きっとこの夜から逃げられない
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静寂な夜に明かりを灯した店の中は、人の声で賑わっていた
目の前には空になった徳利を幾つも転がし、その中に混じるように顔を赤くした男が机で伏せつつも酒を注いでいた
「この間の娘なんて、すごーく善がってくれちゃってさぁ」
「そういう話は、せめて小さな声で話してくれ。十禾」
「士遠てば、かたいなぁ。小さく話しても、興味ある人は聞き耳立てちゃうもんだよー。ねぇ、お兄さん達もそう思うでしょう?」
自らの夜の営みを酒の肴にして一人で嬉々としていた十禾が隣の机の男客たちを見やる
横目でこちらの様子を伺っていた男たちは十禾の話を盗み聞きしているのがばれてか、すぐに視線を反対側へと逸らしていた
「興味あるならこっちに来なよー。なんなら、俺の寝屋に来ちゃっても…イタッ!ちょっと士遠、何するのさぁ」
「お前がふざけたことを口にするからだ」
「だって、士遠が俺の話に生返事でつまらないんだから、他の子に話しかけても仕方ないでしょ」
何処か艶やかな表情で近くに座る客を誘惑しようとした十禾の頭を軽く小突けば、大げさに十禾は痛がる演技をした
飄々とした男のわざとらしい演技に士遠は「はぁ…」と思わずため息が漏れる
「俺の話がお気に召さないならさ、士遠はどうなの?」
「どうとは?」
「そりゃあ、気になる相手だよ」
十禾に問われた士遠は、思わず脳裏に焼き付いていた先日の『色』を持った存在を思い起こしてしまった
すると、その一瞬の間を見逃さなかった十禾が身を乗り出して問いただしてくる
「え?とうとう士遠にも春が来ちゃった?誰々?」
「いや、そういう意味の相手ではない」
「えー、本当かな?正直に教えなさんよ。このおじさんが聞いてあげるからさぁ」
「この話はお終いだ。そろそろ「姉ちゃん、お酌するくらいいいだろ」」
茶化す気満々でいる十禾を止めるためにも今日はここでお開きにしようとした時、入り口付近の席から店全体に大きな声が響いた
「あらあら、酔いどれに絡まれちゃってるね」
十禾の視線の先を追えば、明らかに酒に飲まれたような巨体の男らが店の出入り口付近で店の娘に絡んでいるようだった
「あ、あの…わたし…っ」
「なんだよ?オレに酌するのが嫌なのかよ?!」
「ひっ…!」
一目で素行が悪そうな男は、ダンッ!!と熊のような掌で近くの机を叩く
その弾みでその席に置かれていた茶器が落ち、娘も恐怖で竦みあがっているのが見て取れた
「…だれ、か……」
小さく震えた娘が周りの他の客に救いを求めるように視線を泳がすが、誰一人視線を合わせようとしない
屈強そうな男の体格に周りの者が全員恐れをなしているのが見て分かった
皆、巻き込まれたくないのだ
それを感じ取った士遠は、自身の刀を手に取り立ち上がろうとするが、それよりも先にとある声が室内に響いた
「———ねぇ、おっさん。零れたんだけど」
乱暴者共とも、娘の声とも違う、よく通る声に全員の視線が動く
「ぁあ?オレに言ってんのか?小僧!」
「自分がしたことも理解できないの?お陰で料理も台無しなんだけど、弁償してくれる?」
茶器を落とされ、料理も水浸しにされた机に座っていた人物が手に持っていた串を男に向けている
「馬鹿にしてんのか…?」
「さぁ、どうでしょう?少なくともお酒に呑まれる程飲む人を賢いとは思わないけど?そのうち、転んで怪我をしないように気を付けてね、おっさん」
わざと神経を逆なでするような微笑み
そして、士遠だけに視えた、あの『色』
ただ一人、男たちに喰ってかかったのは典坐の知人———その人だった
「っ!てめぇ!!」
男の巨体が怒りに震え、拳が相手の顔を襲おうとした
誰もが馬鹿な奴だと思っただろう
だが、士遠は少なくとも違った
「っ!!————」
「あ、あにき!!」
「手に、、串が…!」
「よ、よくも刺しやがったなっ!」
男が振りかぶった瞬間、何かに躓いたかのように男の重心が揺れ、咄嗟のことに体制を直すことができなかった男は、机の方へと倒れてしまった
そして無意識に受け身を取ろうとした男の掌が落ちた先は相手が持っていた串であり、見事、それは男の分厚い掌を貫通していた
「だから言ったじゃない。転倒注意って」
汚れた机から立ち上がり、彼らの戯言を聞き流しながら男たちに囲まれていた娘の元に駆け寄っていく
「はい、お愛想様」
「えっ?…あの…っ」
「それじゃあ、皆さん、さようなら」
代金を娘の手に握らせるついでに彼女を男たちから引き離し、その人は入り口で彼らへ挨拶する
それはまるで、娘への関心を忘れさせ、自身への怒りを沸かせるような挑発的な行為だった
「待ちやがれっ―――!!」
ぶつりっと勢いよく突き刺さった串を抜き、血を垂れ流しながら拳を握りしめた大男は、取り巻きを連れたまま、相手を追って店を出ていく
嵐が過ぎ去った後のように、店内は一時静まり返ったが、すぐにガヤガヤとしだした
「いやぁ、なかなかの痛快劇だったねぇ」
「———悪い、私は先に帰らせてもらう」
「やめときなよ、士遠……て、聞いちゃいない」
十禾が止める間もなく、士遠はあの一味を追うように店を出て行ってしまった
その背中を見送りつつ、徳利から酒を注ぎ、十禾は先ほどの者を水面に浮かべる
