危機感の喪失に対する対処(裏)

なら何故そんな風に変わっていったかと言えば、今となってはもう新一は追い出す形になったがそれまで新一が寝る場所というのは、スペースの事や女の蘭の事を考えて小五郎が寝る所の隣だったのだが・・・その母親の考えを聞いてから夜になって眼鏡を外して寝る時の新一の顔を見た上で、記憶の中にある昔の新一の顔を思い出すと小五郎もその時にパッとイメージが重なったのだ。コナンと新一の顔は本当に瓜二つだと。

まぁ瓜二つというか新一が体が小さくなっただけだから顔がそのままなのは当然と言えば当然なのだが、それでも小五郎が何ヵ月も一緒にいて眼鏡を外した姿を見てきたのにそれから新一に繋がらなかったのかと言えば・・・単純に蘭と違って特別な感情を持つように新一に関心が無かったことが理由だ。小五郎から言わせれば新一は友人の子どもであるが自分の子どもだと思うほどの強い関心や感情など持ったことなど無いし、コナンという預かっただけの子どもを多少気にかける程度はしてもだからと言って蘭と同等かそれ以上に愛情を向ける理由もなかった。

だからこそ母親からの言葉を受けたことで新一の昔の顔を思い出して眠る顔を見た時に、ようやくという形でその顔付きがピタリと重なることに思い至ったのだ。言われてみれば確かに普段眼鏡こそかけているが、それがなければコナンと小さい頃の新一の顔は瓜二つだと。

小五郎はその事を認識した上ですぐに新一にバレないようにその顔を携帯や普通のカメラに撮り、翌日に蘭達が学校に行ったのを確認してから蘭の小学生の頃のアルバムを確認すると、それこそ瓜二つ以外にない顔が並んでいるのを見て記憶違いでなかったのと共に、母親のその感性というものにすごいという気持ちを抱いた。母親は眼鏡を外したコナンの顔を見ていない筈なのに、そう思えたのだということに。

ただその事を後に来た大殿に話すと、それは新一君の事が心底から気に入らないからこそそう思えたんだろうとの答えと詳しい中身に小五郎も次第に納得していった・・・好きの反対は無関心と言うが、好きに嫌いと言った物は感情的な方向性として言うならば関心があるということだ。無関心はそもそも対象に対しての興味が無いから対象を思う気持ちだったり考える事は対象の事を知らなければならない時くらいにしか無いだろうが、嫌いという関心があるということはつまりその対象に対しての悪感情を持っている上で対象を積極的に知ろうとは思わなくてもその嫌いという想いは無くなった訳ではない・・・故に昔から新一の事をその行動を始めとして顔や見た目も含めて嫌いだと強烈に思っていたからこそ、コナンの顔を見てパッと眼鏡をかけただけの新一だと思ったのだろうと。

そういった言葉に小五郎はそれだけ新一の事を煩わしく嫌いだと思っていたのだと納得したし、本人には言わないでほしいと大殿には言ったがこれが女といったものかと感じたと漏らした。一度嫌いになれば例えどんな聖人と思えるような好人物だろうがその気持ちを変えることは出来ず、そして眼鏡をかけていようがその姿の本質を捉える事が出来るのだと。

大殿もその話の中身には苦笑するしかなかったが、小五郎もコナンの顔と新一の顔が瓜二つだと認識したことに加えてそんな新一と同じ顔のコナンがうちに来てから、探偵として仕事もそうだが事件と向き合う機会が比べ物にならないくらい増えたことを考えると、もうお袋が嫌った新一がコナンと名前を変えて小さくなってうちに来たようなものにしか思えなくなった上で、自分もお袋の気持ちが分かったのもあるがあまりにも瓜二つなその顔に気味の悪さを感じたから一刻も早く追い出したい・・・と言ったことに、大殿も気持ちは分かると返した。双子に血の繋がりのある兄弟ならまだ顔が似ているというのは有り得ないとは言わないが、工藤家の子どもは新一一人であることもだが『江戸川コナン』は戸籍すら存在しない子どもなのに、新一とあまりにもそっくり過ぎるのはおかしいと思うのは当然だと。









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