あの日のダンスをもう一度
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まず最初に取り付けた鶴見さんとおうちごはんの約束は、ウラジオストクから帰国した当日──今週木曜日の夜だったが、何やら人事部に話があるとかでドタキャンされてしまった。ならば土曜の夜にと予定変更したものの、鶴見さんの本社復帰を聞きつけた国内取引先のお偉いさんが休日だというのに強引に会食を迫ったらしく、またもや前日にキャンセルの旨。しかも兄ちゃんまで連れて行かれた。
そんな土曜日に限って私には誰からのお誘いもなく、仲の良い女友達3人にこちらから連絡を取ってみたが、彼氏・彼氏・旦那というお断りフルコンボに打ちのめされて心が折れそうになった。結局丸一日家に引きこもって無心でストリーミングドラマを見続けていた私は、ちょうどエンドロールに切り替わったテレビ画面の右下に"次のエピソード"のアイコンが表示されていないことに気が付く。
「……え、終わり?」
胸を撃たれた主人公が生死不明のままシーズンが終わってしまった。リモコンを操作してエピソード一覧を表示させるも、やはり新シーズンはまだ配信されていない。はあ、と溜息を吐いてリモコンをテーブルの上に戻すと、わざと画面を伏せて置いていたスマホを取り上げる。何の通知も来ていなかった。
そのまま手持ち無沙汰にニュースアプリの記事を追って、SNSをチェックして、アイコンの並ぶホーム画面を無駄に左右にスライドさせてから諦めて画面を消そうとした時、ちょうど親指の先にあるアイコン──青地に白抜きで"f"の文字が書かれているSNSアプリが目に入った。ぼんやりとした頭でそのままアイコンをタップし、虫眼鏡のマークから検索フィールドを開く。下方に現れたキーボードで"おと"と入力すると、全然関係ないサジェストがずらりと並んで表示された。
何やってるんだろう、私。
その時、玄関の方から聞き慣れたドアの開閉音が聞こえてきた。兄ちゃんが帰ってようだ。お風呂を追い焚きしてあげようとソファーから立ち上がると、ドン、と何かをぶつけたような低い音が玄関で響いた。じろりと睨んだ壁掛け時計は午前0時38分を指していて、集合住宅で無闇矢鱈にばたばたしてよい時間ではない。珍しく酔って帰ってきたのだろうか。
様子を見に行くかと思い立って廊下へ続くドアを開けると、奥の玄関でふらつきながら靴を脱いでいる兄ちゃんと、玄関マットの上に尻もちをつくように座り込んでいる薄いグレーのジャケットに包まれた背中が見えた。その肩のラインを、短く刈り上げた襟足を私が見間違えるはずがなかった。
「鶴見さん!?」
「おお、名前かあ」
顔だけでこちらに振り返った鶴見さんはかなり上機嫌な様子で、そばに近付いてしゃがみ込んだ私の頭を犬でも撫でるようにわしゃわしゃと乱した。
「久しぶりだなあ」
やけに間延びした口調だ。そしてよく見ると顔も赤い。
ようやく靴を脱ぎ終えた兄ちゃんが壁に手を突きながら廊下に上がってきた。こちらもまた赤い顔をしており、さらには目まで据わっている。1メートルの距離に近付いただけだけですぐさまアルコールの匂いが漂ってきた。
「うわ、酒くさっ」
「…ロシア料理屋でウォッカを飲まされた」
ウォッカというからにはストレートで飲んだんだろう、兄ちゃんの声は酒焼けしていた。
「私は一杯だけだったけどなあ、月島はしこたま飲まされたよなあ」
他人事のようにそう言ってケタケタと笑い始めた鶴見さんを兄ちゃんは複雑そうな顔で一瞥し、小脇に抱えていたシワシワのジャケットを私に押し付けた。
「とりあえず風呂入ってくる」
「ぬるめのシャワーだけにしときなよ」
私の助言に短く、ん、とだけ返事をして、廊下の壁に肩をぶつけながら脱衣場の方へ消えていった。兄ちゃんがあそこまでべろべろになるのも珍しい。たぶん鶴見さんの身代わりとしてかなりがんばったんだろう。
相変わらず髪やら肩やらをぺたぺたと触っている鶴見さんに向き直ると、やんわりやめさせるようにその手を掴んで、まだ靴を履いたままの足元に導いた。
「ほら鶴見さん、とりあえず靴脱いで下さい」
「うん、名前、久しぶりだなあ」
「はい、久しぶりですねえ」
素直に革靴の紐を解き始めた鶴見さんの手の甲は筋張っていて、正月休みに帰国した時よりも少し痩せている気がした。昔から食にこだわりがない割に甘党な人なので、ちゃんとまともな食事を取っているのか心配になる。
多少よろめきながらも立ち上がり、そのまま腕を引いてリビングまで連れて行くと、鶴見さんはソファーのど真ん中に勢いよく腰を下ろし、はあ、と疲れたように深く息を吐いた。実際疲れているのだろう。上機嫌に振る舞っているのも見方を変えれば空元気の可能性だってある。
お水でも入れて来ようかと思いソファーに背を向けた瞬間、鶴見さんが私の手首を掴んで後ろに引っ張った。バランスを崩して思わず腰を下ろした先は鶴見さんの膝の上で、慌てて立ち上がろうとするも後ろから腰に回された手がしっかりと私のTシャツの裾を掴んでいる。
「ちょっと!」
「大きくなったなあ、名前」
「いや、もう大きくなってませんから」
まるでしばらくぶりに会う姪っ子扱いだ。しかしそれも表現としては間違っていない。私と兄ちゃん二人だけの月島家は、鶴見さんと奇妙で複雑でちょっとドラマチックな関係であったりもする。
