二章、生まれ始めた絆
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エルミラエルはクルニーアの後ろを離れないように気を付けながら、息を殺して魔物たちの背後を通り抜けようとしていた。だが、敵は白の魔法使いである彼をいともあっさり見つけてしまった。クルニーアは杖を構えると、エルミラエルを背中に回してこう言った。
「もし何かあったら、わしを置いて逃げるんじゃぞ」
「えっ?」
「と言うても、このわしに危機など、そう訪れんがな」
驚くエルミラエルを放って、クルニーアは自身の黒く重厚感のある杖を振り上げた。その瞬間、世界に大きな波動が生じる。耳が聞こえづらくなったと思ったその刹那、クルニーアは既にエルミラエルの目の前で魔物たちと戦い始めていた。杖の先についている白い石から魔力が生じているのか、クルニーアは見た目にそぐわず器用に攻撃をかわしながら光の攻撃を繰り出している。
「これ!眼を使わんか!」
エルミラエルは我に返ると、クルニーアの周りを観察した。一度に二体以上の悪霊を相手にしている彼だが、まだ数は多い。
「上よ!」
エルミラエルが叫ぶと、敵の顎を杖の下部で殴り付けてから消滅させたクルニーアが攻撃を避けた。一回転して距離をおいた彼は、突き出すように杖を振って頭上の敵を粉砕した。
「左右に一体ずつ!」
今度は素早く杖を横にして、クルニーアは両端から波動を出した。すかさず次の攻撃に備え、杖は水平に戻されて正面から突っ込んできた敵を直撃した。
エルミラエルはそんな華麗な動きで次々と並みいる敵を倒し続けているクルニーアに、いつの間にか見とれていた。すると、彼女に気づいた悪霊が一体向かっていく。クルニーアは背後へ振り向いてエルミラエルの方へ走ると、彼女を抱きかかえるようにして横へ避け、空いた方の手で杖を振って敵を退けた。あまりに一瞬のことすぎて、エルミラエルは言葉を無くしていた。
これが最後の一体だったので、クルニーアは軽くため息をついて呆然としているエルフの姫を見た。
「……怪我は、ないか?」
「えっ?え、ええ。大丈夫」
そうか、と一言だけ言ってクルニーアは再び何事もなかったかのように歩きだした。エルミラエルは慌ててその後ろへついていく。
────この人、本当はすごい人なのね
「あの……ありがとう」
「別に、感謝を述べられるほどのことはしておらん。それよりも、先を急ぐぞ」
クルニーアはエルミラエルの顔も見ずにそう返事した。だが、その手には確かに彼女を抱き止めた時の感覚がしっかりと残っているのだった。
そのまま歩き続けていると、二人は突然開けた場所に出た。洞窟の形をしているが、泉への入り口だった。
「さて……人魚族は複雑な性格ゆえ、あまり下手なことを言うでないぞ」
お前が言うか、と思いながらもエルミラエルは黙ってうなずき、洞窟の入り口に足を踏み入れようとした。だが、その手を不意に掴む者がいた。クルニーアだった。彼はそっぽを向きながらぶっきらぼうな声で言い放った。
「……滑ると危ない。手は掴んでおいた方が無難じゃ」
そして返事も聞かないまま、クルニーアは洞窟を進み始めてしまった。振りほどくわけにもいかなくなってしまったエルミラエルは、渋々彼の手を頼りに道を辿るのだった。
洞窟を抜けると、そこには透明度の高い泉が涌き出ていた。クルニーアが聞いたこともない言葉で水面に語りかけ始めると、一人の女性──ではなく人魚が顔をだした。
「クルニーア、あなたが直々に訪れるとは珍しいですね」
「ああ。申し訳ないが、女王様に会わせてはくれんか?」
「もちろんです。……して、お隣の方は?」
人魚の視線が一斉にエルミラエルに注がれる。エルフの姫を見ながら、人魚たちは微笑んだ。
「ええと……」
「女王様には、お二人ともお目通りが叶うことでしょう」
一人の人魚がそう言った瞬間、泉が割れた。そして道が出来上がり、クルニーアは慣れた様子でその上を歩き始めている。
「こ、ここを渡るの?」
