あの日のダンスをもう一度
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"名前、こっちから狙え。縁に当ててからの11番だ"
"そんな高度なことできないってば"
ビリヤード台に向かってキューを構える私の後ろから覆い被さるようにして、オトは私の手に自分の手を重ね、キューの先端で小難しいショットの道筋を指示してくる。
オトの友達の一人から手渡されたショットグラスだったが、暗い照明のせいで中のお酒が一体何なのかは分からない。
"え、飲んでいいの?"
"こっちが勝ったからな"
同じようにグラスを受け取ったオトが一息に飲みきってしまったので、余計なことは考えずに私もグラスを傾ける。喉の奥がひりつく。結局味も何も分からなかった。
酔い醒ましにオトとテラス席でたばこを吸いながら数時間ぶりにスマホを確認する。午前1時14分。
"……さすがに帰んなきゃ…"
"部屋まで送る"
ちらりとオトを見る。私とは反対の方向に顔を向けて煙を吐き出していた。
おぼつかない足取りでエレベーターに乗り込み、ベロベロの私は操作盤を目の前にして中々"5"のボタンを探し当てることができない。
"何階だ?"
"んー…5階"
"5th floorだな?"
"フィフスフロアでーす"
イギリスの階表示はちょっと違うんだっけ、と頭の中で言い終える頃には、私の背後から伸びてきたオトの長い指が"5"のボタンを押していた。数秒の間を置いてドアが閉まる。両肩に薄っすら重力が掛かり始めた直後、私の腰と肩にオトの腕が回された。
カードキーをローテーブルの上に投げる。首筋にキスをしていたオトの顔が私に口元に近付いてくるので、促すようにその頬に手を当てた。その瞬間、私のジャケットの袖から漂うアルコール臭にお互い目をしかめる。ビールをこぼした時、確か袖にも掛かっていた。
"…先にシャワー浴びていい?"
"ああ、俺も後で浴びる"
唇の進行方向は逸れて、私の頬にキスが落ちた。私は一人バスルームに向かって、服を脱いで、シャワーブースに入って、そして────何だっけ?
ずきずきと痛む頭が覚醒に向かっているのが分かった。着信音が鳴っている。ふかふかの枕に顔を押し付けたままサイドテーブルに手を伸ばす。手の平でばたばたと辺りを探れば、指先に当たった軽い何かがテーブルの上から滑り落ちたが、そのすぐ横に触り慣れたスマホの感触を見つけ、それを引っ掴んだ。親指でスクリーン下部を適当にスライドしてからスピーカー部分を耳に当てる。
「……は、い…月島です」
『10分前にロビー集合と言っただろうが!』
起き抜けにはかなりきつい和田課長の大声が小さなスピーカーをびりびりと揺らした。7時にはタクシーが来るから6時50分にロビー集合、それが課長との約束のはずだった。その課長からお叱りの電話が掛かってくるということは──私はがばりと体を起こし、マットレスの上に座り込んだまま室内を見渡す。カーテンの隙間から差し込む光がカーペットの床に細い線を描いている。朝だ。
「……え?」
『……ツーキーシーマぁー…』
「かちょおー…!すみません!」
『5分で下りて来い!いいな!』
「はいッ!」
一方的に切られた通話の後、ツーツー、と電子音が二度むなしく耳元で響いた。まずい、大失態だ。待ち受け画面に戻ったスクリーンに表示された時刻は午前6時55分で、和田課長が指定した通りタクシー到着まであと5分しかない。急いでベッドから下りて立ち上がった時、すぐそばの床に部屋備え付けのメモパッドがひっくり返って落ちているのが見えた。先程スマホを探していた時にサイドテーブルから落としてしまったのだろうが、今の私にそれを戻している時間はなかった。
着崩れたバスローブを床にはらりと落とす。やはりと言うべきか、上も下も下着は着けていないようだった。
「ヤった……かな?」
ブラを着ける手を止めて思わずそう呟くと、妙な恥ずかしさがお腹の底から湧き上がってくるのを感じた。酔っていたとはいえ、海外出張中に行きずりで男遊びなんてどうかしてる。これではあの先輩駐在員の文句を言えたタチじゃない。邪念を振り払うように手早く新しいシャツを羽織ってボタンを閉じていく。
