一章、開かれた眼
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父フィナルフィンの待つ部屋までクルニーアを案内すると、エルミラエルは本当に一言も交わさずにその場から去ろうとした。だが意外にも彼女を引き留めたのは、先程まで話を振る努力すらしなかったクルニーアだった。
「お父上にも会わぬのか?」
「ええ。あの方だって、こんなに出来の悪い娘には会いたくもないでしょうし」
姫はそう言って、そのまま自室へ戻っていってしまった。何故、彼がエルミラエルに自ら声をかけたのか。それは謎である。しかし敢えて言うのであれば、既にこの二人の数奇な運命は決まっていたのかもしれない。
自室へ向かっていたエルミラエルの足は、自然とある人の気配で止まった。振り返ると、そこには長らく会っていなかった恋しい人の姿があった。
「ガラドリエルお姉さま!」
「エルミラエル。元気にしていた?」
彼女の姉────ガラドリエルは女神のような微笑みを浮かべながら、妹の手を取って近況を伺った。
「ええ、大丈夫。元気よ。それより、色々お話ししたいことがあるの!ぜひいいかしら?」
「もちろん。……ところで、お父様のお客様が来ているでしょう?もうお会いした?」
客人と言えば、あの失礼な白ずくめの男か。エルミラエルは口をへの時に曲げて答えた。
「ええ」
「誰か知ってたの?」
「いいえ。背が高くて、老人だけど顔立ちはいいわ。でもとても失礼な人よ」
それを聞いてガラドリエルが吹き出す。すっかり機嫌を悪くしたエルミラエルは、自分の髪をいじりながら唇を尖らせている。
「私は挨拶に行くから、あなたもついてきたら?」
「え?……嫌よ!あの顔を一日に二回も見たらイライラで死んじゃうわ」
「いいじゃない。今日は他の方も来られるのよ」
「他?あれと同じくらい失礼な人じゃなければ喜んで会うわ!」
エルミラエルはすっかりふてくされてしまったが、姉に置いていかれるのも嫌で、暫くしてから立ち上がった。
「……いいわよ、行ってやる。あの鼻っ柱へし折ってやる」
そう言った彼女の瞳は、対抗意識で燃えていた。
久しぶりに着るドレスは窮屈ではあったが、これもあの男の鼻をへし折るためだと思えば何の苦痛にもならなかった。珍しくエルミラエルがドレスを着ていることに、使用人たちはみな怯えている。それもそうだ。普段の服装は、狩りの時に兄たちが着るようなズボンの軽装なのだから。
これなら姉と並んでも、比べられない。エルミラエルは自信満々に入室した。部屋に居る父のフィナルフィンと母のエアルウェンが、末娘の正装姿に口を開けている。そして、先程の失礼な男──クルニーアも同じ反応だった。雪解けのようなウェーブのかかった白銀の髪は、まるで宝石のように歩く度に輝いていて、澄んだ硝子のように蒼い瞳は、無邪気さを残しながらも上方エルフの気高さに溢れている。
────さては小娘、ただのお転婆ではなかったか……
「改めてご挨拶します、客人様」
「そ、そなた、この者を知っておるのか?」
「ええ。知っています。先程会いました」
父に対するエルミラエルの返事に、クルニーアは息を呑んだ。万が一先程の失礼が露見すれば、流石に問題になる。僅かに慌てている様子を楽しみながら、エルミラエルはにこやかに続けた。
「こちらまで案内した所存です。ヴァラール様のお使いだとか」
「そうだ。ヴァラールのアウレ様のな。クルニーア殿、何か娘が失礼などはしなかったか?」
上方エルフの姫ともあろう方が空から降ってきたとは言いがたく、クルニーアは青筋を立てながら頷いた。すっかり娘に騙されたフィナルフィンは、上機嫌で笑っている。
そこへもう一人、別の客人がやって来た。こちらも杖を持った賢者らしき人物だ。けれど、クルニーアと違って穏やかそうな顔をしている。エルミラエルが挨拶をしようと思い、口を開いた時だった。
