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麻巳子には同居の姉がいた。
姉の名は麻友子という。
麻友子は麻巳子と三つ以上年が離れているらしかった。肺病持ちで常に寝込んでおり、時折麻巳子の住む陋屋から、咳き込む音が聞こえた。
麻友子は病身だが、麻巳子と違って大人しい優等生型で、両親は麻友子の方に愛情を傾けがちだった。ただでさえ病身ゆえに気を遣われる上に、麻友子は床の中で書物を読んで勉学を積んでいて、その高潔さは無学な両親をいたく感動させた。出来が良く病身の姉と、おてんばで家にいたがらない妹―両親の愛がどちらにかかるかは、火を見るより明らかだった。
両親は忙しい中手間をかけて、麻友子のために中古の書物を出来る限りただで集めてきた。麻巳子に踊りを教えてくれる人を探すよりも容易く、役立つことに思えた。両親は、やがては麻巳子をどこかへ女中にでも働きに出す心積もりらしかった。麻巳子の意思とは関係なく、生計のために、である。
「君のお姉さんは病気なのかい?よく咳き込む声が聞こえてくるけど―。」
藍染は気に掛かって、何度も麻巳子に尋ねた。
「お姉ちゃんはね、ずっと胸が悪くて、うちはお金が無いから、せんべい布団で寝てるんだ。でも本は沢山読んでるよ。」
麻巳子は貧しいことをなんてこともないように答えた。
「お姉ちゃん、死んじゃうのかな…お医者さんは死ぬ程じゃない、って言ってるけど、いっつも紙みたいに白い顔をしてるんだ…。」
泥だらけの浅黒い顔で、麻巳子は暗く呟いた。
「お姉ちゃんは頭がいいからさ、元気なら学者になれる、って、お父さんもお母さんも、お姉ちゃんのことが自慢みたいだよ。」
麻巳子はまた、両親の愛情が自分の方へは少なくしか向いていないことも、なんてこともないように言葉を継いだ。
「お姉ちゃんはさ、三つ以上年が離れてるし、こんな子供っぽい私なんかと話が合わないと思うよ。外に出て暴れ回っているなんて、お姉ちゃん、私のことが嫌いじゃないのかな。」
麻巳子は麻巳子なりに、健康に生まれた自分の優位を、申し訳なく思っている、そんな意味での「嫌いじゃないのかな」という発言だった。
「お姉さんの読んでいる本を読んでみて、内容について一緒に話をしたりすればいいんじゃないかな。お姉さん、喜ぶと思うけど。」
藍染は藍染なりに、気休めを言ったつもりだった。
麻巳子は書物よりも舞踊が好きなのは分かっているが、両親は無知無学、麻巳子も勉学に興味なし、では、麻友子は孤立しているのではないか、と、藍染は麻友子のことを少し慮った体だった。
「だってさ、御伽草子とか、伊勢物語とか、源氏物語とか、読んでも何が楽しいのか分かんない。人が書いたものを見て感心するんじゃなくて、自分が踊って何かを表現したい。」
藍染はそれを聞いて眉を上げて驚いた。
麻巳子は幼いながら、書物の意味や内容を分かっていて、それでも『自分が表現する』、という段階まで自分が到達していないがゆえに、己を恥じて才を隠しているだけなのだった。これではどちらが学者になるのか分からない。両親も姉も、麻巳子の英才さに気付いていないのだ。麻巳子自身すらそれに気付いておらず、貧しく教育が行き届かないがゆえの悲劇を、藍染は見た思いがした。
「君は根っから『表現者』なんだね。それでいいんだよ。」
藍染は麻巳子の頭を撫でた。麻巳子は笑った。
「でもね、惣兄ちゃん、私、万葉集はなんか好きだな。」
「どうして?」
「なんか、遠いところへ連れて行ってくれるみたいな、哀しい歌があるから。」
藍染は、麻巳子の才知は本物だ、と思った。どうにかしてやりたい。どうにか麻巳子を学びの道へとつなげてやりたい。しかしそれを彼女の両親に伝えるのは、さしでがましいように感じた。
「麻巳子、誰かと一緒にいるの?」
あばら家の中から、麻友子の細い声が聞こえた。両親が麻友子に対してしか躾や教育をしないことを、麻友子は、姉は姉なりの立場で、責任を感じているのである。
「お姉ちゃん、惣兄ちゃんだよ。この前話したでしょ?」
何か麻友子のくぐもった声が聞こえたが、麻友子はそれ以上何も言わなかった。藍染家の子息が、こんな下民の娘に何の用か、と思うと、なんとなく口をきくのも申し訳ない、といった体だった。
「申し訳ありません。妹さんをお借りしています。」
藍染は陋屋の中に向かって声を張り上げた。麻友子が布団に座ったまま体を伸ばして、奥から頭を下げたのが見えた。
「お姉ちゃん!惣兄ちゃんは大丈夫だよ!お父さんとお母さんにも言って!」
麻巳子はやはり家に向かって大声を出すと、
「なんかつまんないんだ。」
と、下を向いてつぶやいた。
むしろ孤立しているのは麻巳子の方か、と考えを改めると、
「僕には何でも言ってくれていいからね。」
と藍染は麻巳子に言い聞かせた。麻巳子の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、惣兄ちゃん!」
麻巳子は理解者を得た喜びで、たいそう嬉しそうに笑った。その顔は子供らしくもどことなく美しさの片鱗を見せていて、藍染は、麻巳子は本当に美しい舞姫になるだろう、と思った。しかしこのままでは、彼女の素質や才能は世に出ず、埋もれて平凡な人生を送ることになってしまうだろう。
「惣兄ちゃん、祈ってて。」
麻巳子は珍しく悩み深そうな、真剣な顔で言った。
「いつか大勢の人の前で、思いっきり踊るの。それが叶うよう、どうか祈ってて。」
麻巳子の背後に、青い炎でも立ちのぼったようだった。
「ずっと祈り続けるよ。」
藍染は答えた。嗚呼、麻巳子は一人で、自分の力で世に出ようと思っているんだ。きっと彼女なら、世界を拡げていけるだろう。
「惣兄ちゃんは、護廷十三隊の隊長になるの?」
「ああ。」
藍染は優しい笑顔で答えた。
「本当はそれを超えていければいいと思っている。」
藍染は、まだ何の野望も抱いていなかったというのに、何故かそう答えた。
「隊長を超えるの?偉い人になるんだね!すごい!頑張って!」
麻巳子は再び明るい笑顔を取り戻した。
「お互いに頑張ろう。」
「うん!でも…。」
「でも、どうしたんだい?」
「私は教えてもらってばかりで、惣兄ちゃんに何もしてあげられない…。」
また麻巳子は悩み深い顔つきになった。
「君が元気で輝き続けていてくれればそれでいい。君は僕の輝ける星、だ。」
藍染が気取った表現をしたことで、自尊心を満足させられたのか、麻巳子はたいそう嬉しがり、喜び、弾んでいた。
「ありがとう、惣兄ちゃん!何をしてもらったよりも嬉しいよ!」
その笑顔を、いつまでも見ていたかったが、やがて日が暮れて別れるように、数年のちには別の道を歩んでいた。しかしそれまでの間に、二人は男女だとか年齢だとか身分だとか、そうした垣根を越えた絆を結んだのであった。
美しい子供時代の思い出―それは何物にも勝る宝物である。
その相手がお互いであったことを、二人は心底ありがたく思った―。