もう苦しくて名前すら呼べないんだ
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太陽が空に昇り切る頃、典坐は城下町から離れた山奥から竹籠を背負い、一つは手で抱え、山道に沿って歩いていた
竹籠には多様な山菜や薬草が顔を覗かせており、山菜とはいえ結構な重みが典坐に圧し掛かっていた
「素直に一つ譲ってくれてもいいのよ、典坐くん」
「大丈夫っす!自分、力には自信あるんで!それに、女性に持たせるわけにはいかないっすから」
数歩前を歩いていた彩雲がくるりと振り向き気遣ってくれたが、これだけは譲るわけにはいかないと典坐は籠を死守した
「にしても、いつもこうやって1人で山に登って取りに行ってるなんて、彩雲さんすごいっすね」
彩雲は時折山に登っては、山菜や薬草を採取しているとのことだった
それを聞き、興味本位もあって典坐は彼女についてきた次第である
それゆえ、彼女が山にも慣れ、これくらいの荷物も苦でもないことは容易に想像できたが、だからと言って女性に持たせるのは典坐の信条に反することだった
「私は体力に自信があるし、慣れてるから。それに薬になるものも手に入ったりして、結構いいお金になることもあるんだよねぇ」
「悪い顔になってるっすよ、彩雲さん」
「お金は大事よー、典坐くん」
「まぁ、事実すよね」
わざとらしく悪名代官のようにほくそ笑む姿に典坐の口元も緩むが、お道化て“金が大事”だと言った彼女の言葉には心底同意した
そして、こうやって日銭を稼ぐ彩雲が今までどのように暮らしてきたのかも気になっていたが、典坐が深く聞くことはなかった
貧民に理解があるとは言え、知識も教養も身についている彩雲は、それなりの―――少なくとも昔の典坐とは違う生活を送ってきたのだろう
だからこそ余計に聞くことができなかった
聞けば、自分の悪行の数々も話す必要が出てくる気がして―――
「あ…―――」
「アヤメだね」
山道の脇に紫色が揺れているのに気づき典坐は足を止めた
典坐の様子に気付いて彩雲も歩みを止めて、それを確認する
ああ、そう言えば昔————
「欲しいの?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんすけど…ちょっと懐かしくて。昔オレ、アヤメ触って手がかぶれたなーって」
長い茎の先から3つの紫の花弁を揺らすアヤメにぼんやりと遠い記憶が浮かびそうになり、典坐は一瞬口を止めた
「ああ、でも先生は花が割かし好きすから、持って帰ったら喜ぶっすかね」
だが、それ以上思い出すことをやめるように、尊敬する師匠のことを言う
すると、彩雲は山菜などを種類ごとに分けるために入れていた竹筒を一つ取り、その中に飲み水を少しばかり入れるとアヤメを3本添えた
「きっと、その先生も喜んでくれるよ」
「そうっすね。なんたって先生、花も山菜も好きなんで―――」
自身の代わりにアヤメを取ってくれた彩雲に典坐は目を細め、心中で人知れず何かを思った後、彼女と共に帰路につくことにした
山菜を持って帰れば、先生は案の定喜んでくれた
「———それにアヤメか。典坐が花を贈ってくれるだなんて、珍しいな」
「ついでっすよ」
「すまないが、この花は私の書斎に活けておいてくれ」
「―――!あの、先生!」
山田家を通して雇われた奉公人に山菜の調理を頼んだついでにアヤメを渡そうとした士遠に、少し照れ臭そうに典坐は頼んだ
「…一本はオレが貰ってもいいっすか?」
「典坐…熱でもあるのか?」
「失礼っすね!先生!そりゃ、オレは花が好きってわけじゃねぇけど…」
「すまない、冗談だよ。それじゃ、一本は典坐の部屋に飾ってあげてくれ」
柄にもないことを言えば、物珍しいモノでも見るかのような反応をされ、ジト目となってしまう
士遠は言葉では謝りはするものの、表情は緩んでおり、ジト目で見られることも気にしないまま、奉公人にアヤメを渡していた
部屋の片隅に置かれた机の上に咲く一輪の花
風に揺られた揺蕩う花弁の姿は、可憐で健気だった
昔は、こんなに綺麗じゃなかったな
アヤメを見つけた時に浮かんだ記憶の破片を探る
もう、随分と昔のことだった
当時手に入れたアヤメは、今目の前に置かれているアヤメとは違い、ずいぶんと萎びていた
それもそのはずで、幼い自分は無造作に花を摘み取り、水につける考えもなく握りしめているだけだった
そのせいで、花は短い時間で元気をなくし、自身の手が荒れたことは忘れもしない思い出だ
それでも、見たかったんだよな…―――
アヤメから視線を外し、典坐は胸元を探る
襟下から取り出したのは、研磨されることもなく歪な形をした琥珀だった
人為的に割られたと思われる側面が蝋燭の炎に照らされて黄金色の光を反射する
―――…あの人の、笑った顔が
萎びたアヤメを受け取って、微笑んでくれた人
もう、顔さえ曖昧になるほど、逢えていない
ただ覚えているのは、あの人の名前とその瞳
自分よりも明るい―――この琥珀に似た綺麗な瞳
決して忘れることはない、愛しい色
「…そろそろ、寝ないとな…」
息を吹きかければ蝋燭の火が消え、そのまま部屋に敷かれた布団へと横たわった
「——— おやすみ、姉ちゃん 」
琥珀に宿る魂を想い、典坐は瞼を閉じた
もう苦しくて名前すら呼べないんだ
貴方を通して別の人を視ているだなんて、言えるはずがない