「もう"おじさま"と呼んでくれんのか?」
「いつの話をしてるんですか!」
小さい頃の話をわざわざ掘り返されて恥ずかしくなり、私は大げさに顔を逸らした。
「大昔の話だ」
鶴見さんはそう言ってからまたケタケタと笑い始めた。私にはその声がどうしても不自然に聞こえて、やはり空元気だったのかと鶴見さんの方へ顔を戻した。
┄┄┄┄┄┄
運転手起因の列車脱線事故、さらに未成年の子供を持つ両親共々死亡したとなれば、総額で億を超える賠償金が支払われることを当時8歳の私は知らなかったが、両親がもうこの世にはいないことを理解するには十分な年齢で、親戚一同が揉めていることも肌で感じ取っていた。
そんな時、どこからともなく現れたのが鶴見さんだった。お父さんの古い友人だと告げたらしいが、親戚一同はおろか、私も兄ちゃんも鶴見さんのことを知らなかった。ある日の話し合いの席で、当時少し荒っぽかった兄ちゃんがニコニコしている鶴見さんをぶん殴った光景を今でも覚えている。ところがそれから1ヶ月が経った頃、純粋に私達を心配していた遠方に住む伯母のシヅさんが未成年後見人として選ばれ、さらに彼女の承諾の下、私と兄ちゃんは鶴見さんの家で生活することとなった。どういう手管で親戚一同や兄ちゃんを丸め込んだのかは分からないが、家庭裁判所に同行していた鋭い目付きをした白髪のおじいさん──鶴見さんが手配した弁護士先生が関係していたんだと思う。恐ろしく敏腕だったんだろう。
そんな風にして始まったいびつな3人の共同生活がようやく形になり始めた頃、私は小学校の図書室で衝撃の出会いを果たすこととなる。"あしながおじさん"だ。
主人公の孤児・ジュディがあしながおじさんと結ばれるエンディングは、当時9歳の私にときめきの芽生えを自覚させた。キャラクターがプリントされた便箋に今日のできごとをしたため、クラスメートから教わったハート型の折り方で形を整えると、毎日帰りの遅い鶴見さんに読んでもらえるようダイニングテーブルの上に置いてから就寝した。言わずもがな、当時の私は鶴見さんに恋をしていた。
さらに子供のお熱をこじらせた私は、どうしても鶴見さんを自分だけのあしながおじさんに仕立て上げたくて特別な呼び方を考えた。"おじさん"──どことなく他人行儀な響きがするし、スタイリッシュじゃない。"お兄さん"──自分には既に"兄ちゃん"と呼ぶ血の繋がった兄がいる。そこでひらめいたのが"おじさま"だった。高貴な感じがして鶴見さんにぴったりだと思った。
初めて面と向かってそう呼んだ時、鶴見さんは一瞬すごく驚いた顔をしたが、どうした名前、とにこやかに返事をしてくれた。それを横で聞いていた兄ちゃんは、おじさまなんて年じゃないだろうが、と慌てたように私を叱ったが、鶴見さんはその呼び方を気に入ってくれたように見えた。
時は流れ、私の大学進学の目処が付いた冬の最中、そういえば目黒に部屋を買ったんだ、と鶴見さんは前触れもなく事後報告した。まるで、新しいパソコン買ったんだ、というくらいの気軽さだった。休日に荷物をまとめている様子を数週間に渡って観察しながら、私は最後の日まで、みんなで一緒に引っ越そうか、という言葉を待っていた。しかし玄関で見送る私に掛けられた言葉は、いつでも遊びにおいで、だった。
中学生の時には一学年上のバスケ部のエースが好きだったし、高校生の時には初めての彼氏もできていた。成長する内に鶴見さんへの淡い初恋はいつしか思い出の中のふわふわしたものに変化して、"おじさま"という呼び方に込められた幼い憧れは日常の中にすっかり四散していた。空っぽになった部屋に入り唯一残されたベッドに腰掛けた私は、空気中に漂う初恋の分子ひとつひとつを吸い込んでから、少しだけ泣いた。
こうして約10年に渡るユニークな共同生活は幕を下ろし、私は鶴見さんを"おじさま"と呼ばなくなった。
┄┄┄┄┄┄
一通り笑いが収まった鶴見さんは懐かしむような仕草で私の髪を一房手に取って、その毛先を人差し指に巻き付けてもてあそび始めた。
「お前はきれいになった」
まあ初恋の人にそう言われて気分が悪いことはない。あのおませな小娘も大学生というモラトリアム期間を経てバリバリの社会人になったのだから、少しくらい鶴見さんにも通用する大人の魅力が培われていてもおかしくないはずだ。
「あの頃にそっくりだ」
「……あの頃?」
「……あの頃の、お前のお母さんに、かな」
鶴見さんにしては少し歯切れ悪い返事で、朗らかな微笑みもどこか取って付けた風に見えなくもなかった。
「お母さんは、鶴見さんよりもっと年上だったでしょ」
「そうだったかなあ」
やはり酔っているのか、はぐらかし方も普段よりかなり雑だ。しかし私はピンと来てしまった。もしかして、鶴見さんは昔お母さんのことを──。思わず口を開こうとした時、それを遮るようにして鶴見さんが先に話し始める。
「月島も、お前が一緒にいれば安心だな」
まるで脈絡のない言葉に私は閉口せざるを得なかった。訳が分からない。ただニュアンスから推測するに、恋愛小説ばりにベタな私の憶測は正しくないようだった。
「……よく分かりません」
「分からなくていいんだ」
鶴見さんはまたケタケタと笑い始める。今度は心からの笑い声に違いなくて、私も釣られるように肩を揺らした。
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