「来たくなければ待っておるがよい」
エルミラエルは口をへの字に曲げ、慎重に足を踏み入れた。先程の人魚がクルニーアの名を呼ぶ。
「良いのですか?一人にさせておいて」
「……手を焼く性ではないんだわ」
「私だって結構です!」
二人のやり取りを、周りに集まり始めた人魚たちが笑う。
「お二人は、随分と楽しそうですね」
「いいえ、楽しくないです」
エルミラエルがそう言って、腹立ち混じりに勢いよく踏み出した瞬間だった。足を滑らせた彼女は、短い悲鳴を上げた。
だが、かつて木の上から落ちそうになったとき同様、その身体が水の中に落ちることはなかった。
「────大丈夫か?」
目を開けた刹那に、姫は全てがあの時と同じではないことを知った。あの時は魔法で助けられた。けれど今は違う。
エルミラエルは、クルニーアに手を掴まれていた。憎まれ口を叩いていたはずなのに、本当はきちんと自分のことを心配してくれていたのだ。
「あり……がとう」
「……離すでないぞ。二度も同じ轍を踏むな」
このときエルミラエルは僅かに、ほんの僅かにクルニーアという男を理解し始めていた。そして彼女の手を握り、背を向けて前を歩くクルニーアの頬は、確かに赤く染まっていた。
エルミラエルとクルニーアが歩き続けた先は、水の上に浮かぶ玉座だった。エンディアンの長、セイレリア女王は冬の海よりも冷たい眼差しで二人を見ている。そしてさざ波のように囁いた。
「────クルニーア。あなたが誰かと連れ立って現れるとは、珍しいですね」
女王の美しさと荘厳さに言葉を失くしているエルミラエルの頭を慌てて押し下げると、クルニーアは深々と一礼した。
「あの……」
「フィナルフィンの娘、エルミラエルですね」
「ええと……そうです」
「女王様、メルコールから迫害を受けているとは、真ですか?」
「正しくは、バルログたちですが」
エルミラエルは何の話しか相変わらずさっぱりで、目を白黒させながら二人を見た。クルニーアはため息をつきながらセイレリアに言った。
「女王様。メルコールが狙っているのは、エンディアンの石では?」
「────流石、察しの早い男です」
セイレリアは箱を取り出すと、クルニーアの前に持っていくように指示した。中にはアマンの深海の青色を閉じ込めたような、石というより水滴に近い宝石が入っていた。だが、どうみても水滴ではなく石だ。
「その石は、我らが家宝。ですが、我らはこの地を去ろうと思っています」
「何ですと?一体どちらへ?」
「マンドス殿が、良い場所を探してくれました。嘆きを賢しく聞き付けるお方ですから」
エルミラエルはそれを聞いて、急に悲しくなってきた。
「そんなの、おかしいです。あなたたちは何も悪いことをしていないのに、他人のものを欲して好き勝手する奴等が生活を脅かすなんて!」
その言葉を聞いて、セイレリアは微笑んだ。
「あなたは、とても清く正しい心の持ち主ですね。ですが、その心は時に毒となるでしょう。どうしようもないのです」
「そんな……」
項垂れるエルミラエルの肩に、クルニーアは手を掛けて慰めの言葉を述べるべきか戸惑った。だがその結論が出るより前に、甲高い法螺貝を吹く音が響いた。
「バルログか」
「あなた方に頼みたいことはただ一つ。海に出るまで手助けをお願いしたいのです」
セイレリアの言葉に、クルニーアが頷く。状況に取り残されているエルミラエルに、女王は言った。
「あなたは、エンディアンの石を持っていてください」
思いがけない頼みに、エルミラエルは目が点になった。
「え?でも……」
「お願いします。あなたなら、大丈夫」
何が大丈夫なのかと聞くより先に、バルログが暴れる音が耳に届いた。
「お主は逃げる人魚たちを誘導せよ。マイアール共はわしが何とかする」
「ク、クルニーア!?」
「必ず戻る。わしを信じよ」
返事も聞かずに走り去ってしまったクルニーアの背を呆然と見ながら、エルミラエルは石の入った箱を持って立ち尽くしている。セイレリアはしなやかな指先で箱を指差した。