「オローリン!元気にしていましたか?」
「ええ、姫様。そちらもお変わりなく」
ガラドリエルがいつになく笑顔で先に挨拶をした。エルミラエルが気まずさを隠すために、小さく会釈をする。すると、客人──オローリン、つまり我々の知るガンダルフは、微笑みを浮かべながら彼女にも挨拶をした。
「エルミラエル姫。まだ物心おつきにならない時にお目通りしましたが、お美しく成長されたようですね」
「あ、ありがとう……」
嬉しそうなエルミラエルの顔を見て、クルニーアが僅かに顔をしかめる。オローリンはすぐにその変化に気づき、それ以上彼女と話すのをやめた。
二人の人の姿をしたマイア(精霊)は用意されていた椅子に腰かけ、フィナルフィンの話を聞いた。
「オローリン。報告があるとか?」
「ええ、そうです。北方のエンディアンをご存じで?」
「エンディアンと言えば……人魚族ではないか」
ミスランディアは頷きながら、懐から地図を取り出して説明を続けた。
「それが、どうもメルコールの襲撃に遭っているとか」
「メルコールが何故あのような者たちに危害を加える」
クルニーアは自分でそう言ってから、はっと思い出した。
「なるほど、エンディアンの石か」
「そうです。あの者はどうやらあの石を欲しているようです」
「全く……大人しくしておればよいものを……」
「ヴァラール様に諭されて拗ねている時は良かったのですが……今もしエンディアンの石があの者に渡れば、大事になります」
フィナルフィンは眉間にしわを寄せながら俯いた。ガラドリエルもため息をついている。
「残念ですが、今は兄弟たちが皆出払い、私も戦から戻った身を休めねばなりません。お力には……」
ふと、それを聞いてフィナルフィンが顔をあげた。そしてエルミラエルを見ている。
「エルミラエル。そなたが行きなさい」
「わ、私ですか?」
驚きと仕事を任せてくれた喜びを隠せないエルミラエルに、母のエアルウェンが苦言を呈した。
「あなた。エルミラエルはガラドリエルとは違うのよ。何かあったら……」
「大丈夫だ。クルニーア、我が娘と共に調査に行ってくれ」
その言葉に、クルニーアとエルミラエルが顔を見合わせる。お互い、勘弁してくれと言いたげな面持ちだ。
「頼めるか、クルニーア」
「え、ええ。かしこまりました」
エルミラエルは誰にもわからないようにふてくされながら、全力で父を睨み付けた。
────私一人でも出来るのに。いつも私はお姉様のようにはいかない。どうしてよ。
そしてその胸中では、いつまでも母の「ガラドリエルとは違う」という言葉が渦を巻き続けるのだった。
面会が終わったあと、エルミラエルは人気の少ないところを見計らってクルニーアに詰め寄った。
「ねぇ!ちょっと!どういうつもり?私が嫌いなら断りなさいよ!」
「ああ、お主は嫌いじゃ。だがな、わしも上級王からの命は断れん!文句ならお主のお父上に言うがよい」
嫌いな相手に嫌いとはっきり言われると、むしろ腹が立つ。エルミラエルは負けじとクルニーアに言い返した。
「はっ。何よそれ。天下のマイアールが聞いてあきれるわ」
「何じゃと?お主、その物言いを直さねば嫁の貰い手が今に無くなるぞ!」
「別に構いやしないわ。むしろ下手にあなたみたいな貰い手が来る方が嫌よ」
「安心せい。わしはお主のような奴に興味はない。パランティアと交換にやると言われても要らんわ」
二人は睨み合って黙りこんだ。そしてそのうち、30㎝以上も離れている互いの顔を見るのに首が痛くなり、同じタイミングでそっぽを向く。
まさかこの言葉の真逆の結末が縁の先に待っているなど、今の二人は予想もしないことだった。
不仲のままで出発した二人は、道中の会話をしないでおこうと決めていた。確実に体力の無駄だと思ったからだった。
