誘惑だらけの膝枕から解放される。そう俺がホッとしていると、ふうっと温かい風が耳をくすぐった。
「ふぅーーーーーー」
「うぐはっ!?」
えっ? なに? ナニコレ!? オレいま、彼女に耳ふーふーされちゃってんの!? ちょっと待って耳に吹きかけられるあったかさとか微かに聴こえる瑞月の吐息とか繊細な耳を擽られる感じとかがスッゲーこそばゆくて恥ずいんですけど!? ちょっと待って瑞月サン俺の心臓ホントに飛び出しそう!
「待って! 瑞月サン、タイム、タイム!」
「どうした陽介。まだ耳掃除は終わっていないが。ほら、分かったら私の膝にちゃんと寝て────」
「イヤお前耳んなかのモンぜんぶ取ったっつっただろうか!? コレ必要っ!?」
「私の耳掃除では必須だが? ほれほれ、分かったらちゃんと膝に寝転んで」
「ちょま……って肩押さえつける力つっよ!」
「ふふふふふ」
面白そうに笑う瑞月の腕力に、俺は押し負けた。けど薄々分かってたよ……こんな結果になるって。抵抗を諦めてだらりと身体から力を抜くと、瑞月は「よし、いい子だ」と満足げに俺の頭を撫でた。そのまま、再びふぅー、ふぅー、と俺の耳にゆっくりと吐息を吹きかける。
始めはすげー恥ずかしかったけど、繰り返し息を吹きかけられると、だんだんとその心地よさが分かってきた。意外と敏感な耳を優しい温度を伴った風で撫でられるのは、頭がゾワゾワするみたいな独特の快感がある。
「では、次で最後だ。いくよ」
「…………あ、うん」
すっかり耳をふーっとされる快感の虜になっていた。最後と告げられて、どこか残念に思う俺がいる。そんな心情を察したのか、瑞月が優しく俺の頭を撫でてくれた。
「こっちは終わってしまうけど、まだ反対の耳もやるんだからな?」
「そっか……。じゃあまだ終わりじゃねーよな!」
すっかり瑞月の手玉に取られて、俺は耳掃除の虜になっていた。片耳の掃除が終わる最後に、ふー、と優しく吐息に耳を撫でられる感触を楽しむ。
「はい。お疲れさま。じゃあ、反対の耳も掃除するから、一回起き上がって、それから反対側に寝転がって、私も場所を移動するから」
「え、ぐるっと寝返り打てばよくね?」
わざわざ面倒な方法を取る瑞月に、俺は起き上がりながら首をかしげる。すると瑞月ははにかんで答えた。
「そうすると、私の腹部とおまえさまの鼻先がくっついてしまって、息苦しくなってしまうから」
「……!」
それは……やばい。いまさら気がついたけど、瑞月のお腹……つか、んなことしたら瑞月の脚の付け根に……絶対目がいってしまう。俺がナニを想像したか顔に出ていたらしい。
瑞月がかぁっと頬を染めてしっとりと汗をかく。恥ずかしさにワタワタしながら、彼女はポスポスと太股を叩く。
「さ、さぁ! 残る片耳も掃除しようじゃないか! ほらほら速く私の膝にダイブしてくれ!」
「だ、ダイブ!? ぐはっ、なんかちょっとヤメテその言い方! いやらしい感じになるから」
「い、いやらし……!? ち、違うから! そういう意味ではないから! ほ、ほら! じゃあ速く私の上に寝そべって……」
「その言い方もヤバいって!」
やきもきした瑞月が「ああもう!」と俺の腕を引っ張る。「うわっ……」──俺の頭がポスンと正座した瑞月の脚(※太もも)に受け止められる。なんというか……うん。そっち方面に発想がいっちまったから、イロイロやべぇ! 瑞月固有の花みたいに甘い香りとか、もにゅっと柔らかい太股の感触とかイロイロまざまざと意識してしまう。
「じゃ、じゃあ、耳掃除を始めるから……」
「お、おう。そんじゃ一息に来いや!」
「……おまえさま、それはなんだかトドメを刺される人みたいだ」
実際トドメを刺してくれ、と思う。このまま瑞月の膝枕を続けられたら、ドキドキしすぎてリアルに間違いとか起こしかねない。心臓発作で死ぬかもしれない。いや瑞月と一緒にいたいから死ねないんだけどさ俺は……!