「あの“お嬢さん”…俺と同じで視えちゃってるのかなぁ」
だとしたら、愉しそうだ―――
酒と飲み込んだ言葉は、誰にも聞こえるわけはなく、十禾は一人酔いにふけった
士遠が追いついた時、やはり一味とあの人は人通りのない場所にいた
大男と取り巻きは、相手が逃げられないように道を塞ぎ、相手を恫喝する声が士遠の耳に届く
「———おい、あのまま無傷で帰れると思ってたのか?」
「自分から暗闇に行くだなんて馬鹿な奴だな」
「大人しく金目の物を出せよ」
「まぁ、出してもアニキがそのまま返すわけねぇけどな!ねぇ、アニキ!」
「ああ、オレの手をこんな風にしやがったんだ…ただじゃおかねぇっ!!」
子悪党のような台詞を聞いてか、気だるげに相手が静かにため息をつく
「あんま舐めてんじゃねぇぞ、ガキがっ」
それを知り、主犯格の男が相手の首を掴んだ
「……馬鹿ね」
「っ…!」
大男の指が華奢な相手の首を締め上げる
けれど、そこに力が加わっていないかのように相手は何の苦も感じていない声を出し、その眼で男を―――一味を見下ろした
刹那、士遠は咄嗟に飛び出していた
「———そこまでだ!」
わざとらしく刀をチラつかせれば、相手は士遠が侍であることを認識する
「先ほどの店でのことは私も知っている。そちらの者に無暗に手を出せば、お前たちはお縄につくことになるだろう」
「…侍だ…」
「アニキ…」
「…ちっ」
刀を持った侍相手に事を構える程、一味は愚かではなかったのだろう
状況を把握し、渋々ではあるが大男は締め上げていた相手を解放する
先ほどまで束縛されていた人は、不思議そうにその『色』を宿した眼で士遠を見つめていた
「——— さぁ、こちらへおいで 」
淡く、儚く、そして力強いその美しい眼
無遠慮に近づけば、消えてしまいそうな気さえし、士遠は野良猫を呼ぶかのように手を差し伸ばした
相手は士遠の顔と手を交互に確認した後、大人しくその手を掴んでくれた
「では、私たちは失礼させてもらう」
自身より一回り以上小さなその手を掴み、士遠は一味に背を向けた
だが、それを待っていたと謂わんばかりに背後から殺気が襲う
「————っ」
「はいそうですかって引き下がるわけがないだろ!!覚悟しやがれ!!」
「…そうか…ならば、仕方ない」
「がはっ―――!!」
紙一重で拳を躱した後、士遠は頭に血が上った相手の脇腹に潜り込み、峰打ちを送る
重い一撃を浴び、男が嗚咽して倒れ込んだ
「峰打ちだ、死にはしないように手加減はしている。だが、まだ向かってくるなら容赦はしない」
「ひっ―――っ!!」
刀に手を添えたまま低い声で言えば、彼らはそれ以上こちらに向かってこようとはしなかった
彼らの戦意が完全に喪失したのを確認した後、士遠は再び華奢な相手の手を掴み、その路地裏から抜け出した
「———大事ないか?」
「全然、平気だよ。助けてくれてありがとう、お侍さん」
光が灯る大通りに出て少し歩いた頃、相手の無事を確認すれば、「ほら」と先ほどまで締め上げられていたはずの首を確認させられる
不思議なほど、そこには何一つ絞められた痕跡など残っていなかった
「にしても、あの状況で助けてくれるだなんて、お侍さんも物好きだね」
「元々、君が先に娘さんを助けなければ私が間に入るつもりだった。何より、あのまま私が入らなければ、“彼ら”が可哀そうな気がしてね」
士遠の含みある言い方に、相手の『色』が灯のように揺らめく
今目の前にいる相手の手助けに入ったのも事実だったが、士遠が咄嗟に間に入ったのは、あの時、この人物から殺気とは違う―――どこか凍てつく様な異様な空気を感じたからだった
「……もしかして、“みえてる”の?」
相手が言うのは大男の足を縺れ(もつれ)させた時に視えた“波”のことか、それとも別の何かだろうか
少なくとも士遠が知る“波”以上の何かを相手が持っていることを士遠はあの異様な空気から察した
そしてそれについて下手に触れることはするべきでないことだと侍の勘が教えていた
「生憎、見えないのは生まれつきさ。だが、“目利き”には自信があるんだ」
「———ふふ、それ冗談のつもり?笑えないよ」
「その割には笑ってくれてるようだが」
「面白いというか、見た目と違って愛嬌あるな、と思って笑ってるだけ」
士遠にとって十八番である“目”の冗談を言えば、否定をしつつも相手は楽しそうに声を漏らす
久しぶりに道場以外の者にも笑ってもらえ、士遠も満足げに笑みを浮かべた
「それに、君1人でどうにかできたかもしれないが、やはり“女性”だけに任せるのは男として見過ごすわけにはいかないと思ってね」
「へぇ…それって、お店の時に私が女性って気づいていたってことだよね。“目利き”に自信があるって本当なんだ」
耳に掛けれるくらいに短く揃えた髪と男物の服装
少し話したくらいでは女性とはわからないだろうが、波で世界を捉える士遠にとっては、違いは歴然であった
「ああ、もちろん。“夜目”も効くからこの通り逃げられたわけだ」
「その手の冗談が本当に好きなんだね、お侍さん」
立て続けの士遠の冗談に、まだ名も知らない典坐の知人である彼女は、この世界でただ一つの光を士遠に向けて微笑んだ
きっとこの夜から逃げられない
その光を真正面から受けた時、彼女の姿に何故か自身の愛弟子が重なった