10,000hit リクエスト短編
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- お題: "鹿児島から弟に会いに来た鯉登姉夢主、夢主のお世話係に任命された月島と一緒にいる内にお互いに惹かれ合い、最終的にくっつく"
- 天然タラシでバブみの高いヒロイン
- の沼にはまる翻弄され島さん
- のケツを叩くツンデレ之進
- 本文より薩摩弁に時間が掛かったと言っても過言ではない
- 最初の方は演出上時系列が前後してます
- そして長い
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生徒の人数分用意してある封書を下駄箱の上から一つ取り上げ、玄関に座って草履を履いているミっちゃんに差し出した。
「こい、ミっちゃんの
ミっちゃんはかわいいおかっぱ頭を揺らして私の顔を見上げると、爪の間に少し墨が残っている小さな手で封筒を受け取った。
「八月中はお教室お休みんすっつもりじゃっで、お月謝は結構です、っちお手紙よ」
「先生ぇ、どっか行っきゃしとですか?」
「北海道よ。どこいあっか、もう尋常小学校で
「んー…まだ、なろちょらんです」
「うふふ、とおーい所よ」
立ち上がったミっちゃんに習字道具が入ったかばんを渡し、私も草履を引っ掛けて玄関の引き戸を開けてあげると、梅雨明け前の湿気た空気が玄関の中に入り込んできた。ずっと家の中に居たので気付かなかったが、いつの間にか小雨が降り出していたようだ。
「あら、雨ん降いじゃ」
小さな雨粒が玉砂利の上で弾ける音が聞こえている。ミっちゃんは、ありゃー、と声を上げながら戸口を越えて
雨が止むまでここで待つか尋ねようとした時、不意にミっちゃんが真横へ視線を向けたかと思うと、少し驚いた顔をして口を開いた。
「…タツヤ、なんしよっとか?」
私は外を覗き込むように戸口から顔を出して、ミっちゃんが視線を送るその方向を確認した。すると玄関の片開き二枚戸の内、普段開け閉めしない右側の戸にぴったり背をくっ付け、大人用の傘を抱きしめる五歳くらいの男の子がすぐそこに立っていた。
「ミっちゃんのお友達?」
「あたいの
「あら、姉さあに傘持っ
そのちっちゃな坊主頭に向かって話しかけたのだが、弟のタツヤくんは私の方を向こうとせず、口を一文字に結んだままずっと宙を睨んでいる。恥ずかしがり屋さんなんだろうか、かわいいなあ。その様子を見ていたミっちゃんが、そっぽを向いたままの弟をお姉さんらしく叱りつけた。
「タツヤ、先生ぇんちゃんとあいさつせんね!」
「…ちゃした」
蚊の鳴くような声と共にペコリと坊主頭が下げられたのを確認した後、ミっちゃんはまるで弟の非礼を詫びるように、私に向かって礼儀正しくお辞儀をした。
「先生ぇ、あいがともさげもした」
「はい。また来週」
庇の下に立ったまま、遠ざかっていく相合い傘の下の小さな背中達を眺めていると、今朝届いた可笑しな手紙とその差出人の顔が頭に思い浮かび、私は一人でくすりと笑ってしまった。夕飯までまだ少し時間があるので、今から返事の手紙を書こうかと思う。いつもずけずけと物を言うくせに、肝心な事ははっきり言えない照れ屋な弟のため、あの"味のある"字で思いを伝えてくれた誰かに宛てて。
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「月島ァ、お前だったら何と書く?」
先程清書を終えたばかりの小隊月報を回収しに来た月島にそう問うと、その仏頂面が、私の手元に敷かれた『拝啓』以降何も書かれていない和紙を見下ろした。
「どなた宛てですか」
「姉上だ」
姉上が書く手紙はいつも長い。とは言え、書道師範故の達筆に加えて、綴られている地元・鹿児島の日常描写は中々のもので、数度読み返すのも苦でない程度には毎度楽しみにしている。問題は、受け取ったからには返事を書かざるを得ない事だった。気候がどうだの何を食べただの、在り来たりな内容はもう今までの遣り取りで書き尽くしてしまった。
悶々と悩む私を尻目に、月島は涼しい顔をして月報の
