第5話
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その一言で、二人は真意を悟った。
次の瞬間、赤いコートから伸ばされた手が無言でタッカーに近づくと、胸ぐらを掴んで勢いよく壁に押しつけた。
「がは!」
「兄さん!!キョウコ!!」
「ああ、そういう事だ!!」
「ショウ・タッカー!何て事を!!」
エドは噛み殺すような目つきで、息を詰まらせるタッカーを睨みつけて自身の家族を合成獣の代価として使った事実をぶちまける。
「この野郎…やりやがったな、この野郎!!2年前はてめぇの妻を!!」
「そして今度は、ニーナとアレキサンダーを使って合成獣を錬成した!!」
一度目は自分の妻を……そして二度目は、幼い娘と飼い犬を代価にして。
生体錬成を専門とする錬金術師として、越えてはいけない一線を二度も越えた男。
「………!!」
目の前にいる合成獣と二人の言葉を繋げ――アルは言葉を失った。
にわかに信じがたい状況。
「そうだよな、動物実験にも限界があるからな。人間を使えば楽だよなあ、ああ!?」
結果を追い求めすぎたタッカーは掴まれ、睨まれ、怒鳴られながらも、狂気のような眼差しを向けて首を傾げる。
「は…何を怒る事がある?医学に代表されるように、人類の進歩は無数の人体実験のたまものだろう?君も科学者なら…」
「ふざけんな!!こんな事が許されると思ってるか!? こんな…人の命をもてあそぶような事が!!」
エドはすぐ後ろで、先程から身体を震わせるキョウコの顔を窺うことはできなかった。
彼女の顔が痛々しく歪むところを見たくなかったから。
直後、タッカーの狂った爆笑が耳を襲った。
「人の命!?はは!!そう、人の命ね!鋼の錬金術師!!君のその手足と弟!!そして、彼女の髪と瞳の色!!それも君が言う"人の命をもてあそんだ"結果だろう!?」
その言葉に、ブチィッ、という血管の切れる音がした。
エドは右の拳を振り上げ――鋼の義肢である機械鎧で殴った。
「がふっ…はははは、同じだよ、君も私も!!」
右腕が機械鎧である拳に殴られ、口許から血が滴り落ちる。
「ちがう!」
エドが否定すればするほど、タッカーはその反応すら楽しむように返してくる。
もう、あの穏やかな面影はない。
「ちがわないさ!目の前に可能性があったから試した!」
「ちがう!」
「たとえそれが、禁忌であると知っていても試さずにはいられなかった!ごふ!!」
「ちがう!!」
エドは何度も何度も殴り続け、そして、うわ言のように続ける。
「オレたち、錬金術師は………こんな事………オレは…」
殴られたことで噴き出した血は、彼の額や頬に付着する。
怒らせた顔で荒い息を継ぎ、タッカーを殴る、しかしその顔は、悲しみに崩れていた。
「オレは…!!」
一際大きく右腕を大きく振りかぶった時、キョウコが彼の手首を掴み、アルが静かに言った。
「兄さん、それ以上やったら死んでしまう」
悔しさか、悲しみか、怒りか、自身でも判別のつかない感情を爆 ぜるエドは、やっと落ち着きを取り戻したに見えたか、ぐっと唇を噛みしめてうつむいた。
キョウコが首を横に振ると、エドはようやく手を離した。
胸ぐらを掴む手を離すと、締めつけに解放されたタッカーは床に座り込む。
「はは…きれいごとだけで、やっていけるかよ…なぁ、氷刹の錬金術師」
その声に、アルと共にエドを連れていくキョウコの足が止まった。
「君の錬金術を見せてもらった。氷…そう、氷だ。思い出したよ。黒髪と黒い瞳、身に纏う黒衣のようなコート。そして、扱う錬金術は氷――人々は君のことを、なんて呼ぶ?」
「タッカーさん」
キョウコが振り返った。
その眼差しは、絶対零度の殺意。
冷ややかで、苛烈な。
「それ以上喋ったら、今度はあたしがブチ切れる」
常であれば、人を魅了してやまない凛々しい響きが、絶望をもたらす裁きを運ぶ。
