箱庭の恋

到着したばかりのクチバ港の待合室。なんとなしに目を向けたテレビから流れたニュースを目にして、ミナキが買ったばかりのコーヒーをロビーの床にぶちまけたのは約1週間ほど前になる。ちょっと大丈夫ですかお客さん、受付に立っていた男の慌てた声が、薄い膜を1枚隔てたかのように、遠く遠く感じる。
画面に映る、エンジュの塔に降り立った伝説のポケモン。そして、それに認められたトレーナーとして紹介されていた帽子の少年のあどけない顔を、ミナキはただぼうっと見つめることしかできなかった。

つまり、我が旧友は虹色の翼の主に選ばれなかったというわけだ。

それからただの一度も、ミナキのポケギアは「彼」からの着信を知らせることはなかった。必要以上にベタベタと馴れ合うだけが友人というものではあるまいというのは自らと旧友との間にあった共通認識で、元々そう頻繁に連絡を取り合っていたわけでもなかったが、このときばかりはそれがミナキを不安にさせた。今までの人生で恐らくいちばん辛いであろう今この時に、彼はまず誰よりも先に自分を求めてくれるに違いない。心のどこかでそう思っていたのは、単なる自惚れであったのだろうか。しかしこちらから連絡を取る勇気もなく、(だって何を言ったらいいか分からなかったのだ)馴染みの名前が表示された画面で幾度となく彷徨わせた指は、結局、通話ボタンに触れることはなかった。
その後、フィールドワークにも資料集めにも今ひとつ身が入らないままだった。カントーでの滞在を予定していた1か月間の半ばにも至らない中途半端なところで切り上げ、ミナキは今、すっかり秋めいたエンジュの街の門をくぐった。とにかく顔をひと目見なければならないと気持ちばかりが逸って、夢を失った友にかけるべき言葉を、結局ただのひとつも見つけられぬまま。


■ ■ ■


塔の歴史を解説するその内容を一字一句違わずに諳んじることができるほどには目にしてきた観光案内板の横に、真新しい看板が一枚立っていた。『カネの塔 再建工事のお知らせ』―――ようやく街の外の人間の目につく場所であろうと本来の名で呼ばれることとなった塔であるが、ミナキにとってはまだ『焼けた塔』のままであり、その響きのほうがよほど耳に馴染みが深かった。看板の文字をたどることを一旦やめ、ミナキは上を見上げた。

木造の楼閣形式の仏塔は、開け放たれた重たい鉄扉と門こそ形を残しているものの、一階の床はあちこちが焼け、倒れた柱が転がり、焦げついた木目の隙間にぽっかりと空いた穴から地下の暗闇が顔を覗かせている。上層に続いている階段はこれまた中ほどで焼け落ちており、二階の床の基礎、あるいは一階の天井の梁、そのどちらであるか素人の目では判別のつかない木材の骨組みの名残が申し訳程度に残っていた。からりと晴れた清々しいエンジュシティの秋の空を衝くように、きっと誇らしく伸びていたであろう塔の二階から上の階は、しかしそこには存在していない。焼けた塔と、エンジュの住人たちからそう呼ばれていた所以である。この街を囲う銀杏や紅葉の並木からはらはらと飛ばされてきた黄や赤や茶色の葉が床にモザイク模様を描き、ほとんど抜け落ちた天井から差しこむ陽射しに照らされたその上を時折、塔に棲みつく野生のコラッタがかさかさと走り去っていく。きっと日が落ちれば夜行性のゴースたちも集まって、あたりを飛び回り、色とりどりの葉っぱを舞い上がらせたり、偶然通り掛かった人たちを驚かせたりして遊ぶのだろう。闇に潜むいきものたちの悪戯に慣れた地元の人間相手ならともかく、昼間とは違う空気の流れる夜更けの散歩を楽しむ観光客には些か刺激が強いに違いない。