「────首から、お掛けなさい。あなたのことを信じます」
「女王様……」
「さぁ。私達にしか出来ないことがあります。行かねば」
玉座から降りて泉に入ったセイレリアの後を、エルミラエルはエンディアンの石を首からぶら下げて走り出した。外に続く水路には既に大勢の人魚たちが集まっている。
「女王様、これからどうすべきでしょうか?」
「石がここにあるかぎり、我らは永遠に追われ続けます!」
その言葉を聞いたエルミラエルは、何かを閃いた。彼女は白銀の髪を紐で結い上げると、女王に申し出た。
「女王様、石は私が持っておきます。敵の狙いは石なら、私が奴らを引き付けます」
「ですが……」
「大丈夫。私はガラドリエルの妹ですから」
エルミラエルは頼もしげに胸を張って頷いた。セイレリアは何か言いたげだったが、何しろ時間がない。彼女は同胞たちに命じた。
「海へ!行くのよ!」
丁度そのとき、バルログたちが逃げ去る人魚たちの姿に気づいた。エルミラエルは土壇場の勇気を振り絞り、逆方向に駆け出した。
────頑張るのよ、エルミラエル。いつも森を駆け抜けてるじゃない。
フィナルフィンの娘、そしてガラドリエルの妹なだけあって、エルミラエルの足取りは軽かった。バルログの巨体を手こずらせるような場所を敢えて走り続け、彼女は岩場を疾走し続けた。
「こっちよ!!」
一方、バルログたちと戦っていたクルニーアと人魚の兵士たちは、劣勢を強いられていた。そんな中でも、クルニーアはエンディアンたちに退路を作ろうと励んでいた。
「さぁ!逃げよ!」
「しかし、クルニーア様!」
「わしのことは捨て置け!早く行くのじゃ!」
魔法で盾を作ったクルニーアは、杖を掲げながら叫んだ。これで全員が逃げたことになる。彼は盾が崩れる瞬間を見計らい、横にさっと避けた。一体のバルログが、突然支えを失ったことで前に倒れた。そこにすかさず光線を打ち込んで倒したあと、クルニーアは辺りを見回した。
「あとは……」
残りのバルログたちを相手するべく、彼は杖を構え直した。
「さぁ、来るが良い。このクルニーアに勝てると思うでないぞ」
その横顔は、とても老人とは思えない凛々しさと力に溢れていた。老人の身体に押し込められているマイアール。それがクルニーアたちイスタリだった。その力を以てしても多勢に無勢だが、そんなことは言っていられない。
バルログが一斉に襲いかかる。だが、その場に別の光が現れた。クルニーアとは比べ物にもならない、強力で純粋な光。あまりの眩しさに、彼は思わず両目に手をかざした。
「────邪悪な者たちよ。これ以上アマンの地を汚すことは、この私が許さぬ」
現れたのは、美しい光を纏う一人の男だった。
「アウレ様!」
「クルモ、よくやった。助太刀は必要ではないのかな?」
「いいえ。丁度共に戦う仲間が恋しかったところです!」
アウレと呼ばれたその男は、大きな鎚を持ってバルログたちに対峙した。彼の一振りは、地の轟きだった。彼の怒りは大地の嘆きだった。規格外の力に、バルログたちは恐れ戦いて撤退を始めた。
そう。彼はクルニーア(これはシンダール語名であり、マイアールとしての本名はクルモ)の上司であり、ヴァラールであった。メルコールと古くから因縁の仲である彼であったが、クルニーアっでさえも今回の一件に口を出すことには驚いていた。ヴァラールは基本的にあらゆる物事には不干渉であった。これには何か大きな問題が隠れているに違いないと悟っクルニーアは、あっという間に倒されていくバルログたちの行方を見守るのだった。
エルミラエルは一体のバルログに追い詰められていた。逃げ場はどこにもない。彼女は覚悟を決めて、目を閉じた。だがその時だった。
突然、バルログが目の前から姿を消した。灰に変わってしまったのだ。何事かと狼狽していると、エルミラエルの目の前にクルニーアが現れた。
「無事だったか!?」
「ええ、大丈夫。ありがとう。けど……」
あれは、一体何だったのだろう。呆然としているエルミラエルは、恐怖と安堵でその場に座り込んでしまった。
