五章、祝福の歌
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ヴァリノールまでは、馬に乗っての移動となった。ところが、エルミラエルは馬に乗ったことがなかった。もちろんこんなことを知られれば、また嫌味を言われるに決まっていると思った彼女は、顔色ひとつ変えずに馬にまたがろうとした。ところが、いまひとつ要領をわかっていなかったので、その試みは失敗に終わった。クルニーアはため息をつくと、もう一頭の馬上から手を差しのべた。
「だっ、大丈夫よ。私だって、馬くらい乗れるもの!」
「無駄なあがきは止めて、素直に認めよ」
エルミラエルは口をへの字に曲げて、暫くクルニーアの手を睨み付けた。ようやく諦めた彼女は、その白く華奢な手をマイアールの手に重ねた。
その瞬間、クルニーアの鼓動が跳ね上がった。息が詰まりそうな程に苦しく、そして何故かとても甘美だった。時が止まったような錯覚に陥る彼を現実に引き戻したのは、他でもないエルミラエルだった。
「……何やってるのよ。早く引き上げて」
「あ……ああ。そこに足を掛けろ」
「え、こう?」
「違う」
下手に足を掛ける方が危ないと感じたクルニーアは、無言でエルミラエルを引き上げた。何が起きたのかが理解できていない彼女は、目を丸くしている。ただ、クルニーアが見た目よりずっと強い──男らしい力を秘めていることだけは理解できていた。
そして、彼女の鼓動も強く弾んだ。訳もなく頬が赤く染まり、呼吸が出来なくなった。クルニーアの前に座らされたエルミラエルは、普段はゆったりとしたローブで見えなかった彼の腕が、どんなエルフよりも男らしい造りをしていることを知った。
「しっかり捕まっておれ。振り落とされても引き上げてやらんからな」
「え?あ……うん……」
いつもなら即座に言い返すところだが、何も言えなかった。鼓膜を揺らす声が、あまりに耳心地の良い音をしていたからだ。馬上で揺られながら、エルミラエルは今まで感じたこともない不思議な感覚に呑まれるのだった。
ヴァリノールの都への入り口で手続きを済ませているクルニーアの横で、エルミラエルはしきりに辺りを見回していた。一方、クルニーアの方は入城手続きに手間取っていた。
「わしはクルモ。マイアのクルモじゃ」
「所属は?」
「所属だと?馬鹿なことを抜かすな。わしはアウレ様の部下じゃ!」
「少々お待ちくださいね」
その様子を見ていたエルミラエルは、目を細めてクルニーアを見た。
「あなた、本当にマイアールなの?」
「なんじゃと?」
「普通、こんなのってササッと終わるものじゃないの?」
簡単そうに話すエルミラエルに、クルニーアはため息を漏らした。
「あのな……ここを何だと思うとるんじゃ」
「あなたでこんなに時間がかかるなら、私一人ならどうなるの?」
「一生かかっても入れんかもしれんな」
エルミラエルが言い返そうとした時だった。大きく美しい装飾を施された大理石の城門が開いた。
「大変お待たせしました。お許しを」
「うむ。分かればよい」
開いた扉の間からは、目映い光が差し込んでくる。エルミラエルは思わずその眩しさに目を閉じた。
「大丈夫か?目を開けてみよ」
恐る恐る目を開いたエルミラエルは、息を呑んだ。目の前に広がるのは、姉の話でしか聞いたことのないヴァラールの都だった。
「お姉様が教えてくれた通り……いえ、それ以上の美しさだわ!」
「ああ。ここは正に、百聞は一見に如かずの言葉通りの場所。そなたが嬉しそうで何よりじゃ」
「うん!ありがとう、クルニーア!」
エルミラエルが屈託のない笑顔を浮かべているのを見て、クルニーアは心の底から満足した。するとそこに、何処から話を聞き付けたのか、アウレとマンウェが現れた。アウレは自分の部下を見つけるや否や、肩に腕を回して引き寄せた。クルニーアでも背が高いというのに、アウレの方がずっと長身だった。彼にこんなことを出来るのは、この世で唯一アウレくらいのものだ。