150年前の落雷により起こった大火事で、この塔のほとんどは焼けて、そこに降り立っていた銀色のポケモンは現れなくなってしまいました―――すっかり覚えてしまった文言は、観光者向けの案内看板に記された文章を締めくくる一節である。大火事以降、在りし日の姿を取り戻すこともなければ取り壊されることもなく、ただただ時を重ね、風雨に晒され続けてきた古い建築物だが、よくよく目を凝らしてみれば、聖なるいきものが羽根を休めた場所としての荘厳な趣はあちこちに残っている。調査のために塔を訪れることは幾度となくあったが、いつだってこの場の空気には背筋をぴんと伸ばさずにはいられないものがあった。同時に、ここで焼け死んでしまったという名も無き三匹のいきものたちのことを思うと、ひどく悲しい心地になった。そっと瞼をおろせば、150年前に落ちた雷の稲光を、あたりを燃やした火の熱を、そしてそれを消し止めたとされる雨の匂いを、肌で感じ取ることができる気さえした。塔がこの時代に至るまでそのままの形で残されてきたのはきっと、この地に生きた人々の、弔いの心のためだ。

待ち望まれた虹色の伝説―――ホウオウの再臨に未だ高揚の覚めやらぬエンジュの街の、普段とは違う活気の中でさえ、彼の塔が湛える寒々とした、ひどく物悲しい空気は健在である。いや、むしろその活気の中でこそ、この街の歴史の瑕疵たる塔の存在感はますます際立っているようにすら、ミナキには感ぜられた。焦げついた黒色や無残に焼け落ちた梁を真新しい木のにおいで覆い隠されて、街の反対側、東の端にある塔と肩を並べるほどの荘厳な九重の塔の姿を取り戻したとて、きっとミナキは三度に一度くらいはそれを以前の『焼けた塔』の名で呼んでしまい、エンジュの人間に白い目で見られるのであろう。苦笑しながら新しいほうの看板に視線を戻し、そこに記された工事の日程をたどった。着工はおよそ二ヶ月後で、矢印を挟んだ完成予定日は一年以上先だ。どちらかと言えばこういった歴史的建造物を取り巻く文化や伝承等に並々ならぬ興味があるのであって、建築方法や構造そのものそこまで明るくは無いのだが、きっとこれまでに類を見ない、この街の歴史に刻まれる大仕事になることは分かる。
近いうち、塔は立ち入り禁止とされるようだ。ミナキはポケギアを取り出し、スケジュール画面に工事の日程を打ち込み始めた。エンジュを訪れる度に足を踏み入れてきたと言っても過言ではないこの場に、もはやこれ以上見るべき箇所があるというのか。特に思い当たらなかったが、それでも最後に調査をしておかなければならないと思った。これは学者根性か、はたまた所謂もったいない精神というやつなのだろうか。

「何をしておるのかね」

その時、ふと背後から、ミナキを呼び止める声があった。振り向いたミナキは、少し離れたところにいた人影を認めると、ポケギアをポケットの中にしまい、頭を下げた。

「……やあ、ご先代。お元気そうで何よりです」
「そちらこそ。息災であったか」
「ええ」

大通りから焼けた塔に繋がる銀杏並木の道に、いつの間にかひとりの老人が立っていた。ゆったりと一歩ずつ歩みを進める度に、下駄の底が石畳を叩いてからころと軽快な音を奏でる。ほとんど墨色に近い濃紺の着物を身に纏った彼は先代のエンジュシティジムリーダー、そしてミナキにとってそれよりも馴染み深い呼び方をするならば、マツバの祖父であった。

「こんな時に、スズの塔ではなくこちらを熱心に見つめている変わった若者がいると思って……」

先代は丸眼鏡の奥の目で、ミナキの顔とその後ろの焼けた塔を交互に見遣ると、

「近づいてみたらなるほど、お主だったよ。久方ぶりだな、ミナキよ」

そう冗談めかして笑った。「こんな時」と言いながら先代がほんの一瞬視線を向けていたのは、街の反対側にあるスズの塔であった。

ミナキは小さく息をつく。あたりに自分たちふたりを除いて人の姿はなく、長い銀杏並木のずっと向こう側、大通りに見える影の多くは観光客で、人の流れる向きはほぼ一定である。これからきっと、賑わう街の東側に向かうのだろう。

