さしも知らじな
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本日、元旦。来る人々は、誰もが新しい年に浮き足だって明るい。初日の出もかくやと思える、人々の晴れやかな笑顔の波に引きずられながらも、俺──花村陽介は歩みを止めなかった。
迷いのない足取りで、商店街の北側にあるバス停にたどり着く。辰姫神社や飲食店がある南側と比べて、北側は正月休みの店舗が多いから、人も少ない。待ち人を見つけるにはもってこいの場所だ。もっとも、どこにいたって真っ先に見つけられるくらい、俺は待ち人である彼女が好きだけれど。
スマホを取り出して、ディスプレイの時計をチェック。続いて、カレンダーを表示した。
『1/1 瑞月と初詣』
華やかなクラッカーのサムネを背景にすると、無機質な文字でさえ踊っているようで、俺の頬は自然とほころんでしまう。クリスマスも、年の瀬も会っていたというのに、待ち人──大好きな恋人と会える心が弾むような喜びはいまだに尽きない。
(会いてぇな……)
待ち合わせの時間までは、まだしばらくある。深く息をついて、にやついているだろう唇をマフラーへと埋めた。
待ち人──瀬名瑞月は俺の恋人だ。紆余曲折を経て、去年のクリスマス・イブにお付き合いを開始した彼女と、初詣に行く予定である。きっかけは去年の暮れ。『もしよかったら、一緒に初詣に行きたい』と瑞月が連絡をくれたのだ。もちろん俺は速攻2つ返事でOKした。
(あいつのお願い、なるべく聞いてやりたいんだよなぁ。……って俺、アイツのことムッチャ好きじゃん)
恥ずかしーと思いながらも、嫌ではない。自分の甘さに呆れながら、俺は暇潰しに道路へと目を向ける。
冬は冷え込む八十稲羽は毎年それなりに雪が降る。年末は特に降りやすいらしく、陽介が眺める景色のなかにも、ちらほらとまっさらな雪山が写り込んだ。光を吸収する白は輝かしく、高く昇る太陽に照らされて、蝋燭の炎に似た輪光を放つ。
(こうゆう、静かな中で時間の流れを感じるのも、イイモンだよな)
無数の光の輪が八十稲羽を照らしていた。遠く、見慣れたはずの稲羽山の木々も、新緑のように若々しく、抜けるような青空に映える。ショップのノボリや人々の賑わいで感じる都会とは違う味があった。
からこんからこんと草履の音が近づいてくる。初詣に晴れ着で行った女性だろうか。心なしか音に聞くその足取りはちょっと戸惑っているようだ。きっと慣れない晴れ着で、初詣を楽しんできたのだろう。うーん、楽しそうでうらやましい。
「よ、陽介、おまたせ」
聞き覚えのある、凛と優しい、だけどうわずった響きが鼓膜に揺らす。浮き立つ心を抑えて、俺は後ろを振り返った。
「おー、瑞月。早ェ……な」
草履の音は止んでいる。なぜかと思考する暇もなく、俺は声の主──瑞月に釘付けになった。
すべては彼女の晴れ着姿が原因だ。
一言で言い表すのなら、春そのもの。宝石のように透明感のある薄荷色の振袖には、桜を中心に淡い色合いの花々が散らされ、白金の帯や桜色の半襟と調和して淑やかで愛らしい。
そして何よりも陽介の目を引いたのは、瑞月の美しい髪だ。普段はきっちりと纏められた長い黒髪は、緩く編まれて片側に流れていた。艶のある黒髪にはいくつもの花飾りが散らされて、童話のお姫さまみたいに麗しい。あわく、あたたかく、儚い。春そのものをまとって、瑞月は目の前に現れた。
フラッシュを食らったコウモリみたいに俺は固まる。感情のメーターが振り切って、思考回路がショートした。潤んだ紺碧の瞳を伏せ、薄くおしろいを乗せた頬を染めて腕をもじもじさせる瑞月を、ただただ瞬きを忘れて見つめている。
「……そんなに見られると、恥ずかしいのだが……」
「あ、ごめん。ちょっと瞬きのしかた忘れたから、両手で塞ぐわ」
「んん……? すぐに思い出──ってどうして泣いている!?」
素早く、瑞月はハンカチを取り出した。わあわあと駆け寄ると、俺の目元に迷わず当ててくれる。対する俺は「ちくしょう、涙で前が見えねぇ」と情けない声で呟くしかない。せっかく恋人が晴れ着で来てくれたのに……! なんも見えねぇ……! だが、瑞月は呆れずに、目の縁に溜まった涙を甲斐甲斐しく拭いとってくれる。
「おまえさま、大丈夫か? 目にゴミでも入ったのか?」
「いや、なんか」
もう涙になってしまった以上、隠し通せはしない。だから、素直に心のうちを吐き出した。晴れ着姿の瑞月があまりに綺麗で、眩しくて、感に堪えなかったのだ。
「好きだなって……思って……」
鼻声で情けない、俺の精一杯の告白に、瑞月はぽかんと瞳を丸くした。だけどすぐに目の縁をあまく細めて、彼女は俺へと手を伸ばす。
「そうか」