せめてもの抵抗で、俺はキツく目を瞑る。「で、では、耳掻きを入れていくな」まだ『いやらしい』発言で動揺していた瑞月のかけ声とともに、そっと耳掻きが差し入れられた。
「うっ……」
ちょうどいい力加減の耳掻きによって、頭がゾワゾワするみたいな独特の心地よさに包まれる。自然と力が抜ける感覚に身を任せると、目を閉じている影響もあってか、さっきのいかがわしい思考も薄れて、頭が霞がかってきた。
でもせっかく瑞月が俺のために耳掃除してくれてるんだから、起きていたくて。とろとろと眠りに逆らっていると、優しく髪を撫でられた。髪の毛のひとつひとつを慈しむみたいな、昼寝する子供をあやすみたいな、そんな、優しい手つき。こんなん、ねむらないほうが、むりだ。
「大丈夫だよ、陽介。眠くなったら、眠ってもいいから」
いや……もっと、いっしょに……いたい。せっかくの……デート……なんだし
「デートだったら、またいくらだってできるよ。今は、陽介がリラックスする方が大切」
瑞月の、毛布みたいな柔らかさを伴った声が俺を包む。心がポカポカして、心地の良い眠りのさざ波が意識を深みへと浚っていく。
「大丈夫。ちゃんと私は陽介の傍にいるよ。いなくなったりしないから」
────だから、安心しておやすみ。
穏やかな子守唄が、クリアになったばかりの鼓膜を撫でるように響く。優しい声、頬から伝わるぬくもり、ほのかに甘い匂い、髪を撫でる緩やかな手、全身を包み込んでいく瑞月の気配に心底安心して、俺は心地よい眠りへと身を委ねた。
◇◇◇
ずいぶんとリラックスできた気がする。
目が覚めると、白い天井が目に入った。身体はふかふかしたベッドに横たえられ、ブランケットがかけられていた。身体を冷やさないようにという配慮からだろう。お腹に腕が乗っているような温もりを感知して、俺は腕が伸びる方向に顔を向けた。
そこには、思った通り瑞月がいた。俺の傍に身体を横たえ、凛と美しい顔立ちにはまった瞳はあどけなく閉じられている。起きて傍に瑞月がいてくれることに、俺はどうしてか満ち足りた気持ちになった。
「…………」
安らかで幸せそうな、なぜか庇護欲のそそられる寝顔に、俺はついつい手を伸ばした。さらさらと癖のない黒髪を梳くと、「ん、んん……」とあえかな吐息とともに、瑞月の瞼が持ち上がった。ぱちぱちと、瞬きを終えた紺碧の瞳が俺を真っ直ぐに写し出す。
「あ……おはよ陽介。よく休めた?」
「おはよ。ん、そうだな。身体とか頭とか軽い感じがする。……つかごめんな、起こしちまって」
謝る俺に対し、瑞月はゆるゆると首を振って俺の手にじゃれつく。
「ううん……陽介に撫でられるの、好きだからいい。……それより、耳は?」
「耳も……うん。すげースッキリした。ありがとな、瑞月」
「ふふ、それならよかった」
瑞月が笑って、次の瞬間、俺は息を飲んだ。だって瑞月が俺に手を伸ばして、俺の胸あたりに抱きついてくれたから。
「へっ? 瑞月……?」
「ふふふ……」
俺が息を詰めるなか、瑞月はひたりと身体を寄せる。彼女固有の、安らぎを感じる香りと温もり、とくとくと規則正しい鼓動を間近に感じて、離したくなくて、俺は反射的に抱き締めた。
「ごめん……苦しくない?」
「ううん、全然。むしろ、ちゃんと甘えてくれてるって分かって嬉しいよ? おまえさまは頑張りやさんで、あまり誰かに甘えない人だから」
けれど今は、柄にもなく瑞月に甘えてしまっていた。そんな俺の頭を、嫌がることもなく瑞月はよしよしと撫でてくれる。極上の耳掃除を通じてとっぷりと甘やかされた俺は、瑞月の目論み通りに子供みたいな素直さで瑞月を求めてしまう。
内心で恥じらう俺を瑞月はさらに撫でてくれて、穏やかに言葉を続けた。
「陽介が、いつだって頑張っているのは知ってるよ。この前の模試だって、苦手科目も含めて、ちゃんといい結果出してたし」
「……うん」
「バイトだって、この前病欠した人の代わりでヘルプに入ったって、クマくんから聞いたよ。陽一さんや現場の人たち、絶対助かったと思う」
「……うん。そうなら、いいな」
「そうだよ。勉強もバイトも、自分の大切にしたいこと2つとも諦めないで、逃げないで、陽介はこつこつ努力してる。結果を出せるほどにね。……そんなまっすぐで我慢強い陽介を私は尊敬してるし──支えたいって、思ってる」
淡く微笑んで、瑞月が俺を見上げる。唇に慈しみを乗せて、彼女は告げた。
