あの日のダンスをもう一度
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約12時間のフライトを終え降り立った空港の到着ロビーは、土曜の朝7時半にしては比較的混み合っていた。電車駅に向かう和田課長とは連絡通路で別れ、すっぴんの顔を隠すように少しうつむきながら立体駐車場の方へと進んだ。ムービングウォークに乗ってからは立ち止まり、先程震えていたスマホをポケットから取り出して通知を確認すると、"月島基: 到着ロビー出たら電話して"というポップアップが待ち受け画面に表示されていた。そのままウィジェットのショートカットから電話をかける。
『もしもし』
「おはよ、もう着いてる?」
『ああ、さっき着いた』
「今駐車場向かってるとこだけど、どこに停めてるの?」
『駐車場入ってすぐの所で待ってろ。車まわしてやるから』
切るぞ、と一声掛かった後に通話が切れた。ムービングウォークが途切れたその先、前方奥の駐車場連絡口からじめじめとした熱風がこちらに吹き込んでくる。ああ、日本の夏。私は重いスーツケースを引き摺って歩き始めた。
私が駐車場に足を踏み入れたのと、すぐ前の車寄せにシルバーのセダンが停車したのは同時だった。Lのロゴがきらきら光る国産高級車は言わずもがな自分たちの持ち物ではなく、海外駐在中の鶴見さんの愛車だ。たまに走らせてくれと頼まれ3年前から我が家で鍵を預かっているが、ペーパードライバーの私にはエンジンを掛けるくらいしかできないので、いつも運転するのは兄ちゃんだ。
車両後部のトランクの蓋がかくりと浮き上がった後、運転席から白いTシャツにチノパン姿の兄ちゃんが出てきた。
「お疲れさん」
「疲れたあ」
兄ちゃんは30キロ以上あるスーツケースをまるで買い物袋を持つように片手でひょいと持ち上げ、汚れ防止にブルーシートが敷かれているトランクの中にしまい込んだ。同じマンションに住んでいるおばさま達に好かれるのはこういう所以なんだと思う。どこまでも実用的な性格とか。
私は助手席に、兄ちゃんは運転席へ乗り込む。車内は寒いくらいにエアコンが効いていて、設定温度のタッチパネルに表示された19℃の文字に思わず目を見開いた。
「いや、寒いでしょこれ」
「そうか?」
「寒い寒い」
上向きの矢印の表示を遠慮なく何度もタッチして24℃まで設定温度を上げると、ごうごうと音を立てていたエアコンの動作音が静まり、小さい音量でラジオが流れていることにようやく気付いたくらいだった。
発進した車は立駐の外周を回るように作られたスロープを下りながら地上階へと向かい、精算ゲートを越え、さんさんと陽の光が輝く夏晴れの空の下に出た。
「どうだった、初海外出張」
「うん、ぼちぼちかな」
「そうか」
信号待ちのあいだにぽつぽつと会話を交わしていると、未だ小さくつけられているラジオが聞き覚えのある曲のイントロを流し始めた。昨晩パブで演奏されていた、私とオトが踊ったあの曲だった。改めて自分が日本に帰ってきたことを深く認識して、夢から覚めたような気がした。
┄┄┄┄┄┄
特別大きくはない我が家のお風呂だが、1週間ぶりのちゃんとした入浴はまさに極上だった。ヒルトンのバスタオルの半分しか厚みがないパイル生地に顔を埋めれば、嗅ぎなれた柔軟剤の香りが鼻の中をくすぐり、日常のありがたみとは一度離れてみなければ分からないものだなあ、と感慨深い思いがした。
洗い古してすっかり色の薄くなった部屋着を身に着けてリビングに戻ると、室内はまたもや過剰にひんやりしていた。溜息を吐きながらローテーブルの上に投げられているリモコンを取り上げ小窓に表示されている設定温度を確認するが、実際の室温よりも絶対に高いであろう27℃だった。おかしい。ソファーに座ってスマホをいじっている兄ちゃんに視線を送る。こちらを一瞬ちらりと見上げてから、白々しく画面へと目線を下ろした。私がお風呂から上がった音を聞いてから急いで設定温度を上げたパターンだろう。
「何度設定にしてたの?」
「ずっと27℃」
「うそつき」
私は勢いを付けて兄ちゃんが座るソファーの空いたスペースに腰を降ろし、そのままお尻を軸にして体を横向きに回転させ、両脚を兄ちゃんの膝の上に投げ出した。兄ちゃんの視線は変わらずスマホの画面に向かっているが、無意識の内に脚の下敷きになった左手を引きずり出すと、片手間に私のふくらはぎを揉み始める。機内ではフルフラットのシートだったとはいえ、長時間狭い所に閉じ込められていた脚はすっかり重だるくなっていて、ぐっと絞るように加えられる圧が心地よかった。
