箱庭の恋



焼けた塔の前で先代と別れ、今度こそまっすぐ進む足で街の外れにあるマツバの屋敷にたどり着いたのは、昼を少し過ぎた頃だ。呼び鈴を鳴らしても返事はなく、手を伸ばした玄関の扉は不用心な家主にしては珍しく、閉ざされていた。預かっている合鍵はこれまで滅多に使う機会がなかったため、解錠に少しだけ手間取る。

「マツバ。マツバ、いるか?」

ようやく開いた扉から覗き込んだ屋敷の中は暗く、しんと静まりかえっていた。玄関先から廊下の向こうの暗がりに声をかけると、何やらごそごそと音が聞こえ、廊下と居間を隔てる襖の間から金色の髪の青年がひょこりと顔を覗かせた。マツバである。顔には出さないようにしながら、ミナキひとまず、内心でほっと胸をなで下ろしていた。

「あれ、ミナキくん?」

少し腫れぼったい目元をごしごしと擦って、戸惑うような声でマツバはミナキの名を呼んだ。そうだ私だぞ、と、つとめて軽く答えながら靴を脱いでいる間に、彼はぺたぺたと素足で廊下を歩いてこちらにやって来る。本物だ、そう呟く声はどこかぼんやりとしていた。……偽物を見かけたことがあるのだろうか。
彼の出で立ちはジムに出る時よりはいくらかラフな程度の部屋着姿で、おなじみのヘアバンドはしていない。少し伸びた前髪がうっすらと隈の出来た目元にかかって陰を落とし、気だるそうな様子と相俟って普段より少しばかり陰気な印象を受けた。ゴースト使いのジムリーダー、と言われればイメージとしてはこちらのほうがしっくり来るが。

「すまない、事前にメールのひとつでも寄越せばよかったかな」
「……ううん、構わないよ。君が唐突なのはいつものことだから」
「む。手厳しいな」
「それに、どうせメールなんてもらったところで見られなかっただろうし」
「?」

聞くと、どうやらここ数日ポケギアが見当たらないのだという。最近ほとんど出かけていないからどうせ家の中にはあるのだろうけど、という呟きはどことなく投げやりだ。本腰を入れて探してはいないのだろうというのは想像がつく。

「ほら、上がりなよ」
「ああ、失礼する。……そうだマツバ、もう昼は済ませたか」
「食べた」
「……そうか」

食い気味の返事に、ああこれは嘘だな、とミナキは確信する。マツバは他人の嘘を見破ることは得意だが、自分が嘘をつくとなるとだいぶ下手くそだ。みずからの利益のために人を騙すのではなく、相手を不安にさせないように口をついて出る不器用なごまかしの言葉は衝動的なもので、いつもの彼の会話のテンポからは浮いており、不自然極まりないのである。
気がつかれないよう小さくため息をついて、すぐに帰るつもりはないと示すように、ミナキは脱いだ靴を靴箱にしまった。上がり框を上がれば、ふたりの目線はほぼ揃う。

「……そうか、ならいい。少し痩せたように見えたから、聞いてみただけだ」
「う……」

言いながら、やはり肉が落ちている背中をぽんと掌で叩いてみれば、マツバはかわいそうなくらい狼狽えた。こうしてちょっとつつかれただけでそんな風になってしまうのなら、初めから下手な嘘などつかなければいいのだ。けれど、そこにどうしようもない愛しさが募る。少し抱きしめたくなった。

「……あ。ミナキくん、それ」

どうにか話題を逸らす先を探して頼りなくふらふらと彷徨っていたマツバの視線が、ミナキの持っていた紙袋に吸い寄せられた。白い袋の表面に、彼の行きつけの和菓子屋の名前が印刷されている。

「ああ、これか。いつもの店だよ。祭りの間は店先に屋台が出ていて、コイキング焼きを作っているところが見えるように焼いているんだと」

コイキング焼き、といっても勿論ポケモンをそのまま焼いた食べものではない。コイキングの姿を模した生地の中にたっぷりと甘い具材を詰めた、特にジョウトでは親しまれている焼き菓子である。
カントーから帰るにあたって気の利いた手土産のひとつも買っていなかったことについさっき気がついたミナキが、ここに向かうまでの道すがら買ってきたものだ。ぴたりと合わせた二枚の鉄板を開くと、美味しそうな焼き目のついたコイキングたちが行儀良く並んでふかふかと焼き上がっている絵面は観光客には非常にウケが良いらしく、店の前からなかなか列が途切れることはなかった。

