赦しの聲はきっとさざ波に似ている
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日差しが西の彼方に傾く頃、玄関から訪問者の声が士遠の耳に届く
昨日から士遠の家に奉公に出向いていた者は帰省しており、家の中に一人残っていた士遠は声の方へと向かった
「——— 士遠さん」
「彩雲さん…?」
少し息を切らせ、その色を灯した瞳が士遠を仰ぐ
声と気配で想像していたとは言え、その想像していた人物———彩雲が自身の家を訪ねてきていることに士遠は少なからず驚いた
「ごめんなさい、勝手にあがって」
「いや、問題ないよ。それより、いったいどうしたんだい?」
だが、それよりも玄関に腰を掛け、何処となくぐったりとしている愛弟子に士遠の意識は向かう
「すみません、先生…俺…ケホケホッ」
「典坐くん、少し熱があって。夏風邪だとは思うんですけど」
その言葉と典坐の様子で状況を把握した士遠は、典坐の傍へと屈む
「典坐、立てるか?」
「大丈夫っすよ、先生。そんな大したことじゃないんで」
白い歯を見せて破顔する典坐だったが、その頬は普段とは違い赤く染まっていた
士遠にはその色の様子は見えはしなかったが、彼の波が朝よりも格段に乱れているのが見て取れた
「ちゃんと自分で歩けるっすから…っ」
「典坐!」
だが、典坐は二人に心配を掛けないために勢いをつけて立ち上がり自分の足で歩こうとしたが、彼の思いとは裏腹に身体はふらりとよろめく
それに瞬時に反応した士遠は彼の肩を支えると、一つ息をついた
「無茶をするな」
「…先生、すみません」
「士遠さん。とりあえず部屋に連れていきましょう。私も手伝うんで」
「助かるよ、彩雲さん」
典坐の顔を心配そうに覗く彩雲の申言に彼女が女性であることを考えると断るべきかとも考えた士遠だったが、今は典坐の体調を優先するべきだと考え、その提案を受け入れた
典坐を支えて廊下を歩き、彼の部屋に到着すると、士遠に教えてもらった彩雲が布団の支度をした
「典坐くん、着替えられる?手伝おうか?」
「着替えくらいできるっすから…!」
「喋れる元気があるから大丈夫そうね。士遠さん、井戸ってどこにある?」
「案内するよ。典坐、無理そうならすぐ言うように」
「先生まで…本当、大丈夫っすから。着替えは自分でさせてくださいっす」
着替えを受け取った典坐からひとまず部屋から追い出された後、士遠は彩雲と井戸へと向かった
「———彩雲さん。私と典坐の関係は知っていたのかい?」
「うん、知っていたよ。だって典坐くん、“先生”の話をよくするから。ああ、でも、典坐くんは私が士遠さんと知り合いだなんて知らないと思うよ」
きっと内心、不思議に思っているだろうね、と彩雲は少し可笑しそうにそう言った
「だが、よく“先生”というのが私だとわかったね」
典坐が士遠を慕っていることは士遠自身も自覚はしていた
だが、典坐が例え“士遠先生”と名前まで言っていたとしても、すぐに自分のことだと結びつくだろうかと不思議に思っていれば、彩雲は当たり前のように答えた
「そりゃ、『盲目で誰よりも腕っぷしが強くて、すっごい“粋男”な人』って全国探しても士遠さんくらいだもの」
「っ———…典坐がそう、貴方に言ったのか?」
「そうだよ」
「はぁ、全く…典坐は私を過大評価しすぎるんだ」
「あら、そんなことないよ、士遠さん」
確かに典坐はことあるごとに士遠を褒めてくるが、まさか外の人間にまでそのように自身のことを説明しているのかと思うと士遠は恥ずかしさの余り深いため息を吐いた
そして、気を紛らわすかのように井戸の水を汲んで、その水を彩雲が持つ桶に入れれば、桶の水を通して彩雲の瞳と目が交わった
「 士遠さんは、誰よりも素敵な人だよ 」
水越ではなく、今度は直接その瞳が士遠を映し込む
その何も飾ることのない声が率直過ぎて、士遠は心臓が高鳴るのを感じた
「水はこれくらいあればいいだろうし、そろそろ典坐くんも着替え終わっているだろうから戻ろうか、士遠さん」
「……」
「…士遠さん?」
思わず意識が上の空へとなっていた士遠は、自身の顔を覗き込んできていた色に気付いてつかさず我へと返った
「っああ、すまない。水は私が持とう」
「いいのに」
「ただでさえ手伝ってもらっているんだ。何より女性に持たせて、私が持たないわけにはいかないよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。お願いします、士遠さん」
彼女の手から桶を貰うと、士遠は少しだけ足早に典坐の元へ向かった
「……本当…“先生”は優しい人だね…————」
