栞〜バレンタインデー2026〜
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少女は受験勉強で疲れた体を自室のベッドに沈め、ぼんやりと天井を見つめていた。
今日も何もかもが同じ色、同じ匂い、同じ音。苦しい退屈が重くのしかかる。
クラスメイトの黒崎一護達が尸魂界や虚圏で体験してきた冒険譚は、学校の新聞部が記事にして配っていたが、あまりおおっぴらには広まらなかった。新聞部はパソコンで尸魂界の住人達のモンタージュまで作っていたが、それらも一護達の苦難に比べれば、ほんのお遊びであろう。
花音は一護達の救済譚を信じていないわけではなかった。が、高校生活を貫く受験のための勉学しかない彼女にとって、それはどこか遠いおとぎ話のようだった。
「常磐はさ、俺達が経験してきたこと、信じてくれてねえの?」
ある日、あまり口もきいたことのない一護から、珍しく話しかけられた。怪訝な顔をしていると、
「あ、いやさ、常磐はさ、なんか冷めてるっていうか…。」
一護は気遣わしげに言葉を継いだ。彼はいつも優しいな、と花音は思った。
「別に信じていないとかじゃないんだ。ごめん。ただ、現代社会のことを、『現世』とか呼ぶことに、驚いているっていうか…。」
花音は適当に、「世界観に慣れていないだけ」という体をよそおった。本当は彼女は、一護達の冒険譚に付き合う余裕がない程、受験、受験の毎日に疲れていた。
「黒崎君!常磐さん!」
廊下から、今しがた走ってきたばかりの織姫が声を掛けてきた。
「今日の帰り、黒崎君の家に集合しない?バイト先からもらってきたパン、沢山あるからみんなで食べようよ!」
「井上のバイト先のパン屋、いつもそんなに売れ残りが出て大丈夫なのかよ。お陰でこっちは腹が減らなくていいけどな。」
一護がちょっと呆れたように受け答えした。
「ごめん。黒崎君、井上さん。私、今日塾があるから。」
花音は嘘をついた。
「そうなんだ、残念!」
織姫は心底残念そうだった。
察しの良い一護は、
「常磐、いつかまたな。」
と、穏便に切り上げてくれた。
(黒崎君、井上さん、ごめんね。私、なんだか疲れて余裕がないんだ。)
本当のことが言えずに、花音は席を立って謝ると、教室を後にした。
廊下には、『藍染惣右介元隊長』という呼び名で、一護達が尸魂界で闘った敵とされる人物のモンタージュが、世紀の大悪人との触れ込みと共に学内新聞となって掲示板に張り出されていた。しかしそれを目にとめる者は、もうあまり多くなかった。
(私、こんなことでいい大学行けるかな…。)
遠くで、学年一位の雨竜が、一護と織姫に声を掛けているのを見やりながら、花音は校舎を離れた。
学友に嘘をついてしまった―そのことが、思春期ゆえの嵐となって、こんなにも心をかき乱すと思わなかった。
花音は勉強に身が入らず、ベッドに仰向けに寝転んだ。
目を閉じると、いつものように暗闇が訪れるはずだった——でも今回は違った。まぶたの裏に、淡い金色の光が広がった。
まるで誰かがそっとカーテンを開けたかのように。
気がつくと、横になっていたはずの花音は、何故だか立ち上がっていた。そこはまるで古の図書館、紫檀の祭壇のような書架―足元には無数の古い本が積み重なり、ページが勝手にめくれては風のない空に舞い上がっていく。
天井はなく、代わりに果てしない夕暮れ色の空が頭上に悠々と広がっていた。雲の一つ一つが、誰かの記憶の欠片のように形を変えながらゆっくり回転している。
「遅かったね。待っていたよ。」
静かで、どこか懐かしいような声。
振り返ると、そこにいたのは藍染惣右介——ではない。
学内新聞のモンタージュと同じく、栗色の髪に眼鏡、しかし着ているのは白い長衣ではなく、深い藍色のロングコート。襟元には、辺りを誰かの記憶の断片のように舞う光る蝶と合わせたかのような、小さな銀の蝶のブローチ。白く波打つ大きなジャボタイが、正装感を与えていた。
彼は穏やかに微笑みながら、一冊の本を指で軽く叩いた。
「ここは『未完の図書館』。誰かが書ききれなかった物語、描ききれなかった情景、捨てられたはずの『もしも』の世界が、ここでまだ息をしている場所なんだ。」