すべらかな白い手が俺の頬を捉える。そのまま、ひたりと瑞月は俺を見つめる。そして、ふわりと、春を思わせる温かさで笑った。
「年はじめに貰えた陽介の言葉が、『好き』だなんて嬉しいな」
──明けましておめでとう、陽介。
笑う瑞月につられて、俺の身体に心地のよい温もりがめぐる。添えられた白い手へと、俺は手のひらを重ねた。ゆっくりと力をこめて握りしめると、瑞月の体温が手のひらに溶けていく。
「明けまして、おめでと。今年もよろしくな、瑞月」
辰姫神社への道のりを、俺たちは手を繋いで歩きだした。着物で転びやすい瑞月を、リードして俺が歩調を合わせる。長い道のりも、雑談を交わしていればあっという間だ。その中で、俺はさっきから気になっていることを尋ねてみる。
「それにしても、お前。そんな可愛い振袖なんて着るのな。明るい色も似合うじゃん」
俺の問いに、瑞月は恥ずかそうにはにかむ。おもわせぶりな反応に、俺の心臓がとくんとはねた。
「実はこれ、お母さんの振袖なんだ」
瑞月いわく、初詣の服装に頭を悩ませて母親に相談を持ちかけたらしい。結果として、いつもは選ばない色合いの振袖を進められたとのこと。試着したところ、すっかり振袖の可愛さに魅了されてしまったのだと、彼女は弾んだ声で告げた。
「本当に、着て良かった。陽介も気に入ってくれたからな」
そこまで聞いて、俺は内心おかしな点に気がつく。
瑞月には基本、ファッションを楽しむという発想がない。普段着も機能性と清潔感、プラス威圧感(!?)を重視して、可愛さなど二の次だ。むしろ、他人に軽んじられるのが嫌いな彼女は、可愛さを控えている。そんな彼女がどうして母親に相談を持ちかけ、あまつさえ普段は選びはしない可憐な振り袖を選んだのか。
「……アノ、瑞月サン」
「どうした、陽介。口調がカッチコチではないか」
「さらっと言ってるけど、服に悩んでたのってさ──」
──俺の、ため?
自惚れも同然な問いかけに、瑞月の瞳がしぱしぱ瞬く。次の瞬間、パッと白雪の頬を桜の薄紅に染めた。なんと図星である。俺の心臓が大きく跳ねて、無性に瑞月を抱き締めたくなった。だって、こんなに可愛い子がいるか? わざわざ晴れ着着てきてくれたんだぞ、俺なんかのために。
衝動のまま、瑞月と繋いだ手を引き寄せそうになる。けれど、ある恐れが脳裏を掠めた。今抱き締めたのなら、晴れ着が崩れてしまいそうだ。それは、嫌だ。せっかく勇気を出して着飾ってくれた彼女の努力を台無しにしたくない。
「……陽介?」
呼び声に、ハッと我に帰る。どうやら振り向いたまま足を止めていたようだ。手を繋がれた瑞月が心配そうに胸に手を当てて、おずおずと俺を伺っている。
「あ、ああ、ごめんっ。んなとこで立ち往生しても、困るよな」
「私はその……手を繋げて嬉しいが、人が来たら注目を集めそうだ」
「o.oh……直球すぎんぞ、おまえ。今は新年だからつつしもうな」
「私がつつしんで、陽介は嬉しいのか……?」
「やっぱ、いいです……」
新年早々、デレがすぎる。瑞月の惜しげもない好意に正月休みはないようだ。それは俺の情緒もまた同じ。甘い胸騒ぎに落ち着かない身体をなんとか律して、瑞月を先導する。おち会ってからカッコ悪いトコばかり見せてるから、せめてリードくらいは頼もしい彼氏でいたいのだ。
年末に改築工事を済ませた真新しい社にも関わらず、辰姫神社は奇跡的に空いていた。おかげで神社はほぼ貸し切り状態で、2人で過ごす初めての初詣は充実した時間となった。
お互いに、真面目くさった顔で社の鈴を鳴らした。それがどうにもおかしくて、参拝が終わった直後にお互いを笑いあった。
おみくじでは俺が大凶を引き当て、リベンジに奮い立った瑞月が見事大吉を引き当てた。「一緒にいれば中吉だ!」と両手を握り、無邪気に笑った瑞月は可愛くて、ショボくれた気持ちが一気に華やいだ。
御守りが売っていたので、互いに一つを買って交換。瑞月から貰った御守りは、俺のスマホアクセとなっている。瑞月は財布につけるとのことだった。
初詣を終えて、俺と瑞月は帰路につく。あたりはすっかり日が落ちて、夕暮れが八十稲羽に橙の影を落とす。行きはあんなにソワソワと落ち着かなかったのに、帰りは少し寂しくて、つい歩くスピードを落とした。瑞月は文句のひとつも言わず、俺の隣を楽しそうに頬を弾ませて歩いている。
たあいない会話が綿々と続いていく。本当にとりとめもない、儚く過ぎてしまう一瞬の思い出なのに、たしかに感じた感動や嬉しさを共有できるのが楽しくて、瑞月とじゃれあうような語らいは続く。鳥居と賽銭箱が予想以上に金ピカだったこと、おみくじを片手で結ぶのは慣れっこな俺について、それから──
「なぁ、瑞月。お前はなにをお願いしたの?」
──神様に、何をお願いしたか。
