教師は聖人ではなく教師というだけである

「・・・ふぅ。話を聞いて彼らしいというように思いはしたけど、その中身に関しては改めて聞いてみてもとても安穏と出来る物ではないことを認識したわ・・・おそらくとかもしもなんて可能性が有り得るような物じゃなく、工藤新一君はとんでもない事から留年を回避したんだということが確実な事は・・・」
そして理事長は疲れたように漏らしていく。新一の留年回避の件は相当な厄介なネタなのだと。






・・・吉祥学園は幼年部から大学まで併設されたマンモス校の法人学校ということもあって、扱いとしては私立の学校であってシステム的に留年といったことは中学生相手にも適応させることは出来るが、それは余程でなければ行うことはない。この辺りは進級しない中学生を出す事における様々な是非の問題があるからであるが、高校に上がれば話は別になる。

何せもう高校に上がれば義務教育は終わりになるのだから、問題を起こしただったり出席日数の足りない生徒を辞めさせるのは学校側はルールとして決めている物なら何ら問題ない物となるのである。というよりむしろそういった問題のある生徒は出来るなら留年というか、退学を選んでもらいたいという考えを上の立場にいる者が持つことも少なくはないのだ。

その点で理事長は直接帝丹の上層部に話を聞くことはなかったが、新一については流石に留年確定になるくらいの時間が経った時は、もう新一を見放すくらいの考えがあっただろうと見立ては出来た。いくらなんでも帝丹の広告塔みたいな人物とは言え留年をするような生徒を擁立し続けるのは学校という教育を施す立場にいる施設としての体裁にも関わるし、姿を消してからは事件を解決したというように宣伝の活動が見られる行動を一切起こしていなかったのも相まってだ。

だから時折鬼塚に連絡して話を聞いていた理事長は話に聞く新一の性格的に留年したとなれば留年を受け入れずに退学という選択を選ぶだろう事が想像出来たし、現場レベルの先生達は新一がいなくなったことやいなくなるだろうことを密かに喜んでいたのだろうと考えていたのだが・・・蓋を開けてみれば今までの欠席の日を公欠扱い、つまりは出席したものとしてカウントするようにという決定が下されるという結果になったのである。

・・・学校のシステムとして公欠という物は確かに存在する。スポーツの大会は大きくなれば土日のみで収めることは出来ない規模にもなるし、芸能関係者の多い学校では平気で平日にもそういった仕事を入れることがある。そんなやむなしの事情アリの生徒の為の救済措置が公欠であり、出席扱いにすることで進級や卒業の枷にならないようにするためだ。でなければ留年生が多数出てくることは大いに考えられ、辞めざるを得ない生徒達が多数出て来て学校の評価にも多大な影響が出ることは間違いない。

だからそういったやむなしの事情から出席扱いにすることは学校のシステム的に出来るのだが、それはその時以外は余程でなければちゃんと学校に来て授業に出席することが前提になる。学生の本分は勉学に励むことというのは勿論だが、何にも大したことは無いのに公欠にして出席扱いなんて事をすれば私も私もというように言い出す生徒が出て来てもおかしくはないし、何よりそんな事を許してしまうこともだがそういった生徒に親はまず確実に口を盛大に滑らせて学校の評価を著しく下げかねない・・・あの学校はろくに学校に行かなくても留年生を出さないように公欠扱いにしてくれる学校というようにだ。

そういったことを避ける為にも理由無しの公欠なんてものを許す事は学校側はやりたくないし、それが留年にも関わるくらいの長期間となることは尚更の物どころか絶対に嫌と言えるだけのレベルになるのだが・・・そうしてしまった例が新一であって、そのことに鬼塚から話を聞いた分もあり理事長は相当厄介なネタだと感じたのである。単に新一が優遇されたで済ませられるような話ではないとすぐに感じるくらいに。









.
19/22ページ
スキ