あの日のダンスをもう一度
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パイントグラスの縁ぎりぎりまで注がれたビールを3口飲んで量を減らす。こぼさないよう注意しながら混み合ったカウンター前を横切り、出入り口の方へと歩いていくが、どうにも気が進まないというのが私の本音だった。またあのセクハラ社員と同じテーブルに着くのかと思うと嫌気が差す。私はぴたりと立ち止まり、少し考えた後、くるりと180度方向転換して歩き出した。どうせもうそろそろお開きになるはずだ、ぎりぎりまで時間を潰してから戻れば問題ない。
先程ビールを受け取ったばかりのバーカウンター前を素通りし、そのままテーブル席が広がる店内奥へと進んでいく。ジュークボックスの横に置かれたビリヤード台の辺りから若い男性グループの歓声が上がり、キューを掲げた男が連れとハイタッチしているのが見えた。薄暗い空間に密集する人々の楽しそうな話し声、笑い声、ピッチの外れたふざけた歌声が、私の冒険心をさらに煽るようだった。せっかくの金曜の夜、そしてロンドン滞在最後の夜だ、私だって少しくらい良い思いをしてもバチは当たらないだろう。
そんな自分に甘い決断を下した瞬間、ジャケットのポケットの中でスマホがぶるぶると震え出したので、水を差された私は小さく肩を落とした。景気づけにビールを一口含んでから画面を確認すると、黒い着信画面に白抜きで"和田課長"の4文字が表示されている。ぎゅっと口を引き結んで取るかどうか少し迷ったものの、さすがに勝手に消えるのもまずいか、と判断して通話マークを右にスライドさせた。
「はい、月島です」
『おい、どこにおるんだ?もう解散するぞ』
「あー、えっと、ちょっとトイレが混んでてですね」
『なんだって?騒がしてくて聞こえん』
すぐ後ろのテーブル席に座っているすっかり出来上がったおじさん達が、一段と大きな声で仲間内のジョークを言いながら盛り上がっている。とりあえずここから離れようと人を避けながら壁の方に歩き出した。
「すみません、聞こえますか?」
『ああ。で、どこにおるんだ?』
「まだ建物の中です、トイレすっごく並んでて」
前方に先程ちらりと目に入ったジュークボックスが見える。無意識にそちらへ向かって歩きながらデタラメを述べた瞬間、ビールグラスを持つ左手の甲に、いきなり突くような強い衝撃が加えられた。手元でグラスが大きく揺れ、中身のビールがばしゃりと跳ね上がる様子がスローモーションで映った。
「──あ、ッ!」
古びたフローリングに撒かれたビールがしぶきを上げ、アンクルパンツの裾から出た足首と、パンプスを履いた足の甲に飛び散った。よろめくように一歩後ずさりしながら、このアクシデントの原因となった左側に目を遣る。すぐ横のビリヤード台に向かって前傾姿勢でキューを構えていた男性の背中が弾かれたように起き上がり、さっとこちらに振り向いた。
健康的な肌色の若いアジア人男性だった。その切れ長の目は焦ったように見開かれていて、黒いTシャツの袖から伸びた逞しい腕が慌ててキューを下げる。先程の突くような衝撃とは、おそらくこのキューの持ち手側が私の手に当たってしまったようだった。
男性は私に向かって英語で謝罪し、ビリヤード台の周りに集まる友達らしき他の男性から紙ナプキンを数枚受け取ると、スマホを耳に当てたままの私に差し出した。そのまま"Are you alright?"と尋ねてくるが、私の右手にはスマホ、左手には残りが1/3以下になったビールグラス、そしてスピーカー越しの和田課長まで、おい月島、どうした、大丈夫か、と絶えず尋ねてくる。私は千手観音でも聖徳太子でもない。
『どうした、大丈夫か!』
「……ちょっと飲み物こぼしただけです!先に帰っててもらえますか?」
『おい待て、月し、』
多少雑にはなったが、まずは和田課長との会話を終わらせて画面上の赤い通話終了ボタンをタップした。無事待受画面に戻ったスマホをポケットに滑り込ませると、ようやく差し出された紙ナプキンを受け取ってもう一度男性の顔を見上げる。なぜか、きょとんとした顔をしてた。
「……日本人?」
ためらいがちに開かれた男性の口からは、なんと日本語が飛び出してきたのだった。
┄┄┄┄┄┄
ビリヤード台近くのテーブル席に掛けて待っていると、先程の男性がパイントグラスを2つ持ってバーの方から戻ってきた。明るい色の方──ロンドンプライドを私の前に、濃い飴色のダークエールを自分の手元に置いた後、椅子を引きながら私に頭を下げた。
「すみませんでした」
「いえいえ、私こそふらふらしてたから」
いただきます、と声を掛けてから、わざわざ買い直してくれたビールを一口飲む。さっきこぼしたビールも半分程度は飲み切っていたから、割といい感じに出来上がってきているのは自分でも理解していた。
正面に座る男性をちらりと盗み見る。ダークエールをぐいっと煽った後、上唇に薄っすら付いた泡を舌先でぺろりと舐め取る仕草に、思わず髪を直すふりをして目を逸らした。いや、やっぱりかなり酔ってきたみたいだ、顔が熱い。
喉を冷やすためにもう一度ビールを傾けて気合を入れると、無言が続いて少し気まずくなった空気を仕切り直すように、私から会話をスタートさせることにした。
「あの、学生さんですか?」