「だから、ちゃんと労らせて。いつも頑張っている私が大好きな陽介のこと。陽介は私に甘えていいんだし、恋人である陽介を甘やかすのは私の特権なのだから」
その言葉に誘われて、俺の心の奥に閉じ込めていた幼い気持ちが溢れ出す。誉められたい、撫でて欲しい、瑞月ともっと……くっついていたい。
「じゃあ……さ、」
「うん」
「このまま、抱き締めていいか……? おまえのこと、そうしてると、めちゃくちゃリラックスできるから」
「よしよしいいとも。ならばその間、私はおまえさまの背中をさすろうではないか」
許可をもらった直後、俺はゆっくりと、瑞月の柔らかい身体を自分の胸の中におさめていく。身体をひたりとくっつけると、熱を持った彼女の鼓動と、ふふ、と瑞月の嬉しそうな笑い声が、耳掃除をしてもらったおかげで、はっきりと聞き取れたのだった。
英語のリスニング問題をこなしている俺は、何事かと首をひねる。聴覚の塞がれた俺に配慮してか、彼女は両耳を両手で覆い、それを上へと上げる動作を見せた。おそらくはヘッドフォンを取れというメッセージだろう。素直に俺は愛用のヘッドフォンをはずす。すると、瑞月が待っていたとばかりに眉をしかめた。
「陽介、ヘッドフォンの音が大きい」
「へ? ああ、ごめん。音漏れてた?」
スマホの画面をチェックして、俺は信じられない気持ちになる。たしかに音漏れしても仕方ないほどのボリュームだ。これでは瑞月が苦い顔するのも当然で、勉強の邪魔をしてしまった。申し訳なくてため息をつく俺に、瑞月は気がかりとばかりに視線を注いできた。
「陽介、最近小さな音が聞こえなかったことはないか?」
「ん? あぁ、そういえば……」
思い起こせば、たしかにそういうことはあった。遠くの先生の呼び声が聞こえなかったり、食卓のテレビでヘンな聞き間違いをしてしまったり。正直にそれを話すと、瑞月は顎に手を当てた。どうやら熟考しているようなので、俺は黙りこむ。
しばらくすると、考え事を終えたらしい。彼女が顔をあげた。
「陽介、明日の日曜日なのだが……」
「あ、うん。お前んちで勉強会だったよな」
俺は答える。恋仲になって俺たちは頻繁に互いの家を行き来していた。もっともいかがわしい目的ではなく、大学入試を控えた俺らは受験勉強をするのがもっぱらなんだけど。
瑞月のいう日曜日も、模試の見直しをしようってコトで彼女の自宅に伺う予定──
「勉強会ではなく、おうちデートにしようか」
──だったのだ。ニコリと笑った彼女が覆すまでは。
◇◇◇
結果として、俺はベッドの上で瑞月に膝枕されている。きたる日曜日、家族が留守にする瑞月の自宅にて。急展開すぎて訳が分からないって? 大丈夫。俺も膝枕をしてくれている瑞月の太ももの、むにゅっとした柔らかさしか分からん。
母親に甘える子供みたいでなんだか恥ずかしい。羞恥で複雑な俺と違って、瑞月はニコニコしながら、2つの太ももに対して垂直に乗っている俺の頭を撫でている。
「ふふふ。よいなぁ。やはりよい文化よなぁ、膝枕とは。おまえさまの重みを感じられるし、こうして愛でて甘やかすにはうってつけの姿勢よなぁ。よきかなよきかなふふふふふ」
「おーい、瑞月ー、帰ってこーい」
デレデレと俺の頭をなでくりまわす瑞月に耐えかねて、彼女を呼び戻そうと試みる。いや、撫でられんの自体は気持ちいいんだけどさ……。 犬とかワシャワシャするようなのじゃなくて、猫の毛並みを整える感じで撫でてくれるから。
でも、でもな! いくら恋人だとしても羞恥心ってもんがあんだよ! ぺしぺしと腕のあたりを叩くと、彼女ははしゃいだ様子から一転、「ハッ」と我に返る。
「すまない陽介。なにぶん密着状態だったからな。こう……多幸感がたまらなくてな……」
「俺は……恥ずくてたまんねぇ……カノジョの部屋で、膝枕されて……撫でまわされるとか……」
「耐えてくれ。そして慣れてくれ。ちなみに逃げるという選択肢はない……なぜなら将来、私はおまえさまを何回もこうして甘やかす予定なのでな」
「予定ってナニ!? オレ何回もお前にこんなコトされるわけっ!?」
「交際しているのだから当たり前だろう? だから、今のうちに慣れてくれたまえ、未来の旦那さま?」
「ヴァ……!?」
「ほいほいこれこれ。変な声でごまかして逃げるでない」
「ぐっ……」
