side stories: 周るエメラルドはグリーン
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- 書きたいシーンだけ書いた樺太if詰め合わせ
- ifマジックで本編の気まずさ皆無
- 唐突に始まり、樺太観光を満喫するヒロイン
- ギャグ展開につき、ほぼ別次元のお話としてお楽しみ下さい
- 長かったので二つに分けました
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小ぶりのグラスに注がれた真っ赤な液体を一口含んだ瞬間、私はピンときた。
「これは…"買い"じゃないでしょうか、鯉登少尉殿」
「ああ、なかなか美味いな」
店員のお姉さんが説明するコケモモがどんな果物かは分からないが、試飲させて貰ったフレップワインの飲み口はクランベリーの味によく似ていて、酸味と甘味のバランスが取れた飲みやすいお酒だった。隣で同じように試飲用のグラスを傾けている鯉登少尉もその味を気に入ったようで、思わぬ発見に感心したような表情で何度か頷いた。
空になったグラスをお姉さんに手渡し、斜め掛けかばんの中からお財布にしている巾着を取り出した。
「すみません、一本下さい」
「はいありがとう、十五銭です」
巾着から取り出した五十銭硬貨を私がお姉さんの手の平に乗せる前に、人差し指と中指に挟まれた二つ折りの一円札が顔の前に飛び出してきた。驚いた私は思わず顔を引っ込めて、その紙幣の差出人である鯉登少尉を横目で見る。
「…さすがに私も十五銭くらいは持ってますよ?」
「鶴見中尉殿から面倒を見るよう言われている。これくらい出させろ」
鯉登少尉はそのまま一円札を店員のお姉さんに渡すと、釣りの小銭は取っとけ、と私に告げ、フレップワインをもう一口含んだ。やはり持つべきものは飲酒への理解と経済力のある薩摩隼人である。
お釣りとフレップワインの四合瓶を受け取り、斜めがけにしたかばんの中をまさぐって瓶を入れるスペースを作る。一応救護要員として同行している以上、常に応急用具を持ち歩く必要があるため、私のかばんには余分のスペースがあまりないのだ。
その時、入り口の引き戸が開き、呆れた表情の月島さんが溜息混じりで店内へと入ってきた。
「…お二人共、あまりうろちょろしないで下さい」
「甘酸っぱくてなかなか美味いぞ。飲んでみろ、月島軍曹」
「結構です」
月島さんのいかにもお目付け役っぽい視線が、私のかばんの中に半分ほど突き刺さったワインボトルに移動し、そのまま私の顔まで上向きに動く。明らかにお咎めの色を含んだ目付きに私はたじろいだ。
「鶴見さん…それ、買ったんですか」
「…その、消毒液として使うつもりです」
「醸造酒が消毒液になるんですか」
「な、ならない可能性はない事も否定できないと思いますッ」
そんな言葉遊びが鬼軍曹に通用するはずもなく、つかつかとこちらに歩み寄って来た月島さんの手によってワインボトルの首部分がわしりと掴まれた。
「お預かりしましょう」
「いやいや入ります!余裕でかばんに入るんで!」
愛しのフレップワインを取り上げようとする月島さんと、ひたすらそれをかばんの中にねじ込もうとする私の攻防戦が始まった。力比べに持ち込まれたら絶対に勝てないのは分かっていたので、ボトルネックを掴む月島さんの手の上から自分の手を重ねた。こうすることで、慇懃な月島さんは無理矢理私の手を振り払ってまでボトルを取り上げる事が出来ないはずだ。案の定引っ張る力は少しだけ緩んでいる。
結局その後十秒ほど均衡が崩れることはなかったが、遅れて店内に入ってきた杉元と鯉登少尉が別の小競り合いをおっ始めたため、月島さんは私のワインを諦めて二人の仲裁に入っていった。私の勝利である。
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「そもそもあなたのせいですよ、杉元佐一」
「…何がだよ」
「あなたが誰彼構わず殴ったりするから」
午後十時も過ぎた頃、凍てつくような寒さの中『スチェンカ』とやらが行われている場所へと移動する私達一行だったが、いくら刺青の囚人との関連が発覚したからとは言え、開き直った態度を取る杉元が私はどうにも気に入らなかった。
「看護婦さんには関係ないだろ」
「…その足と頭の経過看てあげてるの誰だと思ってるんですか?」
「おい杉元、言い過ぎだぞ」
険悪なムードが漂い出した私と杉元の間に谷垣一等卒が割って入る。結局この人は心の底から望んで鶴見中尉の下に戻った訳ではないんだろうが、今の所は同行する鯉登少尉・月島軍曹の指揮に抗う様子はまったく見せていない。共通の目的を果たすためという理由があるのだから、少しぐらい杉元も見習った方が良いと思う。