そんな彼女の手を握って、クルニーアは膝をついた。いつもの気難しげな表情を和らげ、彼は優しく語りかけるように言った。
「────もう、大丈夫。そなたは大丈夫だ」
「クルニーア……」
彼の声を聞くと、並みが寄せてから返すように不安が引いていく。エルミラエルは元気が出たのか、微笑みながら立ち上がった。
「ありがとう、クルニーア」
「別に、礼は────」
要らないと言おうとして、彼は思い止まった。それから代わりに、僅かに笑って頷いた。
この日、二人の間に確かな信頼関係が生まれた。その信頼が後に中つ国を越え、西方の地を揺るがす愛に変わるなどと、一体誰が予想できただろうか。
エルミラエルとクルニーアは、アウレと共にマンドスの館に来ていた。預かったエンディアンの石を返すためだ。エンディアン族たちに新たな居住地を与えたマンドスは、彼らの活躍を大いに褒め称えた。
「よくやった、クルモ。今日のそなたの働きは、まことに素晴らしかったぞ」
いつもなら特に謙遜もしないクルニーアだったが、今日は違った。手すりの向こうに見える泉から顔を出している人魚たちに目を向け、彼はこう言った。
「今日褒められるに値するのは、このわしではなく、ここに居るエルミラエル姫でありましょう」
突然の言葉に、エルミラエルは目を丸くした。そして事のなり行きを理解してから、慌てて両手を振った。
「ち、違います!私はただ……」
「エルミラエル。あなたが石を守り抜いてくれたのです。その石は、あなたに授けましょう」
女王の申し出に再度驚いたエルミラエルは、大きく首を横に振った。
「そんな!駄目です。お返しします。これは、あなたたちに必要なものです」
エルミラエルは助けを求めるようにアウレたちを見たが、告げられた答えは同じだった。
「貰っておきなさい。そなたに必要なくとも、そなたの子孫が必要になるやも」
「そんな……」
「貰っておくが良い、姫よ」
女王も、是非にと言いたげに頷いている。渋々エルミラエルは石を箱に仕舞い、深々と頭を下げた。
「さて、我らも帰ろう。クルニーア、エルミラエル姫をお送りしなさい」
「承知しました、アウレ様」
アウレとクルニーアの会話を他所に、エルミラエルは物憂げな瞳でエンディアン族を見ていた。
理不尽に故郷を追われる人達が、この世界にいる。エルフのように、西方の約束された地に留まることが永遠に許されることは、窮屈なんじゃなくて幸福なのかも知れない。
このときエルミラエルの心に、決して生まれ故郷を自らの意思で捨てることはしないという、固い決意が生まれた。そしてその揺るがぬ決意はどんな炎よりも強く、彼女の胸の内で輝き始めた。
姫の胸中など知るよしもないクルニーアは、その華奢な肩を叩いて出発の合図を送った。エルミラエルが最後にもう一度振り返ったとき、既に人魚たちは姿を消していた。残された箱を強く握りしめ、彼女は帰路を踏むのだった。
帰りは、行きと違って会話に花が咲いた。と言ってもクルニーアの独壇場ではない。きちんとした、二人の人物の言葉のやり取りだった。エルミラエルは日々の生活のことを話し、クルニーアはそのことについての質問をする。何気ないことだが、二人の表情にはいつの間にか、今までには無い笑顔が宿っていた。
「それでね、お姉さまが貸してくれる服はいつも裾が長くて、まともに歩けないの」
「確かに。あの方はどうやって歩いておられるのか、わしも時々疑問に思うことがある」
「でしょう?クルニーアは躓いたりしないの?」
「わしはそなたと違って、せっかちではないからな。躓いたりはせんよ」
澄まし顔で投げられた返答が癪に障ったのか、エルミラエルは膨れっ面をした。それからクルニーアの服の裾を指差した。
「嘘よ!絶対に躓きそうな服だもの!走ってみたらわかるわ。それで躓かなかったら、自分がせっかちだって認める。じゃあ、用意はいい?」
「何を馬鹿なことを……って、おい!これ!待て!走るでない!」