「伝えたい事を素直にお書きになればいいのでは」
それが出来たら初めから苦労せんわ、バカタレが。
最後に姉上と顔を合わせた日についてぼんやりと考える。あれは去年、陸士在学中最後の暑中休暇だった。兄上の墓に向かって手を合わせる横顔が脳裏に浮かぶ。本当は息災でやっていると顔を見せて安心させる事ができればそれだけで良かったのだが、もう学生時代の様にはいかないと思うと、少し胸が痛んだ。書くべき事と伝えたい事は必ずしも共通しない。
「では失礼します」
「おい!待て月島ッ」
月報の冊子片手に颯爽と部屋から出て行こうとする月島を呼び止める。そこまで軽々と言ってのけたのなら、自分が手本を見せるべきだろう。
「試しにお前が書いてみてくれ」
「……いや、おかしいでしょう」
「いいから書け」
嫌々机の方へと戻ってきた月島の手に墨で湿らせた小筆を握らせ、墨が移らないよう机に敷かれた黒い
集中も上手く書こうとする努力もへったくれも無い無骨な動きで、下手糞な六文字が和紙のど真ん中に綴られた。最後の二文字に至っては墨を付け足さなかったせいで掠れてしまっている。
こちらに小筆を突き返すその表情が、これで満足か、と語っていた。
「…お前ふざけてるのか?」
「何ですか、読めれば問題ないでしょう」
「いや、そうではなくてだな」
勿論その字の汚さも大問題だが、それ以前に内容に致命的な問題があった。成人した男が、ましてや軍人が書く様な台詞ではない。この男に文才などある筈が無いのは予想の範疇だったが、もう少しマシな言葉を選べなかったのだろうか。
月島が部屋から出て行った後、再び机上の和紙に視線を落とした。行書体で書かれた『拝啓』の後に続く奇妙な空白、そして中央で歪に並ぶ『会いたいです』の六文字。たったそれだけのふざけた手紙を丸めて処分してやろうと紙の端を引っ掴んだ後、少し考えてから手を離した。
しかしなる程、気が利く割に言葉の裏が読めない鈍感な姉には、丁度いいくらいの直球かもしれなかった。
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今し方自分が言った言葉をすぐに反芻して、これは絶対に伝わっていないな、と確信した。
「…それって、どういう意味ですか?基さん」
そう言った名前さんの大きな眼が横からこちらを見上げてくる。予想通りの反応に、俺は溜息を吐くしかなかった。
この人がはっきり言って鈍感なのは、この二週間を通してよく分かっていた。たかが二週間、されど二週間。この短期間でどれだけ俺が年甲斐もない悶々とした感情に振り回されたかをこの人が理解している筈もない。縁側に腰掛け、のらりくらりと呼ぶには些か純粋過ぎる表情でにこにこと笑っている名前さんの肩を掴んで、そんな無防備さでよくその歳まで無事に生きて来れましたね、と揺さぶってやりたい気分だった。生粋の箱入り娘相手にそんな事出来る訳ないが。
庭の茂みから聞こえる鈴虫の鳴き声はどことなく俺を急かしている様だった。名前さんは明朝北海道を離れる。あの
丁度一ヶ月程前に無理矢理書かされたあの六文字を思い出す。あれは単に分かりやすい表情をしていた鯉登少尉の心境を代弁しただけであって、自分の心から出た言葉ではない。だから躊躇なく書けた。だが今はどうだ、自分の顔には何と書いてあるだろうか。
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「
無事北海道に到着し、音ちゃんが借りている一軒家に滞在し始めたその翌日の夕方、予定通りの時刻に帰宅した弟はお客さんを連れていた。
「姉さあ!そん呼び方やめっち何遍
「はいはい、そいよかそちらん方は…?」
いつも通りがなり立てた音ちゃんが玄関に座り込んで長靴を脱いでいる間、引き戸の前で立っているそのお客さん―枯葉色の軍服を着た男性と目が合ったので、とりあえずお互いに軽く会釈をする。
「部下ん月島軍曹じゃ。夕飯
「良かけど、あんまい大したもん用意しちょらんよ」
「食えたら良か」