「……、そう……」

祭り、と聞いたマツバの表情がふと曇るのを、ミナキは見逃さなかった。ろくに外に出ていないと聞かされる前から察しはついていたが、やはり彼はこの1週間の間、一度たりとも、祝賀ムードに沸くエンジュの街を歩いていないようだ。やはり今はまだ、地元の知り合いと顔を合わせたくはないのだろうということは想像に難くない。古くからの知り合いたちは皆、思うところはあれど、きっといつもと変わらない態度でマツバに接してくれる。しかしそのあたたかさが、今のマツバを余計に苦しめる。
踏みしめた廊下が、きし、と、か細く鳴いた。

黙ってしまったマツバとともに、居間に足を踏み入れる。想像していたより家の中は荒れていないが、ただ彼は散らかすほど物を持っていないというだけなので、これで安心出来るかと言われるとやや微妙なラインだ。部屋の真ん中の卓袱台を挟んで向かい合うように、マツバは座布団を敷いている。ミナキはトランクを部屋の隅に置いた。

「ところで、期待しているところ申し訳ないが」マツバの視線が手元に向く。「実はこのコイキング焼き、中身はカスタードクリームなんだ。君、食べられるか?」
「え、そうなの」

紫色の瞳をぱちくりと瞬かせている彼が、あんこ味以外のコイキング焼きを食べているのを、実は一度も見たことがない。ミナキは、ああ、と頷いて、

「君の好きなあんこ味は観光客にも大人気らしくてな。昼前には売り切れてしまっていたみたいなのだよ、こしあんもつぶあんも」

顔馴染みの店主に、いつもの倍は仕込んだんだが悪いな兄ちゃん、と非常に申し訳なさそうな顔をされたのを思い出す。客ひとりあたりの個数制限まで設けているらしいが、この人出では仕方あるまい。自由気ままなハンター業に勤しんでいるとつい曜日の感覚を失いがちであるが、そう言えば今日は世間一般では休日である。どうりで人が多いはずだ。
こうして顔を出した手前、挨拶だけで何も買わずに帰るのも如何なものかと気が引けたので、ミナキはあんこの次に人気だというカスタード味のコイキング焼きを4つ頼んだ。ちらりと覗いた店の中も観光客でごった返しており、マツバの好きな菓子を探してゆっくり買い物ができそうな雰囲気ではなかったのだ。店主がこっそりおまけをしてくれたので、袋の中では計5匹のコイキングがひしめくこととなった。お互いなんとも義理堅いものである。

「まあ、どうするかは君が決めてくれ。苦手だというなら私が食べるし、また明日にでも何か別に、君の好きそうな物を買ってこよう。ここに置いておくよ」

座布団に腰を下ろし、ミナキは何も無い卓袱台の真ん中に、まだほんのりあたたかい紙袋をガサリと置いた。中心街からは外れた区画に建っている屋敷の中は本当に静かで、少しの音がやたらと響く。賑やかしにテレビでも点けようかと一瞬迷ったが、すぐにそれは得策ではないという結論に至る。マツバを隣にして、ああいったニュースを平常心で見ていられる自信はまだ、ミナキには無い。

「うん、わかった。じゃあ……」
「! ま、」

待て、と。居間から出ていこうと背を向けたマツバの腕を、その時、ミナキは咄嗟に掴んでいた。考える前に身体が動く。まるで反射だ。
振り向いたマツバと、座布団から僅かに腰を浮かせた体勢のまま見つめ合う。背後の壁にかかった振り子時計が、カチカチと時を刻む音だけが響く。やがて、彼はひどく困惑したような表情を見せてから、うっすらと笑ってみせた。

