side stories: 周るエメラルドはグリーン
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- 書きたいシーンだけ書いた樺太if詰め合わせ
- ifマジックで本編の気まずさ皆無
- 唐突に始まり、今回はちょっとせつない樺太観光
- 燈台編です
- 来週アニメ27話に向けてのドーピング用
- 過去があるから今があるんです(震え声)
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人数や重量のバランスを考えた上でこちらの橇に振り分けられたのだから、そのことについて今さら文句を言うつもりはない。不満があるとすれば、もしかしたら死ぬかもしれないということだけだった。
猛吹雪の中、川の字で引っ付き合って犬の下に収まっているものの、四肢の感覚が遠退くほどに寒い。そして一番恐ろしいのはその寒さを他人事のように感じ始めていることだ。なんかもうどうでもいいや、と思い始めるのは低体温症による意識障害の立派な初期症状である。
両脇から杉元と谷垣一等卒の小さな話し声が聞こえているが、その内容は全く頭に入ってこなかった。まるで外国語の会話を聞いているような感覚だった。しかし短いやり取りはすぐに途切れて、また吹雪と轟音だけの世界に逆戻りする。瞼が徐々に下がっていくのが分かったが、抗う気力は残っていなかった。
「……光だ…」
右横で杉元の声が小さく呟いた。
あと数ミリで下瞼に着地しそうだった上瞼の動きをぴたりと止める。私の頭の下敷きになった杉元の肩が持ち上がり、私もつられて頭を首の力だけで持ち上げた。
「おい、見えるか?あの光…」
杉元が、気付かない間に暗くなっていた空の低い位置をミトンを着けた手で指し示す。吹雪で霞む視界の奥にぼんやりとした丸い光が浮かび上がっていた。鼻の頭まで覆い隠すように巻いた襟巻きの下で私は小さく口を開く。
「……あれは…月、ですか?」
もごもごとした自分の声が耳に届いた時、しばらくの間すっかり抜け落ちていた寒さの感覚が急激に戻ってくるのを感じて背筋が震え上がった。もしかしたら私はちょっと危ないところまで行っていたのかもしれない。
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まるで追いかけて来る何かから逃げるように建物の中へ駆け込むと、谷垣一等卒が片手で乱暴にドアを閉じる。荒い息を繰り返し吐く杉元が肩に担ぎ上げていた私を無言のまま床に下ろしたが、すっかり感覚が無くなってしまっている私の両脚はぐにゃりと曲がり、そのままへたり込んでしまった。
「鶴見さん」
背中を向けた室内奥から月島さんの声が聞こえ、床を踏むブーツの足音がこちらに向かって近付いてくる。そのまま私のそばにしゃがみ込むと、後ろに倒れそうになる私の背中を支えてくれた。
「大丈夫ですか」
その声はとても冷静で、朦朧としているのになぜか張り詰めている奇妙な興奮状態にある私の頭に心地よく響いた。しかし今は話す余裕がないので、ただただ無言で何度も頷く。私の顔を横から覗き込む月島さんが安心したように小さく息を吐いた。
「だからこちらの橇に乗るべきだと言っただろう」
頭上から恨めしげな鯉登少尉の声が降ってきたかと思うと、私の顔の前に紅茶の入ったカップが差し出された。立ち上る湯気が天国の綿雲を思わせる。大急ぎでミトンとその下に重ねた革手袋から両手を引っこ抜き、かたかたと震える手の平で陶器の表面を包み込んだ。ぬくもりと一緒にむず痒い痺れが指先から染み込んでくる。ゆっくりとカップを口元に近付けようとした時、横から飛び出してきた月島さんの指が、すっかり忘れていた口元を覆う襟巻きを顎下まで引き下ろした。ありがたい。
熱い紅茶が食道を通り抜けていく感覚を堪能してから、はあ、と大きく息を吐く。生命の危機を脱したという実感が今更ながら湧いてきた。