人に話したら叶わなくなる。なんて噂もあるみたいだけど、やっぱり好きな子のお願いは知りたかった。もしかしすると、自分がその願いを叶える役に立てるかもしれないし。
しかし、彼女の答えは予想の斜め上を行った。
「不撓不屈 」
「それ座右の銘だろ!? 抱負だろ!?」
書き初めとかで、手ずからすった墨で堂々と半紙に刻む四字熟語。絶対に神に願うものではない。俺は思わずドン引きする。瑞月は不思議そうに首をかしげた。
「困難にもくじけないよう、心身の成長を願ったのだが」
「これ以上強くなってどうすんだよ……」
「何を得るにしても、自分の働きかけは不可欠だ。そのためには、心と身体はいくら強くてもいい」
「他力本願という言葉から、お前ほど遠いヤツはいないな……」
なるほど、自立心の強い彼女らしい答えだ。俺の出番はまったくない。人の願いは十人十色だし、俺が意見を出すものでもない仕方ない。そういい聞かせて、俺は一抹の寂しさを胸の奥に押し込もうとする。すると、ふいに瑞月が歩みを止めた。彼女はじっと推し量るように俺の顔を覗きこむ。
「どした? いきなり。さしもの瑞月さんも、別れるのが寂しくなったーとか?」
「陽介、不服だったか? 私の願い」
ああ、なんて目敏いんだろう。瑞月は俺が押し込もうとした寂しさに気がついてしまったらしい。こうして指摘されたのなら、もう誤魔化しは効かない。観念して、俺は白状する。
「……ショージキ言うとですね……俺が手伝える願いなら良かったなって」
「陽介が手伝える?」
「その……『ずっと一緒にいたい』とか」
瑞月の瞳が丸くなる。え!? そんな驚く!? 藪から棒な反応が、俺には軽くショッキングだった。だって、つまり神様への願い事として、1ミリも俺とのコト考えてなかったってことだろっ!?
「陽介、それは決定事項だ」
「………………………………………は?」
けっていじこう? どういうこと? 頭のなかがハテナでいっぱいになった俺に、瑞月は向かい合う。清らかな清水を思わせる紺碧の瞳が、一点の曇りもなく俺を映した。
そうして、騎士のような、忠実な臣下のような実直さで、瑞月は告げる。
「私が陽介と一緒にいるのも、共に幸せになるために添いあうのも、すべて決定事項だ。神に頼む間でもない」
「はぁ!?」
なんかすっげー話になった。スケールが富士山並みにデカすぎて、俺の腰が抜けそうになる。だというのに、瑞月はいまだ生真面目に続ける。
「私がおまえさまのそばにいるために必要なのは、陽介の許し、それひとつだけだ」
「いや、他にもいるだろっ? 家族とか」
「ん? 私の家族は全員賛成しているではないか。知っているだろう? おまえさまが許してくれるのであれば、おまえさまのご家族にも正式にご挨拶へ伺うが? 今すぐにでも」
「覚悟と判断が速すぎる……!」
「あ、すまない。やはりジュネスに立ち寄らせてほしい。手ぶらでは申し訳がない」
「寄らねーよ!? 晴れ着で歩き回るもんじゃありません!」
ツッコミが追い付かねぇ……!! そりゃ瑞月のご家族さんは(ありがたすぎることに)俺を信頼してくれてるけどさぁ! 何なら瑞月への告白前にお付き合いの許可くれたし、告白にも大変ご協力いただきましたからね!!
なんとか、晴れ着姿ではクマが暴走する。という理由で彼女には引き下がってもらった。むーっと、むすくれる瑞月は可愛い。
「とにかく、私がおまえさまのそばにいるのは決定事項だ。引き裂こうとする輩がいれば……」
「いれば?」
「徹底的に潰すまでよ。たとえ神であろうとな」
剣呑に、瑞月は笑う。そのくせ瞳は、この世の深淵でも宿してんのかってくらい闇が濃く、氷の刃に似た冷たい光が射す。あ、これはテレビの世界で俺を攻撃したシャドウを斧槍 でメッタメタに切り潰すときの顔だ。去年、2体くらい神を名乗る存在も倒してるから、発言自体にもイヤなリアリティーがある。メギドラオン級に、俺の彼女は愛が重い。
目の前で殺伐としている彼女だが、俺はまったく怖くない。むしろそういう部分も受け入れられるくらい首ったけになってしまっている──と考えて、俺は気がついた。
────なんだ、俺も離れるなんて大概考えられない。
形は違えど、俺たちの願いは根っこの部分で一緒だった。それがおかしくて、どうしようもなく、嬉しい。頬がにやけてしまうくらい。そんな俺を、瑞月は愛しさに溢れた笑顔で見つめてくれる。
「なぁ、おまえさま。私も尋ねていいだろうか」
「ん、どうぞ。正月出血大サービス。スリーサイズも答えてやるよ」
「いい。いつか私から測ってやるから」
ちょっと待て。なんてツッコム暇もなかった。好奇心に踊る声が俺に問う。
「おまえさまは、何を願ったんだ?」
「……そこはスルーしてくんねーかな」
「残念。ここは言い合ってお相子 というものだ」
────それに私だって、おまえさまの役に立ちたいんだよ?