だが、話す気はないと最初に宣言してきたクルニーアの方から突然話が振られた。
「……天気が良いな」
誰にいっているのだと尋ねようとした瞬間、エルミラエルは自分に話を振ってきたことに気づいた。渋々適当に返事をする。ところがまだ彼の話は終わらない。
「お主、エンディアン族のことは知らぬじゃろう。彼らは泉に住む人魚たちで……」
朗々としているものの、どこか柔らかくて優しい声にエルミラエルは思わず聞き惚れてしまった。そういえば声だけは最初から嫌いではなかった。ところがこの説明が三十分たっても終わらない。クルニーアは延々と一人で話を続け、今は既にエンディアン族の話を通り越して北方のマイアールの話になっている。
この男はずっと一人で話をしていて、相手が聞いていないかもしれないという気にはならないのだろうか。
否、そういう気遣いが無いから無遠慮に見えるのだろう。そう思っているエルミラエルの隣では、まだクルニーアが依然と話し続けている。今度はメルコールの話にまで発展していた。
エルミラエルはため息をついて、思いきって愚鈍な賢者に尋ねた。
「ねぇ、そんなに話して疲れないの?」
「ああ。お主、意外に聞き上手じゃな」
聞いていないだけなのだが。エルミラエルは心の中で呆れ返った。至高の賢者と言えども、これでは愚者だ。そう思うとあまり彼の刺々しい言葉も刺さらない。
「で、 いつになったら着くの?そのエンディアン族のいる場所には」
「もうすぐじゃ」
「意外と近いのね。ねぇ──」
「静かに」
エルミラエルは突然話を遮られ、顔をしかめた。だが、クルニーアは深刻な顔つきで杖を握りしめている。
「どうしたの?何かいるの?」
「────マイアールじゃ。……と言うても、堕落した奴等にはその名は相応しゅうないがな」
と得意気に言われても、エルミラエルには何も見えない。クルニーアは目を丸くして彼女を見た。
「お主、まことに何も見えんのか?」
「ええ。普通の景色じゃない」
どこまで愚鈍な女なのだと思いながらも、クルニーアは彼女の手を掴んで走り出した。
「ちょっと!急に何するのよ!」
「逃げるんじゃ!」
「戦えないの?」
エルミラエルはこの日初めて黙ったクルニーアを見て、事の深刻さを悟った。そして彼が戦えないというのも納得できた。杖一本で一体何ができると言うのだろうか。
大木と岩陰に隠れると、クルニーアはエルミラエルの顔に手を翳した。
「じっとして、口と眼を閉じておれ」
そう言って、クルニーアは指先で彼女の両瞼に触れた。慎重同様に大きく、無遠慮な性格との想像に反して温かい手だった。
「エルヴァニス クウェリバセ、サウヴァニス ファウリバセ(視えぬものの眼を開け、聴かぬものの耳を震わせよ)」
呪文が唱えられ、表面だけ触れている彼の温もりが全身に満ちていく。呪文の意味がシンダール語でもないために詳しいことはわからないが、何らかの魔術を使ったことだけは確かだった。それよりも、普段の自信に満ちた力強いものは違った囁くような優しい声に、またエルミラエルの心は魅せられた。
「眼を開けよ。何が見える」
「ええと……」
「視えぬものを視たいと思いなさい」
明るくなった視界に慣れてから、ゆっくりと眼を凝らして物陰から覗いたエルミラエルは息をのんだ。
先程まで通ってきた道に、多くの闇の魔物たちがうごめいているからだ。
「あれが……」
「視えたか。許可なしに眼を開くことは禁忌に近いのじゃが、エルフの眼と耳は良い。わしの眼と耳になってくれ」
エルミラエルは戸惑った。それは彼が嫌いだとかそういう理由ではなかった。ただ、役に立たない気がしたのだ。そんな彼女の戸惑いに気づいたのか、クルニーアは肩に手を置いて微笑んだ。
「大丈夫。わしを信じよ。この手は離さん」