たった一人の華奢な少女を前に、タッカーは、ぐ…と押し黙った。
アルはしゃがみ込み、両手で包み込むように合成獣を撫で、声を引きつらせて謝る。
「ニーナ、ごめんね。ボクたちの今の技術では、君を元に戻してあげられない。ごめんね、ごめんね」
「あそ、ぼう。あそぼうよ。あそぼうよ」
合成獣の抑揚のない声と雨の降る音が、屋敷に虚しく静かに響いた。
ロイが担当する東方司令部にも、家族を使って合成獣を錬成した残酷な事件が知れ渡った。
キョウコからの報告を受けたロイはすぐさま行動し、早足で廊下を歩く。
「すまない、キョウコ。私がタッカー氏を紹介したばかりに、このような事になってしまって」
「大佐が謝る事ではありません。タッカーが合成獣を錬成した、その場に居合わせた担当者が少しでもおかしいと察知できなかったのが悪いんですから」
軍人に向けて、国家錬金術師に過ぎない彼女がこのような口を聞くのは本来ならば言語道断のはず。
ロイは気にしたふうもなく、後に続く冷静沈着な部下へと視線を移す。
リザは一度だけ、微かに首を左右に振って神妙な面持ちでいる。
「…もっと早く気づくべきでした。最初に合成獣が発した『死にたい』と言葉。彼に関する資料に目を通して、ニーナの話を聞いていれば……」
下を向いたまま、キョウコはつぶやく。
前髪が影になり、彼女の表情はわからない。
全ては研究のために。
実の家族を代価として合成獣を錬成するとは、キョウコも思ってもみなかった。
いつもならば軽口を飛ばすロイだったが、今回ばかりは真面目に目を細めた。
家族を使って合成獣を錬成した残酷な出来事を聞いたリザは、今回の事件を一言で言い表す。
「もしも"悪魔の所業"というものがあるなら、今回の件は、まさにそれですね」
「悪魔か…身もフタもない言い方をするならば、我々国家錬金術師は軍属の人間兵器だ。一度、事が起これば召集され、命令があれば、手を汚す事も辞さず――人の命をどうこうするという点では、タッカー氏の行為も我々の立場も、たいした差は無いという事だ」
「それは大人の理屈です。大人ぶってはいても、あの子はまだ子供ですよ」
東方指令部を出て、階段を降りるロイとリザの会話を、キョウコは無言で聞いていた。
どしゃ降りの雨の中、階段に座るエドの髪を、頬を、コートを、大粒の雫が濡らす。
「だが彼の選んだ道の先には、おそらく今日以上の苦難と苦悩が待ちかまえているだろう。むりやり納得してでも、進むしかないのさ」
「今更、何を言うんですか」
キョウコは顔を向けなかったが、その美貌は険しく歪んでいた。
そして、階段に座り込むエドとアルのもとに辿り着く。
「そうだろう。鋼の」
「いつまで、そうやってへこんでいる気なの」
「……うるさいよ」
「軍の狗よ、悪魔よとののしられても、その特権をフルに使って、元の身体に戻ると決めたのは君自身だ。これしきの事で、立ち止まってるヒマがあるのか?」
淡々と紡がれる、相手の拒絶を考慮の内に入れない言葉に、エドはコートの袖を強く握りしめ、絞り出すような掠れ声で反論する。
「『これしき』……かよ、ああそうだ。狗だ悪魔だと、ののしられても、アルとキョウコと三人、元の身体に戻ってやるさ。だけどな、オレたちは悪魔でも、ましてや、神でもない」
震える足に力を入れ、痛む胸を押さえ、揺れて滲む目を凝らし、様々な気持ちを抱いて立ち上がった。
「人間なんだよ、たった一人の女の子さえ助けてやれない、ちっぽけな人間だ………!!」
全身ずぶ濡れの顔から、まるで涙のように、とめどなく雨粒が流れ落ちる。
不意に、エドが振り返った。
「キョウコは…悲しくないのか!?あんなに、お前になついていたニーナが…」
エドはキョウコも悲しんでいると思っていた。
数日前まで、遊んで、笑って、一緒にいたはずの幼い少女が突然、文字通り姿を変えて現れた。