「この街の誰もが喜ぶことが起きたというのは、よくわかりますが……」

ホウオウがこの地に再び舞い降りてから、エンジュの街の中でも特に、スズ塔の周り一帯はお祭り騒ぎのようだ。通りすがりに少し覗いて見てみたが、飴細工や焼き菓子のほかにお守りや飾り物の出店なども立ち並び、普段よりも更に多くの観光客が行き交う大層な賑わいだった。街として正式な祭典を執り行うのはもう少し先のことになるのだろうが、この盛況はまだまだ続くのだろう。ミナキは顔見知りの住人から甘酒だのなんだのを勧められ、これからちょっと行くところがあるので、とこそこそ逃げてきた次第である。まさかその行き先が、この寂れたもうひとつの塔だとは誰も思うまい。

「だがどうにも、普段の落ち着いたエンジュの空気というものが恋しくなってしまって」
「おや、珍しい。幼い頃は毎年、夏祭りの時期に遊びに来るくらいだったのに」
「……昔の事までよく覚えていらっしゃる」
「まあ、儂にとってはお前も半分孫みたいなものだからな」

苦笑するミナキに、お主も大人になったということかね、としみじみした様子で先代は頷いた。ゆっくりと歩を進めて隣までやってきた彼を、ミナキは見下ろす形になる。幼い頃は見上げるほどの壮年の男であった彼の背を自分はやがて追い越し、今ではゆるやかに腰の曲がった老人を頭ひとつぶん上から見下ろしている事実に、改めて愁思というものによく似た感情を覚えずにはいられなかった。今は亡き自らの祖父が歩く支えに杖をつき始めたのを見て、ああ誰も彼もが老いるのだと当たり前のことに気がついた日を重ねてしまう。

「ところで、なんだってそんな大荷物をわざわざ持ち歩いておるんだ。先にマツバのところに寄ってこなかったのか」
「……ええ、まあ……」

彼が疑問に思うのも無理はない。ミナキが足元に置いていたのは、どう見てもほんのちょっとの外出に持ち歩くような鞄では無い、外泊用の大ぶりのトランクだ。先代は、問いかけに曖昧な返事を返したミナキにやれやれとため息をついたが、何か思うところがあったのかそれ以上は何も言わなかった。
普段ならばエンジュに入って真っ先に、マツバがひとりで暮らす街外れの屋敷に真っ直ぐと向かうはずの足は、この日ばかりはミナキらしくなく、ぐずぐずと、喧騒から離れるように遠回りの道ばかりを選んだ。呼ばれてもいないのに自分から来ておいて情けない話だが、どんな顔をしてマツバに会えばいいのかわからなかったからだ。旅の荷物が詰め込まれたトランクは勿論、それ以上に気が重かった。自分が何をしたいかわからないだなんて、はっきりとした性質のミナキには滅多にないことである。
ふと空を見上げると、野生の鳥ポケモンの群れが東に飛んでいくのが見える。今向こうに行けば屋台の豆菓子にありつけるかもしれないなぁと、そんなことをぼんやり思う。

立ち並ぶ屋台と賑やかな音楽、そしてそこに居る人々は笑っている。少年だった時分より時を重ねて、年相応の落ち着きというものを得たとしても(得たのだ、と信じたい)、人間の性根というものはそう大きく変わることはない。勿論、ミナキは今でも祭りが好きだ。だがそれは、「自分が心から素直に楽しめるもの」に限るのである。遠巻きに眺めていた祭りの賑やかさに反比例するように、自分の中の何かはすっと冷えていて、胸に滴る黒いインクがぽたぽたと染みを作るような苦い心地をふと思い出し、ミナキは顔を顰めた。歴史を追う者としての自分と個人としての自分の感情の境目、そしてこのエンジュの街そのものと置くべき距離を、長い時間の間で少しずつ見誤ってきたのだと、こんな形で知りたくはなかった。天秤はもう、とっくの昔に平衡を保てなくなっていたのだ。どこに、否、誰に対して最も傾いているのかはもはや自明である。
ねえミナキくん、次はあっちのお店を見よう。ミナキの掌をぎゅっと握る小さな手と、提灯の灯りのもとでほのかにきらめく金色の髪が、記憶の端でちらつく。

