このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

剣と花

昨日は、夢のような日だった。

朝餉を早くから用意しながら、おときはじんわりと思い返す。まるで目を閉じて視る夢のように、懐かしんで思い返すほど遠い昔の出来事だったかのように慈しんだ。火のかかった吸い物を混ぜながら、今日は少し濃いめに味付けをしようと味噌を足す。
お椀に注ぐと温かい湯気を醸す吸い物、夫が好きな梅干しを一つ飯に乗せお盆を運ぶ。いつもは痛む足が何故か軽やかで、気持ちも何故か軽やかだった。

「おはようございます。鸞さま」
「おはよう…」

いつものように、座布団に座りながら自分の作る朝餉を待つ夫。いつもと同じように、夫の鸞がお椀を手に取る。鸞の向かい側に座り、同じようにお椀を手に取る。日常で鸞と向かい合うのは、共に食事をするときのみ。おときはそれでいいと思っていた。それだけでいいと思っていた。特に話す言葉も無く、黙々と箸を進める。それがいつもの二人。だが、いつもとは違うものがあった。鸞が口を開いたのだ。

「濃いな。」
「えっ…」

いつもならば、何も話さない鸞が、先ほど作った吸い物を口にして感想を漏らした。たったそれだけなのに、おときは驚き上ずった声を上げた。

「も、申し訳ございません、・・お口に、合わなか」
「いや、美味い。まだあるか?」
「え、あ、は、はい・・・ございます、けど」
「そうか、では頂こう。」
「はい、た。ただいま・・」


昨日といい、今朝といい。おときは戸惑ってばかりだった。何故だろう。嬉しいと言う感情の裏に戸惑いから来る感情が湧いてくる。じんわりと、嬉しいと言う感情を押しのけて、昨日抱いた違和感が広がっていく。

「鸞さま・・?」

鸞は吸い物のみならず、口に運んではまだ足りないとでも言うようにおかわりを催促した。吸い物や惣菜に、細かく一つ一つに感想を告げた。ここが良いと、これが美味しいと。鸞がおときの手料理を言葉で評価したことなど無かった。一度も無かった。それはまるで、まるで。

「ご馳走さま。美味い飯をいつも感謝している。」
「え」
「ありがとう。」
「まって」


鸞は満足と言うように箸を置くと、代わりに刀を握った。ゆっくり腰を上げ、ゆっくりと居間を出ようとおときの隣まで歩む。おときは動けずにいた。隣まで来た鸞が何か聞きたくない言葉を言ってしまうのではないかと、何も言わないでと。動けないおときは願った。

「行ってくる。」

そう、それだけでいい。いつものように、それだけで。それなのに、鸞は言った。立ち止まって。おときが今最も恐れる言葉を。

「もう、戻ってこれない。」


知りたくなたっかものの正体を知ってしまったおときの中に、衝撃が静かに走る。どうして、やっぱり、何故、と多くの想いが走る。おかしいと、どこかで思っていた事は、これだったのだと。明らかに何時もと異なる夫の真意がこれだったのだと。幸せをやっと見たというとに、こんなにもすぐに落とされるのだろうかと。


今、自分に背を向けている鸞は、どんな顔をしているのだろう。振り返って確かめることもできないおときは、かすかな希望を抱いたまま呆然と鸞が食べ終えた皿を見つめた。

「すまない。おとき。さよならだ。」


行かないでと、おときの中のおときが鸞に縋りに走ったが、おときは足の痛みに立ち上がれなかった。先程まで痛みなどなかったのだが、夢から覚めたと同時に痛みが蘇った。現実を突きつけられたように。今すぐに鸞へと駆け寄りたい。けれど、この人はきっと縋ったところで、行ってしまう。ならば、せめて、この方の妻として。


「いってらっしゃいませ、鸞さま。」


身体をなんとかよじり、鸞に向き直る。鸞の背中に、震える三つ指を着いて頭を下げたおとき。妻として至らぬ身でありながらも、最後まで妻として努めたい。その想いが鸞を引き留めたいおときを制した。

「おとき、花のような貴女と出会えてよかった。」

「剣のような貴方と、一緒になれて私は、」


幸せでした。飲み込んだ言葉に鸞は一つ頷いて、静かな鎧の音を足に残して出ていった。静かに終わる、お互いの関係。振り向くこともせずに鸞が出て行った家で、一人になった巣で、おときは寂しいと、行かないでと、愛しているからと、鸞が座していた座布団まで這い寄りそれを掻き抱いて、声を上げて鳴いた。
始まらない恋。終わってしまう恋。誰も知らぬ恋。それが剣と花の幕。

剣と花   終



企画「始まらない恋」投稿 2014/12/14
サイト「蝶のダンス」掲載用加筆時 2017/02/12
4/5ページ
スキ