実の父親に無惨にも命を扱われ、人語を話す合成獣として生み出された。
なのに、キョウコは恐ろしいほどの無表情だった。
「悲しいけど、仕方ないじゃない」
答えは、それだけだった。
「鋼の…っ」
今の問いかけが、少女にとってどんな意味を持っているのか、ロイは気づいた。
口を滑らせまいかという懸念、キョウコに対する難詰への叱責、双方の意味を込めての発言を遮って、彼女は冷厳と言う。
「エド。こんな事で弱音吐くなんて、まだまだ甘いよ」
「なっ……!」
そんなこと言ったって。
じゃあ、どうすれば良かったんだ。
その思いが心の痛みと混ざり合い、エドはキョウコを睨むように見据える。
「だからって、じゃあ、なんだ!?あのまま放っておけばよかったのか…」
エドの言葉がそこで止まったのは、キョウコの瞳がはっきり潤んでいたからだった。
頭を殴られたような衝撃が走る。
「ニーナの事は助けられなくて、悔しいと思う……だけど、前に進むしかないじゃない!助けられなくて、悔しくて、悲しくて、苦しいのはエドだけじゃない!!」
両手でぐいっと引き寄せられる。
キョウコの真剣な眼差しが、目の前で強い輝きを放っていた。
「人を助けようとするのは結構な事よ。それをできる力があれば。他人 を救うのに、自分を犠牲にしないで済む事ができるならね……でも、そうじゃなかったら、無謀な事すべきじゃない」
キョウコはエドの襟首を掴む手に力を増し、肩を震わせた。
「錬金術は奇跡の力。だから、簡単に行きすぎる。エドは昔から才能があるからなおさら。人を助けたいと願うなら、錬金術は力を貸してくれる。危険に飛び込めるだけの力は与えてくれる……でも、エドはまだ未熟だわ」
熱い吐息を間近で感じる。
人の心の奥底を見透かすような声で、鋭く怜悧 な双眸で告げた。
「……キョウコ」
涙は流してないが、キョウコの美貌が一瞬だけ歪み、目許をごしごしこする。
「わかった…わかったから、落ち着きなさい…」
口を挟む暇もない、壮絶なまでの感情を爆発させるキョウコを抱き寄せ、ロイはその艶やかな黒髪に指を絡めて頭を撫でる。
「………」
声が出ない。
出せない。
何を言えばいいのか、わからない。
呆然と佇むしかないエドは、彼女にどう声をかければいいのか、わからなかった。
「…………カゼをひく。帰って休みなさい」
苦しいくらいに強く抱きしめる腕の力と微かな体温に顔を押しつけるキョウコを抱き寄せたまま、ロイは背を向けて二人に言い放った。
すぐさま、タッカーの屋敷には見張りの憲兵が置かれ、厳重に警備体制が整えられた。
樹木と鉄柵で囲まれる敷地の正門前に今、奇妙な男がいた。
この雨にもかかわらず傘を差さず、まっすぐこちらへと歩いてくる。
正門の前に立つ憲兵二人が見とがめて声をかける。
「む…タッカー氏に用事か?一般人は立ち入り禁止になっている。用件があれば…」
その時、男は右手の指の関節を鳴らして、一言つぶやいた。
「通る」
「え?」
それが不運な彼がこの世界で耳にした最後の言葉となった。
外から聞こえる雨音と断続的な雷鳴以外、はっきり聞こえる音もない。
暗い部屋の中、力なく椅子に座り、頬に手当てをされたタッカーは毛布にくるまって、合成獣となったニーナと共にいた。
「なんで誰もわかってくれないんだろうなぁ。なぁ、ニーナ…」
タッカーは自問自答する。
生命を弄ぶ行為に対する背徳感。
神を冒瀆 するような、傲慢な行為。
誰もが忌避するのも無理のない話だった。
だが、それでも生命の神秘探求は錬金術の永遠のテーマだ。
一度その禁断の果実に触れれば、人である以上、そして錬金術師である以上、どこまでも貪欲な知的好奇心はとても押さえきれない。
人が生命神秘の研究の歩を止めることは、もう永劫にないのだろう。
そこに、門前にいた男が部屋に侵入してきた。
色つきのサングラスをかけ、黄色いジャンパーに黒いズボン。