「おお!クルニーアか!!」
「アウレ様、相変わらずお元気ですな」
戸惑いを隠せないクルニーアを尻目に、マンウェがため息を漏らした。
「この男ほどヴァリノールの都が似合わぬヴァラールも珍しかろう、フィナルフィンの娘エルミラエル」
「お、お初にお目にかかります」
「私はマンウェ。ヴァラールの一人だ」
律儀に挨拶をするマンウェにも、アウレはちょっかいをかけ始めた。ようやく逃れられたと、クルニーアが胸を撫で下ろす。
「こいつは滅多にヴァリノールへ来なくてな!レアなんだぞ」
「止めろ、アウレ。その話し方では、ヴァラール全体の品格が問われる」
「ヴァラールの品格が何だ。別に良いだろう」
マンウェの小言に口を尖らせたアウレは、再びクルニーアの首に腕を回した。引き寄せすぎて、クルニーアの首が絞まる。すると、そこに目映い輝きを身に纏った女性が現れた。
「あなた。エルミラエル姫が困っておられるわ」
アウレの妃であり、ヴァラールのヤヴァンナだった。彼女はエルミラエルをまじまじと観察し始めた。隣ではクルニーアが苦しげに手足をばたつかせている。
「私のことも……忘れないでいただき……たい」
「あなた。クルニーアが死んでしまいます」
「おお、済まんな。この姿をとっているときは、特に力加減が解らん」
「本当に……死ぬかと思い……ました」
苦しげに喘ぐクルニーアに、エルミラエルは駆け寄って手を差しのべた。
「大丈夫?」
「あ、ああ……大丈夫だ」
僅かに、ほんの僅かにクルニーアが微笑んだ。その表情に何かを感じたヤヴァンナは、目を細めた。だが、その思案は思いがけない人物たちに阻まれることとなった。
「あ!!クルモー!!おーい!!お前も雑用か~?」
能天気な声が響く。クルニーアは顔をしかめて振り返った。もちろん、彼の予想通りに声の主はアイウェンディルだった。オローリンも一緒だ。
クルニーアは、いつものようにアイウェンディルをぞんざいに扱おうと口を開いたが、隣にいるエルミラエルをちらりと見てから笑顔を作った。
「アイウェンディルか。こんなところで何をしておる」
「祝祭日の準備だよ!……あんたは何してるんだ?」
後ろめたいことなど特に無いはずなのに、何故かクルニーアの額に冷や汗がにじむ。
「え?あ、ああ……この人をヴァリノールまで連れてきたのだ」
「へぇ……あ、知っておるぞ!エルミラエル姫じゃな!わしはアイウェンディル。ヤヴァンナ様にお仕えするマイアだ」
突然手を差し出されて、エルミラエルは戸惑った。だが、すぐに笑顔に変わって握手をした。
「宜しく!アイウェンディル」
「こちらこそ、お会いできて光栄です。……で、二人はどういう関係で?」
その質問に、エルミラエルとクルニーアは顔を見合わせた。そういえば、向こうはこちらのことをどう思っているのだろう。お互いにそんなことを考えてしまう。気まずい空気が流れそうになったので、エルミラエルが咄嗟に答える。
「友達よ!」
「へぇ、友達か。クルモの友達なら、わしの友達。な、オローリン!」
「そうじゃな、アイウェンディル」
早く離れろと言いたげなクルニーアの視線に気づいているミスランディアは、遠巻きで微笑んだ。いつもと違うクルニーアの態度に、流石のアウレも首をかしげた。
「……今日はえらく穏やかだな」
「ええ。気色が悪いですこと」
「いつもこうだと、こちらも有り難いのだが」
「まぁ、そういう訳には行かんな」
ヤヴァンナの言うとおり、今日のクルニーアは奇妙なほどに穏やかだった。いつもと違うことはただひとつ。隣にエルミラエルがいることだけだ。
そんな風に訝しげに見られていることも知らず、クルニーアは嫌々ながらもアイウェンディルとオローリンに付き合わされるはめになった。
「オローリンは花火を、わしは小鳥たちの合唱を披露するんだが、お前さんはどうするんだ?」
「え?」