クルニーアの制止も聞かず、エルミラエルは走り出した。杖持ちの老人と侮られたくなかったマイアは、渋々エルフを追って走り出した。口では散々文句をぼやいているものの、その瞳はどんな瞬間よりも生き生きしているのだった。
「もし何かあったら、わしを置いて逃げるんじゃぞ」
「えっ?」
「と言うても、このわしに危機など、そう訪れんがな」
驚くエルミラエルを放って、クルニーアは自身の黒く重厚感のある杖を振り上げた。その瞬間、世界に大きな波動が生じる。耳が聞こえづらくなったと思ったその刹那、クルニーアは既にエルミラエルの目の前で魔物たちと戦い始めていた。杖の先についている白い石から魔力が生じているのか、クルニーアは見た目にそぐわず器用に攻撃をかわしながら光の攻撃を繰り出している。
「これ!眼を使わんか!」
エルミラエルは我に返ると、クルニーアの周りを観察した。一度に二体以上の悪霊を相手にしている彼だが、まだ数は多い。
「上よ!」
エルミラエルが叫ぶと、敵の顎を杖の下部で殴り付けてから消滅させたクルニーアが攻撃を避けた。一回転して距離をおいた彼は、突き出すように杖を振って頭上の敵を粉砕した。
「左右に一体ずつ!」
今度は素早く杖を横にして、クルニーアは両端から波動を出した。すかさず次の攻撃に備え、杖は水平に戻されて正面から突っ込んできた敵を直撃した。
エルミラエルはそんな華麗な動きで次々と並みいる敵を倒し続けているクルニーアに、いつの間にか見とれていた。すると、彼女に気づいた悪霊が一体向かっていく。クルニーアは背後へ振り向いてエルミラエルの方へ走ると、彼女を抱きかかえるようにして横へ避け、空いた方の手で杖を振って敵を退けた。あまりに一瞬のことすぎて、エルミラエルは言葉を無くしていた。
これが最後の一体だったので、クルニーアは軽くため息をついて呆然としているエルフの姫を見た。
「……怪我は、ないか?」
「えっ?え、ええ。大丈夫」
そうか、と一言だけ言ってクルニーアは再び何事もなかったかのように歩きだした。エルミラエルは慌ててその後ろへついていく。
────この人、本当はすごい人なのね
「あの……ありがとう」
「別に、感謝を述べられるほどのことはしておらん。それよりも、先を急ぐぞ」
クルニーアはエルミラエルの顔も見ずにそう返事した。だが、その手には確かに彼女を抱き止めた時の感覚がしっかりと残っているのだった。
そのまま歩き続けていると、二人は突然開けた場所に出た。洞窟の形をしているが、泉への入り口だった。
「さて……人魚族は複雑な性格ゆえ、あまり下手なことを言うでないぞ」
お前が言うか、と思いながらもエルミラエルは黙ってうなずき、洞窟の入り口に足を踏み入れようとした。だが、その手を不意に掴む者がいた。クルニーアだった。彼はそっぽを向きながらぶっきらぼうな声で言い放った。
「……滑ると危ない。手は掴んでおいた方が無難じゃ」
そして返事も聞かないまま、クルニーアは洞窟を進み始めてしまった。振りほどくわけにもいかなくなってしまったエルミラエルは、渋々彼の手を頼りに道を辿るのだった。
洞窟を抜けると、そこには透明度の高い泉が涌き出ていた。クルニーアが聞いたこともない言葉で水面に語りかけ始めると、一人の女性──ではなく人魚が顔をだした。
「クルニーア、あなたが直々に訪れるとは珍しいですね」
「ああ。申し訳ないが、女王様に会わせてはくれんか?」
「もちろんです。……して、お隣の方は?」
人魚の視線が一斉にエルミラエルに注がれる。エルフの姫を見ながら、人魚たちは微笑んだ。
「ええと……」
「女王様には、お二人ともお目通りが叶うことでしょう」
一人の人魚がそう言った瞬間、泉が割れた。そして道が出来上がり、クルニーアは慣れた様子でその上を歩き始めている。
「こ、ここを渡るの?」
「来たくなければ待っておるがよい」
エルミラエルは口をへの字に曲げ、慎重に足を踏み入れた。先程の人魚がクルニーアの名を呼ぶ。
「良いのですか?一人にさせておいて」