「……そういえば、塔の再建工事、ようやく決まったのですね」

つとめて平静を装ったみずからの口から滑り出た声があまりに固かったことに、思わずはっとして、ミナキは手袋に包まれた手で口元を押さえた。それに加え、話の逸らし方が些か強引だった気さえした。すべて見透かされてしまうのではないか。内心ひやりとしながら隣の老人に視線だけを向けてみたが、彼は気づいていないというよりも、見透かした上でそれを大して気に留めていないといった風で、

「うむ」

ただ、万感の思いを込めて頷いた。

「この塔に眠っていた三匹が目覚めて走り去ったという時分から、皆これから何かが起きるのではないかと感じ取ってはいたのだろう。そして…………今はまさに、この上ない転機よ」

以前から話題に上がってはいつの間にか立ち消えてを繰り返していた―――主に観光協会とか商工会のお偉方たちの間で、代々ジムを受け継ぐ家系は何かと板挟みにされる役回りだったらしいが、そこは部外者の知るべきところでは無い―――焼けた塔の再建計画は、ようやく現実のものとなった。すべてが大きく動いている。彼はそれを転機と称したがまさにその通りで、まるで止まっていた心臓が再び動き出すような、芽吹くような息づかいさえ、今のエンジュの街からは感じられる。
しかし、だからこそ、余計にミナキの心は重くなるのだ。伝説の復活を祝う祭りのもうひとりの主役、舞い降りた虹に認められた人物としてそこにいるのが―――「彼」ではないという事実が。

「まあ、段取りを組むだけでも方々に話を通さねばならんで、相当骨の折れる仕事だったようだが」
「……ん?」

先代の言葉にミナキはふと、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げた。「だったようだが」とは、まるで自らはそこにはおらず、人伝てに聞いただけのような言い回しである。

「……ご先代が意見の取り纏めしているのでは、ないのですか?」
「……ん?」

ジムリーダーを引退した身と言えど、未だ皆からもご先代と呼ばれ慕われている彼は、街のあらゆる事情に通じているのだ。ミナキの問いに、今度は先代が疑問の声を上げる番だった。ふたりの間を、ぴゅう、と秋風が通り過ぎていく。

「無茶を言うでない、ミナキよ。この老いぼれには荷が重すぎる!」

過った沈黙を吹き飛ばすかのように、呵呵、とひとしきり笑った先代は、着物の袖から皺だらけの手を伸ばした。その指は先ほどミナキが眺めていた、塔の再建工事を知らせる看板を指している。

「儂はもう、塔の完成までこの世にいられるかもわからん爺だ。そう何でもかんでも出しゃばっていくわけにはいかんだろう」

まるで悲壮感も無く、あっけらかんと宣う彼は、たっぷりと蓄えた白い顎髭を撫でながら眼鏡の奥の双眸を穏やかに細めた。仙人もかくやという風貌を備えたこの老人ならば、塔の再建を見届けるまでと言わず、それから次の補修工事が必要になる時代くらいまでは飄々と生きていそうなものではあるが、そこまで行くとそれはもはや妖怪の類いである。
老人の軽口にこちらもまた軽口のひとつでも返すべきだったが、しかしミナキは口を噤んでいた。先代には申し訳ないが、それよりも先ほどの言葉の中にいちばんの気懸かりを見つけてしまったのだ。