すっとんきょうな声をあげるクルニーアに、オローリンが肩をすくめながら説明を始める。
「ご存じなくとも仕方がありません。つい先程、アイウェンディルがくじ引きで負けたので、我ら三人共、今年の祝祭日にて何かを披露しなければならなくなったのです」
「何じゃと?」
クルニーアには、特にこれといった特技が無かった。強いていうなら膨大な量の書物の暗唱だが、流石にこれは不味いと彼でも理解できた。頭を抱えるクルニーアに、エルミラエルが突然こんなことを提案した。
「ねぇ。あなたって良い声してるじゃない。歌ってみたら?」
「歌!?あのような程度の歌を人前で!?冗談ではない」
目を見開き、眉間にシワを寄せながら何度も首を横に振るクルニーアだったが、その提案にアウレが賛同の意を示した。
「おお!クルモ、それがいいと思うぞ。そうしなさい」
「アウレ様!勘弁してください。第一、伴奏も無いのに」
「それなら大丈夫。ここに奏者がおる」
そう言って、マンウェがある人物の肩の上に手を置いた。エルミラエルだった。
「──え?わ、私!?」
「そうだ。何でも、ハープの名手とか」
「いえ、それほどでは……」
「こうなれば、言い出しっぺが責任をとれ。断ることは、このわしが許さん」
半分謙遜、半分拒絶の姿勢を取るエルミラエルを、クルニーアが睨み付ける。そして断ることのできない雰囲気に圧され、ついに彼女はアウレたちの前で承諾してしまった。
「それでは、楽しみにしているぞ。まだ宴までは時間がある。ゆっくり練習するがいい」
「は、はい……」
マンウェの言葉に、エルミラエルとクルニーアは同時にため息を漏らした。もちろん他の者たちは皆、爆笑したい気持ちを必死に堪えていたのは言うまでもない。
エルミラエルがハープの調律をしている間に、クルニーアは詩と楽譜の写しを探していた。祝祭日に歌う詩は決まっていたので、曲目を決めることには苦労しないが、そのあとが問題だった。
「そなたは、この曲を知っておるか?」
クルニーアが探し出してきた楽譜をエルミラエルに差し出した。もちろん初めて祝祭日に来た彼女にとって、その詩は未知の旋律をしていた。
「弾いてみてもいいかしら?」
「ああ。もちろん」
さっそくエルミラエルは腕捲りをすると(普通、エルフは腕捲りなどせず、涼しげな面持ちをしながら演奏するのだが)、楽譜に一通り目を通してから、細く美しい指先を弦に絡めた。そして最初の一音が奏でられた瞬間、クルニーアの鼓動も弦と共に弾んだ。
筋の通った、エルフが作る剣のように美麗な横顔。硝子細工の様に精巧な光を湛える、真っ直ぐで清らかな瞳。そして一音一音を奏でる度に、弦をどこか情熱的に絡めて弾く指。全ての動作が滑らかで、一つの作品のように美しい姿をしていた。やがて演奏が終わると、エルミラエルは顔を上げてにこりと微笑んだ。
「出来そう。次は演奏と一緒に歌ってみて」
クルニーアはそこでようやく我に返って、慌てて頷いた。エルミラエルは気にも留めず再び視線を弦に戻しているが、彼の視線が楽譜に向かうことはない。そして序奏が始まり、次にハープの音色と共にクルニーアの魅力的な声が響き渡った。だが歌い終わった彼に、アイウェンディルが一言こう言った。
「クルモの声は良い声なんだが、ちと重すぎるんだな」
とんでもなく失礼なことを言われた気がして、クルニーアが拳を振り上げそうになる。すると、隣で黙って聞いていたオローリンがこんなことを提案した。
「エルミラエル姫が、クルモ殿とコーラスすれば良いのでは?」
「え?」
「弾きながら歌えるのであれば、その方が良いかと思います」
クルニーアは何かを反論しようとして口を開けたが、エルミラエルの手前、大人しくすべきだと自分を抑えた。彼は隣で困惑しているエルフに、やや厳しい口調で尋ねた。
「……出来るのか?」
「ええ、たぶん。一度それでやってみては?主旋律はやっぱりあなたが歌うべきだと思うから、特に気にしないで」