「……手を焼く性ではないんだわ」
「私だって結構です!」
二人のやり取りを、周りに集まり始めた人魚たちが笑う。
「お二人は、随分と楽しそうですね」
「いいえ、楽しくないです」
エルミラエルがそう言って、腹立ち混じりに勢いよく踏み出した瞬間だった。足を滑らせた彼女は、短い悲鳴を上げた。
だが、かつて木の上から落ちそうになったとき同様、その身体が水の中に落ちることはなかった。
「────大丈夫か?」
目を開けた刹那に、姫は全てがあの時と同じではないことを知った。あの時は魔法で助けられた。けれど今は違う。
エルミラエルは、クルニーアに手を掴まれていた。憎まれ口を叩いていたはずなのに、本当はきちんと自分のことを心配してくれていたのだ。
「あり……がとう」
「……離すでないぞ。二度も同じ轍を踏むな」
このときエルミラエルは僅かに、ほんの僅かにクルニーアという男を理解し始めていた。そして彼女の手を握り、背を向けて前を歩くクルニーアの頬は、確かに赤く染まっていた。
エルミラエルとクルニーアが歩き続けた先は、水の上に浮かぶ玉座だった。エンディアンの長、セイレリア女王は冬の海よりも冷たい眼差しで二人を見ている。そしてさざ波のように囁いた。
「────クルニーア。あなたが誰かと連れ立って現れるとは、珍しいですね」
女王の美しさと荘厳さに言葉を失くしているエルミラエルの頭を慌てて押し下げると、クルニーアは深々と一礼した。
「あの……」
「フィナルフィンの娘、エルミラエルですね」
「ええと……そうです」
「女王様、メルコールから迫害を受けているとは、真ですか?」
「正しくは、バルログたちですが」
エルミラエルは何の話しか相変わらずさっぱりで、目を白黒させながら二人を見た。クルニーアはため息をつきながらセイレリアに言った。
「女王様。メルコールが狙っているのは、エンディアンの石では?」
「────流石、察しの早い男です」
セイレリアは箱を取り出すと、クルニーアの前に持っていくように指示した。中にはアマンの深海の青色を閉じ込めたような、石というより水滴に近い宝石が入っていた。だが、どうみても水滴ではなく石だ。
「その石は、我らが家宝。ですが、我らはこの地を去ろうと思っています」
「何ですと?一体どちらへ?」
「マンドス殿が、良い場所を探してくれました。嘆きを賢しく聞き付けるお方ですから」
エルミラエルはそれを聞いて、急に悲しくなってきた。
「そんなの、おかしいです。あなたたちは何も悪いことをしていないのに、他人のものを欲して好き勝手する奴等が生活を脅かすなんて!」
その言葉を聞いて、セイレリアは微笑んだ。
「あなたは、とても清く正しい心の持ち主ですね。ですが、その心は時に毒となるでしょう。どうしようもないのです」
「そんな……」
項垂れるエルミラエルの肩に、クルニーアは手を掛けて慰めの言葉を述べるべきか戸惑った。だがその結論が出るより前に、甲高い法螺貝を吹く音が響いた。
「バルログか」
「あなた方に頼みたいことはただ一つ。海に出るまで手助けをお願いしたいのです」
セイレリアの言葉に、クルニーアが頷く。状況に取り残されているエルミラエルに、女王は言った。
「あなたは、エンディアンの石を持っていてください」
思いがけない頼みに、エルミラエルは目が点になった。
「え?でも……」
「お願いします。あなたなら、大丈夫」
何が大丈夫なのかと聞くより先に、バルログが暴れる音が耳に届いた。
「お主は逃げる人魚たちを誘導せよ。マイアール共はわしが何とかする」
「ク、クルニーア!?」
「必ず戻る。わしを信じよ」
返事も聞かずに走り去ってしまったクルニーアの背を呆然と見ながら、エルミラエルは石の入った箱を持って立ち尽くしている。セイレリアはしなやかな指先で箱を指差した。
「────首から、お掛けなさい。あなたのことを信じます」
「女王様……」
「さぁ。私達にしか出来ないことがあります。行かねば」