肌は珍しい褐色、額には大きな傷がある。
「ショウ・タッカーだな?」
暗がりから出た人影へと、タッカーはぎょっとして振り向いた。
「誰だ君は」
男は一歩、靴の音を鳴らして確実に近づく。
「私になんの用だ、軍の者…ではないな」
男の表情だけでなく、存在そのものに恐怖を抱き、後ずさろうとする。
しかし、足が言うことを聞いてくれない。
異様なまでの殺気に圧倒され、射竦 められたように動けなくなっていた。
タッカーは、恐怖の中に予感を得ていた。
途方もなく暗く深い、とりかえしのつかないことが起きる、そんな予感を。
「どうやって入ってきた!表に憲兵がいたはずだ…」
二人の憲兵は焦点の合わない視線で、身体の内側から血管が破裂しながら既に息絶えていた。
「神の道に背きし、錬金術師、滅ぶべし!!」
褐色の相貌が、いつしかタッカーの正面にある。
殺意を宿して揺らめく瞳で、踏み込みと同時に右腕が、絶望の端のように、顔面へと伸びる。
刹那、ブシャ、と不快な音と共に、身体の内側からおびただしい血が溢れ出した。
噴水のような流血の勢いは弱まることなく、タッカーは血溜まりの床に倒れた。
流れ出た鮮血が、ニーナの足元に付着する。
少女にとって、ただ一人の父親の死体を黙って見つめ、僅かに唇を動かした。
「………さん、おとうさん」
鼻先を指先こすりつけるニーナの瞳から、涙が伝う。
「おとうさん、おとうさん、おとうさん」
「…哀れな」
視線をニーナに移し、すぐに事情を把握した男は、合成獣の頭に手を添えた。
「この姿になってしまっては、元に戻る方法は無い。せめて、安らかに逝くがよい」
名もなき男の葬送句 が、ニーナがこの世で聞いた最後の言葉となった。
雨は、まだ降り続ける。
男はタッカーとニーナを不可視の方法で殺害すると、屋敷を去る。
「神よ。世の全てを創りもうた偉大なる、我らが神よ。今、ふたつの魂が、あなたの元へ帰りました。その広き懐に彼らをむかえ入れ、哀れな魂に安息と救いを与えたまえ」
神に祈る言葉を唱え、空を仰ぎながらサングラスを外す。
それは褐色の肌と同じく、珍しい赤い瞳だった。
同時刻、エドは髪留めであるゴムを外し、憂鬱げにベッドに座っていた。
次の瞬間、赤いコートから伸ばされた手が無言でタッカーに近づくと、胸ぐらを掴んで勢いよく壁に押しつけた。
「がは!」
「兄さん!!キョウコ!!」
「ああ、そういう事だ!!」
「ショウ・タッカー!何て事を!!」
エドは噛み殺すような目つきで、息を詰まらせるタッカーを睨みつけて自身の家族を合成獣の代価として使った事実をぶちまける。
「この野郎…やりやがったな、この野郎!!2年前はてめぇの妻を!!」
「そして今度は、ニーナとアレキサンダーを使って合成獣を錬成した!!」
一度目は自分の妻を……そして二度目は、幼い娘と飼い犬を代価にして。
生体錬成を専門とする錬金術師として、越えてはいけない一線を二度も越えた男。
「………!!」
目の前にいる合成獣と二人の言葉を繋げ――アルは言葉を失った。
にわかに信じがたい状況。
「そうだよな、動物実験にも限界があるからな。人間を使えば楽だよなあ、ああ!?」
結果を追い求めすぎたタッカーは掴まれ、睨まれ、怒鳴られながらも、狂気のような眼差しを向けて首を傾げる。
「は…何を怒る事がある?医学に代表されるように、人類の進歩は無数の人体実験のたまものだろう?君も科学者なら…」
「ふざけんな!!こんな事が許されると思ってるか!? こんな…人の命をもてあそぶような事が!!」
エドはすぐ後ろで、先程から身体を震わせるキョウコの顔を窺うことはできなかった。
彼女の顔が痛々しく歪むところを見たくなかったから。
直後、タッカーの狂った爆笑が耳を襲った。
「人の命!?はは!!そう、人の命ね!鋼の錬金術師!!君のその手足と弟!!そして、彼女の髪と瞳の色!!それも君が言う"人の命をもてあそんだ"結果だろう!?」