「いやだな、そんな顔しないでくれ。お茶を淹れに行くだけだよ」
「…………、そうか。そうだな。すまない」

窘められるように言われ、そんな顔、とはどんな顔だろうかと思いながらも手を離す。ほんのついさっきも交わしたような覚えのあるやりとりに、なんとなくいたたまれない気持ちになった。私のお茶は少し熱めで、などとごまかすように頼み事をしてみると、マツバは「注文の多いお客さまだなあ」と再び笑った。居間から台所に続く廊下側の襖を開け放ったまま、つまり居間にいるミナキから台所に立つ自分の姿が見えるようにして、マツバは湯を沸かし始めた。戸棚から茶葉の缶と、それから揃いの湯飲みをふたつ、がちゃがちゃと引っ張り出している。

静まりかえった屋敷の中に、自分たちふたり以外の気配はない。マツバの背中に向けていた視線をようやく外し、ミナキはあたりを見回した。箪笥の裏、戸棚の中、積まれた座布団と座布団の隙間。そんなところにじっと身を潜め、来客にいたずらを仕掛けるチャンスを狙っているゴーストポケモンたちも、今はここにはいないようだ。

(やはり、あの話は本当だったようだな)

屋敷に向かう途中、和菓子屋以外にもう一カ所、様子を見てきた場所がある。エンジュのジムだ。
箒を手に入口を掃除していた顔見知りの門下生が連れていたゴースは、マツバの手持ちの1匹だった。いったいどうしたことかとミナキが事情を聞けば、ジムは現在休業中で、ジムリーダーのポケモンをジムトレーナー達で手分けして預かって世話しているのだと、門下生の少女は答えた。まだトレーナーとしての実力も半人前の彼女の担当は、彼の手持ちの中ではおとなしいゴース一匹のようだ。
当初は「お祭りに出ないとならないジムトレーナーが多くて、みんな忙しい」と休業の理由を説明していたが、それだけならばジムリーダーの手持ちを皆で預かる必要などないだろうとミナキは質問を重ねた。すると次第に口籠もり始めた彼女は、縋るような視線をミナキに向け、本当はよその人には言っちゃいけないんですけど、と前置きをする。彼女はミナキがマツバの古い友人だということを知っているので、“よその人”ではないと判断されたらしい。

―――マツバさん、あれから誰がどう見てたって元気がないのにジムに出てこようとしちゃうから、みんなで無理矢理休ませることにしたんです。しばらくの間。


「選ばれなかったよ、ぼく。ホウオウに」

すぐ近くから聞こえた声に、はっ、と我に返る。いつの間にかマツバが向かいに座っていて、卓袱台には湯飲みがふたつ置かれていた。頬杖をついてミナキを見ているマツバの瞳が、ゆるやかに細まる。庭の生け垣と木が、風に揺らされてさわさわと葉の擦れる音を立てている。まるで世間話をするような平坦な調子で、彼はみずからの夢が断たれたと告げていた。ミナキは息を飲んだ。

「カントーのほうでもニュースになってただろ」

諦観と、後悔と、嫉妬と、ほんのひとにぎりの解放感と、それから。言葉にできないものたちが、マツバの口の端を無理矢理に押し上げているように見える。彼の綯い交ぜにされた感情の行き着く先がぎこちない笑顔であるなどとは、想像もできなかった。どのような慰めも、励ましも、この場では何の意味も持たない。ミナキはやはり、何も言えずにいる。

「……すまない。その、なんと言ったらいいか……」
「そうだよね。ぼくでさえ、今の気持ちを表すちゃんとした言葉を見つけられない。だから、君がなんて言葉をかけたらいいのか分からないのも、当然だと思う」

マツバは手元の湯飲みを持ち上げると、緑茶を少しだけ口に含んだ。

「でも心配してくれているのはわかったよ。さっきの顔を見たらね。嬉しかった」

なんだか今にも死んでしまいそうな顔だったけど。そう言ってマツバは手を伸ばし、ミナキの頬に触れた。輪郭のひとつひとつを確かめるように、指先をするすると滑らせる。最後に人差し指の先でミナキの唇をひと撫ですると、名残惜しそうにその手は離れていった。