逃れようとした俺の頭を、瑞月はぽふっと上から手で押さえる。俺の頭を固定したまま、彼女はぐいっと腰を曲げた。俺は息を呑む。
だって前傾姿勢のせいで、俺と彼女の顔の距離はゼロに近い。さらりと降りた黒髪から、ふわりと石鹸のいい香りと、甘い匂いが漂ってドキリとする。鼻先がぶつかるスレスレの距離で、彼女はいたずらっ子のように微笑んだ。
「陽介を甘やかすのは、恋人たる私の特権なのだからな」
「────ッ」
曇りのない、清水のように澄んだ瞳がきれいで、俺は言葉を無くしてしまう。ついでに耳まで熱が巡った。「おお、ようやく観念したな」と、彼女はまた楽しそうに俺の頭を撫でた。そして自分の脇に置いてあった細い棒──耳掻き棒を手にする。
「それでは陽介。力を抜いて? 耳掃除を始めるから」
◇◇◇
説明が遅れたけれど、ようやく気分が落ち着いてきたので、あの放課後の一幕から『おうちデート』──すなわち、瑞月が俺の耳掃除にいたるまでの経緯を話そうと思う。
俺は瑞月の『おうちデート』に反対した。俺は受験生だし、今は遊んでいる場合ではないのだと。一応、模試の結果も順調には伸びてきているけれど、それでも予断を許さない状況だった。
俺が目指している志望校は、俺の成績よりワンランク上に位置する。だから、デートをしている場合ではないのだと。
だがそうやって息巻く俺を、瑞月はピシャリと叱りつけた。
『健康状態に気を配れていない状態で、必死になっても効率が悪いだけだ。ここは一度、英気を養うべきだろう』
『英気って、たかだか耳が聞こえづらいだけじゃん。そんな深刻になるコトじゃ……』
『甘い。そういう小さな不調を見逃していると、いつか取り返しのつかない事態を引き起こすのだ。たかだか耳が聞こえづらい? 難聴から近づいてくる人間の物音に気がつけずに転倒し、怪我に繋がった事例もあるというのにか?』
──結局、熱心に休養を勧める瑞月に押し負けて、俺は瑞月との『自宅デート』に頷いた。
そして翌日、瑞月の部屋を訪れた俺を待っていたのは──案内を終えた瑞月がベッドに正座する光景だった。突拍子もない行動をとった彼女に、俺は度肝を抜かれて固まった。対して瑞月は聖母じみた後光とともに、当然のように自身の太ももをポンポンと示した。
『ほら、陽介』
──私の膝の上においで?
──そして瑞月の膝の上にいたる。そこまでにあった俺の薄っぺらいプライドと、瑞月の論理だった説得による攻防は七面倒くさいので割愛する。大抵こういう場面は、俺が瑞月の尻に敷かれる定めなのだ。
「……ま、実際は俺が瑞月の膝を頭の下に敷いてんだけどな……」
「どうした陽介? 耳のマッサージが痛いのか……?」
「いや、痛くないっス。ちょっと寝ちまいそうなんで念仏唱えてるんスよ」
不安そうに問いかける瑞月に早口で返す。彼女いわく、「一番最初は耳掻きよりマッサージ」とのことだ。その宣言通り、瑞月はクニクニと俺の両耳をいじっている。これが結構気持ちよかった。
耳の縁をつまみ、ピンピンと軽くひっぱられると、血流がよくなったのか耳回りがポカポカとあったまる。つぎに柔らかくなった耳を瑞月は親指と人差し指で挟み込んだ。指先を擦り合わせるみたいに耳全体をやわやわと揉まれると、案外固くなっていた肉が徐々にほぐれていく感覚がある。
……これは正直、ヤバイ。クセになるくらい気持ちがよくて、眠ってしまいそうになる。ほわほわと頭の中を満たしていく気だるげな睡魔を必死で誤魔化していると、瑞月がさわさわと髪を梳いてくれる。
「ふふ、眠ってもいいが? 今日はデートなのだから、恥ずかしがらずに甘えておくれ」
上から降ってくる瑞月の声は、『面倒見のいいお姉さん』って感じですごく優しい。まるで子守唄みたいな響きとともに、ゆるく頭を撫でられると本当にすんなりと寝入ってしまいそうになる。でも俺は──恥ずかしいのもあるけれど──それとは別の理由で眠りたくなかった。
「い、いや、むしろ、だから……寝たくねーっつか……」
「? 寝たくないのか?」
「だって、せっかくのデートなら、一人で寝るのはなんか……違うだろ。瑞月が起きてるってんなら、俺だって、起きてたいし」
まぁ瑞月の膝を借りてるだけの俺が言うのは、なんとも口だけな気がするが。情けなさに恥じ入っていると、瑞月も撫でる手を止めてしまった。呆れてしまったのだろうか。ん? でもチョット待て。なんか瑞月の手の温度が上がっている気がする。どうしたいきなり!?
