チェスの国
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ガラス匣の中に、さくらさんがいる。遠くに行ってしまったのに、こんなに手の届きそうな場所にいる。
それでも、わたしにはなんの力もないから手を伸ばすことさえ出来ない。
「…姫は何の為にその中に行きやがった」
〈サクラ姫の羽根があるの、夢の中に。
夢もまた一つの世界だから〉
「それもサクラが夢で?」
〈ええ。それを得る為にもう一人の小狼が夢の中に来ると〉
「サクラ一人で小狼と会うなんて無茶だよ!」
わたしは会った事はないけれど、とても優しかった、とモコナから聞いた事がある。そして、優しい小狼さんの封印が解けてしまい、さくらさんの羽根を奪う事にしか執着しなくなった、と。
その被害状況は目にした事があり、何も知らないわたしでもさくらさんがどれだけの無茶をしているか、分かる。
『…独りは寂しいと言ったのは、あなたなのに』
「そうだな。
…会ったらぶん殴ってやる」
『えっ、』
黒鋼さんの大きな手がわたしの頭に置かれ、優しく撫でられた。な、なんだ?
それに、さっきわたしの口から出た言葉は、一体…?いや、問題はそこじゃない。
「駄目だよ!
黒鋼が殴ったりしたらサクラ大怪我しちゃうよ!」
『お、穏便に!黒鋼さん、穏便に行きましょう!!』
〈…そうしなさい〉
「侑子!!」
この人達の優しさは、不器用で、むず痒い。
さくらさんの心がガラス匣にあることは分かった。けれど、離れ離れになった体は、急ぐ必要がある。さくらさんの体には大きな傷があり、今その器には魂がいない状態だから、だとか。
「でもでも!追いかけるにしてもモコナ次に行く世界は選べないよ!」
「……お願いが、あります」
ベッドからすくっと立ち上がったファイさん。顔は、ずっと険しくサファイアブルーの瞳は遠くを見つめていた。
「オレが今使える魔力では足りないだろうから」
〈対価がいるわ〉
「オレの右目を」
皆に衝撃が走る。
涙声のモコナは悲鳴のようにファイさんの名前を呼ぶ。え、まって。
この人は、何を言っているの…?
「本当は眼球ごと抉って渡せればいいんですが、これはオレの魔力そのものだから。両目共に無くせばさすがに死ぬでしょう。でも、まだ今は死ねない。
この目に見える全てを対価に」
〈右目の視力を渡すと?〉
「はい」
〈その対価で、何を望むの?〉
「セレス国へ、戻ります」
目頭が熱くなり、心臓が早く脈を打つ。
なにを、言ってるか、分からない。
脳が理解する前に、ーーわたしの右手は無意識にファイさんの頬にビンタしていた。
『…ふ、ふざけた事を言わないでください』
「君には、関係ないだろ」
『ある!!』
「っ、」
『関係あるに、決まってるでしょ!!
そんな、自分を切り売りするような事、絶対しないでっ…!!』
頬に伝ってくる雫が鬱陶しい。
熱くなる喉も、チカチカ眩しい視界も鬱陶しい。
何かが頭の中にフラッシュバックする。その映像の中でも、ファイさんは血まみれで。
サファイアブルーの瞳が大きく見開かれていた。
けれど、目の前にある隻眼は、わたしからまた目をそらす。わたしが、“メイリンさん”じゃないから。それでも、わたしは。
「……それでも。オレが渡せる対価は、それくらいしかもうないか…」
ガツン!と、大きな音が響き、目の前のファイさんが衝撃に揺れていた。
ファイさんの頭を容赦なく、殴った、のだ。
「黒鋼!!」
「ぶん殴るっつっただろうが」
『く、ろがねさ、ん』
「なんでおまえだけ対価を払う。姫の体がそのセレス国とやらにあるから、行くのはおまえだけじゃねぇだろ」
「でも…」
狼狽えるファイさんの首輪を持ち上げ、静かな炎は紅の瞳の奥でゆらりと燃えている。
「慕っている奴に涙流させてまで、あんな事言わせるな。
これまで姫とおまえの好きにさせたんだ。今度は、俺の好きにする」
言い終わると直ぐに踵を返し、次元の魔女さんに問うた。
「おい魔女」
〈失礼極まりない上にセンスの欠片もない呼び方ね〉
「うるせぇ。
姫の魂の方はどうなんだ」
〈追うとしても今は無理。夢の中には魂しか行けないから。それに、もう一人の小狼が来るにはまた時間がある〉
「サクラ、夢の中で寂しかったり辛かったりしてない?」
〈……姫は、独りじゃないわ。
夢の中で出逢う者が、また未来を変える切っ掛けになる〉
独りじゃない、その言葉でわたしの心が少しだけ和らいだ。独りじゃないなら、寂しくないならそれでいい。
あの凛とした人が、寂しくないなら。
魔女さんと小狼さんは、誰かの、優しく見守る話をしていた。
今はまだ関わりのない話だと。
〈それで?〉
「やっぱり急ぐのは体か」
「モコナも行く!」
「おう。おまえはどうする?」
黒鋼さんの瞳が、矢のように貫く。
ーーー覚悟なんて、とっくに出来ている。
『行きます。
わたし、まださくらさんとちゃんとお話してないから!』
涙をぬぐい、もう眺めるだけは終わりにするの。焼けるように熱かった喉も、だんだんマシになってきた。
「おれも、セレスへ行く。
おれを閉じ込めていた者が姫の次元の記憶が刻まれた体を欲してあるなら、なにをするか分からない」
さくらさんの記憶の羽根を飛び散らせて、小狼さんを閉じ込めて、もう一人の小狼さんを羽根集めの道具にして、わたしの記憶を奪った人。
どうして、そんなことをするのか。どうして、こんな事になったのか。わたしが知る機会なんて、ないのかも知れないが。
ぴょこんとファイさんの腕の中に収まったモコナは、俯かれて見えなかった表情を暴く。
「ファイ!一緒に行こう!
ファイとメイリンと黒鋼と『小狼』とモコナ。みんなで5分の1ずつ対価を払って一緒に行こう、サクラを助けに!」
「けれど…」
「…おれが知っていたのに、なにも言わなかったのは、さくら…姫が貴方を信じていたからだ。嘘をついていたとしても、その嘘ごと姫は貴方を信じていた。あの時、貴方を頼むと姫は言った。だから、おれも貴方を信じる」
「ファイか独りだったら、サクラきっと悲しいよ。みんなと一緒だったら、サクラきっとすごくすごく喜ぶよ」
真っ直ぐな瞳が、優しく心を溶解する。
暖かな、陽の光のような。
「その前にぶん殴るけどな」
「だからだめだってば!」
『殴ったらお話どころじゃなくなるから、本当にやめてくださいよ!?』
騒がしい空気が部屋を占め、なんだか懐かしい気持ちになる。こんな事、今までなかったのに。
さっきの言葉といい、ファイさんへの無意識の行動、そしてこの気持ち。着実に、メイリンさんは近くなってきている。
わたしが、この人たちと居られるのも、あと少しなのかも知れない。
ーーーーーーーー
「貴方はこれを待っていたんですか?」
穏やからな表情で彼らを眺めるイーグル、そして同じく、否、もっと深く待ち望んで、柔らかな笑みを見せる次元の魔女。
その笑みはサクラに対しての礼にも取れる。
あの子が動かなければ。
この光景は、なかったのだから。
(チカチカ、目眩がするような)