履物を脱ぎ終えて廊下に上がった音ちゃんは、暑い暑いと言いながらさっさと一人で居間の方へと行ってしまった。初対面の方を紹介するというのに失礼な子である。私は月島軍曹さんの方へもう一度向き直り、きちんとご挨拶するために先ほどよりも深く頭を下げた。
「弟がいつもお世話になっております。姉の名前と申します」
「とんでもありません。今日はご馳走になります」
そう言ってこちらに礼儀正しいお辞儀を返してくれる月島軍曹さんはとても落ち着いた方で、経験を積んだ古株の軍曹さんであることが立ち振舞から見て取れた。玄関に座って長靴を脱ぐ動作でさえきびきびしていて、背が高い方ではないというのに、張った肩や大きな背中はとても逞しく見えた。
そのまま軍曹さんを居間へとお通ししてから、追加一人前の盛り付けをするために急いで台所へと戻った。幸いにもおかずは多めに作っていたので、主菜の煮しめを器に、そして昼間の内に何品か炊いておいた副菜を小鉢に移し、追加のお箸とお茶碗と一緒に脇取盆の上へ載せていく。最後に注いだ汁物のお椀を載せると、重たくなったお盆を抱えて居間へと向かった。
「お待ちどうさま…あら、かしわ飯もう
「…早う
座卓の上には湯気を立てるかしわ飯のお茶碗が二膳、音ちゃんと軍曹さんの前に用意してあった。先に居間へ運んでおいたお
気を取り直して、お盆から小鉢と主菜の皿を座卓の上に並べていく。お客さんをおもてなしするにしては味気ない家庭料理ばかりで、せっかく来ていただいた軍曹さんには少し申し訳ない思いだった。
「お買い物の場所がよく分からなくて、品数が少ないんですけど…ごめんなさいね」
「いえ、充分過ぎる程です。お気遣いなく」
背筋をぴっしり伸ばして正座をする軍曹さんはそう言ってペコリと頭を下げた。その言葉少なな軍人らしい態度が少し父上に似ているような気がして、私は思わず微笑んだ。
すると、そんな父上と顔以外は似なかった我が家の末っ子が、座卓の上に置いたばかりの小鉢を手元に引き寄せると、驚いたように声を上げた。
「姉さあ!こい"
「そうよ、音ちゃん昔から好っじゃかい…こら、いただきますせんね」
地元の人でも好き嫌いの分かれるにがごいは昔から弟の好物で、北海道では手に入らないだろうと思ってわざわざ鹿児島から持って来たのだ。まだすべてのお皿を並べきっていないというのに、音ちゃんはそのにがごいの佃煮に早々と箸を付け始めてしまった。お客さんが来ているというのにまったくこの子は。
「月島軍曹どんも、えんじょしやらじ、おたもいやんせ」
軍曹さんの前にもにがごいの小鉢を置いてそう伝えると、軍曹さんは何やら不思議そうな顔をして私を見た。もしかしてにがごいはお嫌いなんだろうか、それとも食べたことが無いから戸惑っているんだろうか。真意が分からずそのまま軍曹さんの顔を見つめていると、汁物の椀から口を離した音ちゃんが意地悪そうに鼻で笑った。
「そいじゃ月島んは分からんど」
分からんど、そう言われた時、つい私はお国言葉丸出しで軍曹さんに話してしまったことを認識した。地元から出た時はきちんとした言葉で話すよう気を付けていたのに、音ちゃんと話しながらだとこんがらがってしまう。
「あらやだ!失礼しました、遠慮なく召し上がって下さいね」
こうやってわざわざ言い直すのは気恥ずかしいもので、ごまかすように笑い掛けると、軍曹さんは何度かまばたきした後、ほんの少し口角を上げてお箸を取り上げた。
「では、いただきます」
そう言って軍曹さんは礼儀正しく手を合わせた。私はその短く揃えられた指の爪に視線を移し、今どうして自分が軍曹さんの顔から目を逸したのかについて考えたが、何だかよく分からなかった。
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午後二時の日差しが照りつける住宅街の通りを早足で歩きながら、鼻の頭に滲む汗を手の甲で拭った。左手に持つ薄い紙袋の中には約
精肉店などどこにでもあるというのに、鯉登少尉はわざわざ市街地の外れにある特定の店―料亭や高級洋食店向けの卸売業者を指定して俺を使いに出した。そこまでするなら最初から店に食べに行けば良いのでは、と勿論進言はしたが、酒の種類がどうだのとあれこれ理由を付け、どうも自宅での食事に拘っている様に見えた。