照れくさくって、俺ははにかむ。だって、俺の願いには瑞月が含まれているのだ。それを本人に直接告げるのは、やっぱり気恥ずかしくて。
けれど、瑞月は穏やかに笑って、俺の答えを待っている。瑞月はいつだってそうだった。陽介が吐き出した気持ちを、絶対に軽んじることなく、真正面から受け取ってくれる。どんな想いだろうと、大切に抱き留めてれる、優しい子。
だから、するりと言葉が溢れる。
「『勇気』を、くださいって」
「勇気?」
頬をかきながらも、俺は頷く。俺の願いはあまりに短くて、どうして『勇気』がほしいのか、全然理由を説明できていなかった。きょとんとする瑞月に向けて、俺は胸の内を明かし続けた。
「俺ってさ、なんだかんだでイロんなもんに憧れるじゃん」
そう、俺は今まで色んなものに憧れてきた。幼い頃は赤いマントをはためかせた孤高のヒーロー、小学校はスポーツの花形スター、中学校はハマったミュージシャン。高校生になってからは、身近な人たちに憧れた。バイトに勤しむ大人びた小西先輩。特殊な力とカリスマ性を持ったカッコいい自慢の相棒。それから、泥のなかに凛と咲く白蓮のように輝ける瑞月。
「でも、変なとこ臆病で……手に入れるのをすげー躊躇うってか、手を伸ばしても届かねーって諦めちまうんだよな」
憧れる人たちは、みんな星みたいだと思っていた。誰も彼もが違う輝きを持っていて、どれだけ欲しようとも、手を伸ばそうとも、触れることは叶わない。そうやってずっとずっと、弱腰な自分に引きずられて、何かを手に入れられないと諦めていた。
「陽介……」
ぎゅうっと、俺の手が人肌の温もりに包まれた。瑞月が両の手で俺の手を握りしめてくれたのだ。愛情、共感、励まし、労り。俺より小さくやわらかい彼女の手が、硬い表皮を突き抜けて俺に様々な想いを伝えてくる。昏い場所に迷い込みそうになる、どうしようもない俺を、いつだってひたむきに握り続けて離さないでいてくれた、かけがえのない手のひらだ。
きっと彼女は、それにどれだけ救われたのか、知ることなんてないのだろう。
「けど、お前だけは──瑞月だけは絶対、手放したくない」
だからせめて、救われたという、離したくないという言葉がわりに、俺は瑞月の手を握り返す。
瑞月は何も言わなかった。けれど、俺の気持ちはちゃんと伝わっているみたいだ。俺が包み返した彼女の手が小さく震えている。うっすらと紅を施した形のいい唇は泣くまいと引き結ばれているのに、目尻は嬉しそうに丸まっている。その姿に、俺の目頭は熱くなる。
──ああ、お前は、
──こんな想いでも受け止めてくれるのか。
瑞月が好きだ。けれどそれは、初恋のように淡く可愛いらしい想いではなかった。鎖で縛るような執着も、柔肌に牙を立てたい独占欲も伴った、自分でも驚くほど濃く、煮詰められた激情。それこそ一生、瑞月を諦められないし手放せないほどに、俺は瑞月を愛している。
「だから、俺は絶対、お前の手を離さない。お前の隣に居続けるために、俺の隣に居てもらうために、俺のなかの臆病さなんて何度だって振り切ってやる」
だからこそ、前に進み続ける『勇気』を欲した。瑞月と、ずっと一緒にいるために。
届かないと思っていた空から、俺の腕の中に落ちてきてくれた、俺のためだけの宝物になってくれた、俺にとって最も失いがたい輝きを持った人の手を、握り続ける『勇気』を願った。
瑞月が嬉しそうに目を細める。じわりじわりと染み出した涙が、ころりとこぼれ落ちた。白い頬に、夕日を溶かした宝石が伝う。俺はそれを指の腹で受け止めた。
泣きながら、瑞月が笑う。俺に向けた想いを、いくつもいくつも生み出しながら笑む瑞月は、夕日に照らされて、彼女自身が淡い光をまとっているようだった。可憐で儚い色彩の振袖に彩られ、まるで七色に輝く宝石だ。
ふと、裾を軽い力で引っ張られた。何事かと目を向けると、いつの間にか自由になった瑞月の片手が俺のジャケットを掴んでいる。それだけで、すべてがわかった。瑞月が抱えている、俺が、俺だけが叶えられる願いごとが。
「なぁ、瑞月」
────抱き締めても、いいか?