「まさか」ひどく掠れた声が出た。ごくり、と唾を飲み込んで、「マツバ……ですか?」

問いかけると、ふたりの間に再びの沈黙が降りた。先代は訝しむようにミナキの顔をじっと見つめていたが、やがて何かに得心がいったという様子で、

「ほっほ」

柔和な顔の皺をより濃くするように、くしゃりと破顔した。丸みを帯びた両肩が、なんだか楽しげに揺れている。

「な、何ですか。私は何か変なことでも」
「そんな顔をするな。工事の件を受け持っているのは息子だ、儂の息子」

儂の息子。わしのむすこ。耳慣れない言葉を頭の中で何度か反芻して、ようやくミナキはあっと声を上げた。

「……あ、ああ、いや失礼。なるほど、マツバの父上ですか……」

そんな顔を、とはいったいどんな顔をしていたというのだろうか。一房垂れた前髪を意味も無く直しながら、ミナキは冷静さを欠いていたことを誤魔化すようにごほん、とひとつ咳払いをした。言われてみればそれはそうだ。順当にいけば当たり前である。
滅多に顔を会わせることはないので失念しかけていたが、マツバの父はエンジュでいちばん大きな寺の住職で、神社仏閣の協会でそれなりの地位にある男であった。ポケモンバトルの才能には恵まれなかったため、ジムリーダーを継ぐことはなかったが、祖父や息子とはまた違った立場からエンジュの街を支え、人々からの信頼を集めている。

「うちの男連中の中ではちと影の薄い方だが、あれはあれで意外とやるもんだよ」

というかそれくらいはやってもらわんと、方々に面目が立たん。冗談めかした声音で笑ってみせるが、工事の看板に向ける視線は極めて真剣である。

「マツバには今、ジムの運営を一任しておる。それに加えて塔再建の音頭取りまで任せるのは、いくらなんでも酷じゃろうて。そこまで色々なことを背負うには、あいつはまだ若すぎるよ」
「…………」

ミナキはただ、それを黙って聞いていた。いずれはマツバをそういった立場に据えることも考えているというのも、これまで十分に重たいものを彼には背負わせてきたというのも、どちらの意図も言葉の端から感じることができた。どうか迷っていて欲しいと、勝手なことすら思う。

「……そう、ですね……」

ざわり、と吹いた風が銀杏の木を揺らし、三たびの沈黙が降りた。ミナキは視線を下に向け、自らの靴を見つめた。日頃から手入れは欠かしていないが、それでもあちこち歩き回ったおかげで、爪先には細かい傷や汚れが増えた。そろそろ買い換え時であろう。
お互いに、とある話題を口にするのを避けていることはわかっていた。並木道の向こうに老人の姿を認めた時から、彼に何よりも聞かなければならないと思っていたことは、先ほどからミナキの喉にずっと支え、じめじめと陰鬱な熱を持ってわだかまっている。―――ホウオウが降りてから。マツバの様子はどうですか、と。

「…………あの、」
「で、お主はどうじゃ、ミナキよ」
「え、え? ……私ですか? その、ええと」

意を決して口を開いたのと同時に、まるでカウンターのように問われ、ミナキは思わず目を見開いた。ええと、だの、あの、だの、もごもごと口ごもってから少しの間を置き、先日までカントーにスイクンの調査に出ていたという話をしようとしたが、しかしそういうことを聞いているのではない、と遮られてしまう。先代はゆっくりと首を振り、紫色の瞳をミナキに向ける。どこに行き、誰と話して何をしたというのではなく、己の気持ちを問われているのだと、言葉ではなく肌で察した。

「私は……」

別に叱られているというわけでもないのに、身体には自然と力が入ってしまう。白い手袋に包まれた手を、ミナキはぎゅっと握りしめ、ぽつぽつと言葉を零し始める。

「何も無いわけではない。むしろ順調、と言ってもいいのかもしれません。これまでに比べたら、格段に、その……先ほどご先代もおっしゃった通り、色々なことが起きている。調査のサンプルだって増えたし、やらなければならないことも、次から次へと浮かんで、自分がもうひとり欲しいくらいだ」
「……お主が二人もおったら喧しくてかなわん」
「そこは、まあ、否定はしませんが」