玉座から降りて泉に入ったセイレリアの後を、エルミラエルはエンディアンの石を首からぶら下げて走り出した。外に続く水路には既に大勢の人魚たちが集まっている。
「女王様、これからどうすべきでしょうか?」
「石がここにあるかぎり、我らは永遠に追われ続けます!」
その言葉を聞いたエルミラエルは、何かを閃いた。彼女は白銀の髪を紐で結い上げると、女王に申し出た。
「女王様、石は私が持っておきます。敵の狙いは石なら、私が奴らを引き付けます」
「ですが……」
「大丈夫。私はガラドリエルの妹ですから」
エルミラエルは頼もしげに胸を張って頷いた。セイレリアは何か言いたげだったが、何しろ時間がない。彼女は同胞たちに命じた。
「海へ!行くのよ!」
丁度そのとき、バルログたちが逃げ去る人魚たちの姿に気づいた。エルミラエルは土壇場の勇気を振り絞り、逆方向に駆け出した。
────頑張るのよ、エルミラエル。いつも森を駆け抜けてるじゃない。
フィナルフィンの娘、そしてガラドリエルの妹なだけあって、エルミラエルの足取りは軽かった。バルログの巨体を手こずらせるような場所を敢えて走り続け、彼女は岩場を疾走し続けた。
「こっちよ!!」
一方、バルログたちと戦っていたクルニーアと人魚の兵士たちは、劣勢を強いられていた。そんな中でも、クルニーアはエンディアンたちに退路を作ろうと励んでいた。
「さぁ!逃げよ!」
「しかし、クルニーア様!」
「わしのことは捨て置け!早く行くのじゃ!」
魔法で盾を作ったクルニーアは、杖を掲げながら叫んだ。これで全員が逃げたことになる。彼は盾が崩れる瞬間を見計らい、横にさっと避けた。一体のバルログが、突然支えを失ったことで前に倒れた。そこにすかさず光線を打ち込んで倒したあと、クルニーアは辺りを見回した。
「あとは……」
残りのバルログたちを相手するべく、彼は杖を構え直した。
「さぁ、来るが良い。このクルニーアに勝てると思うでないぞ」
その横顔は、とても老人とは思えない凛々しさと力に溢れていた。老人の身体に押し込められているマイアール。それがクルニーアたちイスタリだった。その力を以てしても多勢に無勢だが、そんなことは言っていられない。
バルログが一斉に襲いかかる。だが、その場に別の光が現れた。クルニーアとは比べ物にもならない、強力で純粋な光。あまりの眩しさに、彼は思わず両目に手をかざした。
「────邪悪な者たちよ。これ以上アマンの地を汚すことは、この私が許さぬ」
現れたのは、美しい光を纏う一人の男だった。
「アウレ様!」
「クルモ、よくやった。助太刀は必要ではないのかな?」
「いいえ。丁度共に戦う仲間が恋しかったところです!」
アウレと呼ばれたその男は、大きな鎚を持ってバルログたちに対峙した。彼の一振りは、地の轟きだった。彼の怒りは大地の嘆きだった。規格外の力に、バルログたちは恐れ戦いて撤退を始めた。
そう。彼はクルニーア(これはシンダール語名であり、マイアールとしての本名はクルモ)の上司であり、ヴァラールであった。メルコールと古くから因縁の仲である彼であったが、クルニーアっでさえも今回の一件に口を出すことには驚いていた。ヴァラールは基本的にあらゆる物事には不干渉であった。これには何か大きな問題が隠れているに違いないと悟っクルニーアは、あっという間に倒されていくバルログたちの行方を見守るのだった。
エルミラエルは一体のバルログに追い詰められていた。逃げ場はどこにもない。彼女は覚悟を決めて、目を閉じた。だがその時だった。
突然、バルログが目の前から姿を消した。灰に変わってしまったのだ。何事かと狼狽していると、エルミラエルの目の前にクルニーアが現れた。
「無事だったか!?」
「ええ、大丈夫。ありがとう。けど……」
あれは、一体何だったのだろう。呆然としているエルミラエルは、恐怖と安堵でその場に座り込んでしまった。
そんな彼女の手を握って、クルニーアは膝をついた。いつもの気難しげな表情を和らげ、彼は優しく語りかけるように言った。
「────もう、大丈夫。そなたは大丈夫だ」