何故かその言葉にとても、エルミラエルの心は勇気付けられた。そして彼女は差しのべられたその手を取り、立ち上がった。
二人の眼差しが最初に交差した瞬間だった。
「お父上にも会わぬのか?」
「ええ。あの方だって、こんなに出来の悪い娘には会いたくもないでしょうし」
姫はそう言って、そのまま自室へ戻っていってしまった。何故、彼がエルミラエルに自ら声をかけたのか。それは謎である。しかし敢えて言うのであれば、既にこの二人の数奇な運命は決まっていたのかもしれない。
自室へ向かっていたエルミラエルの足は、自然とある人の気配で止まった。振り返ると、そこには長らく会っていなかった恋しい人の姿があった。
「ガラドリエルお姉さま!」
「エルミラエル。元気にしていた?」
彼女の姉────ガラドリエルは女神のような微笑みを浮かべながら、妹の手を取って近況を伺った。
「ええ、大丈夫。元気よ。それより、色々お話ししたいことがあるの!ぜひいいかしら?」
「もちろん。……ところで、お父様のお客様が来ているでしょう?もうお会いした?」
客人と言えば、あの失礼な白ずくめの男か。エルミラエルは口をへの時に曲げて答えた。
「ええ」
「誰か知ってたの?」
「いいえ。背が高くて、老人だけど顔立ちはいいわ。でもとても失礼な人よ」
それを聞いてガラドリエルが吹き出す。すっかり機嫌を悪くしたエルミラエルは、自分の髪をいじりながら唇を尖らせている。
「私は挨拶に行くから、あなたもついてきたら?」
「え?……嫌よ!あの顔を一日に二回も見たらイライラで死んじゃうわ」
「いいじゃない。今日は他の方も来られるのよ」
「他?あれと同じくらい失礼な人じゃなければ喜んで会うわ!」
エルミラエルはすっかりふてくされてしまったが、姉に置いていかれるのも嫌で、暫くしてから立ち上がった。
「……いいわよ、行ってやる。あの鼻っ柱へし折ってやる」
そう言った彼女の瞳は、対抗意識で燃えていた。
久しぶりに着るドレスは窮屈ではあったが、これもあの男の鼻をへし折るためだと思えば何の苦痛にもならなかった。珍しくエルミラエルがドレスを着ていることに、使用人たちはみな怯えている。それもそうだ。普段の服装は、狩りの時に兄たちが着るようなズボンの軽装なのだから。
これなら姉と並んでも、比べられない。エルミラエルは自信満々に入室した。部屋に居る父のフィナルフィンと母のエアルウェンが、末娘の正装姿に口を開けている。そして、先程の失礼な男──クルニーアも同じ反応だった。雪解けのようなウェーブのかかった白銀の髪は、まるで宝石のように歩く度に輝いていて、澄んだ硝子のように蒼い瞳は、無邪気さを残しながらも上方エルフの気高さに溢れている。
────さては小娘、ただのお転婆ではなかったか……
「改めてご挨拶します、客人様」
「そ、そなた、この者を知っておるのか?」
「ええ。知っています。先程会いました」
父に対するエルミラエルの返事に、クルニーアは息を呑んだ。万が一先程の失礼が露見すれば、流石に問題になる。僅かに慌てている様子を楽しみながら、エルミラエルはにこやかに続けた。
「こちらまで案内した所存です。ヴァラール様のお使いだとか」
「そうだ。ヴァラールのアウレ様のな。クルニーア殿、何か娘が失礼などはしなかったか?」
上方エルフの姫ともあろう方が空から降ってきたとは言いがたく、クルニーアは青筋を立てながら頷いた。すっかり娘に騙されたフィナルフィンは、上機嫌で笑っている。
そこへもう一人、別の客人がやって来た。こちらも杖を持った賢者らしき人物だ。けれど、クルニーアと違って穏やかそうな顔をしている。エルミラエルが挨拶をしようと思い、口を開いた時だった。
「オローリン!元気にしていましたか?」
「ええ、姫様。そちらもお変わりなく」