こくんと、瑞月が頷く。どんな宝石にも負けないくらい綺麗な輝きを持つ最愛の人を、俺は自分の腕に招き入れ、淡い光を生み出す輪郭を撫で下ろした。
迷いのない足取りで、商店街の北側にあるバス停にたどり着く。辰姫神社や飲食店がある南側と比べて、北側は正月休みの店舗が多いから、人も少ない。待ち人を見つけるにはもってこいの場所だ。もっとも、どこにいたって真っ先に見つけられるくらい、俺は待ち人である彼女が好きだけれど。
スマホを取り出して、ディスプレイの時計をチェック。続いて、カレンダーを表示した。
『1/1 瑞月と初詣』
華やかなクラッカーのサムネを背景にすると、無機質な文字でさえ踊っているようで、俺の頬は自然とほころんでしまう。クリスマスも、年の瀬も会っていたというのに、待ち人──大好きな恋人と会える心が弾むような喜びはいまだに尽きない。
(会いてぇな……)
待ち合わせの時間までは、まだしばらくある。深く息をついて、にやついているだろう唇をマフラーへと埋めた。
待ち人──瀬名瑞月は俺の恋人だ。紆余曲折を経て、去年のクリスマス・イブにお付き合いを開始した彼女と、初詣に行く予定である。きっかけは去年の暮れ。『もしよかったら、一緒に初詣に行きたい』と瑞月が連絡をくれたのだ。もちろん俺は速攻2つ返事でOKした。
(あいつのお願い、なるべく聞いてやりたいんだよなぁ。……って俺、アイツのことムッチャ好きじゃん)
恥ずかしーと思いながらも、嫌ではない。自分の甘さに呆れながら、俺は暇潰しに道路へと目を向ける。
冬は冷え込む八十稲羽は毎年それなりに雪が降る。年末は特に降りやすいらしく、陽介が眺める景色のなかにも、ちらほらとまっさらな雪山が写り込んだ。光を吸収する白は輝かしく、高く昇る太陽に照らされて、蝋燭の炎に似た輪光を放つ。
(こうゆう、静かな中で時間の流れを感じるのも、イイモンだよな)
無数の光の輪が八十稲羽を照らしていた。遠く、見慣れたはずの稲羽山の木々も、新緑のように若々しく、抜けるような青空に映える。ショップのノボリや人々の賑わいで感じる都会とは違う味があった。
からこんからこんと草履の音が近づいてくる。初詣に晴れ着で行った女性だろうか。心なしか音に聞くその足取りはちょっと戸惑っているようだ。きっと慣れない晴れ着で、初詣を楽しんできたのだろう。うーん、楽しそうでうらやましい。
「よ、陽介、おまたせ」
聞き覚えのある、凛と優しい、だけどうわずった響きが鼓膜に揺らす。浮き立つ心を抑えて、俺は後ろを振り返った。
「おー、瑞月。早ェ……な」
草履の音は止んでいる。なぜかと思考する暇もなく、俺は声の主──瑞月に釘付けになった。
すべては彼女の晴れ着姿が原因だ。
一言で言い表すのなら、春そのもの。宝石のように透明感のある薄荷色の振袖には、桜を中心に淡い色合いの花々が散らされ、白金の帯や桜色の半襟と調和して淑やかで愛らしい。
そして何よりも陽介の目を引いたのは、瑞月の美しい髪だ。普段はきっちりと纏められた長い黒髪は、緩く編まれて片側に流れていた。艶のある黒髪にはいくつもの花飾りが散らされて、童話のお姫さまみたいに麗しい。あわく、あたたかく、儚い。春そのものをまとって、瑞月は目の前に現れた。
フラッシュを食らったコウモリみたいに俺は固まる。感情のメーターが振り切って、思考回路がショートした。潤んだ紺碧の瞳を伏せ、薄くおしろいを乗せた頬を染めて腕をもじもじさせる瑞月を、ただただ瞬きを忘れて見つめている。
「……そんなに見られると、恥ずかしいのだが……」
「あ、ごめん。ちょっと瞬きのしかた忘れたから、両手で塞ぐわ」
「んん……? すぐに思い出──ってどうして泣いている!?」
素早く、瑞月はハンカチを取り出した。わあわあと駆け寄ると、俺の目元に迷わず当ててくれる。対する俺は「ちくしょう、涙で前が見えねぇ」と情けない声で呟くしかない。せっかく恋人が晴れ着で来てくれたのに……! なんも見えねぇ……! だが、瑞月は呆れずに、目の縁に溜まった涙を甲斐甲斐しく拭いとってくれる。
「おまえさま、大丈夫か? 目にゴミでも入ったのか?」
「いや、なんか」
もう涙になってしまった以上、隠し通せはしない。だから、素直に心のうちを吐き出した。晴れ着姿の瑞月があまりに綺麗で、眩しくて、感に堪えなかったのだ。
「好きだなって……思って……」
鼻声で情けない、俺の精一杯の告白に、瑞月はぽかんと瞳を丸くした。だけどすぐに目の縁をあまく細めて、彼女は俺へと手を伸ばす。
「そうか」
すべらかな白い手が俺の頬を捉える。そのまま、ひたりと瑞月は俺を見つめる。そして、ふわりと、春を思わせる温かさで笑った。