グラスの縁を手持ち無沙汰に撫でていた男性が顔を上げた。
「はい。大学院生です」
「へえ、すごい。どこの学校に?」
「オックスフォード」
世界有数の名門校の名前が飛び出し、再び口元に近付けたグラスがびくりと震えた。とんでもない人と出会ってしまったのかもしれない。
「修士論文の息抜きで、あいつらと小旅行中です」
男性はビリヤード台の方へと視線を送る。ばらばらの人種の、若い男性5・6人が真剣味とおふざけを交えながら楽しそうにプレイを続けている。
「じゃあもうすぐ卒業?」
「はい、9月に」
どうやらイギリスの大学院は9月卒業らしい。ふーん、と小さく相槌を打ってから、また一口ビールを飲み込んだ。男性も同じようにダークエールを口に含んだが、少し時間が経って泡が消えていたのか、もう上唇を舐めることはなかった。
「そちらは出張ですか」
「ええ。でももう明日帰国なんです」
グラスをテーブルの上に戻して、はあ、と軽く溜息を吐いた。ざわめく店内の喧騒がこんなに心地良いのは、今日が非日常だからに違いなかった。日本に帰って同じように金曜の夜を楽しもうとしても、ここまで心が躍ることはきっとないんだろうと思う。
「そうですか」
彼は目を伏せて手元のグラスに視線を向けた。
その時、タタン、とスネアドラムの軽やかな音が客席に鳴り響く。人々の頭の向こう側、奥の壁際に簡易的なスポットライトが当たっており、今にも演奏を始めようとしているバンドの姿が照らし出されていた。今度はバスドラムの低音が素早く3度と、音量を確認するようにアコースティックギターが何度か鳴らされた。
ボーカルの男性がマイク越しに短く曲名を告げれば、観客がはやし立てるような高い歓声を上げて口笛を吹く。数年前に大流行したヒットソングのイントロが自然と観客の肩を揺らし始め、ステージ前の開けたエリアにはどんどん人が集まってくる。そして曲がサビに差し掛かる頃には、その辺りはすっかりダンスフロアと化していた。お互いの肩がぶつかりそうな距離で体を揺らしたり、カップルが手を繋いで踊ったりしているのが見える。
うろ覚えながらもサビの歌詞を口ずさむと、そのミドルテンポに合わせて私の肩も勝手に動き出し始める。そしてテーブルの上に置かれた彼の右手が、指先でリズムを取るように表面をとんとんと叩いているのが目に留まった時、どうしてもはやる気持ちを抑えきれなくなってしまった。優しく重ねるなんてヤワなものじゃなく、テーブルの上に載った彼の手をがしりと掴んだ。
「……は?」
呆けたような顔でこちらを凝視する彼には申し訳ないが、異国の地であの人だかりに一人きりで割り込んでいく勇気はない。しかしどうしても踊りたい程には酔っ払っている。旅の恥はかき捨て、とはよく言ったものだ。
「私達も行きましょう!」
私は声を張り上げてそう伝えると、彼の手を掴んだまま椅子からひょいと立ち上がり、サビ後の繰り返しで一番の盛り上がりを見せるステージ前に向かって進んでいく。体を縦にして、人混みをかき分けて、ちらりと後ろに振り向く。口を一文字に結んでちょっと迷惑そうな顔をしている彼だったが、私の手を振りほどいたりせずにちゃんと付いてきてくれていた。
ぎりぎり2人立てるくらいの手頃な場所を見つけて立ち止まり、彼と向かい合った状態でようやく手を放した。ステップを踏む誰かの背中に押されながら、私は両腕をゆるく天井に向かって上げ、音楽に合わせて体を左右に揺らし始める。大学時代は時々クラブに行って踊ったりもしていたけど、近頃はうんとご無沙汰していた。この彼はどうだろうか。彼の顔を見上げる。言わずもがな割と近い距離で目が合って少しどきっとした。まだ少し顰められていた目元が緩んでいく過程を、音楽に合わせて揺れる視界の中でしっかりと追う。彼は諦めたように軽く息を吐いて、ふっ、と小さく笑みをこぼした。
彼の肩も左右に動き始め、自然にリズムを取る洗練された動きはすごくサマになっている。がっしりした肩幅も、顔を揺らした時にはらりと落ちる横髪も、私と踊るにはもったいないくらいにかっこいいと思った。酔ってなければこんな人に逆ナンみたいな真似できなかっただろう。しかも、高確率で年下の男の子を。
踊って、体を揺らして、たまに目を合わせて、笑って。ややこしいことは考えずにそれだけを繰り返す。数秒ぶりに見上げた彼の口元が何かを告げるように動いたが、その声は演奏にかき消されて私の耳まで届かなかった。体の動きを止め、彼の耳元に顔近付けて声を張り上げる。
「聞こえない!」
私の大声はしっかり彼の耳まで届いたらしく、今度は彼が私の耳元に顔を近付けた。
「名前は!?」
すっと通った力強い声が耳元に響いた。このやりとり、なんだかちょっとベタな感じもするけれど、これはこれでいいものだったりする。彼は返事を促すように耳元を私の顔に寄せてきた。
「名前!そっちは!?」
どうしても上がってしまう口角をもうコントロールできない。彼の口元が、さっき名前を聞かれた時と同じ距離まで近付き、ぴたりと止まる。私の耳は先程と同じ張り上げた大声を期待していた。しかし、実際に拾ったのは、耳たぶに触れるか触れないかという距離まで近付いた彼の口からこぼれた、小さくてとても熱い音だった。
「"オト"、だ」
腰に回された彼の手から、新しい予感が伝わって背筋を駆け上るような気がした。