主旋律を譲ってもらえたことで少しだけ機嫌を直したクルニーアは、再び楽譜に目を落として準備を始めた。そして、再び前奏が始まった。
「輝く光 二つの木の下 我ら共に会し
永久の約束 違えぬことを ここに誓い糧祝う」
クルニーアの朗々とした歌声が響く。ここまでは先程と同じだ。すると、ここでようやくエルミラエルが声を重ねた。
「ヴァリノール、イ・エノール・オ・ヴァラール
(ヴァリノール、ヴァラールの都)
ヴァリノール、イ・ゲイル・オ・メレス
(ヴァリノール、愛の輝き)」
クルニーアの声と対照的に、エルミラエルの声は柔らかく優しさに溢れていた。二つの声が一つに交わり、溶け合っていく。輝きがその場を満たし、二つの木の光が織り成すものよりも美しい光景が広がった。何事かと思ったアウレたちも、その場に吸い寄せられるように現れた。
「これは……」
「なんと美しい……」
感嘆しているアウレとマンウェの隣で、ヤヴァンナだけは一言も発さずに光を見つめている。
「満ちゆく祝福よ ここに集え 二つの光が溶け合うとき
慈悲深き愛を 共に称え 今宵の星々を照らし出そう
ヴァリノールの下で」
歌い終わり、エルミラエルとクルニーアは顔を見合わせた。思った以上の出来に驚いたというのもあるが、それ以上に二人は何か違うものに満たされていた。
「……どう……だった?」
「……良いと思う」
珍しく素直な感想を述べるクルニーアに、エルミラエルは口許を綻ばせた。すると、そこにアイウェンディルが突撃してきた(決して誤植ではない。本当に突撃してきたのだ)。
「クルモー!!それにエルミラエル姫!とても良かったぞ!」
アイウェンディルの声に我に返った二人は、慌てて背を向けた。
「まぁ、下手の横好きよりはまだマシじゃった」
「何ですって?声の図体もでかい人に言われたくないわね」
「何じゃと?大体お主は……」
クルニーアの照れ隠しから、二人の口論が始まった。アイウェンディルはミスランディアの隣に戻って、そっと耳打ちした。
「あれは、仲が悪そうだな」
「そうか?わしには、ここに居る誰よりも親しそうに思えるが……」
ミスランディアは、顔を真っ赤にしながら必死に反論するクルニーアを見た。そして、彼に本当の友達が出来たことを喜ぶのだった。
「だっ、大丈夫よ。私だって、馬くらい乗れるもの!」
「無駄なあがきは止めて、素直に認めよ」
エルミラエルは口をへの字に曲げて、暫くクルニーアの手を睨み付けた。ようやく諦めた彼女は、その白く華奢な手をマイアールの手に重ねた。
その瞬間、クルニーアの鼓動が跳ね上がった。息が詰まりそうな程に苦しく、そして何故かとても甘美だった。時が止まったような錯覚に陥る彼を現実に引き戻したのは、他でもないエルミラエルだった。
「……何やってるのよ。早く引き上げて」
「あ……ああ。そこに足を掛けろ」
「え、こう?」
「違う」
下手に足を掛ける方が危ないと感じたクルニーアは、無言でエルミラエルを引き上げた。何が起きたのかが理解できていない彼女は、目を丸くしている。ただ、クルニーアが見た目よりずっと強い──男らしい力を秘めていることだけは理解できていた。
そして、彼女の鼓動も強く弾んだ。訳もなく頬が赤く染まり、呼吸が出来なくなった。クルニーアの前に座らされたエルミラエルは、普段はゆったりとしたローブで見えなかった彼の腕が、どんなエルフよりも男らしい造りをしていることを知った。
「しっかり捕まっておれ。振り落とされても引き上げてやらんからな」
「え?あ……うん……」
いつもなら即座に言い返すところだが、何も言えなかった。鼓膜を揺らす声が、あまりに耳心地の良い音をしていたからだ。馬上で揺られながら、エルミラエルは今まで感じたこともない不思議な感覚に呑まれるのだった。
ヴァリノールの都への入り口で手続きを済ませているクルニーアの横で、エルミラエルはしきりに辺りを見回していた。一方、クルニーアの方は入城手続きに手間取っていた。