心なしか顔が熱いのを感じながら歩く士遠に、背後で囁かれた声は届くことはなかった
部屋に戻れば、典坐は着替えを済ませてはいたが、布団に横になることなく二人を待っていた
「ケホケホっ…彩雲さん、迷惑をかけて申し訳ないっす。もう大丈夫なんで、彩雲さんは帰って下さい。先生もうつったらいけないんで、俺のことは気にせずゆっくりしていて下さい」
「何言ってるの?そんなこといいから、病人は大人しく床についていなさい!」
礼儀を重んじようと、横になることなく待っている典坐の姿を捉えた瞬間、横にいた彩雲は歩みを進めて典坐の肩を掴み、半強制的に布団に寝かせようとしていた
「わわっ!!わ、わかったっすから、彩雲さん」
「じゃあ、早く布団に入って!」
「はい!」
「水分は取っときなさい!」
「はいっす!」
このまま押し倒されるような気がした典坐は、彩雲の手を何とか止め、素直に布団へと入っていった
その後も、水を勧められれば素直に水を飲む典坐の姿に、風邪をひいている典坐には悪いが、二人のやり取りが微笑ましいと士遠は思った
「あとで新しいお冷と食べれそうなもの持ってくるから、布団で休息しとくように」
「わかったっす…」
「よろしい。それじゃあ士遠さん、私たちは席を外しましょう」
「そうだね。典坐、何かあればすぐに呼ぶように」
「うっす…」
布団を被った典坐の表情は、『俺、ガキじゃないんすけど…』とでも言いたげな顔をしており、それを見てから士遠は彩雲と共に部屋を移動した
「———彩雲さん、ありがとう。ちょうど家のことをしてくれている人が帰省していて、私と典坐の二人だけだったんだ。目が見えない私だけでは、十分に世話ができなかっただろうから、彩雲さんがいてくれて助かるよ」
「士遠さんなら、なんでも器用にできそうだけどね」
「そんなことないさ」
「ふふ…まぁ、大したことができるわけじゃないけど、典坐くんのことは任せてね、士遠さん」
「頼むよ、彩雲さん」
何気ないやり取りをしつつ、二人をお互いの顔を見つめながら、表情を和らげた
その後、半刻毎に典坐の様子を見ては、士遠と彩雲は何気ない会話をした
お互い顔見知りとはいえ、逢った回数は数える程であり、今日までお互いの名前以外を知ることはないはずだったが、不思議と会話は弾んだ
それは典坐が二人の縁を結び付けているためでもあるのか、少なくとも士遠にとっては心地よい空間となっていた
——— まるで昔から知っている知人と話しているような
そう錯覚してしまいそうになるほど、彩雲の声や話し方、表情、仕草は不思議な感覚を士遠に覚えさせていた
もちろん、彩雲と会ったのは最近であるのは間違いなかった
何故なら、この美しいと言わずにいられない色を持つ人を視たのは、彼女しかいないから
万に一つ、逢ったことがあるならば、忘れるはずがない
それほど、その瞳に宿る色は士遠にとって衝撃的だった
「———典坐くん…よかった、寝てる」
静かに寝息をたてる典坐の音を聞いて、彩雲は安堵したように目を細めていた
そして、典坐の体温で仄かに温まった濡れた布を静かに取ると、桶の水で濡らしなおし、彼女は典坐の眠りを邪魔しないように優しい動作で彼の汗を拭っては、額を冷やしてあげていた
彼女は、典坐のことがそれほど大事なのだろうか
典坐の看病をする彩雲の横顔には、相手を思いやる色以上のモノがあるように士遠には視え、士遠はそれに対して『 よかった 』と心の中で口にした
愛弟子をこれほど大事にしてくれる人が道場以外の者で存在する
そのことが嬉しくもあり、なのに胸が痛む
きっとそれは、自身の手で命を奪った、弟子の存在が頭を掠めたせいなのだろう
「水は私が替えてくるよ。彩雲さんは、典坐の傍にいてあげてくれ」
「ええ」
そう言って、背後で二人の気配を感じながら、士遠は再び井戸へと向かった
夏の井戸水は触れれば気持ち良い程冷えており、その冷たさを確認してから踵を返す
来た道を戻り、明かりが灯る部屋の付近に近づいた時、ふと男の———典坐の声が耳を掠める
「————…… ねえ、ちゃん……」
静かな夏の夜に響いた言葉に、士遠は無意識に足を止めた
「……姉ちゃん…行かないで……」
熱に魘されているのだろう
典坐の声は、いつもの快活な声ではなく、微かに震えているように聞こえた
彼の境遇を思い返し、士遠は悪夢に苛む典坐の元へ足を進めようとしたが、柔らかな聲に身体の自由を奪われる
「——— …典坐……私は此処にいるよ 」
憂いを帯びた横顔の持ち主は、空虚に手を伸ばす彼の掌に手を重ね、そう言った
赦しの聲はきっとさざ波に似ている
その聲は、弟弟子が最後に出した声色を思い出させた