慌てた俺は彼女を仰ぎ見て──あっけにとられた。雪みたいに白いはずの瑞月の肌は溶けそうなほどに赤く染まって──嬉しいのか──きゅるっと瞳を丸くしている。いたいけな彼女の表情があまりにも可愛らしくて、俺は思わず見とれてしまう。
「そ、そうか。陽介は起きていたいのだな。……なら、たくさん喋ろう。陽介が眠らないように」
「あ、うん。けどマジでさっきのマッサージとか寝落ちしそうになったから、あんま喋れないかもだけど」
「よいよい。耳掃除中にまどろんで受け答えができなくなるのは、よくあることだ」
うんうんと頷いて、彼女は鼻歌混じりに俺の頭を撫でてくれる。淀みなく流れるなめらかハミングに、俺はふわふわと幸せな気分になった。
「あ、でも……私の声が煩わしいようなら、我慢せずに言ってほしい」
「? それはねーよ。おまえキレイな声してるし」
「そ、そうか……。いや、そうではないな!」
瑞月は邪念を振り払うみたいに頭を左右に振った。心を落ち着けたのか、彼女は竹製の耳かき棒を手にする。
「それでは、陽介。耳の中を見ていくから、横になってくれ」
「お、おう」
瑞月に従って、彼女の上半身に背を向けて寝転がる。真剣モードに切り替わった瑞月は、上向きになった俺の耳を痛くない程度にひっぱった。広げた耳の中を瑞月はじっと観察する。
緊張で俺は息を潜めた。見られている。自分でも見たことのない場所を、恋人に。しかも、垢が溜まっているであろう汚い場所を。じわじわと込みあがる羞恥になどかまわず、瑞月は「ふーむ」と声をあげる。
「やはり溜まっているな。この量なら、耳が遠くなるのも納得だ」
「え、ウソ。そんな溜まってた?」
「鼓膜が見えにくくなっているのでな。しかしこれなら、私でもなんとかできそうだ」
そう宣言する瑞月は、どこか楽しそうだ。まるでやりがいのある仕事を前にしたみたいに。真剣な彼女が頼もしくて、俺の身体から緊張が抜ける。完全に俺が委ねた頭を、瑞月は安心させるように一撫でしてくれた。
「ん、じゃあ、よろしく」
「ん、任された。それでは、掃除していこうか。陽介、耳かきを入れるから、力を抜いて?」
──カリッ
「────あ」
宣言通り、耳にナニカが入ってくる。しなやかな硬さのあるそれは、探るように側面をなぞった。
──カリ……カリ、カリ
たまに綿棒をいれるくらいの経験しかないから知らなかったけれど、耳の皮膚というのは案外薄いらしい。ちょっとした刺激でも、敏感に拾ってしまう。けれども、そんな繊細な場所を痛くない程度の絶妙な力加減で、瑞月はカリカリと掻く。
「どうだろうか陽介。痛くはないか?」
「……うん。ダイジョブ」
「そうか。なら力加減はこれくらいにしよう。では、耳垢を取っていくな」
──パリッ……カリ、サリ、サリ……
「お、おおっ……」
耳掻きが動く。それに合わせて耳の壁から何かが剥がれていった。まるで、石にへばりついた苔をひっぺがしていくみたいな爽快感があって心地いい。しかも耳垢が取れていくたびに、カリカリ、サリサリ、耳掻きが垢をひっぺがす音が段々とクリアになる。自覚はなかったけれど、やはり相当溜まっていたらしい。
「陽介、どうだろうか。不快ではないか?」
「いや……てかお前、耳掻き上手いな。全然痛くねーわ」
「ふふ、お褒めに預り光栄だ。妹にやってあげているから、自信はあるんだ」
へぇと俺は感心する。人の耳を傷つけないよう配慮して耳掻きを繰るなんて、神経を使う作業だろうに──瑞月が上手だからだろうか。不快感や痛みは一切ない。
どころか耳の中を絶妙な力加減でなぞられるのが、すごく気持ちいい。途中から俺は諸々の恥ずかしさを忘れて、瑞月の耳掃除に夢中になっていた。
「では、耳の奥も耳掻きを入れるからな。──お覚悟」
「──ッ」
──ガリッ
「────うあッ!?」