ガラドリエルがいつになく笑顔で先に挨拶をした。エルミラエルが気まずさを隠すために、小さく会釈をする。すると、客人──オローリン、つまり我々の知るガンダルフは、微笑みを浮かべながら彼女にも挨拶をした。
「エルミラエル姫。まだ物心おつきにならない時にお目通りしましたが、お美しく成長されたようですね」
「あ、ありがとう……」
嬉しそうなエルミラエルの顔を見て、クルニーアが僅かに顔をしかめる。オローリンはすぐにその変化に気づき、それ以上彼女と話すのをやめた。
二人の人の姿をしたマイア(精霊)は用意されていた椅子に腰かけ、フィナルフィンの話を聞いた。
「オローリン。報告があるとか?」
「ええ、そうです。北方のエンディアンをご存じで?」
「エンディアンと言えば……人魚族ではないか」
ミスランディアは頷きながら、懐から地図を取り出して説明を続けた。
「それが、どうもメルコールの襲撃に遭っているとか」
「メルコールが何故あのような者たちに危害を加える」
クルニーアは自分でそう言ってから、はっと思い出した。
「なるほど、エンディアンの石か」
「そうです。あの者はどうやらあの石を欲しているようです」
「全く……大人しくしておればよいものを……」
「ヴァラール様に諭されて拗ねている時は良かったのですが……今もしエンディアンの石があの者に渡れば、大事になります」
フィナルフィンは眉間にしわを寄せながら俯いた。ガラドリエルもため息をついている。
「残念ですが、今は兄弟たちが皆出払い、私も戦から戻った身を休めねばなりません。お力には……」
ふと、それを聞いてフィナルフィンが顔をあげた。そしてエルミラエルを見ている。
「エルミラエル。そなたが行きなさい」
「わ、私ですか?」
驚きと仕事を任せてくれた喜びを隠せないエルミラエルに、母のエアルウェンが苦言を呈した。
「あなた。エルミラエルはガラドリエルとは違うのよ。何かあったら……」
「大丈夫だ。クルニーア、我が娘と共に調査に行ってくれ」
その言葉に、クルニーアとエルミラエルが顔を見合わせる。お互い、勘弁してくれと言いたげな面持ちだ。
「頼めるか、クルニーア」
「え、ええ。かしこまりました」
エルミラエルは誰にもわからないようにふてくされながら、全力で父を睨み付けた。
────私一人でも出来るのに。いつも私はお姉様のようにはいかない。どうしてよ。
そしてその胸中では、いつまでも母の「ガラドリエルとは違う」という言葉が渦を巻き続けるのだった。
面会が終わったあと、エルミラエルは人気の少ないところを見計らってクルニーアに詰め寄った。
「ねぇ!ちょっと!どういうつもり?私が嫌いなら断りなさいよ!」
「ああ、お主は嫌いじゃ。だがな、わしも上級王からの命は断れん!文句ならお主のお父上に言うがよい」
嫌いな相手に嫌いとはっきり言われると、むしろ腹が立つ。エルミラエルは負けじとクルニーアに言い返した。
「はっ。何よそれ。天下のマイアールが聞いてあきれるわ」
「何じゃと?お主、その物言いを直さねば嫁の貰い手が今に無くなるぞ!」
「別に構いやしないわ。むしろ下手にあなたみたいな貰い手が来る方が嫌よ」
「安心せい。わしはお主のような奴に興味はない。パランティアと交換にやると言われても要らんわ」
二人は睨み合って黙りこんだ。そしてそのうち、30㎝以上も離れている互いの顔を見るのに首が痛くなり、同じタイミングでそっぽを向く。
まさかこの言葉の真逆の結末が縁の先に待っているなど、今の二人は予想もしないことだった。
不仲のままで出発した二人は、道中の会話をしないでおこうと決めていた。確実に体力の無駄だと思ったからだった。
だが、話す気はないと最初に宣言してきたクルニーアの方から突然話が振られた。
「……天気が良いな」