「本当は、あの日すぐにでも、君に会いたかった」

ぽつりと、マツバが呟いた。その声は微かな震えを伴っている。今から約1週間前、ジョウト地方のエンジュの街に、伝説のポケモンが現れたというニュースが各地を駆け巡った日のことを言っている。

「一時間でも二時間でも電話口で泣き喚いて、君の予定なんて知らない、いいからすぐ戻ってきてくれって、もう滅茶苦茶なことでも言おうかと本気で思った」
「……、」

ぐ、とミナキは言葉を詰まらせる。あれは自分の自惚れではなかったと思わぬ形で証明されたが、こんな切実な告白が付いているとなれば手放しで喜べることではない。あの日のことを思い出したのか、卓袱台に肘をつき、金色の髪をぐちゃりと掻き回したマツバは、前髪の隙間から昏い色を湛えた瞳でミナキを見ている。彼はどんな気持ちで、塔の頂きに降り注ぐ虹を、自らの手には決して掴めないそれを見上げたのだろうか。

「でもぼくは、君に憐れまれたくなかったし、君の邪魔をしたくなかった」

笑みではない形に、紫紺の瞳がきゅうと細まった。

「だから、自分の気持ちにケリをつけて、ちゃんと前を向けるようになってから、胸を張って君に会いたかった」

―――まず悩んだのはジムのことだ。ぼくがへこんでたってくたばってたって挑戦者は来るだろう、だからとりあえずジムには出なきゃと思って。それがジムリーダーの務めだから、いやごめんちょっと嘘だな。そういうのは建前で、正直言うと地元の人と顔を合わせて微妙な感じになるより遠くの街からはるばるやって来た名前も知らないチャレンジャーをとにかく倒すだけのほうが気持ち的にぜんぜんマシだったんだ。でもバトルは相当荒っぽくなったし頭もなんだかぼうっとしてたから、負けた子にろくなアドバイスもできてなかったと思うんだよ多分。あんまり記憶にないけれど申し訳ないよね。さっきはああいう風に言ったけどジムリーダーってただ勝てばいいわけじゃなくてね、一応トレーナーの指導とかバッジ取得率の目標とかいろいろあるんだよ。高すぎても低すぎてもダメなわけ。うちって八つジムがあるうちのちょうど真ん中あたりで挑まれる傾向があって、ここまで来た新人トレーナーを篩にかけるみたいな立ち位置になりつつあるからそういう数字を特に気にする。めんどくさいでしょ。こんな感じでこれからジムリーダー続けて来期の協会の査定に響いたらどうしようとか、ならいっそクビになったら気持ちも楽なのかなとかでもそうなったら後任はどうするんだとかぐるぐる考えてたらあんまり眠れないしごはんも食べられなくなっちゃったんだ。そうすると顔色とか相当まずいことになってたんだろうね、周りのみんながとにかく今は休め休めって言うようになってこれがすごくうるさい。だからゴースト使いっぽくて箔が付くだろなんて冗談言ってみたら、イタコのおばあちゃんとかにものすごく怒られた。ついでに騒ぎを聞きつけて飛んできたうちのおじいちゃんにも怒られた。1日であんなに怒られたのは生まれて初めてだ。その日はそのまま家に追い帰された。で、次の日ポケモンたちを引き取りにこっそり裏口からジムに忍び込んだんだけど、ぼくの手持ちはみんなで預かってお世話するって置き手紙があった。ぼくのやりそうなことくらい全部お見通しなんだよ、恥ずかしいなあ。まあでも、ぼくのポケモンたちみんなどこか別の家で預かってもらうなんて滅多にないし、ちょっとしたお泊まり会みたいで案外楽しんでるのかもしれないなぁなんて思いながら外に出てみたらさ、正面玄関のドアにものすごい達筆で「休業中」とか貼り紙されてるんだ。もう気が抜けちゃって笑うしかないよね。ミナキくんも見てくるといい。