突然のことに、花音は言葉が出なかった。
大悪人・『藍染惣右介』―こんなにも優しく美しい声をしていたのかと思った。それにこの人は、何というのか―優雅で凛々しく美しい―。どことなく現世にはいない、そして多分、尸魂界にも虚圏にもいない、浮き世離れした、超常の何かを感じた。
彼は一歩近づき、手を差し出す。
「君の『続き』を見せてくれないか?僕はずっと、誰かの物語の『次のページ』を待っていた。」
花音は警戒し、一歩後ずさった。
が、藍染が大股に一歩踏み出し、彼女の手に触れた。
次の瞬間、世界がページをめくるように反転した。図書館のような光景は、次に目を開けたときには一変し、そこは巨大な水晶の森になっていた。
木々は透明で、中を虹色の光が流れている。
触れると、かすかに温かく、誰かの笑い声が響く。
穏やかな記憶の木々―芝生と柔らかな土の感触が、足裏に心地よかった。
藍染は花音の隣で、悪人らしからぬ無邪気な笑みを浮かべた。
「ここは君の記憶と僕の想像が混ざった場所。だから、君が望めば何だって叶えられるよ。」
まさか、と思いながらも、瞬間、花音は試しに、空に向かって「サクラサク」と呟いていた。
すると本当に、淡い桜の花びらが無限に舞い落ち始めた。遠くで、誰かの祝福の声を聞いた気がした。
彼は花びらを掌で受け止め、不思議な力で髪飾りを作ると、そっと花音の髪に挿した。
「綺麗だね。君の色だ。」
「貴方が、『藍染元隊長』?」
花音は確かめる、というより、信じられない、といった体で尋ねた。藍染という人は、今は何と言ったか、監獄の中に収監されていると聞いた。
「ああ、そんな僕もいたみたいだね。今ここにいる僕は、『未完の図書館』の『大司書長』殿、とか、たまにここに迷い込む君のような旅人に呼ばれているよ。もっとも君が呼びやすい呼び方で呼んでくれれば良いよ。『惣右介さん』でもいいし。」
藍染は人の良さそうな、温雅なお茶目さでそう言葉を継いだ。
「あの、『惣右介さん』はさすがに…。そんなに近くない、っていうか…。」
花音は少し呆れたように、つっかえつっかえ答えた。
「それなら『藍染元隊長』でもいいよ。君の名前を教えてくれると嬉しいんだけど…。」
「え、あ、私は…花音…です…。」
「いい名前だね。よろしく、花音。」
藍染は穏やかに笑った。そこには大司書長と呼ばれる威厳と、温かな包容力があった。
この人は私に危害を加えたりしない―。
花音は何故だか藍染を信じる気になった。
一護達も、こんな風に不思議な世界に迷い込んだのか、と、腑に落ちた。
その夜、二人は水晶の枝に腰掛けて、ありえもしないような話をした。
「この世界は未完成で不完全だ。それを完璧なものにしようとした僕のうちの一人と、君の友達は闘ったみたいだね。」
「友達、っていうか、そんなに仲良くないし…。それにこの沢山のパラレルワールドを管理している貴方は、あの悪人の貴方を放っておいていいんですか?」
「彼は彼なりに、自分の物語の『続き』を書こうとしている。それが本当に危険なら、あまり気が進まないけど、物語を『改変』しなければならない、とは思っているよ。」
藍染、と名乗った大司書長は、横顔のまま、決意の表情をした。
ふと、横にある一本の水晶の木が、黄金に染まったようなイチョウ色に変わった。そこにはマフラーを巻いた藍染が、枯れ葉を手で受け止め、楽しそうな笑顔をつくり、笑っていた。
「この僕はどこかの世界で俳優をしているみたいだ。なんでも『ソウ様』と呼ばれて、女性に大人気らしい。」
藍染大司書長は、肩をすくめておかしそうに笑った。
「皆が物語の『続き』を描こうと必死でいるんだ。出来る限り、そのまま見守りたい、と思っているよ。退屈だけどね。」
ふと離れたところを見やると、一護や織姫、雨竜や茶渡達、見慣れた学友達の映る水晶の若木があった。花音の視線に気付くと、藍染は、
「この若い木達には、無事に育って欲しいと思っている。なにせ世界を守る力のある木だ。だから見守り続けるよ。」
と、微笑んだ。