私用で部下を動かす悪い癖にはほとほと呆れる。もし鯉登少尉が今夜の夕食に自分を呼んでいなかったら、あとこのお使いの届け先が別の場所であったなら、恐らく俺もはっきり断っていたと思う。
格子に磨りガラスが填まった戸口の前で立ち止まり、もう一度鼻の汗を拭ってから数度戸を叩く。最初にこの家を訪れた日から約一週間、その後も鯉登少尉に連れられてもう一度夕食を食べに来たが、一人でここに来るのは初めてだった。
「あら、月島軍曹さん」
「突然申し訳ありません」
開いた引き戸から顔を出した女性―鯉登少尉の姉である名前さんは、過去二回の訪問時と同じく上機嫌で俺を迎えた。
「鯉登少尉殿から、これを買って届けるようにと頼まれました」
牛肉の入った紙袋を差し出すと、名前さんは不思議そうな顔でそれを受け取り、道中ずっと掴んでいたせいで皺になった袋の口を開けると、顔を近付けて中の匂いを嗅いだ。妙な匂いがしていないといいが。
「これは…牛肉、ですか?」
「今夜はすき焼きが食べたい、だそうです」
最初から分かっていた事ではあるが、鯉登少尉がどうしても自宅で夕飯を食べたい本当の理由とは、言わずもがなこの人である。手料理が食べたいのか、自分のために労力を使わせたいのか、若しくはそのどちらもか。甘ったれも甚だしいが、それに気を悪くするどころか弟の世話を甲斐甲斐しく焼く姿を見ていると、まあこの人相手ならそう甘えたくなる気持ちも分からなくはない、とさえ思えてくるのだった。
しかし、さすがに他人を巻き込んでのわがままには閉口したらしく、名前さんはすまなそうな顔をしてこちらに頭を下げた。
「本当にすみません、あの子ったら軍曹さんにこんな事させて…」
「いえ、構いません。私もまた夕方にお邪魔しますので」
「まあ!それは楽しみですね」
いつもの調子でさらりと言ってのけた言葉に正直たじろいだ。今この人は、俺が来るのを楽しみにしている、という意味でそう言ったのか。その真意を確かめようと、人好きのする笑みを浮かべてこちらを見ている名前さんの顔を見返した。その表情には何の含みも無さそうで、純粋に人と食事の時間を共にする事について好ましく思っている、という様な印象だった。
裏のない好意を隠す事なく他人に向ける事ができる人物というのは、ある意味で末恐ろしい。
「軍曹さん、よかったらお茶でも飲んでいかれませんか?」
何故ならば、この様に誘われてしまった時に断る事ができないからだ。名前さんの顔には、弟のわがままを聞いてくれた知人へ純粋に茶を提供したい、と書かれてある上、俺だって暑い中四十分も歩けば喉も渇く。
「…ではお言葉に甘えて」
「さあ、上がって下さいな」
名前さんに促されて家の中に入り、鯉登少尉の長靴が置かれていない玄関に腰掛けて自分の長靴を脱いだ。どこか奇妙な感覚だった。
夕食をご馳走になる時と同じ様に名前さんはそのまま台所へ、俺は先に居間へと入った。明るい部屋の中央にある座卓の側に腰を下ろした時、その上に広げられた書道具に目が留まった。硯に小筆、そして毛氈の上には宛名の書かれた封筒が置かれており、その黒々とした文字はまだうっすらと湿っている。『鯉登 平二様』―姉弟の父である海軍少将の名だった。
「散らかっていてすみません」
台所から戻った名前さんはそう言いながら俺の反対側に腰を下ろし、座卓の隅に下ろした盆からガラス製の湯呑を取り上げて俺の正面にゆっくりと置いた。礼を述べてから湯呑に口を付けると、常温まで冷まされた緑茶が乾いた喉を心地よく通り抜けていく。そのままもう二口程飲み、ほとんど空になった湯呑を茶托に戻してから口を開いた。
「手紙ですか」
「ええ、大湊の両親宛に…そう言えば、郵便局はどちらにありますか?」
「帰り道にあるので、よろしければ私が預かりますが」
「あら、それはとても助かります」
名前さんは宛名の文字に指先を軽く押し付けて墨が乾いたかを確認した後、封筒を引っくり返して小筆を取った。硯の深い部分に溜まった墨汁に筆先を浸け、陸の部分で軽く慣らし、封筒の裏面に差出人の名前を書き始める。