その言葉に、ブチィッ、という血管の切れる音がした。
エドは右の拳を振り上げ――鋼の義肢である機械鎧で殴った。
「がふっ…はははは、同じだよ、君も私も!!」
右腕が機械鎧である拳に殴られ、口許から血が滴り落ちる。
「ちがう!」
エドが否定すればするほど、タッカーはその反応すら楽しむように返してくる。
もう、あの穏やかな面影はない。
「ちがわないさ!目の前に可能性があったから試した!」
「ちがう!」
「たとえそれが、禁忌であると知っていても試さずにはいられなかった!ごふ!!」
「ちがう!!」
エドは何度も何度も殴り続け、そして、うわ言のように続ける。
「オレたち、錬金術師は………こんな事………オレは…」
殴られたことで噴き出した血は、彼の額や頬に付着する。
怒らせた顔で荒い息を継ぎ、タッカーを殴る、しかしその顔は、悲しみに崩れていた。
「オレは…!!」
一際大きく右腕を大きく振りかぶった時、キョウコが彼の手首を掴み、アルが静かに言った。
「兄さん、それ以上やったら死んでしまう」
悔しさか、悲しみか、怒りか、自身でも判別のつかない感情を
キョウコが首を横に振ると、エドはようやく手を離した。
胸ぐらを掴む手を離すと、締めつけに解放されたタッカーは床に座り込む。
「はは…きれいごとだけで、やっていけるかよ…なぁ、氷刹の錬金術師」
その声に、アルと共にエドを連れていくキョウコの足が止まった。
「君の錬金術を見せてもらった。氷…そう、氷だ。思い出したよ。黒髪と黒い瞳、身に纏う黒衣のようなコート。そして、扱う錬金術は氷――人々は君のことを、なんて呼ぶ?」
「タッカーさん」
キョウコが振り返った。
その眼差しは、絶対零度の殺意。
冷ややかで、苛烈な。
「それ以上喋ったら、今度はあたしがブチ切れる」
常であれば、人を魅了してやまない凛々しい響きが、絶望をもたらす裁きを運ぶ。
たった一人の華奢な少女を前に、タッカーは、ぐ…と押し黙った。
アルはしゃがみ込み、両手で包み込むように合成獣を撫で、声を引きつらせて謝る。
「ニーナ、ごめんね。ボクたちの今の技術では、君を元に戻してあげられない。ごめんね、ごめんね」
「あそ、ぼう。あそぼうよ。あそぼうよ」
合成獣の抑揚のない声と雨の降る音が、屋敷に虚しく静かに響いた。
ロイが担当する東方司令部にも、家族を使って合成獣を錬成した残酷な事件が知れ渡った。
キョウコからの報告を受けたロイはすぐさま行動し、早足で廊下を歩く。
「すまない、キョウコ。私がタッカー氏を紹介したばかりに、このような事になってしまって」
「大佐が謝る事ではありません。タッカーが合成獣を錬成した、その場に居合わせた担当者が少しでもおかしいと察知できなかったのが悪いんですから」
軍人に向けて、国家錬金術師に過ぎない彼女がこのような口を聞くのは本来ならば言語道断のはず。
ロイは気にしたふうもなく、後に続く冷静沈着な部下へと視線を移す。
リザは一度だけ、微かに首を左右に振って神妙な面持ちでいる。
「…もっと早く気づくべきでした。最初に合成獣が発した『死にたい』と言葉。彼に関する資料に目を通して、ニーナの話を聞いていれば……」
下を向いたまま、キョウコはつぶやく。
前髪が影になり、彼女の表情はわからない。
全ては研究のために。
実の家族を代価として合成獣を錬成するとは、キョウコも思ってもみなかった。
いつもならば軽口を飛ばすロイだったが、今回ばかりは真面目に目を細めた。
家族を使って合成獣を錬成した残酷な出来事を聞いたリザは、今回の事件を一言で言い表す。
「もしも"悪魔の所業"というものがあるなら、今回の件は、まさにそれですね」