「わしはクルモ。マイアのクルモじゃ」
「所属は?」
「所属だと?馬鹿なことを抜かすな。わしはアウレ様の部下じゃ!」
「少々お待ちくださいね」
その様子を見ていたエルミラエルは、目を細めてクルニーアを見た。
「あなた、本当にマイアールなの?」
「なんじゃと?」
「普通、こんなのってササッと終わるものじゃないの?」
簡単そうに話すエルミラエルに、クルニーアはため息を漏らした。
「あのな……ここを何だと思うとるんじゃ」
「あなたでこんなに時間がかかるなら、私一人ならどうなるの?」
「一生かかっても入れんかもしれんな」
エルミラエルが言い返そうとした時だった。大きく美しい装飾を施された大理石の城門が開いた。
「大変お待たせしました。お許しを」
「うむ。分かればよい」
開いた扉の間からは、目映い光が差し込んでくる。エルミラエルは思わずその眩しさに目を閉じた。
「大丈夫か?目を開けてみよ」
恐る恐る目を開いたエルミラエルは、息を呑んだ。目の前に広がるのは、姉の話でしか聞いたことのないヴァラールの都だった。
「お姉様が教えてくれた通り……いえ、それ以上の美しさだわ!」
「ああ。ここは正に、百聞は一見に如かずの言葉通りの場所。そなたが嬉しそうで何よりじゃ」
「うん!ありがとう、クルニーア!」
エルミラエルが屈託のない笑顔を浮かべているのを見て、クルニーアは心の底から満足した。するとそこに、何処から話を聞き付けたのか、アウレとマンウェが現れた。アウレは自分の部下を見つけるや否や、肩に腕を回して引き寄せた。クルニーアでも背が高いというのに、アウレの方がずっと長身だった。彼にこんなことを出来るのは、この世で唯一アウレくらいのものだ。
「おお!クルニーアか!!」
「アウレ様、相変わらずお元気ですな」
戸惑いを隠せないクルニーアを尻目に、マンウェがため息を漏らした。
「この男ほどヴァリノールの都が似合わぬヴァラールも珍しかろう、フィナルフィンの娘エルミラエル」
「お、お初にお目にかかります」
「私はマンウェ。ヴァラールの一人だ」
律儀に挨拶をするマンウェにも、アウレはちょっかいをかけ始めた。ようやく逃れられたと、クルニーアが胸を撫で下ろす。
「こいつは滅多にヴァリノールへ来なくてな!レアなんだぞ」
「止めろ、アウレ。その話し方では、ヴァラール全体の品格が問われる」
「ヴァラールの品格が何だ。別に良いだろう」
マンウェの小言に口を尖らせたアウレは、再びクルニーアの首に腕を回した。引き寄せすぎて、クルニーアの首が絞まる。すると、そこに目映い輝きを身に纏った女性が現れた。
「あなた。エルミラエル姫が困っておられるわ」
アウレの妃であり、ヴァラールのヤヴァンナだった。彼女はエルミラエルをまじまじと観察し始めた。隣ではクルニーアが苦しげに手足をばたつかせている。
「私のことも……忘れないでいただき……たい」
「あなた。クルニーアが死んでしまいます」
「おお、済まんな。この姿をとっているときは、特に力加減が解らん」
「本当に……死ぬかと思い……ました」
苦しげに喘ぐクルニーアに、エルミラエルは駆け寄って手を差しのべた。
「大丈夫?」
「あ、ああ……大丈夫だ」
僅かに、ほんの僅かにクルニーアが微笑んだ。その表情に何かを感じたヤヴァンナは、目を細めた。だが、その思案は思いがけない人物たちに阻まれることとなった。
「あ!!クルモー!!おーい!!お前も雑用か~?」
能天気な声が響く。クルニーアは顔をしかめて振り返った。もちろん、彼の予想通りに声の主はアイウェンディルだった。オローリンも一緒だ。
クルニーアは、いつものようにアイウェンディルをぞんざいに扱おうと口を開いたが、隣にいるエルミラエルをちらりと見てから笑顔を作った。
「アイウェンディルか。こんなところで何をしておる」
「祝祭日の準備だよ!……あんたは何してるんだ?」