一昨日の晩までにある程度荷物をまとめていたのが功を成したようで、ローテーブル周辺に出されている必要最低限の小物をスーツケースに放り込むだけでパッキングは済みそうだった。もちろん化粧をしている暇もないので、化粧ポーチや折りたたみ式の手鏡もどんどん仕舞っていく。他に仕舞うものはないかと辺りを見回した時、ソファーの背もたれに掛けられているバスローブが目に入った。先程まで私が着ていたものはベッド横の床で丸まっているので、記憶は定かではないが、これは昨晩の彼が着ていたものなんだと思う。
ロンドンで出会った、恐らく年下の、日本人の男の子。
「……オト…って、絶ッ対、本名じゃないじゃん」
ここ一年のあいだでもっとも深い溜息が私以外誰もいない部屋に響いた。実名さえ教えてくれないとは、まあ、そういうことだろう。達成感、罪悪感、喪失感など、よく分からない感情が渦巻く自分の心に向けて、後腐れがないのも悪くはないんじゃないか、と元気付けてみようとした。
┄┄┄┄┄
別にこういう事に慣れているというわけでもなければ初めてというわけでもなかった。学期と学期のあいだのホリデー中でロンドンやブライトンに出て来ている時、特定のデート相手がいなければこういう事が起きなくもない。ただ、相手が日本人というのは初めてだった。しかも仕事で来ていて、夜が明ければ帰国のため空港へ向かうというのに、飲んで踊って騒いで楽しそうに笑う女とは。
バスタオルをシャワーブースの間仕切りに掛け、湿気で曇った鏡の中央部を手の平で拭う。ぼさぼさ頭で、妙に情けない顔をしている自分と目が合った。髪を手櫛で整えながら、自分は気が乗らないのか、しかしそういうつもりだから部屋に来たんじゃないのかと自問自答した。気に入らないのか、いや、どちらかと言えばすごく気に入っているんだと思う。初めて会ったとは思えないほどに意気投合した。では何故気後れする必要があるのか。
「……しっかりせえ、オイ」
鏡の中の自分に向かって檄を飛ばしたものの、その行動自体が無性に恥ずかしく思えてきて耐えきれず、すぐに鏡から顔を背けた。タオルラックの上に置かれていた新品のバスローブを手早く身に着けると、先程まで着ていた自分の服を引っ掴んでバスルームを出た。
部屋の照明は落とされており、ベッドサイドのランプだけが薄暗く点いていた。ソファーの背に服を引っ掛けてからベッドに近寄ると、横を向いて寝転がっている名前の口からは小さな寝息が繰り返し漏れていた。
「寝るか?普通…」
そう呟いた後、思わず溜息を吐いた。その溜息の理由とは、失望、いらいら、そして少しの安心感だったように思う。今手を出さずに済んだことを無意識の内に喜んでいるのかもしれない。だから、それは一体何故なんだろうか。どこからともなく湧き出る興味を満たすために片膝をベッドの上に乗せる。低反発のマットレスは音を立てない代わりに深く沈み込んだ。そのまま名前の肩をゆっくり引いて仰向けにさせると、枕の横に手を突いて顔を近付けた。
「……ん、」
寝息に混じって小さく声が聞こえた。起こしてしまっただろうか。起きろ、いや、起きないでくれ。結局色々決めかねている自分が最早哀れに思えてくる。名前は少し眉を寄せながら口をもごもごと動かした。
「……オト…?」
急に名前を呼ばれて肩が跳ね上がるほど驚いた。鼻先が触れ合う直前の距離で止まったまま、名前の瞼が開かれるのを待った。開けろ、いや、開けないでくれ。自分の心臓が2度打つたびに1秒が経過している。そして今20秒が経った。名前は起きない。規則的な寝息と自分の鼓動だけが聞こえていた。いつの間にか口内に溜まっていた唾を飲み込む時、ごくり、と派手に音がしたが、やはりそれでも彼女は起きなかった。さらに顔を近付けると、冷えた鼻先が当たった。顔の角度を変えてそのまま唇を合わせた。少しのあいだ触れるだけのプレーンなキスだったが、感触はしっかりと残っていた。名前は起きなかった。
「……図太い奴じゃ」
上体を起こしてマットレスの端に座り直す。元々本当にあったかどうかも怪しい”手を出す気”というのが失せて、日を改めようという結論に至った。名前は今日帰国してしまうが、再来月に控えた大学院の卒業後は自分も日本に帰国する予定だ。連絡さえ取れれば、また会ってくれると思う、多分。ベッドサイドのテーブルからホテルのロゴが入ったメモパッドを取り上げる。スタンドに刺さったボールペンでメッセージアプリのIDを書き、少し迷った後に”音之進”と付け足した。日本語で名前を書くのは久しぶりだった。同じ学部のアジア系留学生はみなイングリッシュネームを名乗っているが、自分が”アダム”だとか”ケビン”と呼ばれるのはどうにもこそばゆい気がして、いつも短く”オト”と名乗っており、海外にいるあいだはそれが癖になっていた。
