深遠なる夢の淵にて
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意識が覚醒すると、典坐はうす暗い空間に立っていた
曖昧な感覚を覚える中、自身の現状を確認しようとすると、少し離れた先に仄かに光が見える
『———また怪我をしたんだね、典坐』
『大した怪我じゃねぇーし』
『喧嘩っ早いのは誰に似たんだか』
『そんなの姉ちゃんだろ。だって、俺は姉ちゃんの弟だから』
光が浮かばせたのは、まだ幼い少年とその子供より幾ばくか年上の少女だった
それが小さいころの自分自身と自分の姉だということを典坐はすぐにわかった
『姉ちゃんはこんなに頻繁に怪我なんてしてないよ。ほら、怪我を見せて』
少し呆れた口調で言った後、少女は弟の前に屈み、その傷口へと手を添える
すると、そのたおやかな掌の内側から優しい光が溢れてみえた
『やっぱ、姉ちゃんってすげぇ』
『だからって、わざと怪我したら駄目よ』
『わかってるよ!』
小さな傷口だったが、光の膜が隠したかのように、その傷口は消えていった
その変容に少年は破顔し、姉の顔を仰いでいた
弟が喜ぶ姿に姉である少女も笑った気がした
姉ちゃんは、特別だった
俺とは違って博識で、洗練されていて、心優しい故に授かった稀有な力
天女が実在するならば、きっと姉に似ているのだと思う程、姉は特別な存在だった
なのにどうして、あんな目に逢わなければならなかったのだろうか
まるで劇を見ているかのように二人を見守りながらそう思っていれば、空間に突如怒声が轟く
『———!!気味が悪いソレをまた使いやがって!!』
暗闇から生まれた黒い大男が無情な視線で二人を見下ろしながら罵声を浴びせだす
忘れたくとも、身に染みて覚えているその声に、典坐は怒りを覚えた
『この……』
やめろ!それ以上言うな!!
続くであろう言葉を封じるために、典坐は声を荒げた
けれど、自身の声は出ることなく、まるで恐怖に竦んでいた幼い頃の自分になったように身体は動かなかった
『 化け物 』
二度と聞かせたくなかった呪いの言葉が放たれた時、典坐の耳を誰かが塞いだ
その感触が触れただけで、目の前に現れた人が誰か容易に想像できた
「…姉ちゃん…」
顔を仰げば、大事な人が柔らかく微笑んだ
靄がかかったように顔は思い出せないのに、その温もりは姉だということはわかった
「姉ちゃんは、化け物なんかじゃねぇよ」
耳を塞いでいた掌に手を重ね、姉の温もりを感じながら、空間に木霊していた男の呪いを否定した
「姉ちゃんは特別なんだ。だから皆には出来ないことが出来…視えないモノが視えるんだ」
癒せる力、そして常人には捉えることができないモノを視ることができる瞳
その力を持つ姉は、典坐にとって自慢だった
けれど、周りはそうじゃなかった
もちろん、賢い姉が力をひけらかすことはなかったが、視えないモノを視ることができる姉の行動を他者が理解することはなかった
父は特にそうだった
悪いことがあれば、全て姉のせいにし、罵倒するのが日課だった
「俺も視えたら、姉ちゃんを独りにしなかったのに…」
弱くて、小さくて、何も持っていない自分
せめて同じ景色を視れていれば、独りにしなかっただろうか
「 典坐 ——— 」
愛しい人の唇が自分の名を奏でる
「 ——— 私は、典坐が生きているだけでいいの… だから ——— 」
愛しい人が自分を見つめ、自分の名を紡ぐ
それだけで満ち足りるというのに、彼女の手が自分の手からするりと離れただけで、典坐は肝が冷えるのを感じた
「 生きなさい、典坐 」
凛とした声色と清廉とした立ち姿
琥珀を煌めかせた姉に典坐は手を伸ばした
「姉ちゃん!!姉ちゃん、行かないで!!」
先ほどとは違い、声の限り叫んだ
「行っちゃダメだっ!!…姉ちゃん!!」
光を湛えた姉は典坐の叫びに振り返ることなく、深い闇の彼方へと吞まれていく
それ以上行けば、姉の光が砕かれるのを典坐は想像できた
いや、その遠い記憶を思い描いてしまった
そう、俺のせいなんだ
俺のせいで、姉ちゃんは…
忘れることのない悪夢に典坐は息が苦しくなる
あれから何年経とうと、忘れられない情景
忘れてはいけない俺の罪
なのに、何故大切な人の顔を、声色を、想いだせないのだろう
いや、もしくはこれが罰なのか———
だとしたら、なんて残酷な罰なのだろうか
「……神様や仏様がいるなら…お願いだ…」
俺はどうなってもいい
だから姉ちゃんを———
あの時と同様に暗闇で蹲ったまま、典坐は懇願する
それが誰かに届くことはない祈りだということはわかっていた
わかっていた、なのに———
「 典坐 」
何とも言えない優しい声が頭上から降ってくる
いつもと違うその声に恐る恐る顔を上げれば、その人が再びそこに立っていた
「っ—————!」
声にならなかった
顔を上げれば、求める顔が典坐の瞳に映った
「…ねえ、ちゃん…っ」
靄が晴れ、その凛とした、けれど柔和な表情が典坐を見つめてくる
「悪い夢でも見てたの?」
幼いころのように優しく頭を撫でてくる仕草に典坐は目頭が熱くなるのを感じた
「っ———そうだよ…ずっと、悪夢を見てたんだ……姉ちゃんを思い出せない夢を…」
「私を思い出せないのがそんなに辛かった?」
「当たり前だろ…」
涙をぐっと堪えている典坐に対して、姉は困ったように微笑むと襟元からソレを出してこう言った
「大丈夫だよ、典坐。例え思い出せなくても、私たちの絆が途絶えてしまうわけじゃない」
首元に下げた煌めくそれを持つ姉に釣られ、典坐も胸元から歪なソレを出す
「この琥珀がいつだって、私たちを繋いでる。例え離れても、私は此処にいるよ———」
典坐が持つ片割れの琥珀に触れながら、今までにない穏やかな瞳を姉は典坐に向けていた
「———俺もいるよ。ずっと、姉ちゃんの傍に…」
愛しい人の眼差しを受け、典坐はそれに応えるように笑みを浮かべた
典坐の言葉と彼の表情に満足したのか、姉は光の粒子と化していく
その淡い光に包まれ、典坐の意識は微睡へと溶け込んでいった
深遠なる夢の淵にて
ようやく思い描けた姉の顔と声は、俺の願望によって描かれたものだったのだろうか