「悪魔か…身もフタもない言い方をするならば、我々国家錬金術師は軍属の人間兵器だ。一度、事が起これば召集され、命令があれば、手を汚す事も辞さず――人の命をどうこうするという点では、タッカー氏の行為も我々の立場も、たいした差は無いという事だ」
「それは大人の理屈です。大人ぶってはいても、あの子はまだ子供ですよ」
東方指令部を出て、階段を降りるロイとリザの会話を、キョウコは無言で聞いていた。
どしゃ降りの雨の中、階段に座るエドの髪を、頬を、コートを、大粒の雫が濡らす。
「だが彼の選んだ道の先には、おそらく今日以上の苦難と苦悩が待ちかまえているだろう。むりやり納得してでも、進むしかないのさ」
「今更、何を言うんですか」
キョウコは顔を向けなかったが、その美貌は険しく歪んでいた。
そして、階段に座り込むエドとアルのもとに辿り着く。
「そうだろう。鋼の」
「いつまで、そうやってへこんでいる気なの」
「……うるさいよ」
「軍の狗よ、悪魔よとののしられても、その特権をフルに使って、元の身体に戻ると決めたのは君自身だ。これしきの事で、立ち止まってるヒマがあるのか?」
淡々と紡がれる、相手の拒絶を考慮の内に入れない言葉に、エドはコートの袖を強く握りしめ、絞り出すような掠れ声で反論する。
「『これしき』……かよ、ああそうだ。狗だ悪魔だと、ののしられても、アルとキョウコと三人、元の身体に戻ってやるさ。だけどな、オレたちは悪魔でも、ましてや、神でもない」
震える足に力を入れ、痛む胸を押さえ、揺れて滲む目を凝らし、様々な気持ちを抱いて立ち上がった。
「人間なんだよ、たった一人の女の子さえ助けてやれない、ちっぽけな人間だ………!!」
全身ずぶ濡れの顔から、まるで涙のように、とめどなく雨粒が流れ落ちる。
不意に、エドが振り返った。
「キョウコは…悲しくないのか!?あんなに、お前になついていたニーナが…」
エドはキョウコも悲しんでいると思っていた。
数日前まで、遊んで、笑って、一緒にいたはずの幼い少女が突然、文字通り姿を変えて現れた。
実の父親に無惨にも命を扱われ、人語を話す合成獣として生み出された。
なのに、キョウコは恐ろしいほどの無表情だった。
「悲しいけど、仕方ないじゃない」
答えは、それだけだった。
「鋼の…っ」
今の問いかけが、少女にとってどんな意味を持っているのか、ロイは気づいた。
口を滑らせまいかという懸念、キョウコに対する難詰への叱責、双方の意味を込めての発言を遮って、彼女は冷厳と言う。
「エド。こんな事で弱音吐くなんて、まだまだ甘いよ」
「なっ……!」
そんなこと言ったって。
じゃあ、どうすれば良かったんだ。
その思いが心の痛みと混ざり合い、エドはキョウコを睨むように見据える。
「だからって、じゃあ、なんだ!?あのまま放っておけばよかったのか…」
エドの言葉がそこで止まったのは、キョウコの瞳がはっきり潤んでいたからだった。
頭を殴られたような衝撃が走る。
「ニーナの事は助けられなくて、悔しいと思う……だけど、前に進むしかないじゃない!助けられなくて、悔しくて、悲しくて、苦しいのはエドだけじゃない!!」
両手でぐいっと引き寄せられる。
キョウコの真剣な眼差しが、目の前で強い輝きを放っていた。
「人を助けようとするのは結構な事よ。それをできる力があれば。
キョウコはエドの襟首を掴む手に力を増し、肩を震わせた。
「錬金術は奇跡の力。だから、簡単に行きすぎる。エドは昔から才能があるからなおさら。人を助けたいと願うなら、錬金術は力を貸してくれる。危険に飛び込めるだけの力は与えてくれる……でも、エドはまだ未熟だわ」
熱い吐息を間近で感じる。
人の心の奥底を見透かすような声で、鋭く
「……キョウコ」
涙は流してないが、キョウコの美貌が一瞬だけ歪み、目許をごしごしこする。
「わかった…わかったから、落ち着きなさい…」
口を挟む暇もない、壮絶なまでの感情を爆発させるキョウコを抱き寄せ、ロイはその艶やかな黒髪に指を絡めて頭を撫でる。