「『スチェンカ』はここで行われているそうだ」
月島さんのひと声で、睨み合っていた私と杉元は前方に見える建物へと視線を移した。かなり大型の家畜小屋といった風貌のログハウスで、酒場の主人が入り口の扉を押し開けると、中から漏れ出す光と共に熱気を帯びた男達の声援とも怒鳴り声とも取れる声が響いてきた。
「なんてぇ熱気と…男共の匂いだ…!」
「これは…これがスチェンカなの…!?」
横一列に並んだ男達が、向かって正面に並ぶ男達と激しい殴り合いを繰り広げている。ぶつかる男達の肉体と肉体、拳と拳、アドレナリンによって掻き消される痛み。そしてそのエリアを
「なんで『俺たち』なんだ?」
『俺たち』という言葉に反応した私が四人の方へ振り返った時、連帯責任を主張する杉元に向かって他の三人が詰め寄っているところだった。どうやら杉元のスチェンカ参戦は確定のようだが、他の三人はかなり消極的らしい。せっかくの祭だというのにもったいない。
「え、みなさん出るんじゃないんですか?」
「『ひとり抜けた穴を埋めればいい』と言っています」
集まる四人に近付いてそう尋ねると、月島さんが奥に立っているロシア人三人組に軽く視線を向けながら通訳した。ふと私もその男達に視線を遣った時、奴らは私が身に着けている赤十字の腕章を指差してからかうようにニヤニヤと笑い出した。仲間内で何か言っているようだが、ロシア語なので分からない。
「月島さん、あの人達なんて言ってるんですか」
「…『看護婦を連れて殴り合いとは弱腰もいいところ』だそうです」
「あらァ、言われてますねー私達。ほらほらどうします?」
鯉登少尉の眉尻がピクリと動いたのをしっかり見届けてから杉元に視線を移すと、無言で何度か頷いていたので、私も数度頷き返しておいた。こんな所で意気投合するとは奇遇だ。
「『お前ら日本人だけではロシア人に勝てない』…だと?」
そう言った月島さんは顔をひく付かせている。いつもは比較的穏やかな表情をしている谷垣一等卒ですら、その眉間に深く皺を寄せていた。着火完了だ。
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支度を始めた四人を残し、柵に張り付いて次の試合を今か今かと丸待ちわびる観客達の後ろを手持ち無沙汰にぶらりと歩く。観客のほとんどはロシア人のようだが、一角に固まる日本人の姿もちらほら見えた。さすがに女性の姿は見えない。
そのままリングの向こう側を見渡した時、元々スチェンカに参加予定だった先程のロシア人三人組が、壁際に置かれた台の側に座る別のロシア人と話しているのが見えた。その小汚い台の上には何かが書かれたボードと小さい木箱が置かれており、どうやらあそこで賭金の授受が行われているらしい事が見て取れた。
私の視線に気付いたのか、三人組の内の一人が顔を上げて私を指差すと、また仲間内だけで何かを話し始めた。絶対またイヤな事言われているんだと思う。台の側に座った男が下衆い笑みを浮かべて私の顔を見つめると、何かを握るような仕草で片手を肩のあたりまで上げて、そのまま素早く上下に振るジェスチャーをした。これはつまり、お前は"そういうお世話"もしてやってるんだろ、という侮辱的なハンドサインである。職業婦人に向かって大変失礼な野郎だ。
男達の見くびるような笑みを一身に受けながらつかつかと台の方へと近付いていく。取り出した財布の巾着から一円札を三枚引き抜くと、人差し指と中指で挟んで男の顔の前に突き出した。
「
無表情でそう告げると、紙幣を受け取った男が少し驚いた顔をした。それもそのはず、この時代の三円は少なくとも現代でいう五・六万円くらいの価値があるからだ。何はともあれ、かっこよく決まった事に私は内心胸を撫で下ろした。あれは手持ちの財産の半分である。
男は手元の紙切れに短いロシア語と『¥3』を羽ペンで乱雑に書き記し、しかめっ面で私に手渡した。背後のリングから一際大きな歓声が上がり始める。
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「女のお客とは珍しいね」
人混みをかき分けて柵の側まで近付くと、横に立っていた頭頂ハゲの小柄な日本人が私に話しかけてきた。先程のロシア人のように色物を見るような視線ではなかったが、また舐めた態度を取られるのも癪に障るので、賭金の受領証である紙切れを男の目の前に突きつけた。
「たまげたな。三円とは、姉ちゃん中々肝が座ってるようだ」