呆気にとられるミナキを余所に、まるで堰き止められていたものがあふれるようにひと息で吐き出したマツバは、最後に力なくため息をついた。

「で、それからずっと家にいる。ごはんを食べたり食べられなかったり、一日中寝てたり一晩中寝られなかったりしながら、どうにか生きている」

不意に天井を仰いで、それから彼は畳の上に、ぱたりと仰向けになって倒れた。

「こんな情けないぼくのまま、君に会うことなんてできないと思っていた。でも結局、それは君を余計に不安にさせただけで、なんの意味もなかった。予定よりずいぶん早く帰ってきたんだろう。迷惑かけてごめんね」
「おい、マツバ、」

ミナキが湯飲みを置いて慌てて近寄り、顔を覗き込もうとすると、マツバは服の袖で目を隠し、口元を歪めた。微かに開いた唇から、ひゅうと、か細い息が漏れている。

「ああもうダメだ、苦しい。うまく息ができない。だるい、あたまもいたい。きっとこのまましんでしまうんじゃないかな、ミナキくんはどう思う」
「それは生活リズムが乱れきっているからだろう。あとで何かスープでも作ってやるから、台所を貸してくれ」
「でも、君がいてくれるとちょっとだけ息がしやすくなった。きっと魔法使いか何かだ」
「そうじゃない。玄関を開けて、外の空気が入ってきたからだ。こまめに換気くらいしたまえ」
「うるさいな。なんだって君はそんなに自由なくせしてこういう時だけ理屈っぽいんだ」
「わ、」

不意に伸びてきた両手に頬を挟まれて、そのままミナキは顔をぐいと引き寄せられた。バランスを崩した身体は傾き、だらりと横たわるマツバの顔の横に手を突いて覆いかぶさるような体勢になる。押し当てられたマツバの唇はかさついていた。何度も角度を変えて唇を塞がれる度、互いの歯がぶつかって痛い。まるで食われているようだ。
僅かに与えられる息継ぎの合間、ぼやけた視界に映る男に「いきなり何をするんだ」と抗議をすれば、「酸素を奪ってる」などと意味の分からないことを言う。そのわりに酸素を奪われる側のミナキはともかく、奪う側を自称するマツバまでぜいぜいと肩で息をしていて、このままでは共倒れだ。せわしなく上下する肩を押して何とかマツバを引き剥がし、ミナキは眼下の彼に問う。

「君は、今の自分をどう思う」
「わからない!」

マツバは答えることを拒んで首を振った。眦に浮かんでいた水滴がはらはらとこぼれる様を目にして、ミナキは畳にきつく爪を立てる。たとえば彼が自らを幸せないきものだと言って笑うのならば、互いの境目が溶けて無くなるほど抱きしめてやることができた。たとえば彼が自らを何より不幸せないきものであると認めて瞼を伏せるのならば、なんの迷いも一片の躊躇いもなく、ここから連れ去ってやることができた。

「そんなのわからないよ。ぼくの世界は狭いんだ。人生っていうのは、こういうものだと思ってた」

でも、その先が、突然なくなってしまった。まるで自分が今どこに立っているかもわからなくなってしまった迷い子のように、マツバはぽろぽろと声もなく泣いている。どこまでも届く目を持っているはずなのに、彼の世界は、手の届く範囲だけで閉じているのだと言う。どこにでも行けるはずの足で、透明な箱の中をぐるぐると歩き回っているのだと言う。

「じゃあ、ぼくからも聞こう。君から見て、今のぼくは何だ」
「それは、」
「ミナキくん、君が決めればいい。ぼくが自分をわからないと言うんだから、君が決めてくれ。いちばん近くにいた君に答えをもらえれば、ぼくはようやく、何かになることができる」
「それは、出来ない」

マツバの目が、大きく見開かれる。いいや、とかぶりを振り、ミナキは改めて言い直した。

「してはいけないんだ」

答えると同時に、ぐるりと視界が回って、ふたりの体勢は逆転していた。目を真っ赤にしたマツバの肩越しに見ていたものが、畳の床から天井へとあっという間に変わってしまった。不規則な生活ですっかり弱りきっているというのに、いったい何処にこんな力があるのか。畳へ強かに打ちつけた背中がじんと痺れ、ミナキはほんの一瞬呼吸を忘れる。ふっ、ふっ、と断続的に吐き出される引き攣った吐息はひどく熱いのに、ミナキの手首を押さえつけているマツバの掌は、冷たい。