「………」
声が出ない。
出せない。
何を言えばいいのか、わからない。
呆然と佇むしかないエドは、彼女にどう声をかければいいのか、わからなかった。
「…………カゼをひく。帰って休みなさい」
苦しいくらいに強く抱きしめる腕の力と微かな体温に顔を押しつけるキョウコを抱き寄せたまま、ロイは背を向けて二人に言い放った。
すぐさま、タッカーの屋敷には見張りの憲兵が置かれ、厳重に警備体制が整えられた。
樹木と鉄柵で囲まれる敷地の正門前に今、奇妙な男がいた。
この雨にもかかわらず傘を差さず、まっすぐこちらへと歩いてくる。
正門の前に立つ憲兵二人が見とがめて声をかける。
「む…タッカー氏に用事か?一般人は立ち入り禁止になっている。用件があれば…」
その時、男は右手の指の関節を鳴らして、一言つぶやいた。
「通る」
「え?」
それが不運な彼がこの世界で耳にした最後の言葉となった。
外から聞こえる雨音と断続的な雷鳴以外、はっきり聞こえる音もない。
暗い部屋の中、力なく椅子に座り、頬に手当てをされたタッカーは毛布にくるまって、合成獣となったニーナと共にいた。
「なんで誰もわかってくれないんだろうなぁ。なぁ、ニーナ…」
タッカーは自問自答する。
生命を弄ぶ行為に対する背徳感。
神を
誰もが忌避するのも無理のない話だった。
だが、それでも生命の神秘探求は錬金術の永遠のテーマだ。
一度その禁断の果実に触れれば、人である以上、そして錬金術師である以上、どこまでも貪欲な知的好奇心はとても押さえきれない。
人が生命神秘の研究の歩を止めることは、もう永劫にないのだろう。
そこに、門前にいた男が部屋に侵入してきた。
色つきのサングラスをかけ、黄色いジャンパーに黒いズボン。
肌は珍しい褐色、額には大きな傷がある。
「ショウ・タッカーだな?」
暗がりから出た人影へと、タッカーはぎょっとして振り向いた。
「誰だ君は」
男は一歩、靴の音を鳴らして確実に近づく。
「私になんの用だ、軍の者…ではないな」
男の表情だけでなく、存在そのものに恐怖を抱き、後ずさろうとする。
しかし、足が言うことを聞いてくれない。
異様なまでの殺気に圧倒され、
タッカーは、恐怖の中に予感を得ていた。
途方もなく暗く深い、とりかえしのつかないことが起きる、そんな予感を。
「どうやって入ってきた!表に憲兵がいたはずだ…」
二人の憲兵は焦点の合わない視線で、身体の内側から血管が破裂しながら既に息絶えていた。
「神の道に背きし、錬金術師、滅ぶべし!!」
褐色の相貌が、いつしかタッカーの正面にある。
殺意を宿して揺らめく瞳で、踏み込みと同時に右腕が、絶望の端のように、顔面へと伸びる。
刹那、ブシャ、と不快な音と共に、身体の内側からおびただしい血が溢れ出した。
噴水のような流血の勢いは弱まることなく、タッカーは血溜まりの床に倒れた。
流れ出た鮮血が、ニーナの足元に付着する。
少女にとって、ただ一人の父親の死体を黙って見つめ、僅かに唇を動かした。
「………さん、おとうさん」
鼻先を指先こすりつけるニーナの瞳から、涙が伝う。
「おとうさん、おとうさん、おとうさん」
「…哀れな」
視線をニーナに移し、すぐに事情を把握した男は、合成獣の頭に手を添えた。
「この姿になってしまっては、元に戻る方法は無い。せめて、安らかに逝くがよい」
名もなき男の
雨は、まだ降り続ける。
男はタッカーとニーナを不可視の方法で殺害すると、屋敷を去る。
「神よ。世の全てを創りもうた偉大なる、我らが神よ。今、ふたつの魂が、あなたの元へ帰りました。その広き懐に彼らをむかえ入れ、哀れな魂に安息と救いを与えたまえ」
神に祈る言葉を唱え、空を仰ぎながらサングラスを外す。
それは褐色の肌と同じく、珍しい赤い瞳だった。
同時刻、エドは髪留めであるゴムを外し、憂鬱げにベッドに座っていた。