誰にいっているのだと尋ねようとした瞬間、エルミラエルは自分に話を振ってきたことに気づいた。渋々適当に返事をする。ところがまだ彼の話は終わらない。
「お主、エンディアン族のことは知らぬじゃろう。彼らは泉に住む人魚たちで……」
朗々としているものの、どこか柔らかくて優しい声にエルミラエルは思わず聞き惚れてしまった。そういえば声だけは最初から嫌いではなかった。ところがこの説明が三十分たっても終わらない。クルニーアは延々と一人で話を続け、今は既にエンディアン族の話を通り越して北方のマイアールの話になっている。
この男はずっと一人で話をしていて、相手が聞いていないかもしれないという気にはならないのだろうか。
否、そういう気遣いが無いから無遠慮に見えるのだろう。そう思っているエルミラエルの隣では、まだクルニーアが依然と話し続けている。今度はメルコールの話にまで発展していた。
エルミラエルはため息をついて、思いきって愚鈍な賢者に尋ねた。
「ねぇ、そんなに話して疲れないの?」
「ああ。お主、意外に聞き上手じゃな」
聞いていないだけなのだが。エルミラエルは心の中で呆れ返った。至高の賢者と言えども、これでは愚者だ。そう思うとあまり彼の刺々しい言葉も刺さらない。
「で、 いつになったら着くの?そのエンディアン族のいる場所には」
「もうすぐじゃ」
「意外と近いのね。ねぇ──」
「静かに」
エルミラエルは突然話を遮られ、顔をしかめた。だが、クルニーアは深刻な顔つきで杖を握りしめている。
「どうしたの?何かいるの?」
「────マイアールじゃ。……と言うても、堕落した奴等にはその名は相応しゅうないがな」
と得意気に言われても、エルミラエルには何も見えない。クルニーアは目を丸くして彼女を見た。
「お主、まことに何も見えんのか?」
「ええ。普通の景色じゃない」
どこまで愚鈍な女なのだと思いながらも、クルニーアは彼女の手を掴んで走り出した。
「ちょっと!急に何するのよ!」
「逃げるんじゃ!」
「戦えないの?」
エルミラエルはこの日初めて黙ったクルニーアを見て、事の深刻さを悟った。そして彼が戦えないというのも納得できた。杖一本で一体何ができると言うのだろうか。
大木と岩陰に隠れると、クルニーアはエルミラエルの顔に手を翳した。
「じっとして、口と眼を閉じておれ」
そう言って、クルニーアは指先で彼女の両瞼に触れた。慎重同様に大きく、無遠慮な性格との想像に反して温かい手だった。
「エルヴァニス クウェリバセ、サウヴァニス ファウリバセ(視えぬものの眼を開け、聴かぬものの耳を震わせよ)」
呪文が唱えられ、表面だけ触れている彼の温もりが全身に満ちていく。呪文の意味がシンダール語でもないために詳しいことはわからないが、何らかの魔術を使ったことだけは確かだった。それよりも、普段の自信に満ちた力強いものは違った囁くような優しい声に、またエルミラエルの心は魅せられた。
「眼を開けよ。何が見える」
「ええと……」
「視えぬものを視たいと思いなさい」
明るくなった視界に慣れてから、ゆっくりと眼を凝らして物陰から覗いたエルミラエルは息をのんだ。
先程まで通ってきた道に、多くの闇の魔物たちがうごめいているからだ。
「あれが……」
「視えたか。許可なしに眼を開くことは禁忌に近いのじゃが、エルフの眼と耳は良い。わしの眼と耳になってくれ」
エルミラエルは戸惑った。それは彼が嫌いだとかそういう理由ではなかった。ただ、役に立たない気がしたのだ。そんな彼女の戸惑いに気づいたのか、クルニーアは肩に手を置いて微笑んだ。
「大丈夫。わしを信じよ。この手は離さん」
何故かその言葉にとても、エルミラエルの心は勇気付けられた。そして彼女は差しのべられたその手を取り、立ち上がった。
二人の眼差しが最初に交差した瞬間だった。