君の幸せは誰かによってその形を定められるものではないし、君の不幸せは誰かによって決めつけられるものではないというのに。それを何故、当の本人ばかりがわかろうとしない。自分は何者でもない、何にもなれないのだとマツバが呪いのように繰り返す度、ミナキは鼻の奥がつんと痛むのを感じた。

「これまでもこれからも、いつだって、君は君でしかいられないんだ」

まるで最後の箍が外れたように、マツバは泣いた。背中を丸めて、顔をミナキのシャツの胸元に押しつけて、服を皺になるほどきつく握りしめて、わあわあと子どものように。互いがまだ本当に幼い子どもだった頃ですら、彼がこんなふうに声を上げて涙を流す様を、ミナキは見たことがなかった。



■ ■ ■



マツバがしゃくり上げる度に震える背中をあやすように撫でることを続けて、どれほど時間が経っただろうか。ようやく泣き止んだ彼が顔を上げるのを見届けたら気が抜けるように瞼が落ちてきて、それ以降の記憶がない。

「…………えっ!?」
「やあ、『おはよう』、ミナキくん」

バネ仕掛けのおもちゃのように飛び起きたミナキの目にまず映ったのは、戸を開け放った縁側から見える美しい夕焼けである。真っ赤な空に浮かぶ九重の塔のシルエット、カアカアと鳴きながら飛ぶヤミカラス。この時季の観光パンフレットの表紙にしてもいいくらいのエンジュの夕暮れだ。

「ずいぶんと寝付きがよろしいことで。まったく羨ましいなぁ」

独特のイントネーションで、からかうような声が飛んでくる。きょろきょろと辺りを見回すと、卓袱台に頬杖を突きながら、マツバはくすくすと笑っていた。やはり生まれが生まれであって、こうして彼が時折見せる含みを持たせた言い回しにはエンジュの人間としての片鱗を感じずにはいられない。逃げるように視線を逸らすと、ミナキの身体には毛布が一枚掛けられていた。半分に折り畳んだ座布団が、枕代わりにされていたのも見える。

「これは、君が?」

問いかけると、マツバはすっと口調をいつものそれに戻して、

「この季節は夕方になると急に冷えるから。みんな油断して風邪を引く」
「……私は寝てしまったのか」
「うん」

あの後お茶を淹れ直したのか、ふんわりと湯気の立ちのぼる湯飲みに口をつけながらマツバは頷く。ミナキはがっくりと項垂れた。何か食べられる物を作ってやるから後で台所を貸せだの何だのと、大見得を切った挙げ句の寝落ちとは。これは流石に恥ずかしい。

「……すまない……」
「いや、いいよ」

意外なほどあっけなく返ってきた言葉に、ミナキは
俯いていた顔を上げる。

「君だってあんまり眠れてなかったんでしょう。それで、家に閉じこもってるぼくとは違ってあちこち出かけていたんだ。疲れが溜まって当然だよ」

いささか卑屈な物言いだが、しかしマツバの声は落ち着きを取り戻していた。言われてみればここ一週間、ベッドに入ってから何時間もポケギアの電話帳画面とにらめっこしたり(結局通話ボタンを押せたためしはなかったのだが)、深夜にふと目を覚ましてしまうような夜が増えていたのは確かだ。ミナキは今さら他人事のように思い出す。
よいしょ、とマツバは立ち上がり、卓袱台の上の包みを手に取った。向かう先は台所だ。

「温め直すよ。そのほうがおいしい」
「……食べるのか?」
「うん。おなかが空いてる」

なんということのないひと言に、どうしようもなく安堵した。手早く毛布を畳み、枕代わりにしていた座布団と重ね、部屋の隅に置く。それから台所まで着いてきたミナキに、マツバは何も言わなかった。