小石を引っ掻くような異音に、ビクリと俺の身体が跳ねる。なんだ今の……! ゼッテー人体から鳴っちゃいけない音がしたぞ。
「え、ちょ、今のガリッてナニ!? なんか石ころでも詰まってた!?」
「耳垢だな……かなり大きい」
「マジかよ……んな大物溜まってたんか……」
聞く音からして難儀なソレに、俺はゾッとする。これ……ホントに取れんのか? 耳鼻科いった方がいいのでは……。などという不穏な思考はやわく髪を梳く手に掻き消された。
「大丈夫だ。陽介の鼓膜は私が守って、大物は退治してくれるからな」
「なんかカッコいいな……。 やってるコトだたの耳掃除なのに」
「耳掃除だろうと陽介の御身を守るのは私の役割なのでな」
こともなげに頼もしい宣言を繰り出す彼女は、「再開だ」との掛け声とともに、さっきの小石(仮)がある奥へと耳掻きを進めていく。
ガサッ、ゴゾッ、カリカリと、瑞月は耳掻きの先端を用いて小石(?)の周りをこそげ落としていく。ガリガリ、ゴゾゴゾという小石が狭い場所でごろつくような音と、硬いプラスチックのような塊が薄い皮膚に引っかかるむず痒さにソワソワする。はやくとってくれと期待が募る。すると──
──メジ、メリィ……! スポッ──
「おあ……!」
大きな塊が、ついに俺の耳の中から掻き出された。剥がれていたものが覆っていた皮膚が剥き出しになって、空気にさらされる心地がくすぐったと同時に心地いい。そして何より、耳に届く音がクリア! さっきまでぼやけていた瑞月の呼吸もちゃんと聴こえる。
耳掻きってこんな気持ちいいものだったのか……! と感動していると、ほーっと瑞月が一仕事やり終えたような満足げな息を吐く。
「どうだ陽介、大きいのがとれたが」
「うん、すげーイイ……。すっげ聴こえるし、なんか鼻づまりが治ったときみてーな気持ちよさ? に似てるかも」
ほとんど経験のなかった耳掻きの素晴らしさに感動していると、瑞月が宥めるように頭を撫でてくれる。
「そう言ってくれて何よりだ。でも、もう少しだけ上を向いていてくれ。残りの耳垢を取り除いていくから」
「……!」
つまり、それはまだ気持ちのいい耳掃除が続くということで。誘惑に負けた俺は「はい! 彼氏の名にかけて静かにします!」と調子いいことぬかして、瑞月の膝に寝っ転がって目をつぶる。
「ふふ、よろしい」
瑞月は上機嫌な声で耳掃除を再開した。でかい耳垢がとれた影響なのか、久しぶりに外気に晒された、むき出しの耳の中がムズムズする。それも分かってくれているのだろう。痒みをともなうくすぐったさを、瑞月の繰る竹の棒が掻いて静めてくれる。と同時に、瑞月は残った耳垢を一心に取り除いているようだった。
カリカリ、側面についた耳垢が耳掻きによって剥がされていく。
サリサリ、集めた耳垢を一つにまとめて大きな塊が耳の外へと運ばれていく。
……それにしても、耳掃除とはこんなに気持ちいいものなのか。耳の中に何かを入れられるのは……正直、始めは怖かったけど……今は違う。瑞月の耳掃除は、耳の中を絶妙な加減で撫でられて、強ばった身体から力が抜けてしまうくらいに気持ちよかった。
しかも、頭は柔らかくて良い匂いのする太ももに受け止められて……ってナニ考えてんだよ俺、これじゃ変態じゃねーか! 煩悩退散!
「よし、中にあるものはすべて取ったな」
やり遂げた、とでも言いたげな瑞月の満足そうな声が聞こえてくる。やっと誘惑だらけの膝枕から解放される。そう俺がホッとしていると、ふうっと温かい風が耳をくすぐった。
「ふぅーーーーーー」
「うぐはっ!?」
えっ? なに? ナニコレ!? オレいま、彼女に耳ふーふーされちゃってんの!? ちょっと待って耳に吹きかけられるあったかさとか微かに聴こえる瑞月の吐息とか繊細な耳を擽られる感じとかがスッゲーこそばゆくて恥ずいんですけど!? ちょっと待って瑞月サン俺の心臓ホントに飛び出しそう!