「年はじめに貰えた陽介の言葉が、『好き』だなんて嬉しいな」
──明けましておめでとう、陽介。
笑う瑞月につられて、俺の身体に心地のよい温もりがめぐる。添えられた白い手へと、俺は手のひらを重ねた。ゆっくりと力をこめて握りしめると、瑞月の体温が手のひらに溶けていく。
「明けまして、おめでと。今年もよろしくな、瑞月」
辰姫神社への道のりを、俺たちは手を繋いで歩きだした。着物で転びやすい瑞月を、リードして俺が歩調を合わせる。長い道のりも、雑談を交わしていればあっという間だ。その中で、俺はさっきから気になっていることを尋ねてみる。
「それにしても、お前。そんな可愛い振袖なんて着るのな。明るい色も似合うじゃん」
俺の問いに、瑞月は恥ずかそうにはにかむ。おもわせぶりな反応に、俺の心臓がとくんとはねた。
「実はこれ、お母さんの振袖なんだ」
瑞月いわく、初詣の服装に頭を悩ませて母親に相談を持ちかけたらしい。結果として、いつもは選ばない色合いの振袖を進められたとのこと。試着したところ、すっかり振袖の可愛さに魅了されてしまったのだと、彼女は弾んだ声で告げた。
「本当に、着て良かった。陽介も気に入ってくれたからな」
そこまで聞いて、俺は内心おかしな点に気がつく。
瑞月には基本、ファッションを楽しむという発想がない。普段着も機能性と清潔感、プラス威圧感(!?)を重視して、可愛さなど二の次だ。むしろ、他人に軽んじられるのが嫌いな彼女は、可愛さを控えている。そんな彼女がどうして母親に相談を持ちかけ、あまつさえ普段は選びはしない可憐な振り袖を選んだのか。
「……アノ、瑞月サン」
「どうした、陽介。口調がカッチコチではないか」
「さらっと言ってるけど、服に悩んでたのってさ──」
──俺の、ため?
自惚れも同然な問いかけに、瑞月の瞳がしぱしぱ瞬く。次の瞬間、パッと白雪の頬を桜の薄紅に染めた。なんと図星である。俺の心臓が大きく跳ねて、無性に瑞月を抱き締めたくなった。だって、こんなに可愛い子がいるか? わざわざ晴れ着着てきてくれたんだぞ、俺なんかのために。
衝動のまま、瑞月と繋いだ手を引き寄せそうになる。けれど、ある恐れが脳裏を掠めた。今抱き締めたのなら、晴れ着が崩れてしまいそうだ。それは、嫌だ。せっかく勇気を出して着飾ってくれた彼女の努力を台無しにしたくない。
「……陽介?」
呼び声に、ハッと我に帰る。どうやら振り向いたまま足を止めていたようだ。手を繋がれた瑞月が心配そうに胸に手を当てて、おずおずと俺を伺っている。
「あ、ああ、ごめんっ。んなとこで立ち往生しても、困るよな」
「私はその……手を繋げて嬉しいが、人が来たら注目を集めそうだ」
「o.oh……直球すぎんぞ、おまえ。今は新年だからつつしもうな」
「私がつつしんで、陽介は嬉しいのか……?」
「やっぱ、いいです……」
新年早々、デレがすぎる。瑞月の惜しげもない好意に正月休みはないようだ。それは俺の情緒もまた同じ。甘い胸騒ぎに落ち着かない身体をなんとか律して、瑞月を先導する。おち会ってからカッコ悪いトコばかり見せてるから、せめてリードくらいは頼もしい彼氏でいたいのだ。
年末に改築工事を済ませた真新しい社にも関わらず、辰姫神社は奇跡的に空いていた。おかげで神社はほぼ貸し切り状態で、2人で過ごす初めての初詣は充実した時間となった。
お互いに、真面目くさった顔で社の鈴を鳴らした。それがどうにもおかしくて、参拝が終わった直後にお互いを笑いあった。
おみくじでは俺が大凶を引き当て、リベンジに奮い立った瑞月が見事大吉を引き当てた。「一緒にいれば中吉だ!」と両手を握り、無邪気に笑った瑞月は可愛くて、ショボくれた気持ちが一気に華やいだ。
御守りが売っていたので、互いに一つを買って交換。瑞月から貰った御守りは、俺のスマホアクセとなっている。瑞月は財布につけるとのことだった。
初詣を終えて、俺と瑞月は帰路につく。あたりはすっかり日が落ちて、夕暮れが八十稲羽に橙の影を落とす。行きはあんなにソワソワと落ち着かなかったのに、帰りは少し寂しくて、つい歩くスピードを落とした。瑞月は文句のひとつも言わず、俺の隣を楽しそうに頬を弾ませて歩いている。
たあいない会話が綿々と続いていく。本当にとりとめもない、儚く過ぎてしまう一瞬の思い出なのに、たしかに感じた感動や嬉しさを共有できるのが楽しくて、瑞月とじゃれあうような語らいは続く。鳥居と賽銭箱が予想以上に金ピカだったこと、おみくじを片手で結ぶのは慣れっこな俺について、それから──
「なぁ、瑞月。お前はなにをお願いしたの?」
──神様に、何をお願いしたか。