物持ちが良いと言えば聞こえは良いのだが、実のところは自分の持ち物にそれほど愛着や頓着がない。そんなマツバの屋敷の家電たちは、基本的に壊れるまで使い倒される運命にある。店で勧められるがままに買ったらしい最新型の食洗機と、家主よりも年上の冷蔵庫が隣り合っていたりと、この家の台所は大概カオスだ。今、ふたりの目の前で低い唸り声をあげながら稼働している電子レンジは古参の代表格で、なんと未だに中の皿が回る旧式のやつだったりする。たまに皿の回転がぴたりと止まり、しばらく経つと思い出したようにのったりと動き出す様は見る者をどことなく不安にさせるが、そんなレンジの年季の入った挙動を「味があっていい」で済ませるマツバは実はけっこう大物なのかもしれない。袋から取り出された二匹のコイキングが扉の向こうでくるくる回るのを、棒立ちの男ふたりがただ見つめている光景はなかなかにシュールだ。

「別に、あんこが特別好きだとか、カスタードクリームなんか邪道だとか、そういうこだわりがあるわけじゃないんだよね」

ぽつり、とマツバが呟いた。残りの温め時間はデジタル表示ではなくダイヤルから数字を読み取る形なので、おおまかにしかわからない。

「そうなのか」
「うん。初めて食べたコイキング焼きの中身があんこだったから、それからなんとなくそればかり食べてきたってだけ。そういうものだと思ってたから」

―――そういうものだと思っていた。先ほども聞いたフレーズだ。己の人生とコイキング焼きの中身を同じ言葉で語る奴がいるかと言いたくなってしまう気持ちはあるが、マツバの人とは少し違う回路の中でそれらは繋がっていて、こうして言語化する価値のあるものなのだということを、ミナキはよく知っている。

「ふにゃふにゃした見てくれのわりに、案外頑固なんだなと思っていた」
「なんだそれ」

つまりあれか、ポケモンがタマゴから孵るとき、最初に見た生き物を親だと思うような感じのやつだったのか。ミナキが問うと、「君は例え話が下手だ」と冷たくあしらわれた。せっかく笑わせてやろうとしたのに。

「そういうものだと一度決めつけたら、それ以外の道とか選択肢とかに、あまり目が行かなくなってしまう。というか、敢えて見ないようにしている。だって怖いから。頑固というか臆病なんだ、興味があることはすぐに飲み込んで自分のものにできる、柔軟な君とはぜんぜん違う」

ミナキは、隣に立つマツバの横顔に視線を移す。台所の壁にぺたんと背中を預けて、彼は静かに瞼を下ろしている。コイキング焼きを載せた回転テーブルが一瞬止まるのが、視界の端に見えた。
もともとエンジュシティはジョウト地方の中でも特に、古来からの伝統を重んずる文化が色濃く残る街だ。変化を恐れてしまうという彼の気質は、生来のものはもちろん、そうした風土からも作り上げられてきたのだろう。玉虫色の名の如く、さまざまなものを吸収し、見る角度によって違った顔を覗かせるような雑多な町並みを築いていく我が故郷とは、まさしく対極である。立ち止まることなく変化を続けることと、古くから変わらずに在ること、どちらが一概に良いとも悪いとも断ずることはできないが。

「しかし私は私で、幼い頃は色々な物に興味がありすぎたようでな。移り気で落ち着きがないと、周りの大人にはよく叱られたものだが」
「で、今は打って変わってスイクン一筋、と。なんていうか極端だね」
「……だから、君を尊敬していたんだ。ひとつのことに真っ直ぐでいられる君を」
「そんなものかな」

ミナキの代わりに返事をするように、チン、とレンジが鳴ったので、ふたりで顔を見合わせて笑った。



■ ■ ■



「うむ。美味い」

居間に戻る時間も惜しく感じられて、電子レンジから取り出したコイキング焼きを、台所でふたり、立ったまま囓った。ポケモンたちの教育方針として、「いつもお行儀よく」を掲げているマツバには多少後ろめたいところがあるのだろうが、しかし今日は特別だ。ミナキは頭から、マツバは尻尾から、それぞれのコイキング焼きを食べ進めている。