「待って! 瑞月サン、タイム、タイム!」
「どうした陽介。まだ耳掃除は終わっていないが。ほら、分かったら私の膝にちゃんと寝て────」
「イヤお前耳んなかのモンぜんぶ取ったっつっただろうか!? コレ必要っ!?」
「私の耳掃除では必須だが? ほれほれ、分かったらちゃんと膝に寝転んで」
「ちょま……って肩押さえつける力つっよ!」
「ふふふふふ」
面白そうに笑う瑞月の腕力に、俺は押し負けた。けど薄々分かってたよ……こんな結果になるって。抵抗を諦めてだらりと身体から力を抜くと、瑞月は「よし、いい子だ」と満足げに俺の頭を撫でた。そのまま、再びふぅー、ふぅー、と俺の耳にゆっくりと吐息を吹きかける。
始めはすげー恥ずかしかったけど、繰り返し息を吹きかけられると、だんだんとその心地よさが分かってきた。意外と敏感な耳を優しい温度を伴った風で撫でられるのは、頭がゾワゾワするみたいな独特の快感がある。
「では、次で最後だ。いくよ」
「…………あ、うん」
すっかり耳をふーっとされる快感の虜になっていた。最後と告げられて、どこか残念に思う俺がいる。そんな心情を察したのか、瑞月が優しく俺の頭を撫でてくれた。
「こっちは終わってしまうけど、まだ反対の耳もやるんだからな?」
「そっか……。じゃあまだ終わりじゃねーよな!」
すっかり瑞月の手玉に取られて、俺は耳掃除の虜になっていた。片耳の掃除が終わる最後に、ふー、と優しく吐息に耳を撫でられる感触を楽しむ。
「はい。お疲れさま。じゃあ、反対の耳も掃除するから、一回起き上がって、それから反対側に寝転がって、私も場所を移動するから」
「え、ぐるっと寝返り打てばよくね?」
わざわざ面倒な方法を取る瑞月に、俺は起き上がりながら首をかしげる。すると瑞月ははにかんで答えた。
「そうすると、私の腹部とおまえさまの鼻先がくっついてしまって、息苦しくなってしまうから」
「……!」
それは……やばい。いまさら気がついたけど、瑞月のお腹……つか、んなことしたら瑞月の脚の付け根に……絶対目がいってしまう。俺がナニを想像したか顔に出ていたらしい。
瑞月がかぁっと頬を染めてしっとりと汗をかく。恥ずかしさにワタワタしながら、彼女はポスポスと太股を叩く。
「さ、さぁ! 残る片耳も掃除しようじゃないか! ほらほら速く私の膝にダイブしてくれ!」
「だ、ダイブ!? ぐはっ、なんかちょっとヤメテその言い方! いやらしい感じになるから」
「い、いやらし……!? ち、違うから! そういう意味ではないから! ほ、ほら! じゃあ速く私の上に寝そべって……」
「その言い方もヤバいって!」
やきもきした瑞月が「ああもう!」と俺の腕を引っ張る。「うわっ……」──俺の頭がポスンと正座した瑞月の脚(※太もも)に受け止められる。なんというか……うん。そっち方面に発想がいっちまったから、イロイロやべぇ! 瑞月固有の花みたいに甘い香りとか、もにゅっと柔らかい太股の感触とかイロイロまざまざと意識してしまう。
「じゃ、じゃあ、耳掃除を始めるから……」
「お、おう。そんじゃ一息に来いや!」
「……おまえさま、それはなんだかトドメを刺される人みたいだ」
実際トドメを刺してくれ、と思う。このまま瑞月の膝枕を続けられたら、ドキドキしすぎてリアルに間違いとか起こしかねない。心臓発作で死ぬかもしれない。いや瑞月と一緒にいたいから死ねないんだけどさ俺は……!