「祭は派手に楽しんでナンボ、でしょう?」
「ははは、その通りだ」
ぱっと見ただのエロ親父に見えなくもないこの男は、この場を全力で楽しんでいるような熱い眼差しでそう笑うと、こちらに向かって片手を差し出した。この人は分かっている―そう確信した私は、その手を取って堅い握手を交わした。
「やっちまえ、日本の兵隊さん!!」
日本人の観客が多い柵のこちら側で日本語の歓声が上がると共に、対面の柵の向こう側からはロシア語の野次が飛んできた。リングの中に立つ四人が、それぞれ肩に引っ掛けたコートをはらりと地面に落とし始める。あらわになった分厚い肩と胸板、二の腕が私の心を最高潮へと押し上げていく。対戦相手に背を向けた状態で最後にコートを脱いだ月島さんが正面へと振り向いた時、バロメーターの針が最高値を突破して振り切りそうになった。アーメン、その犯罪的なエイトパックはどういうつもりですか。
「ぐうッ…何なんですかあのけしからん腹筋はッ!」
「いやあ…兵隊さん達イイ体してるね…」
うっとりと呟いた男の顔はまさに恍惚に浸っていて、きっと自分も人のことを言えない顔をしているはずだ。気を落ち着けるように長く息を吐いて、肩に下げたかばんの中からフレップワインのボトルを取り出す。ちょっと"消毒"しなければいけない。コルクを引き抜いてボトルからそのままワインを煽ると、甘酸っぱさに混じるアルコールの芳醇な香りが鼻腔を満たした。
「…あー最高」
「おい姉ちゃん、始まるみたいだぜ!」
最初のロシア語の掛け声と共に一瞬歓声の音量が下がり、二度目で再度爆発した。開始早々に鯉登少尉の褐色の腕が右ストレートを繰り出し、正面に立つ男の顎へとヒットする。うわあ、あれは脳震盪確実だな。いつもお高く留まっているだけかと思っていたら、先手必勝を狙ったりと意外にも肉体派な男だったりするらしい。
「鯉登少尉ーッ!いいぞー!」
柵から身を乗り出して叫びながら腕をめちゃくちゃに振るが、恐らくリング内までは聞こえていないだろう。一歩前に踏み込んだ杉元が視界に入り込み、まるで刺青のようにさえ見える多数の古傷が覆う両腕で、目の前の男の顔をタコ殴りにしている。超人的な近接格闘のセンス、そしてそれを100%引き出すことのできる身体能力、敵として置いておくにはむちゃくちゃ惜しい。もう一口フレップワインを含んでから、悔しいながらも声援を送った。
「おっしゃあ、やれやれ杉元ォー!」
高い天井向かって自分の拳を突き上げた時、杉元の斜め後方で対戦相手と向き合っている谷垣一等卒の鼻っ面に拳が真正面からヒットした。私は思わず自分の鼻を手で押さえて顔を顰める。まるで梅干しを見ただけで両顎の奥から唾液が滲み出てくるように、鼻の奥が想像だけで、じーん、と沁みた。しかし谷垣一等卒は鼻血を流しながらも、仰け反ることもたじろぐこともしなかった。消えぬ闘志の宿った眼で対戦相手をまっすぐ見つめ返し、頭上から振り落とすゲンコツのようなパンチを繰り出した。
「源次郎ーー!男前ーッ!」
「へぇ…あの子源次郎っていうんだ…」
手に汗握る隣の男が鼻息荒くポツリと呟いた。どうやら彼の推しは谷垣一等卒のようだ。分かる、分かりますよその気持ち。フレップワインをさらにもう一口煽りながら、私は自分の推しに熱のこもった視線を向ける。対戦相手の左ストレートを必要最低限の移動で確実に避けた月島さんは、腰を低く落としたまま相手の腹部に重い左フックをぶつけた。プロボクサーのように硬く引き締まった筋肉のバネは驚くほどしなやかだ。尊き国の宝です、月島さん。
「ッぎゃーーー!つきしまさーーーんッ!」
喉の奥から出たボキャブラリーもクソもない奇声は上手く他の歓声に掻き消されたようだ。感動と興奮に打ち震える自分の拳を強く握り込み、何かを発散させるがごとく目の前の柵を何度か殴る。息が荒くなってきた。
その後、腹部への衝撃で力なく膝を突いた対戦相手の頬に月島さんが放った強烈な右フックによって、二人の間には勝敗がついたようだった。対戦相手四人は全員ダウン、そんな彼らを見下ろす日本軍チームはしっかりと地に足を付けている。沸き起こる野太い歓声の中、押し寄せる熱気で汗ばんだ自分の体を抱きしめながら、私は高揚感の余韻にただただ浸っていた。
「はぁ…もう…色々最高ですね…スチェンカ…ッ!」
「はは…ついにハマっちゃったね、姉ちゃん」
ハマっちゃったなんてかわいいものじゃない。もうずぶずぶである。ワインボトルにコルクを捩じ込んでかばんの中に戻すと、ポケットに入れた賭金の受領証を取り出して一人ほくそ笑んだ。最高にアツい夜をありがとう、日本軍。