後ろめたいことなど特に無いはずなのに、何故かクルニーアの額に冷や汗がにじむ。
「え?あ、ああ……この人をヴァリノールまで連れてきたのだ」
「へぇ……あ、知っておるぞ!エルミラエル姫じゃな!わしはアイウェンディル。ヤヴァンナ様にお仕えするマイアだ」
突然手を差し出されて、エルミラエルは戸惑った。だが、すぐに笑顔に変わって握手をした。
「宜しく!アイウェンディル」
「こちらこそ、お会いできて光栄です。……で、二人はどういう関係で?」
その質問に、エルミラエルとクルニーアは顔を見合わせた。そういえば、向こうはこちらのことをどう思っているのだろう。お互いにそんなことを考えてしまう。気まずい空気が流れそうになったので、エルミラエルが咄嗟に答える。
「友達よ!」
「へぇ、友達か。クルモの友達なら、わしの友達。な、オローリン!」
「そうじゃな、アイウェンディル」
早く離れろと言いたげなクルニーアの視線に気づいているミスランディアは、遠巻きで微笑んだ。いつもと違うクルニーアの態度に、流石のアウレも首をかしげた。
「……今日はえらく穏やかだな」
「ええ。気色が悪いですこと」
「いつもこうだと、こちらも有り難いのだが」
「まぁ、そういう訳には行かんな」
ヤヴァンナの言うとおり、今日のクルニーアは奇妙なほどに穏やかだった。いつもと違うことはただひとつ。隣にエルミラエルがいることだけだ。
そんな風に訝しげに見られていることも知らず、クルニーアは嫌々ながらもアイウェンディルとオローリンに付き合わされるはめになった。
「オローリンは花火を、わしは小鳥たちの合唱を披露するんだが、お前さんはどうするんだ?」
「え?」
すっとんきょうな声をあげるクルニーアに、オローリンが肩をすくめながら説明を始める。
「ご存じなくとも仕方がありません。つい先程、アイウェンディルがくじ引きで負けたので、我ら三人共、今年の祝祭日にて何かを披露しなければならなくなったのです」
「何じゃと?」
クルニーアには、特にこれといった特技が無かった。強いていうなら膨大な量の書物の暗唱だが、流石にこれは不味いと彼でも理解できた。頭を抱えるクルニーアに、エルミラエルが突然こんなことを提案した。
「ねぇ。あなたって良い声してるじゃない。歌ってみたら?」
「歌!?あのような程度の歌を人前で!?冗談ではない」
目を見開き、眉間にシワを寄せながら何度も首を横に振るクルニーアだったが、その提案にアウレが賛同の意を示した。
「おお!クルモ、それがいいと思うぞ。そうしなさい」
「アウレ様!勘弁してください。第一、伴奏も無いのに」
「それなら大丈夫。ここに奏者がおる」
そう言って、マンウェがある人物の肩の上に手を置いた。エルミラエルだった。
「──え?わ、私!?」
「そうだ。何でも、ハープの名手とか」
「いえ、それほどでは……」
「こうなれば、言い出しっぺが責任をとれ。断ることは、このわしが許さん」
半分謙遜、半分拒絶の姿勢を取るエルミラエルを、クルニーアが睨み付ける。そして断ることのできない雰囲気に圧され、ついに彼女はアウレたちの前で承諾してしまった。
「それでは、楽しみにしているぞ。まだ宴までは時間がある。ゆっくり練習するがいい」
「は、はい……」
マンウェの言葉に、エルミラエルとクルニーアは同時にため息を漏らした。もちろん他の者たちは皆、爆笑したい気持ちを必死に堪えていたのは言うまでもない。
エルミラエルがハープの調律をしている間に、クルニーアは詩と楽譜の写しを探していた。祝祭日に歌う詩は決まっていたので、曲目を決めることには苦労しないが、そのあとが問題だった。
「そなたは、この曲を知っておるか?」
クルニーアが探し出してきた楽譜をエルミラエルに差し出した。もちろん初めて祝祭日に来た彼女にとって、その詩は未知の旋律をしていた。
「弾いてみてもいいかしら?」
「ああ。もちろん」