せめてもの抵抗で、俺はキツく目を瞑る。「で、では、耳掻きを入れていくな」まだ『いやらしい』発言で動揺していた瑞月のかけ声とともに、そっと耳掻きが差し入れられた。
「うっ……」
ちょうどいい力加減の耳掻きによって、頭がゾワゾワするみたいな独特の心地よさに包まれる。自然と力が抜ける感覚に身を任せると、目を閉じている影響もあってか、さっきのいかがわしい思考も薄れて、頭が霞がかってきた。
でもせっかく瑞月が俺のために耳掃除してくれてるんだから、起きていたくて。とろとろと眠りに逆らっていると、優しく髪を撫でられた。髪の毛のひとつひとつを慈しむみたいな、昼寝する子供をあやすみたいな、そんな、優しい手つき。こんなん、ねむらないほうが、むりだ。
「大丈夫だよ、陽介。眠くなったら、眠ってもいいから」
いや……もっと、いっしょに……いたい。せっかくの……デート……なんだし
「デートだったら、またいくらだってできるよ。今は、陽介がリラックスする方が大切」
瑞月の、毛布みたいな柔らかさを伴った声が俺を包む。心がポカポカして、心地の良い眠りのさざ波が意識を深みへと浚っていく。
「大丈夫。ちゃんと私は陽介の傍にいるよ。いなくなったりしないから」
────だから、安心しておやすみ。
穏やかな子守唄が、クリアになったばかりの鼓膜を撫でるように響く。優しい声、頬から伝わるぬくもり、ほのかに甘い匂い、髪を撫でる緩やかな手、全身を包み込んでいく瑞月の気配に心底安心して、俺は心地よい眠りへと身を委ねた。
◇◇◇
ずいぶんとリラックスできた気がする。
目が覚めると、白い天井が目に入った。身体はふかふかしたベッドに横たえられ、ブランケットがかけられていた。身体を冷やさないようにという配慮からだろう。お腹に腕が乗っているような温もりを感知して、俺は腕が伸びる方向に顔を向けた。
そこには、思った通り瑞月がいた。俺の傍に身体を横たえ、凛と美しい顔立ちにはまった瞳はあどけなく閉じられている。起きて傍に瑞月がいてくれることに、俺はどうしてか満ち足りた気持ちになった。
「…………」
安らかで幸せそうな、なぜか庇護欲のそそられる寝顔に、俺はついつい手を伸ばした。さらさらと癖のない黒髪を梳くと、「ん、んん……」とあえかな吐息とともに、瑞月の瞼が持ち上がった。ぱちぱちと、瞬きを終えた紺碧の瞳が俺を真っ直ぐに写し出す。
「あ……おはよ陽介。よく休めた?」
「おはよ。ん、そうだな。身体とか頭とか軽い感じがする。……つかごめんな、起こしちまって」
謝る俺に対し、瑞月はゆるゆると首を振って俺の手にじゃれつく。
「ううん……陽介に撫でられるの、好きだからいい。……それより、耳は?」
「耳も……うん。すげースッキリした。ありがとな、瑞月」
「ふふ、それならよかった」
瑞月が笑って、次の瞬間、俺は息を飲んだ。だって瑞月が俺に手を伸ばして、俺の胸あたりに抱きついてくれたから。
「へっ? 瑞月……?」
「ふふふ……」
俺が息を詰めるなか、瑞月はひたりと身体を寄せる。彼女固有の、安らぎを感じる香りと温もり、とくとくと規則正しい鼓動を間近に感じて、離したくなくて、俺は反射的に抱き締めた。
「ごめん……苦しくない?」
「ううん、全然。むしろ、ちゃんと甘えてくれてるって分かって嬉しいよ? おまえさまは頑張りやさんで、あまり誰かに甘えない人だから」
けれど今は、柄にもなく瑞月に甘えてしまっていた。そんな俺の頭を、嫌がることもなく瑞月はよしよしと撫でてくれる。極上の耳掃除を通じてとっぷりと甘やかされた俺は、瑞月の目論み通りに子供みたいな素直さで瑞月を求めてしまう。
内心で恥じらう俺を瑞月はさらに撫でてくれて、穏やかに言葉を続けた。
「陽介が、いつだって頑張っているのは知ってるよ。この前の模試だって、苦手科目も含めて、ちゃんといい結果出してたし」
「……うん」
「バイトだって、この前病欠した人の代わりでヘルプに入ったって、クマくんから聞いたよ。陽一さんや現場の人たち、絶対助かったと思う」
「……うん。そうなら、いいな」
「そうだよ。勉強もバイトも、自分の大切にしたいこと2つとも諦めないで、逃げないで、陽介はこつこつ努力してる。結果を出せるほどにね。……そんなまっすぐで我慢強い陽介を私は尊敬してるし──支えたいって、思ってる」
淡く微笑んで、瑞月が俺を見上げる。唇に慈しみを乗せて、彼女は告げた。
「だから、ちゃんと労らせて。いつも頑張っている私が大好きな陽介のこと。陽介は私に甘えていいんだし、恋人である陽介を甘やかすのは私の特権なのだから」
その言葉に誘われて、俺の心の奥に閉じ込めていた幼い気持ちが溢れ出す。誉められたい、撫でて欲しい、瑞月ともっと……くっついていたい。
「じゃあ……さ、」
「うん」
「このまま、抱き締めていいか……? おまえのこと、そうしてると、めちゃくちゃリラックスできるから」
「よしよしいいとも。ならばその間、私はおまえさまの背中をさすろうではないか」
許可をもらった直後、俺はゆっくりと、瑞月の柔らかい身体を自分の胸の中におさめていく。身体をひたりとくっつけると、熱を持った彼女の鼓動と、ふふ、と瑞月の嬉しそうな笑い声が、耳掃除をしてもらったおかげで、はっきりと聞き取れたのだった。