「クルニーア……」
彼の声を聞くと、並みが寄せてから返すように不安が引いていく。エルミラエルは元気が出たのか、微笑みながら立ち上がった。
「ありがとう、クルニーア」
「別に、礼は────」
要らないと言おうとして、彼は思い止まった。それから代わりに、僅かに笑って頷いた。
この日、二人の間に確かな信頼関係が生まれた。その信頼が後に中つ国を越え、西方の地を揺るがす愛に変わるなどと、一体誰が予想できただろうか。
エルミラエルとクルニーアは、アウレと共にマンドスの館に来ていた。預かったエンディアンの石を返すためだ。エンディアン族たちに新たな居住地を与えたマンドスは、彼らの活躍を大いに褒め称えた。
「よくやった、クルモ。今日のそなたの働きは、まことに素晴らしかったぞ」
いつもなら特に謙遜もしないクルニーアだったが、今日は違った。手すりの向こうに見える泉から顔を出している人魚たちに目を向け、彼はこう言った。
「今日褒められるに値するのは、このわしではなく、ここに居るエルミラエル姫でありましょう」
突然の言葉に、エルミラエルは目を丸くした。そして事のなり行きを理解してから、慌てて両手を振った。
「ち、違います!私はただ……」
「エルミラエル。あなたが石を守り抜いてくれたのです。その石は、あなたに授けましょう」
女王の申し出に再度驚いたエルミラエルは、大きく首を横に振った。
「そんな!駄目です。お返しします。これは、あなたたちに必要なものです」
エルミラエルは助けを求めるようにアウレたちを見たが、告げられた答えは同じだった。
「貰っておきなさい。そなたに必要なくとも、そなたの子孫が必要になるやも」
「そんな……」
「貰っておくが良い、姫よ」
女王も、是非にと言いたげに頷いている。渋々エルミラエルは石を箱に仕舞い、深々と頭を下げた。
「さて、我らも帰ろう。クルニーア、エルミラエル姫をお送りしなさい」
「承知しました、アウレ様」
アウレとクルニーアの会話を他所に、エルミラエルは物憂げな瞳でエンディアン族を見ていた。
理不尽に故郷を追われる人達が、この世界にいる。エルフのように、西方の約束された地に留まることが永遠に許されることは、窮屈なんじゃなくて幸福なのかも知れない。
このときエルミラエルの心に、決して生まれ故郷を自らの意思で捨てることはしないという、固い決意が生まれた。そしてその揺るがぬ決意はどんな炎よりも強く、彼女の胸の内で輝き始めた。
姫の胸中など知るよしもないクルニーアは、その華奢な肩を叩いて出発の合図を送った。エルミラエルが最後にもう一度振り返ったとき、既に人魚たちは姿を消していた。残された箱を強く握りしめ、彼女は帰路を踏むのだった。
帰りは、行きと違って会話に花が咲いた。と言ってもクルニーアの独壇場ではない。きちんとした、二人の人物の言葉のやり取りだった。エルミラエルは日々の生活のことを話し、クルニーアはそのことについての質問をする。何気ないことだが、二人の表情にはいつの間にか、今までには無い笑顔が宿っていた。
「それでね、お姉さまが貸してくれる服はいつも裾が長くて、まともに歩けないの」
「確かに。あの方はどうやって歩いておられるのか、わしも時々疑問に思うことがある」
「でしょう?クルニーアは躓いたりしないの?」
「わしはそなたと違って、せっかちではないからな。躓いたりはせんよ」
澄まし顔で投げられた返答が癪に障ったのか、エルミラエルは膨れっ面をした。それからクルニーアの服の裾を指差した。
「嘘よ!絶対に躓きそうな服だもの!走ってみたらわかるわ。それで躓かなかったら、自分がせっかちだって認める。じゃあ、用意はいい?」
「何を馬鹿なことを……って、おい!これ!待て!走るでない!」
クルニーアの制止も聞かず、エルミラエルは走り出した。杖持ちの老人と侮られたくなかったマイアは、渋々エルフを追って走り出した。口では散々文句をぼやいているものの、その瞳はどんな瞬間よりも生き生きしているのだった。