「そういえば」
兄ちゃんがそう呟いて顔を上げた。
「鶴見さん、来週木曜のフライトだそうだ」
「そっか、もうお盆だもんね」
私が就活追い上げラッシュの頃──つまりちょうど3年前の9月に駐在員としてウラジオストクへ旅立った鶴見さんは、毎年お盆休みと正月休みの間だけ一時帰国する。
「それが人員入れ替えで、盆明けから本社勤務に戻るらしい」
「え、そうなの?」
まったくの初耳だった。驚いて背もたれ代わりにしていた肘置きから体を持ち上げると、兄ちゃんはこのタイミングでネットニュースに飽きたのかスマホを手放し、私のふくらはぎを握る左手はそのままに右手の親指でアキレス腱の辺りをぐりぐりと押し始めた。痛みを伴う指圧に腹筋から力が抜けてしまい、私は唸り声を上げながら肘置きに背中を戻した。兄ちゃんは左手にもさらに力を込めながら口を開く。
「洗濯回したら車返しに行って、部屋の準備してくる」
鶴見さんの家は目黒にある素敵なタワマンで、一応電気水道はそのまま残してあるものの普段はブレーカーを落として止水栓も閉じてある。月に一度は風を通しに行って、鶴見さんの帰国時にはすぐ生活ができるよう事前に準備しおいて欲しいとお願いされているのだ。
「私も行くよ」
「別に休んでていいぞ」
「ううん、これ以上寝たら時差ボケになっちゃうし」
「なら目黒で昼飯食ってくか」
「回らないお寿司が食べたいでーす」
私がふざけてそう声を上げた瞬間、足首がぐっと掴まれたかと思うと、アキレス腱を押していた兄ちゃんの右手が足裏へと素早く移動した。ものすごく嫌な予感が過ぎると同時に、土踏まずの上辺にピンポイントでえげつない力が込められる。
「ひいっ!いたッ、痛い痛い!」
「あー、肝臓だな」
死にもの狂いで足を引っ込めようとしたがまるでびくともしない。どうやらこの男、私が回らない寿司屋に行って昼間から仕込むつもりだと思っているらしいが、今日は純粋に新鮮なお魚を食べたいだけだ。スモークサーモンやテリヤキチキンの巻き寿司ではなく、ちゃんとしたお魚の握り寿司を。
「あー!やめて!さすがに飲まないってば!」
「よし」
言質を取った兄ちゃんがすぐに手を離したので、急いで両膝を抱え込みソファーの端に縮こまった。筋トレマニアの指先ひとつは決して侮れない。本当にダウンしそうだった。
まだじんじんと痛む足裏を手の平で擦っていると、ふと視線を感じて半ば睨みつけるように隣へ目をやった。
「……なに?」
「一週間ぶりって、なんか変な感じだな」
過剰に痛がる私をからかうつもりなのかと思いきや、兄ちゃんはどこかしんみりしたような口調で微笑みながら言うものだから、私は怒りのぶつけ所を失ってしまった。私にも兄ちゃんにも、こうやって何をやっても許し許されるような人がお互い以外にもいればよかったのに、と少しだけ切なくなる。
三角座りの体勢からそのまま真横に体を倒し、今度は頭を兄ちゃんの硬い膝の上に乗せると、耳の上にあたたかい手の平が乗せられた。あえて避けているつもりもないが普段は決して上がらない話題が私の口からこぼれ落ちる。
「お盆だから、お墓参り行かなきゃだね」
「そうだな」
締め切った室内に響く二人の声は、ここに越してきた当時よりも低くなっているに違いなかった。私は8歳、兄ちゃんは17歳。両親が列車の脱線事故で他界したその年は、遥か大昔と呼ぶにはまだ近すぎて、最近と呼ぶにはすでに遠すぎた。
「17年経ったんだよ」
まだ17年、もう17年。正直に言うと私はあまり両親のことを覚えていない。思春期が過ぎるまではそれに思い悩んだこともあったが、人間の頭はそういう風にできているものだから仕方ない、だからといって両親を愛していないということにはならないんだよ、という鶴見さんの言葉に救われた。
「名前もこんなだったのにな」
私の頭の上に置かれていた兄ちゃんの手が離れて、ちょうど自分の目の高さ辺りを示すように持ち上げられた。背の低いソファーに座った状態の大人の目の高さだから、1メートルと少しあるかどうかの高さだ。
「そんな小さくなかったでしょ」
「いや、こんなもんだったぞ」
笑い混じりの声に合わせて枕にしている兄ちゃんの膝が揺れた。
もっと色々覚えているはずの兄ちゃんの記憶も、例外なく薄れ始めているはずに違いない。今も玄関に飾られている家族4人の写真は止まったままの記憶で、私と兄ちゃんはお互いがお互いの生き続ける記憶だ。二人がそばにいる限り、私達の記憶は薄れながらも生き続けていく。