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あの日のダンスをもう一度

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「お前さ、ホテルどこ取ってんの?」

テムズ川に反射する夕日を背景に、妙に距離を詰めてきた2期上の先輩社員が私を横から覗き込んだ。今年4月に我らが本社財務部からロンドン支部へ旅立ったこの男は、たった3ヶ月の間ですっかり立派に軟派な”駐在員”へと成長していた。隣のテーブルに集まる他の駐在員達の隙間から送られてくる和田課長の視線をひしひしと感じながら、気付いてるなら助けろよ、と心の中だけで文句を垂れ、裏腹な笑顔を顔に取り繕った。

「ロンドンタワー近くのヒルトンですけど」
「こっから近いじゃん。俺ちょっと酔ったしさ、今から部屋行ってもいい?」
「いやいや先輩、私はまだまだ飲み足りないんですよねぇ」

男の手首に着けられた腕時計をチラ見すると、その針は午後8時29分を差していた。7月のロンドンの日没は遅い。テラス席を縫うようにうろついている店員が、数分前に飲み終わったばかりのビールグラスを無言でテーブルから掻っ攫っていった。ちょうど良いタイミングだ。

「じゃ、もう一杯買ってきますんで」

私はそう軽く告げてからショルダーバッグ片手にそそくさと席を立ち、速歩きでパブの建物の入り口を目指した。

混み合った店内をジグザグに移動しながらバーカウンターに辿り着き、よく分からないルールで4・5本に分けられた注文待ちの列のうち、一番短いと思われる列の最後尾に立った。テムズ川に面し、観光名所やランドマークから程近いこのパブでは、老若男女・多国籍な人々がそれぞれの金晩を楽しんでいる。

不意に斜め後ろから聞き慣れた咳払いが聞こえて振り返ると、腕を組んだ和田課長がいつものように眉間に皺を寄せて私を見ていた。彼は今回の出張相棒バディだ。あの先輩社員から逃げ出した私を追いかけてきてくれたらしい。

「課長ォ、なんで助けてくれなかったんですか」
「何を話しているかまでは聞こえんかったからな。大丈夫か」
「独身の駐在員はクズばっかりですね。課長も昔はああやって遊んでたんですか」
「馬鹿言うな。俺はもう結婚していたし、家内もこっちに連れて来ていた」
「さすが、まともですね」

最前列の人がビールとグラスワインを受け取り、列が少し動いた。私と和田課長も一歩前に進む。

「まあ気を付けろ。何かあったら、お前の"身内"から文句を言われるのは俺なんだ」

和田課長が称した私の"身内"として思い当たる一人目は、現在はウラジオストク駐在中である天然ガス事業部の課長代理──鶴見さんだ。プライベートで昔からお世話になっている彼は、大学時代においては和田課長と先輩後輩だったそうで、会社内でも"トムジェリ"な良い関係を保っていると私は思っていたのだが。

「でも課長、鶴見さんと仲良しじゃないですか」
「誰が仲良しだッ」

唾を飛ばす勢いで吼えられたので少し笑ってしまった。二人の愉快な掛け合いを楽しんでいるのは、どうやら周りの人間と鶴見さんだけらしい。苦虫を噛み潰したような表情の和田課長はまた咳払いをすると、組んでいた腕を解いてポリポリと後頭部を掻いた。

「…あと、お前の兄貴もだ」
「あれ、課長は兄とお知り合いでしたっけ?」

そして二人目の"身内"とは、鶴見さんの直属の部下として本社勤務している私の兄の事だ。完全別畑の和田課長とは業務上ほとんど関わりはないはずだが、どこかで会ったことがあるのだろうか。

「先月酔っ払ったお前をマンションまで送ってやっただろう」
「……あ、はい、そうでしたね!」

全然記憶になかった。先月の飲み会といえば、ちょうど人生初の海外出張が発表された直後で、確かに調子に乗っていたような気がすることも否定できない。恐る恐る和田課長の顔を見上げてみると、怒っているんじゃないかという私の予想に反して、何か恐ろしいものを思い出すように眉を寄せて宙を睨んでいた。

「お前が家の中に引っ込んだ後もな、何故かあいつはドアの所に突っ立ったまま、俺が共用廊下の角を曲がるまでずーっと後ろから見張っておった」

まるで心霊体験を語るような口ぶりだ。普段は理解があって気の良い兄だが、私の異性関係に対して多少首を突っ込みがちな所があることは認識している。もちろん和田課長とはなんにもない。この人は面倒見の良い親分肌で、愛妻家かつ子煩悩だ。

「……すみません、ちょっと警戒心が強いんです」
「まったく…頭に穴が開くかと思ったぞ」

はあ、と溜息を吐いた和田課長が私を見下ろす。

「お前らは似とらんな、月島兄妹きょうだい
「あはは、よく言われます」

物心ついた時から言われ続けてすっかり聞き慣れたその言葉を笑い飛ばしながら、さらに短くなった列を詰めるために一歩進んだ。ふと、和田課長がジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。バックライトの点いた画面に表示されたメッセージの通知を確認した後、すぐに私の方へ視線を向けた。

「すまん、一本急ぎの電話を入れてくる」
「何か頼んでおきましょうか?」
「いや、俺はいい」

そうぶっきらぼうに言い残した和田課長は、列から離れて出入り口の方へと歩み出す。そして5歩ほど進んだ所でおもむろにこちらに振り向くと、私に人差し指を向けて、周りの賑やかな話し声に負けないよう声を張り上げた。

「明日のフライトの時間、覚えてるな!?」
「大丈夫ですよお、これで最後にしますから!」

そう自信満々に答えた私に一瞬半信半疑の視線を寄越したが、そのまま人混みの間を縫うようにして出入り口の方へと消えていった。明日のフライトは午前9時55分発。2時間前にはヒースロー空港へ到着しておかなければならないので、7時にはホテルを出発する必要がある。ポケットからスマホを取り出して現在時刻を確認する──午後8時38分。どうせフライト中は寝ているだけだし、あと小一時間ほど飲んでから帰ろうか。

正面に並んでいたカップルが2つのパイントグラスを受け取り、カウンター前から捌けていった。ようやく私の番が来たようだ。元気の良い笑みを浮かべる女性店員の挨拶に返事をすると、声が届くようにカウンター上へと身を乗り出しながら、本日3杯目のロンドンプライドを注文した。

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