大司書長たる藍染にとって、一護達の冒険譚は、ほんの小さな『続き』でしかないのだろう。どうこうしようと思えばいかようにも出来るのに、その力を秘めたまま、沢山の『自分』の運命も、その他の人々の運命も束ねたまま、こうして時を過ごしているこの藍染は、何と大きな存在なんだろうか、一護達はこの藍染を見て、自分達の闘いをどう振り返るのだろうか、と思うと、気が抜けそうな程矮小な自分を感じた。大きな体躯、広い背中の藍染は、悠然とした時の流れの外にいた。
花音は、それを見て、肩の力が抜けた。
自分の人生に、受験勉強しかないなんて嘘だ、と、初めて思い至ったのである。
「君は疲れながらも完全を目指しているのかもしれないけど、もしも世界が最初から完璧だったら、僕たちは出会えなかっただろうね。」
「だったら、不完全でよかったです。藍染元隊長に会えてよかった。貴方は不思議な人ですね。なんだか貴方と話していると、すごく、安心する―。」
そんな他愛なくも大きな会話が、なぜか胸の奥を温かくした。
やがて、空が薄明るくなり始めた。
彼は静かに言った。
「そろそろ、君の『現実』のページに戻る時間だ。
でも——。」
彼は自分のコートのポケットから、一枚の栞を取り出した。
それは透明で、触れるとあなたの指紋が浮かび上がる。
「これを日記に挟んでおいて。いつでも、君がページをめくれば、ここにまた戻ってこられる。僕はずっと、ここで君の次の章を待っているから。」
花音は栞を受け取り、そっと握り締めた。
目が覚めると、いつもの部屋。
でも、枕元に、本当に一枚の透明な栞が落ちていた。
光にかざすと、かすかに金色の文字が浮かぶ。
『「続き」は、君が、書くんだよ。』
それからというもの、辛く退屈な日常の中でも、ふとした瞬間に微笑みがこぼれるようになった。
電車の中、授業中、塾帰りの夜更けのコンビニで——
心のどこかで、ページをめくる音が聞こえる気がした。そして時々、夜の帳が下りた頃、眼鏡の奥で優しく笑う誰かの気配を感じる。
それは、決して孤独ではない合図だった。
私と彼は、
同じ本の、違う章に住む住人。
でも、栞がある限り、いつだって隣のページに会いにいける。
奇妙で、優しくて、少しだけ不思議な、ハッピーエンド途上の物語―そんな物語だけが、あの『未完の図書館』にはあった。
「また、会いに行きます。藍染元隊長―。」
花音はそっと栞を額に当てた。
その日はバレンタインデーだった。
織姫が、バイト先のパン屋から、売れ残った大量のチョココロネを木箱ごと持ってきて、誰彼構わず配っていた。
「信じらんねえ。これ、売れ残りって数じゃねぇだろ。」
一護が織姫の横で、呆れながら口にした。
「今日はツナサンドもあるから、甘い物の後、口直しも出来るよ♪」
織姫にはあまり心配という概念がないようだった。
「あ!常磐さんも良かったら持っていって!今日はバレンタインスペシャルですよ〜♪」
織姫があまりにも楽しそうなので、花音もつられて笑った。
「常磐、今日良かったら、帰りに俺んち来ねえ?井上達と一緒に、みんなでツナサンド食おうぜ。」
また唐突に、一護に話しかけられた。
「あっ、と…無理にじゃないぜ。今日は日が日だからな。」
相変わらず一護は不器用な優しさを向けてくる。
「みんな一緒なら、じゃあ今日は黒崎君ちにお邪魔させてもらおうかな?」
「お?一護ナンパか?」
茶渡がうっそりと冷やかしてきた。
「そんなんじゃねえよ。お前も来るんだろ。」
茶渡はうなずく代わりに笑った。
「おお!今日は常磐さんも来てくれるんだ!今日は楽しくなりそうだね♪」
織姫は満面の笑顔を見せると、またチョココロネ配りに力を入れだした。
晒していない茶色の紙の袋に包まれたチョココロネを、花音はつぶれないようにそっとバッグにしまうと、今夜は藍染に会いに行こう、と思った。
今年のバレンタインデーは、『友情の味』―。
そんな続きが書けました、と彼に伝えたい。
彼が古書のページをめくりながら、笑っている気がした。
この世界は、きっとハッピーエンド。
一護達がいてくれる限り、貴方も安心して、世界を『改変』なんてしなくても過ごしていけるだろう。
そして遠い未来、それは新たな命に受け継がれるのだ。
チョココロネの中の、甘いチョコクリームのように、世界が幸せで満たされますように―。
〈了〉
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