「おいしい。こういうのもいいね」
「それはよかった」

ふかふかの生地と、甘すぎないカスタードクリームがよく合う。温め具合も絶妙だ。手のひらサイズのコイキング焼きは、あっと言う間になくなってしまった。

「もうあと何日かしたら、少しは元気になるはずだから。一緒に出かけようよ」

しばらくの間じっと見つめていた最後のひとかけらを口に放り込んで、マツバは言った。

「屋台に早く並んで、あんこのコイキング焼きを売り切れる前に買おう。クリームもたまには悪くないけど、余計にあんこが食べたくなった」
「なら、早起きしないとな」
「あと、君と、それからヒビキくんに、旅の安全のお守りをあげたいんだ。すごくきれいなお守りを売ってる神社があってね、ここからは少し遠いんだけど」
「構わないよ。どこまでだって付き合うさ」
「それから、」
「それから?」

マツバの視線が泳ぐ。何度か口をぱくぱくさせてから、ううん、と小さく唸り声を上げた。

「それから……ダメだ。やりたいこととか、すぐにはそう思いつかないね」

ダメだ、と彼の口から聞くのは本日二度目になるものの、思い詰めたような響きはもうそこにはなかったことに安堵する。ミナキは手を伸ばし、金色の頭をぽんぽんと撫でた。

「そんなに急がなくてもいいだろう。ジムの休みはどれだけあるんだ」
「一か月だよ、まだだいぶ残ってる」
「十分じゃないか。なら私は靴を買い換えたい、コガネのデパートに付き合ってくれ」
「うん」
「あと焼けた塔だな。工事が始まる前に調査しておきたいことが……」

会話を続けながら、残りのコイキング焼きを冷蔵庫にしまう。ほとんど空っぽの中を見て、ミナキはム、と顔を顰めた。あんこのコイキング焼きよりお守りよりもまず「スーパーで買い物」だろう、とミナキが頭の中のやることリストを更新していると、とん、と何かが背中に触れる。

「あのさ……」

普段よりも少し熱っぽいようなマツバの声を、耳のすぐ後ろで感じて、ミナキは息を飲んだ。背中から抱きしめられているようで、癖のある髪が首筋を擽っているのがどうにもむず痒い。

「寝てるミナキくんを見てたらさ」
「ぐ。なんだ、まだ言うのか。それについてはさっき謝っただろう」
「大切にしたいし、大切にされたいなぁって思ったんだ」
「……うん?」

……いったいなんの話だというのか。ミナキが振り向こうとすると、マツバは腰に回した腕にぎゅっと力を込めて「振り向くな。そのまま前を見ているんだ」などとまた意味の分からないことを言う。サスペンスドラマに出てくる銃を持った男の言うような台詞で脅されて、ミナキは古びた冷蔵庫と見つめ合いながら続きを聞かされるハメになった。

「これは、その。今すぐにぼくがどうこうなるとかならないとか、早まったことをするかもしれないとか、そういうアレでは決してないから。って言ってもこんな感じだとあんまり説得力がないかもしれないけど」
「ちょっと待ってくれ。なんなんだその前フリは。逆に不安になる」
「い、いいから、大丈夫、だから。あの、落ち着いて聞いて欲しいんだ」

すーはーと深呼吸をしているらしい。肩口にぐりぐりと頭を押しつけられて、少し痛い。

「正直、まだ頭の中はぐちゃぐちゃで、ぼくがこれからどうしたいか、どうすればいいのか、ぜんぜん見えてこないんだ」

でも、とマツバは続ける。

「でも、これだけは言える、ってことがある。多分まだずっと先のことだろうけど、ぼくの最期の時には、自分はしあわせだったなって心の底から思いたいし、隣に居てほしいのは、ミナキくん。他の誰でもない、君なんだよ」

もう、振り向くことを咎めらなかった。また今にも泣き出してしまいそうにしているマツバから、窺うような視線が向けられていたので、そんな顔をするなとミナキは苦笑した。今日はこんなことを言ったり、言われたりばかりしている。

「さっきも言っただろう。どこまでだって付き合うさ」

ミナキの手に、マツバの少し冷えた手がおずおずと重ねられる。ミナキは遠慮がちに触れ合った指先をあやすように握り込んだ。しばらくすると、ふたつの手の温度は同じになった。

「ミナキくん、ぼくは」

―――きみの宝物になりたい。囁くような微かな声だったが、それは確かに耳に届いて、そしてミナキはようやく、泣いた。



 (箱庭の恋)
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