『鯉登』、見栄え良く崩されたその二文字を書き終えた後、筆先は再び硯へと戻される。墨を吸った小筆の先を尖らせるように整え、続けて『名前』の文字が柔らかく綴られた。軍文書の堅い楷書体ばかり見慣れた俺の目には、その名前がまるで違う言語の様に映った。
「"名前"」
そう無意識の内に読み上げてしまった事に気付いたのは既に三秒程が経過した後で、全く間に合ってないというのに思わず手で自分の口を塞いだ。
「はい、何でしょうか?」
小筆を陶器製の筆置に立て掛けた名前さんが笑顔でこちらを見る。急に敬称も無しに名前を呼ばれた事に対して何の違和感も抱いていないような表情だった。何故そんな顔ができるんだ、親族の部下と言えど良く知らない男を家に上げておいて、よくもそんな。
いかん、落ち着け。俺はガラスの湯呑に残ったぬるい茶を一口で飲み干し、お粗末にこじつけた言い訳の言葉を述べた。
「…すみません、お名前このように書かれるのかと思っただけです」
「やだ恥ずかしい、つい返事しちゃいました」
名前さんは肩を竦めておどけるように言った。腹の中でこそばゆい何かが動き回っている様な感覚がして、思わずその顔から視線を逸らし、もう一度封筒の裏面に並ぶ文字列へ意識を集中させた。
「…字がお上手ですね」
「ありがとうございます。子供向けですが、鹿児島で習字教室を開いているんです」
道理でこの達筆か。字を書く時の姿勢の良さや、熟れた腕の動かし方にも納得が行く。
「そうだ!」
急に何かを思い付いた様に手を叩いた名前さんは、書き終えた封筒を毛氈の上から取り上げて横にずらすと、座卓の下から便箋用の巻紙を取り出して約
「月島軍曹さんのお名前も、書いてみて下さい」
姉弟揃って俺に何かを書かせたがるのは何故なんだ。薄っすら木くずの模様が入った上等な和紙を睨みつけるが、そこに理由が書かれている筈も無い。
「…人にお見せできるような字は書けませんよ」
「まあ、そんなこと仰らずに」
差し出された小筆を拒みきれずに受け取ると、軽く息を吐いてから筆先を和紙の上に下ろした。今までの人生で一番書きなれた文字と言えば自分の名前の筈なので、少なくとも鯉登少尉のあの無茶振りよりはまだましな字が書けると思う。途中差し出された硯で墨を付け足しながら、その漢字三文字を完成させた。
座卓の向こう側からこちらに身を乗り出した名前さんが和紙を覗き込む。その薄く開いた口から自分の名前が今にも呼ばれるかと思うと、また腹の中で何かが飛び跳ねるような感覚が戻ってくるようだった。
「…月島、"ハジメ"さん?」
「はい」
和紙上の字を注視していた眼がこちらを向き、俺は思わずみぞおちの辺りを手で押さえた。
「あのお手紙を書いて下さったのは、基さんですか?」
予想外の質問だった。最近誰かに手紙を書いた覚えもなければ、"あの手紙"とやらに心当たりも一切ない――いや、待て。俺は三週間前、鯉登少尉によってあれを書かされたではないか。
「…まさか、あれを受け取ったんですか?」
「ふふ、なんだか同じ人の字かも、と思ったんです」
口元を押さえて朗らかに笑い声を上げた名前さんの表情を見ると、目眩がしそうだった。あの手紙と呼ぶにもおこがましいお粗末な落書きをそのまま送り付けるとは、鯉登少尉は一体何を考えているんだ。
「…すみません、まさかあんなお粗末な物を…」
「いいえ、すごく嬉しかったです」
その言葉に、俺はみぞおちに当てた手を額に移動させ、心の中で長い長い溜息を吐いた。ああそうですか、俺に"会いたいです"と言われてすごく嬉しいんですか、あなたは。にこにこと変わらない笑みを浮かべる名前さんは本当にそう思っているに違いなかった。何の含みも裏も、俺が思う様な意図すらなく。
和紙の上に細い人差し指が伸ばされ、"基"の字の右払いに沿って形の良い爪がゆっくりと動いた。
「ここの払いがお上手ですね、基さん」
「…そうでしょうか」
「ええ。筆を貸していただけますか?」