人に話したら叶わなくなる。なんて噂もあるみたいだけど、やっぱり好きな子のお願いは知りたかった。もしかしすると、自分がその願いを叶える役に立てるかもしれないし。
しかし、彼女の答えは予想の斜め上を行った。
「
「それ座右の銘だろ!? 抱負だろ!?」
書き初めとかで、手ずからすった墨で堂々と半紙に刻む四字熟語。絶対に神に願うものではない。俺は思わずドン引きする。瑞月は不思議そうに首をかしげた。
「困難にもくじけないよう、心身の成長を願ったのだが」
「これ以上強くなってどうすんだよ……」
「何を得るにしても、自分の働きかけは不可欠だ。そのためには、心と身体はいくら強くてもいい」
「他力本願という言葉から、お前ほど遠いヤツはいないな……」
なるほど、自立心の強い彼女らしい答えだ。俺の出番はまったくない。人の願いは十人十色だし、俺が意見を出すものでもない仕方ない。そういい聞かせて、俺は一抹の寂しさを胸の奥に押し込もうとする。すると、ふいに瑞月が歩みを止めた。彼女はじっと推し量るように俺の顔を覗きこむ。
「どした? いきなり。さしもの瑞月さんも、別れるのが寂しくなったーとか?」
「陽介、不服だったか? 私の願い」
ああ、なんて目敏いんだろう。瑞月は俺が押し込もうとした寂しさに気がついてしまったらしい。こうして指摘されたのなら、もう誤魔化しは効かない。観念して、俺は白状する。
「……ショージキ言うとですね……俺が手伝える願いなら良かったなって」
「陽介が手伝える?」
「その……『ずっと一緒にいたい』とか」
瑞月の瞳が丸くなる。え!? そんな驚く!? 藪から棒な反応が、俺には軽くショッキングだった。だって、つまり神様への願い事として、1ミリも俺とのコト考えてなかったってことだろっ!?
「陽介、それは決定事項だ」
「………………………………………は?」
けっていじこう? どういうこと? 頭のなかがハテナでいっぱいになった俺に、瑞月は向かい合う。清らかな清水を思わせる紺碧の瞳が、一点の曇りもなく俺を映した。
そうして、騎士のような、忠実な臣下のような実直さで、瑞月は告げる。
「私が陽介と一緒にいるのも、共に幸せになるために添いあうのも、すべて決定事項だ。神に頼む間でもない」
「はぁ!?」
なんかすっげー話になった。スケールが富士山並みにデカすぎて、俺の腰が抜けそうになる。だというのに、瑞月はいまだ生真面目に続ける。
「私がおまえさまのそばにいるために必要なのは、陽介の許し、それひとつだけだ」
「いや、他にもいるだろっ? 家族とか」
「ん? 私の家族は全員賛成しているではないか。知っているだろう? おまえさまが許してくれるのであれば、おまえさまのご家族にも正式にご挨拶へ伺うが? 今すぐにでも」
「覚悟と判断が速すぎる……!」
「あ、すまない。やはりジュネスに立ち寄らせてほしい。手ぶらでは申し訳がない」
「寄らねーよ!? 晴れ着で歩き回るもんじゃありません!」
ツッコミが追い付かねぇ……!! そりゃ瑞月のご家族さんは(ありがたすぎることに)俺を信頼してくれてるけどさぁ! 何なら瑞月への告白前にお付き合いの許可くれたし、告白にも大変ご協力いただきましたからね!!
なんとか、晴れ着姿ではクマが暴走する。という理由で彼女には引き下がってもらった。むーっと、むすくれる瑞月は可愛い。
「とにかく、私がおまえさまのそばにいるのは決定事項だ。引き裂こうとする輩がいれば……」
「いれば?」
「徹底的に潰すまでよ。たとえ神であろうとな」
剣呑に、瑞月は笑う。そのくせ瞳は、この世の深淵でも宿してんのかってくらい闇が濃く、氷の刃に似た冷たい光が射す。あ、これはテレビの世界で俺を攻撃したシャドウを
目の前で殺伐としている彼女だが、俺はまったく怖くない。むしろそういう部分も受け入れられるくらい首ったけになってしまっている──と考えて、俺は気がついた。
────なんだ、俺も離れるなんて大概考えられない。
形は違えど、俺たちの願いは根っこの部分で一緒だった。それがおかしくて、どうしようもなく、嬉しい。頬がにやけてしまうくらい。そんな俺を、瑞月は愛しさに溢れた笑顔で見つめてくれる。
「なぁ、おまえさま。私も尋ねていいだろうか」
「ん、どうぞ。正月出血大サービス。スリーサイズも答えてやるよ」
「いい。いつか私から測ってやるから」
ちょっと待て。なんてツッコム暇もなかった。好奇心に踊る声が俺に問う。
「おまえさまは、何を願ったんだ?」
「……そこはスルーしてくんねーかな」
「残念。ここは言い合ってお
────それに私だって、おまえさまの役に立ちたいんだよ?