さっそくエルミラエルは腕捲りをすると(普通、エルフは腕捲りなどせず、涼しげな面持ちをしながら演奏するのだが)、楽譜に一通り目を通してから、細く美しい指先を弦に絡めた。そして最初の一音が奏でられた瞬間、クルニーアの鼓動も弦と共に弾んだ。
筋の通った、エルフが作る剣のように美麗な横顔。硝子細工の様に精巧な光を湛える、真っ直ぐで清らかな瞳。そして一音一音を奏でる度に、弦をどこか情熱的に絡めて弾く指。全ての動作が滑らかで、一つの作品のように美しい姿をしていた。やがて演奏が終わると、エルミラエルは顔を上げてにこりと微笑んだ。
「出来そう。次は演奏と一緒に歌ってみて」
クルニーアはそこでようやく我に返って、慌てて頷いた。エルミラエルは気にも留めず再び視線を弦に戻しているが、彼の視線が楽譜に向かうことはない。そして序奏が始まり、次にハープの音色と共にクルニーアの魅力的な声が響き渡った。だが歌い終わった彼に、アイウェンディルが一言こう言った。
「クルモの声は良い声なんだが、ちと重すぎるんだな」
とんでもなく失礼なことを言われた気がして、クルニーアが拳を振り上げそうになる。すると、隣で黙って聞いていたオローリンがこんなことを提案した。
「エルミラエル姫が、クルモ殿とコーラスすれば良いのでは?」
「え?」
「弾きながら歌えるのであれば、その方が良いかと思います」
クルニーアは何かを反論しようとして口を開けたが、エルミラエルの手前、大人しくすべきだと自分を抑えた。彼は隣で困惑しているエルフに、やや厳しい口調で尋ねた。
「……出来るのか?」
「ええ、たぶん。一度それでやってみては?主旋律はやっぱりあなたが歌うべきだと思うから、特に気にしないで」
主旋律を譲ってもらえたことで少しだけ機嫌を直したクルニーアは、再び楽譜に目を落として準備を始めた。そして、再び前奏が始まった。
「輝く光 二つの木の下 我ら共に会し
永久の約束 違えぬことを ここに誓い糧祝う」
クルニーアの朗々とした歌声が響く。ここまでは先程と同じだ。すると、ここでようやくエルミラエルが声を重ねた。
「ヴァリノール、イ・エノール・オ・ヴァラール
(ヴァリノール、ヴァラールの都)
ヴァリノール、イ・ゲイル・オ・メレス
(ヴァリノール、愛の輝き)」
クルニーアの声と対照的に、エルミラエルの声は柔らかく優しさに溢れていた。二つの声が一つに交わり、溶け合っていく。輝きがその場を満たし、二つの木の光が織り成すものよりも美しい光景が広がった。何事かと思ったアウレたちも、その場に吸い寄せられるように現れた。
「これは……」
「なんと美しい……」
感嘆しているアウレとマンウェの隣で、ヤヴァンナだけは一言も発さずに光を見つめている。
「満ちゆく祝福よ ここに集え 二つの光が溶け合うとき
慈悲深き愛を 共に称え 今宵の星々を照らし出そう
ヴァリノールの下で」
歌い終わり、エルミラエルとクルニーアは顔を見合わせた。思った以上の出来に驚いたというのもあるが、それ以上に二人は何か違うものに満たされていた。
「……どう……だった?」
「……良いと思う」
珍しく素直な感想を述べるクルニーアに、エルミラエルは口許を綻ばせた。すると、そこにアイウェンディルが突撃してきた(決して誤植ではない。本当に突撃してきたのだ)。
「クルモー!!それにエルミラエル姫!とても良かったぞ!」
アイウェンディルの声に我に返った二人は、慌てて背を向けた。
「まぁ、下手の横好きよりはまだマシじゃった」
「何ですって?声の図体もでかい人に言われたくないわね」
「何じゃと?大体お主は……」
クルニーアの照れ隠しから、二人の口論が始まった。アイウェンディルはミスランディアの隣に戻って、そっと耳打ちした。
「あれは、仲が悪そうだな」
「そうか?わしには、ここに居る誰よりも親しそうに思えるが……」
ミスランディアは、顔を真っ赤にしながら必死に反論するクルニーアを見た。そして、彼に本当の友達が出来たことを喜ぶのだった。