俺が差し出した小筆の軸を優しく指先で摘み取る様にして受け取った名前さんは、少し乾いた筆先に再度墨を付け、"基"の字の右横辺りに素早く三重丸を一筆書きした。
「よくできました」
そんな子供向けの褒め言葉にさえ逐一反応する自分が最早情けなかった。誰かこの人にはっきり言ってくれ、色々甘すぎるにも程があると。
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「あー良か良か、オイがやっかい」
焼酎の一升徳利を傾けようとする姉上の手が重さで震えていた。貴重な取寄品を台無しにされない内に瓶を引ったくり、姉上の湯呑に半分程まで注いでやった。
「ありがとね、音ちゃん」
「…飲みすぎんようしゃんせ」
酒が入ってもあまり変わらない筈の姉上だが、今日はいつにも増して機嫌が良いようだった。鉄瓶から冷ました湯を注いで水割りにした焼酎を、手作りのつき揚げを塩気にして黙々と飲んでいる。
「月島も飲め」
「はい、いただきます」
両手で支えられた月島の湯呑に重い徳利を傾ける。この男、顔は多少赤くなっているが態度にあまり変化は見られない。水割りにせず
「お二人は仲が良ろしいんですね」
その一言で、私は姉上に視線を向けると、姉上も同時にこちらへ視線を向けた。へらへらといつも笑っている表情は昔から変わらない。その世話好きな
「
「まあ、どん口がそげんこっ
姉上の手がこちらに伸びて来たかと思うと、その指が私の頬を抓って軽く引っ張った。別にこの程度痛くも痒くもない、一人鹿児島の屋敷に留まり兄の墓を守る孤独と比べたら。
別に誰かがそれを強制した訳でもなく、五年前に姉上が自ら買って出た役割だった。その時からずっと子供相手に書を教え続けており、浮いた話は一切聞いたことが無かった。ちなみに持ち上がった見合い話はすべて父上によって却下されているらしい。
そしてついに今年、私は兄上の享年と並んだ。つまり十三年が経ったのだ。忘れろとは言うつもりは無いが、妹の若い日々を自分の墓の世話に費やさせる兄の気持ちを想像すれば、やはり己の幸せを見付けて欲しいと思うだろう。
頬を引っ張られる感覚が消え、こちらに向けられていた姉上の視線が月島へと移動した。
「ごめんなさいね、基さん。こんなわがままな弟で」
いつの間にか変わっている呼び方が耳に残った。
「…今なんち
「音ちゃんがいっつん迷惑掛けてすんもはんっち
月島が家に来る日に限って、姉上がいつもより楽しそうにしている事に気付かない筈がなかった。超が付くほど鈍感な姉上本人がそれに気付いているかは別だが。
勢いを付けて湯呑の酒を煽った月島に視線を遣る。いつも通りの仏頂面だったが、何やら満更でもなさそうに見えた。
こちらの視線に気付いた月島が私を見返した。絶世の美男でも良家の子息でも何でも無い男だが、信用に足る事だけは確かだった。
「だそうだ月島"基"軍曹、私はそんなにわがままかァ」
「さあ、どうでしょうか」
月島は言い淀む事すらせずにはっきりと言い放った。前言撤回だ。こんいけ好かん男に姉さあはやらん。
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鈴虫の鳴き声が庭の茂みから聞こえている。夕食後の満たされたお腹を擦りながらこうやって基さんと縁側で寛ぐのも、今日で最後だ。
十分程前に音ちゃんがお風呂に入るため奥に下がって行った後、基さんが床に敷いた座布団の上で足を崩したのには少しだけ驚いた。正座の時にはぴしっと伸びている背筋が今は少しだけ丸まっており、そのあぐらをかいた姿を見れる事が親しくなれた証のような気がして、乾燥した涼しい夜風が吹く中で少し胸が温かくなった。
「北海道は、夏でも夜は涼しいですよね」
「鹿児島と比べたらそうでしょう」
明日、私は鹿児島への帰路に就く。また私自身の日常に戻る日が来てしまった。
「…遠いですよねぇ」
「ほぼ端と端ですから」
沖縄と南樺太を除けば、日本国の端と端に位置する鹿児島と北海道。疲れないよう中継地点での宿泊休憩も含めれば、特別急行列車を使った移動でも五日は掛かるのだ。次にここへ来れるのはいつになるだろう。次は音ちゃんが鹿児島に帰って来てくれると助かるが、それでは基さんに会えない。