照れくさくって、俺ははにかむ。だって、俺の願いには瑞月が含まれているのだ。それを本人に直接告げるのは、やっぱり気恥ずかしくて。
けれど、瑞月は穏やかに笑って、俺の答えを待っている。瑞月はいつだってそうだった。陽介が吐き出した気持ちを、絶対に軽んじることなく、真正面から受け取ってくれる。どんな想いだろうと、大切に抱き留めてれる、優しい子。
だから、するりと言葉が溢れる。
「『勇気』を、くださいって」
「勇気?」
頬をかきながらも、俺は頷く。俺の願いはあまりに短くて、どうして『勇気』がほしいのか、全然理由を説明できていなかった。きょとんとする瑞月に向けて、俺は胸の内を明かし続けた。
「俺ってさ、なんだかんだでイロんなもんに憧れるじゃん」
そう、俺は今まで色んなものに憧れてきた。幼い頃は赤いマントをはためかせた孤高のヒーロー、小学校はスポーツの花形スター、中学校はハマったミュージシャン。高校生になってからは、身近な人たちに憧れた。バイトに勤しむ大人びた小西先輩。特殊な力とカリスマ性を持ったカッコいい自慢の相棒。それから、泥のなかに凛と咲く白蓮のように輝ける瑞月。
「でも、変なとこ臆病で……手に入れるのをすげー躊躇うってか、手を伸ばしても届かねーって諦めちまうんだよな」
憧れる人たちは、みんな星みたいだと思っていた。誰も彼もが違う輝きを持っていて、どれだけ欲しようとも、手を伸ばそうとも、触れることは叶わない。そうやってずっとずっと、弱腰な自分に引きずられて、何かを手に入れられないと諦めていた。
「陽介……」
ぎゅうっと、俺の手が人肌の温もりに包まれた。瑞月が両の手で俺の手を握りしめてくれたのだ。愛情、共感、励まし、労り。俺より小さくやわらかい彼女の手が、硬い表皮を突き抜けて俺に様々な想いを伝えてくる。昏い場所に迷い込みそうになる、どうしようもない俺を、いつだってひたむきに握り続けて離さないでいてくれた、かけがえのない手のひらだ。
きっと彼女は、それにどれだけ救われたのか、知ることなんてないのだろう。
「けど、お前だけは──瑞月だけは絶対、手放したくない」
だからせめて、救われたという、離したくないという言葉がわりに、俺は瑞月の手を握り返す。
瑞月は何も言わなかった。けれど、俺の気持ちはちゃんと伝わっているみたいだ。俺が包み返した彼女の手が小さく震えている。うっすらと紅を施した形のいい唇は泣くまいと引き結ばれているのに、目尻は嬉しそうに丸まっている。その姿に、俺の目頭は熱くなる。
──ああ、お前は、
──こんな想いでも受け止めてくれるのか。
瑞月が好きだ。けれどそれは、初恋のように淡く可愛いらしい想いではなかった。鎖で縛るような執着も、柔肌に牙を立てたい独占欲も伴った、自分でも驚くほど濃く、煮詰められた激情。それこそ一生、瑞月を諦められないし手放せないほどに、俺は瑞月を愛している。
「だから、俺は絶対、お前の手を離さない。お前の隣に居続けるために、俺の隣に居てもらうために、俺のなかの臆病さなんて何度だって振り切ってやる」
だからこそ、前に進み続ける『勇気』を欲した。瑞月と、ずっと一緒にいるために。
届かないと思っていた空から、俺の腕の中に落ちてきてくれた、俺のためだけの宝物になってくれた、俺にとって最も失いがたい輝きを持った人の手を、握り続ける『勇気』を願った。
瑞月が嬉しそうに目を細める。じわりじわりと染み出した涙が、ころりとこぼれ落ちた。白い頬に、夕日を溶かした宝石が伝う。俺はそれを指の腹で受け止めた。
泣きながら、瑞月が笑う。俺に向けた想いを、いくつもいくつも生み出しながら笑む瑞月は、夕日に照らされて、彼女自身が淡い光をまとっているようだった。可憐で儚い色彩の振袖に彩られ、まるで七色に輝く宝石だ。
ふと、裾を軽い力で引っ張られた。何事かと目を向けると、いつの間にか自由になった瑞月の片手が俺のジャケットを掴んでいる。それだけで、すべてがわかった。瑞月が抱えている、俺が、俺だけが叶えられる願いごとが。
「なぁ、瑞月」
────抱き締めても、いいか?
こくんと、瑞月が頷く。どんな宝石にも負けないくらい綺麗な輝きを持つ最愛の人を、俺は自分の腕に招き入れ、淡い光を生み出す輪郭を撫で下ろした。