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背の高さ以上ある灯台のレンズを全方位取り囲む六枚の窓ガラスの内、陸側の針葉樹林を望む一枚に両手の平をくっつけた。昨日のホワイトアウトが夢だったかと思うほど良い天気なのに、ガラスの表面は凍るように冷たい。
建物から少し離れた位置で犬橇の準備をするヘンケとエノノカの姿が目に入る。いいタイミングで顔を上げたエノノカは私に気付いたようで、毛皮のポンチョの中から右腕を上げてこちらに大きく振った。こちらからも大げさに振り返すと、エノノカはさらに左腕も追加してぴょんぴょんと跳ね始めた。
思わず、ふふ、と笑い声が漏れた時、木製の階段を上がる足音が聞こえ出したので、私は腕を下ろして床に開いた小さな階段口に目を向けた。その奥に見える暗い踊り場の角から軍帽の頭が覗き、トントン、と音を立てて急な階段を上ってくる。
「一人でうろうろしないようにと言ったでしょう」
月島さんは階段口から顔を出すと少し呆れた口調で言った。私を探しに来てくれたのは光栄だが、そのセリフはいつもすぐにいなくなる別の同行者に向けた叱り文句の筈だ。
「鯉登少尉に言うみたいに言わないで下さいよ」
思わずムッとした口調で言い返すが、月島さんは黙ったまま階段の途中で立ち止まっていた。ここまで上がってくるつもりはないらしい。
「もう出発ですか?」
「はい、犬と荷物の準備ができ次第発ちます」
命を救ってくれた恩義はおろか、一宿一飯の恩義すら返せないまま去ることになるみたいだ。私は窓ガラスに背を向けて六角形の床の中央に鎮座するレンズへ近付くと、金属製のフレームの隙間から黒褐色の煤でうっすらと曇ったガラスの表面を指先でなぞった。手を裏返す。指先は汚れていない。煤が付いているのは内側だけのようだ。
「昨日、これが月みたいに見えたんです」
半分独り言のつもりだった私の呟きを聞いた月島さんは、少し間を置いてから残りの数段をゆっくりと上がり六角形の狭い室内に入ってきた。歩みに合わせて古びた床がきいきいと軋む。そしてレンズの前に立つ私の隣に並ぶと、その分厚い手をレンズの表面にぺたりと付けた。
「あなたが無事でよかった」
いつもと変わらない冷静な声が私の耳に届く。ぶっきらぼうでもなく、かといって感情がほとばしるような響きでもない。ただただ正面のレンズを見つめながら告げられた言葉だったが、確かにそれは私の心に明かりを灯した。
「心配してくれたんですか?」
「……しない訳ないでしょう」
月島さんはレンズから手を離した。私はその動作を目で追った後、視線を少し上げて彼の顔を見る。目の下に寄った皺の深さや、きゅっと結んだ口の感じが、一時間程前の昼食の席で見せたあの表情と同じであることに気付かない筈がなかった。私の知らない何かが月島さんを呼び寄せる時、一瞬彼は私の知らない人になる。それでも明かりは消えずに、いつだってそこにある。
「ちゃんと戻って来れてよかった」
月島さんの目を見て私が言うと、軍帽の下から覗く目がこちらを向いて少し細まり、口元がふっと緩む。私の心の明かりを目印にして月島さんもここに戻って来たんだ。
「名前さん」
「なんですか、月島さん」
レンズに触れた直後で少し冷えた手が私の手を握る。月島さんは私を階段口の方へと引っ張りながら、今度は優しい口調で叱り文句をもう一度飛ばした。
「もう一人でうろうろしないで下さい」
それはこっちのセリフだ、と心の中だけで呟いて、私は月島さんに手を引かれる。私達が向かう目的地へたどり着くまでにあと何度はぐれてしまうかは分からない。それでも明かりは消えずに、いつだってそこにある。
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