想像してしまったのか、げんなりとした様子の先代に、ミナキは苦笑する。なんなら二人と言わず、三人いてもいい。部屋で文献をひたすら読み漁る自分と、大学の実験室で水質調査をする自分と、フィールドワークに出かける自分である。
本来ならば、こうして呑気にエンジュの街に寄り、意味も無くそのへんをうろうろしている時間すら惜しいはずであった。しかし、あの青い北風の化身との邂逅を思い起こすと、ふと胸の内に、ほんの僅かな暗い影が落ちる。

「ですが、何故か……うまく言葉にはできないのですが……」

スイクンが訪れた場所の水質変化の数値も、カントーの博物館で読み解いた文献の内容もすらすらと諳んじてみせることが出来るはずなのに、自らの心の内を紐解いていくとなると、不思議なことにミナキの言葉は拙くなった。先代は続きを急かすこともなく、足踏みをするミナキの隣で同じように立ち止まってくれている。つい先ほどまではすべてを見透かす修験者の顔をしていたというのに、今の彼は、幼い孫のいまひとつ要領を得ない話にじっと耳を傾ける祖父であった。

ついこの前までは見ることすら叶わなかったスイクンが、ついに目の前にその姿を現した。その美しさは間違いなくミナキに感動を与えたが、同時にひとしずくの不安と焦りを落としていった。自分が積み重ねてきた調査は正しかったのだと、溢れるほどの喜びで満ちているはずの胸の中に。

「……それでも、私の目標に近づいているとは、何故か、到底思えないのです」

焦燥は今もなお、まるで水面に生まれた波紋のようにじわじわと広がっている。言葉にすると、より克明に感じられる気さえする。その正体について、薄々勘づき始めてはいるが、直視してしまわないよう目玉に嵌めていた蓋を、ゆっくりとずらされてゆく心地がした。そうかそうか、と先代は深く頷いて、

「腑抜けとるなぁ」
「う……」

顎髭を撫でながら、呆れたようにそう呟いて空を仰いだ。決して強い口調ではなくとも、人生の大先輩からの言葉には胸をぐっさりと刺し貫かれるような威力がある。ミナキはうなだれた。前髪がへにょりと元気をなくした気がする。

「あちこち飛び回るついでに、各地のジムにでも挑戦してみたらよい。追い求めているものに手を伸ばす好機が巡ってきたとしても、今のお主ではきっと歯が立たんだろうよ」

上着のポケットに入れているモンスターボールを手袋越しの指先で撫でながら、ミナキが脳裏に思い浮かべているのはひとりの少年の姿だった。小さな田舎町から旅立ったばかりだという彼の帽子で、ぴかぴかのジムバッジはいくつ輝いていただろうか。
初めは、スイクンの現れた水辺に、運良くあの少年がいるのだと思っていた。なんという幸運の持ち主だ、と羨んでいた。しかし、それは逆なのではないかと、ある日とうとう疑念を抱いた。あの少年のいるところに、スイクンが現れるのではないかと。彼は自分のような「追う者」でなければ、マツバのような「待つ者」でもない。ただ其処にいるということに至上の意味を持つ、「呼ぶ者」ではないのかと―――ああ。薄く開いた唇から、ため息のような声が漏れる。焦りの正体を言語化するのは、あまりに容易かった。それを噛み砕いて飲み下せるか、というのは全く別の問題であるが。

「……ジム巡り、ですか。それも良いかもしれない。いつになるかは分かりませんが、考えておきます」
「……ふむ」

ポケモンとの向き合い方は人それぞれだというのを何よりも理解している御仁だ。押しつけているわけではないというのを分かっている、と示すようにミナキが敢えて曖昧に返事を返すと、先代もまた軽く頷くのみだった。この話はきっと終わりだ。