庭に植わった松の木をじっと眺めている基さんを横目でちらりと見た。もうずっと忘れていた感覚で、今の今までその正体が思い出せなかったけれど、これはきっと恋なんだと思う。音ちゃんがあの手紙を送ってきてくれた時から、書道的解釈ではきっと評価されないあの字を見た時から、ずっとそうだったのかもしれない。
「基さん、またお手紙書いてくれますか?」
私がそう言うと基さんはゆっくりとこちらに振り向き、少しの間私と目線を合わせた後、軽く俯いて口を開いた。
「…すみません、やはり手紙は苦手ですので」
鈍感な私にでも分かるくらい、はっきりとした『いいえ』の答えだった。もしかしたら誰か良い人がいるのかもしれない、こんなに素敵な人だったらきっとそうに違いなかった。いつもはおしゃべりな私でもこういう時に限って何と言っていいか分からず、押し黙ったまま顔を伏せ、着物の膝に浮かぶ花の模様を手持ち無沙汰になぞった。
その時、もう終わってしまったかと思われた遣り取りが、基さんによって続けられた。
「必要ない程、近くに居て貰えると助かります」
花弁の線を辿っていた指をぴたりと止め、隣に腰掛ける基さんの顔を見上げた。少し緊張している様なその表情と、先程告げられた言葉を頭の中で照らし合わせ、奇跡的にも私は基さんが言わんとするその意図に気付いたが、気付かないふりをする事にした。少しずるいかもしれないが許してほしい。どうしてもはっきりとした言葉で聞きたかった、あの手紙のように。
「…それって、どういう意味ですか?基さん」
そう尋ねると、基さんは困った顔をして私から目を逸らし、小さく溜息を吐いた。白々しい演技がばれたのだろうかと不安になったが、少しの間を置いて基さんが私の左手を取り、両手で温めるように包み込んでくれた。
「私の側に居て欲しい、と言っています」
真剣な眼差し、声の調子、そして選んだ言葉も百点満点、すべて私が欲しかったそのものだった。私の左手を握る基さんの手の甲に、右手の人差し指を近付ける。そのまま指先で一筆書きの三重丸を書くと、その外周をさらに花びらで囲った。指を動かすその様子を神妙な顔つきで見つめていた基さんがポツリと呟く。
「…なんですか、それ」
「"
自然とあふれる笑顔はそのままに、私は基さんの頬に小さく接吻を落とした。
「たいへんよくできました」
私が放ったその一言に、基さんは思いっきり眉を寄せた。しまった、さすがに子供相手のような言葉を使うべきじゃなかった。慌てて謝ろうと口を開きかけた瞬間、急に手を引っ張られたかと思ったら、身動きできないくらいに強く正面から抱きしめられた。
「…あの…基さん?」
「………いとしげら…」
肩の上で基さんが何か呟いたようだったが、声が小さくて上手く聞き取れなかった。それでもまあ、今は構わない。兄さあ、ごめんね。名前はしばらく帰らんかんしれもはん。
急に、ドン、と地響きのような大きい音がして、私は思わず肩を飛び上がらせたが、基さんはまるで何も聞こえていなかったかのように、その腕の力を緩ませることは無かった。軽く胸を押してなんとか体を離してもらうと、居間の真ん中で仁王立ちする浴衣姿の音ちゃんが目に入った。その左手には鞘に収まった軍刀が握られており、先程の大きな音の原因は、その鞘の先を思いっきり畳に叩きつけた事のようだった。
「…月島ァ、オイはそこまで許した覚えはなか」
生まれてこの方見たこともないほど凄みのある形相でこちらを睨みつける音ちゃんは、地の底を這うような声でそう言った。対して基さんは、そんな上官の凄みすら意に介さず、あっけらかんとした表情で片手を肩の高さまで上げると、犬猫でも追い払うように『しっし』と動かした。
「大人の時間です、あっち行ってて下さい」
音ちゃんの猿叫が庭に響く中、私は新たに訪れた日常のかたちに心を躍らせた。父上と母上にまた手紙を書かなくては。
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