書き終えたメモパッドをテーブルの上に戻し、そのすぐ横に名前の電話を動かした。これで目が覚めた時に気付くだろう。
ソファーの方へと移動しながらパブに残してきた友人達のことを考えた。もう店を閉まる時間だ。クラブに移動したか、ホテルに帰ったか──どちらにせよ勝手に抜けてきたことを明日突付かれるに違いない。薄っすらとたばこの匂いがするTシャツとジーンズを身に着けた後、ほんの5分程しか着なかったバスローブをソファーの背に掛けた。
去り際にベッドサイドのランプを消す直前、名前の顔をもう一度見下ろした。別に起こして、ことを催促してしまえばよかったのかもしれない。そうしなかったのは、そうしたくなかったのは何故なんだろうか。こちらは休暇中、向こうは出張中、どちらの生活圏でもない場所でたまたま出会っただけだというのに、わざわざ連絡先を残して、連絡が来るのを少し楽しみにしている自分は一体何を考えているんだろうか。ランプのノブを捻って明かりを消した。とりえあず、疑問はここまでだ。
┄┄┄┄┄
半個室になったシェル状の座席、横のパーテーションからスライドさせるように出したテーブルの上には豪華な機内食のお膳が載っている。日系航空会社のビジネスクラスなんて自腹だったら一生乗ることはないだろう。1週間ぶりのちゃんとした日本食は彩り豊かで美味しそうに見える。でも、私の胃袋は固形物を受け付けなかった。
「課長、食べます?」
「いらんのか」
開閉式パーテーションの隙間から隣の席に座る和田課長に声を掛けると、物珍しそうな声音が返ってきた。
「ちょっと乗り物酔いが…」
「嘘を吐くな、二日酔いだろうが」
痛い所を突く辛辣な表現に返す言葉もなく、無言のままトレーごと和田課長に差し出した。まったく手の付けられていないトレーの上からお膳の容器だけが、ひょい、と取り上げられ、カトラリーとお味噌汁の器だけが載ったトレーの端がこちらに向かって軽く押された。
「味噌汁くらい飲んでおけ」
「はい…」
今朝の朝寝坊の理由がただの飲みすぎだと思っている和田課長の優しさが辛かった。すみません課長、私飲みすぎた挙げ句、会社が用意してくれたホテルの部屋にパブで引っ掛けた男を連れ込んでたんです。絶対に言いませんけど。少しぬるくなったお味噌汁をすすりながら、こんな火遊びは大学時代以来──あの人以来だなと懐かしい気分になった。そういえば、あの人はどこで何してるんだろうか。むしろ当時でさえ何をしている人なのかよく知らなかった。ぼんやりそんなことを思い出していると、一つ前の座席に掛けている乗客と話していたキャビンクルーが私の横に移動してきた。
「ご帰国ですか?」
「はい、そうです」
チェリーピンクのリップが印象的なキャビンクルーのお姉さんは私に細長い紙を2枚手渡した。
「こちらお一人ずつご記入の上、税関にてご提出お願いします」
その薄黄色い紙には“携帯品・別送品申告書”と書かれており、1枚を和田課長へ差し出すと、課長はそれを軽く一瞥してから雑誌が挟まっているポケットに差し込んだ。今は食事中なので後で書くんだろう。反対に私は、自分の性生活に思いを馳せながらお味噌汁を流し込むのにも飽きてしまい、目が冴えている今の内に記入してしまおうと思い立ったが、唯一の機内持ち込み荷物であるショルダーバッグの中に筆記用具を入れていない事に気が付いた。
「すみません課長、ペン持ってます?」
「それくらい用意しておかんか」
和田課長はわざわざお箸を置き、足元奥に仕舞われた自分のビジネスバッグの外ポケットからチープな白いボールペンを取り出して、溜息混じりで私に手渡してくれた。
「そのまま持ってていいぞ」
「ありがとうございます」
受け取ったプラスチックのボールペンには我が社のロゴと社名がプリントされている。私はその”日鯉商船 HIGOI SHOSEN KAISYA LINE”という赤い文字列を二日酔いの頭で見つめながら、泣く子も黙る財閥系大企業に勤める社会人がこんなのでいいんだろうか、と本気で我が身を案じた。