「あちこちを飛び回る、か」

先ほどの自らの言葉を繰り返した先代は、遠く、スズの塔をじっと見つめている。エンジュの澄んだ秋晴れの空を、鳥ポケモンたちが飛んでいる。あれはポッポだろうか、それともオニスズメだろうか。どちらにせよせいぜい人間の足元くらいの小さな身体しか持たぬ彼らは、しかし人間などよりよっぽどたくましい。小さな翼を目いっぱいに広げて、高く高く、どこまでも自由に羽ばたいていく。

「ミナキよ、ひとつ教えてはもらえんか」
「……何でしょう?」

不意に投げかけられた言葉に、思わずどきりと心臓が跳ねた。いつだって、ミナキは教えられる側だった。ポケモンのことも、この街のことも、正しく生きるために必要なことも。そんな彼からの問いに、たったの二十と数年を生きただけの自分は返すことのできる答えなど持ち合わせているのだろうか。
返事が一拍遅れたのと、その声があまりに不安げに揺れていたことに、先代は笑った。「そんなに難しいことを聞きたいわけではない」と緊張を和らげるように言って、それから、僅かばかりに沈んだ声音で、


「お主はマツバを、あの子を、不幸せだと思うか」


―――ぐずり、と、自分の中のいちばんやわらかい部分を鷲掴みにされるような心地がした。自分が問おうとしたこと以上に重たく、核心に触れるような問いに目眩を覚える。なんということを聞くのだ、このお方は。カップごと取り落としたコーヒーが床に広がる様を思い出す。

「……それは……」

心臓をぎゅうと引き絞られるような感覚に、声が震える。しかし、頭だけはひどく冷静であった。彼の言った通り、その問いはミナキにとって「難しいこと」ではないのだけは確かだったからだ。ふ、と喉で詰まっていた息を何度かに分けて吐き出して、ミナキはやがて、隣に立つ老人に向き合う。

「私が、口にすることではない。してはならないことです。それを決めていいのは、私でもあなたでもなく、マツバだけだ。そうでしょう?」

それはつまり、その問いに対する答えを持っていない、という答えである。丸く目を見張った老人の胸の内にあるのは、想像だにしていなかった言葉を受けたことへの驚きか、それとも、自らが欲していたものをなぞるように答えを告げられたことへの驚きか。どちらでもよいのだ、そう思いながら、ミナキは続ける。

「彼が自らを幸せであると言うのなら、それがこれからも続くよう祈りながら、今までどおり彼の傍に居ます。そして彼がみずからを不幸だと嘆くのならば、彼のこれからが幸せなものになるように、できる限りのことをします。友だちですから」

そう、ひと息に告げる。ミナキの言葉にじっと聞き入っていた先代は、やがて視線を上げると、にこりと微笑んだ。

「なるほど。マツバは良い友を持ったようだ。ありがとう」

お主をあいつに会わせて本当によかった。限りない慈しみを込めた声だった。彼は今、見上げる側と見下ろす側、自分たちの視線の向きが反対だった頃のことを思い出しているのだろう。
きっとこれ以上言葉を交わす必要はなくなったのだとミナキは納得し、石畳に置かれたままのトランクを持ち上げた。一礼をし、塔と老人に背を向ける。

「では、私はこれで」
「うむ」
「……あ、そうだ」

と、数歩離れたところでミナキは足を止め、背後を振り向いた。

「朝晩はだいぶ冷え込むようになりましたから。お風邪など召されないようにしてくださいね」
「ほっほ」

きっと十年前であれば「お前に身体の心配などされるようになったら儂はもう終いだ」と豪快に笑い飛ばされていたであろう労りの言葉を、老人はおだやかに微笑みながら受け止めた。皺だらけの瞼の奥の紫紺の瞳をゆっくりと細める笑い方は、マツバのそれととてもよく似ている。まるでごつごつとした岩が年月とともに少しずつ削られ、やがて手のひらにさらりと馴染むまろみを帯びた石になるような、良い歳の重ね方をされた御仁であると、ミナキは思った。


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